10-899「夢で逢えたら」

「キョン、キョン、そろそろ起きてくれないかな」
 うが。
「ほら、起きて、時間がないんだよ」
 う~~、あと五分…………。
 くつくつとみそ汁を沸騰させたような笑い声が聞こえる。どっかで聞いたような、聞き慣れ
ないような。そんな笑い声だ。
 だが、俺のまぶたは眠気に対してまったく抵抗できないでいた。平たく言うなら、俺はも少
し寝ていたい。
「キミの寝顔を見続けるのも、それはそれで悪くないのだけれどね……それ以上、寝続けると
悪戯をしたくなる自分を押さえられる自信がない」
 不穏当な発言は、俺の生存本能を刺激し、意識は急速に浮上した。
「さ、佐々木……か」
 寝ぼけ眼をこする俺の前には親友(自称)が座っていた。
「おはよう、キョン。すまないね、急に呼び出したりして。キミと少し話をしたくてね。無礼
は平にお詫びするよ」
 そういって、佐々木はぺこりと俺に頭を下げた。肩口で切りそろえられた髪がさらりとゆれた。
「お前に、呼び出された? ここはどこだ」
 周囲は希釈したオックスフォードホワイトとセピアトーンの支配する世界。そんな中で色を
保っているのは俺と佐々木だけだった。見れば、ふたりとも懐かしの中学時代の制服を着用
している。一体全体、これはどういう夢だ?
「夢? まぁキミにとってはこれは夢だな。僕にとっては現実だが、それはどうでもいいことだ」
 ようやく眠気が去っていき、ぼけていた脳みそが周辺情報を総合的に判断し、現在位置を伝
えてくる。
 この世界に俺は来たことがある。そう、橘京子に連れられてやってきた、佐々木の閉鎖空間
じゃないか。
 どっと、背に汗が吹き出た。

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

「“僕の世界”へようこそ」
 見上げた佐々木の顔は、天蓋からの光によって陰になっていた。その表情はよくわからない。
だが、にやりと笑んだことだけはわかった。

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「何をそんなに緊張した顔つきをして居るんだい? キョン、僕らは友人じゃあないか。安心
してくれたまえ。別に、キミを傷つけたり、キミに何かするために、ここに呼んだわけじゃあな
いのだ」
 額にかいた汗を袖でぬぐう。
「ああ、ダメじゃあないか、キョン。上着の袖なんて使っては。ハンカチなら、そらズボンの
左ポケットだよ」

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

 果たして、左ポケットを探った指先には綿の感触があった。
 なんで、知って居るんだ? いや、愚問だな。
 俺は今夜もいつもの水色のスウェットを着て、ベッドに入ったはずだ。
 そういえば、ハルヒの時も北高の制服を着込んでいたっけな。
「そんな風にいつまでも、地べたに座り込んでいないで、この間の喫茶店でお茶でもどうかな? 
奢らせて貰うよ」
 俺は佐々木に促されるままに、喫茶店のカウンター席に腰掛けた。カウンターの向こう側に
は店のエプロンを拝借した佐々木が立った。
「さて、お客様。何になさいますか?」
 柔らかく微笑んだ佐々木が俺に注文を促す。
 メニューを見るまでもなく、ブレンドを頼むと、佐々木はブレンドとかかれたカンから豆を
計測スプーンですくってコーヒーミルに掛けた。無味無臭だった店内にかすかなコーヒー
の香りが漂う。それだけでも、何か世界に暖かみが増したような気がした。
「先に行っておくが、キョン。僕は別に喫茶店のマスターを目指しているわけではない。よって、
習わぬ経を読んでいる小僧さんな訳だ。いつものブレンドほど薫り高いコーヒーを期待するの
は勘弁してくれたまえ」
 まぁそれでもインスタントよりかは上等だろう。
「そりゃあ、ね。挽きたてのコーヒー豆の香気に敵うインスタントなんて在りはしない、さ」
 そう言いながら、ひいたコーヒー豆に軽く息を吹きかけて、粉の上に残った不純物をとばす。
ひとり用のドリッパーを準備している間に、コンロではシュッシュと沸騰したお湯が自己主張
していた。……どうやら、佐々木の閉鎖空間には電気水道ガスは完備しているらしい。ハルヒ
の閉鎖空間もそうなんだろうか? くだらないことを想像する。

コ"コ"コ"コ"コ"コ"コ"コ"コ"

「止めたまえよ」
 ん? 佐々木は眉を顰めて俺を見た。何をやめるんだ?
「ひどいじゃあないか、キョン。僕の世界で、僕が目の前に居る時に、他の女のことなんか考
えてはいけない。それは紳士としてエチケット違反というものだよ。それとも、天然ジゴロの
キミは、そうやって僕のなけなしのジェラシーを煽るのかい? ふふ、罪な男(ひと)だね」
 佐々木は、心根が凍るような絶対零度の微笑みを浮かべた。手に持ったヤカンが湯気を立て
ているが、まったく温かそうには見えない。
 ヤカンから、佐々木はゆっくりとドリッパーにお湯を注いだ。
 た、立ち上るコーヒーの香りがいいね。とりあえず、コミュニケーションの基本は会話である。
「うