22-480「白い世界であなたと出会う」

白い世界であなたと出会う

 その日の晩、私はいつもと同じくらいの時間に床に就いた。いつもに比べても寝付きが良く、
すうっと眠りについていた。
 文字通り意識を取り戻したのは、眠りに入って何時間後なのか、正確な所はわからない。
数時間が経過していたのかもしれないし、数分、あるいは数十秒後だったのかもしれない。
 私は白い世界の中、煙のようにふわふわと、漂っていた。世界は漂白された白、オックス
フォードホワイトで塗りつぶされていた。太陽や何かの照明のような光源はなく、世界全体が
薄く光っていた。だから、その世界には影がなかった。重力はなく、上も下も右も左もなかった。
だけど、そんな状態なのに、私は妙に満たされていた。何の不安もなかった。
 そうやって、どれだけ漂っていただろう。はじめて、世界の中に白以外の色が私以外の何か
が見えた。なぜか、それは、どこかであった誰かのように思えた。だけど、誰かは分からな
かった。なぜなら、その人も不確定な姿をしていたからだ。まるで幼稚園児が粘土をもらった
ら創ってしまいそうな人形とも呼べないような人の形、胴体をイメージしているのであろう太い
棒から手足と言えなくもない四本の棒がついているだけの奇怪なオブジェ。それでも、初めて
見た白以外のものだったから、私は好奇心に誘われるままにそちらの方に近寄った。私に気
がついたのだろうか、それは挨拶をするように右手(と思しき棒)を振った。同時に声が聞こえた。
「こんな所に、誰かが来るなんて珍しい。ところで、キミは一体誰だい?」
 そう言われて、自分を見てみた。何もなかった。私は自分自身を視界に入れることができない。
自分がどんな姿をしているのか、わからない。どういうことなのだろう、それ以前に、私ってなんだ?
この思考している“何か”が私なのか? この思考が私の物だなんて誰が保証してくれた、保証な
んてない、私は私。それ以外には表現のしようがない。でも、それは誰かの物なのかもしれない、
だってここには私がいない。私はどんな姿をしているのか分からない。この世界を構成する白の
中に私はいる。この世界には境界がない、すべては曖昧模糊に他のすべてと繋がっている。
じゃあ、私なんて存在しないじゃないか、すべてが自分なら、自分自身がないのと同じことだ。
「やや、しまったな。混乱させてしまったようだ。キミ、大分、曖昧になっているぞ。大丈夫、大丈夫
だよ。この世界にもキミではない物がある。境界はある。自分と他人は分けられるんだ。そう、ここ
に僕が在ることがその証拠さ。さぁ、さぁ、自分を取り戻したまえ。キミの名前を教えてくれないか?」
 答えは自然に口から出た。
「キョウコ、キミはキョウコというのだね。ふむ、なかなか典雅な名前だ。では、名前を呼んで
あげよう。キョウコ、僕は……おや、いけない。僕が僕自身の名前を忘れているようだ。まぁ
いい。キョウコと僕で個別認識には十分だ。では、キョウコ。自分の姿を取り戻したまえ。自分
の姿を強くイメージして。それがこの世界を渡るために必要なものさ。キミの形を決めてくれる
アーキタイプを創って、そこにキミのグリフを刻むんだ」
 目の前の僕と名乗る人形(ひとがた)はそう言って、私を見た。私は自分の姿をイメージする。
そう、人間の形をイメージして、そして、そこに自分のイメージを重ねて修正をしていく。
「ほう、なかなか上手だね、キョウコ。なるほど、キミは女性なのだね。ツインテールといった
かな、ふたつに分けたお下げ髪が可愛らしい。しかし、しまったな。本当はこの言葉遣いは
男性向けなのだが……さっきまで、キミの性別は不明だったからね。ここで急に言葉遣いを
改めると、僕の個性が揺らいでしまう。申し訳ないが、このままで行かせて貰うよ」
 なんだか、変な人だ。徐々に僕の姿も明確になっていく。肩口で切りそろえられたボブカット、
表情は知的で引き締まっている、ってこの人、女性だ。身体つきは細身で、もう少し上背が高
ければファッションモデルにだってなれそうだ。可愛いというより綺麗、綺麗というより、凛々し
い人だ。

 そんな風に“僕”の姿を確認していると、自分の姿も視界に入った。そう、これが私の形。
不思議な安心感がわいた。それ以上にさっきまで、満たされていた自分に不安を感じた。
あんな風に自分を失って、どうして安心していられたのだろう。
「良く覚えておきたまえ。それがキミの形、キョウコのグリフだ。この世界に渡る時には、
自分のイメージを覚えておく必要がある。それを失うと拡散してしまって、世界と同一化
してしまうんだ。僕はその個人個人の形状を決める情報、イメージをグリフと呼んでいる。
ほら、古代エジプトの象形文字にエジプトヒエログリフってあるじゃないか、そこからいた
だいたのさ」
 饒舌に説明をしてくれる。この人は、この言葉で自分を形作っているのだ。そんな風に感じ
た。これがこの人のグリフなのか。
「さて、キョウコ。おしゃべりでもしないか? ここは静かで、落ち着くいい所なのだが、ひとつ
だけ問題があってね。この風景を共有してくれる人がいないので、僕はこの世界について語
ることができないのだ。聞き手のいない言葉ほど虚しいものはない。読み手のいない物語
以上にそれは空虚なのさ」
 それからしばらく、おしゃべりをした。知らない人と話すのは得意ではなかったけれど、
その人と話すのは苦痛ではなかった。いろいろなことを話した。自分のこと、学校のこと、
悩んでいること、望んでいること。話してみると、どれもちっぽけで、些細で、つまらない話
だった。なんだ、私ってこんなくだらないことしか考えていないんだ。そう言うと、彼女は
大きく頭を振って、私の言葉を遮った。
「キョウコ、間違ってはいけない。個人的な問題は、誰かの前に晒してみると、ちっぽけに
思えるだろう。だけど、それはキミにとってとても重要なものなのだ。世界と引き替えにでき
るほどに。自分を卑下してはいけない。それは言葉を交わしている僕自身を貶める」
 そう言って、彼女は微笑んだ。その笑みは、その笑みの中にあった慈愛は、これまで見た
どんな笑顔より透き通っていて、美しかった。天使が微笑むとしたら、こんな風に笑うんだろ
う。そう思えた。
 時間を忘れて、語り合った。僕の話はあまり聞けなかったけど、彼女もまた、自分に満足し
ているわけではないこと、私がくだらないと自身を卑下したようなことを考え、悩んでいるのだ、
そう教えてくれた。……なるほど、自身を卑下することは、会話する相手を貶める、か。
 しばらくしてから、彼女は周囲を眺めてから唐突に言った。
「キョウコ、名残惜しくて残念だけど、もう時間のようだ。キミは、この世界から自分の世界
に戻る。この世界であったことは覚えておくことはできないだろう。ここは無意識にとても近
い場所だから」
 そう告げられて、とても寂しい気持ちがわき上がった。このまま、この人と別れるなんて、
イヤだ。
「そんなに哀しそうな顔をしないでくれたまえよ。世界が哀しみに染まってしまう。大丈夫、
僕にはわかる、僕らはいずれまた出会うだろう。ここではないどこかで、僕らの縁は繋がっ
ている。その時は、僕もこの場所の記憶は持っていないだろう。だけど、きっと分かり合え
るよ。だから、泣かないで」
 彼女の微笑みがとても遠くに感じた。いや、違う。私は彼女から離れているのだ。浮遊し
ていた感覚が急激に落ち込んでいく、私は目覚めるのだ。
 零れる砂のように、白い世界の彼女の記憶が薄れていく。


 目覚めはとても快適だった。だけど、顔はグシャグシャ、私は泣いていた。忘れてはいけな
い記憶が失われていくのが分かった。それを止めることができないことがとても悲しかった。
 橘京子、中学三年生の春はこうして始まった。それは何かの兆しのようなものだったのかも
しれない。私がチカラに目覚めたのはそのすぐ後のことだった。

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最終更新:2007年10月04日 14:56
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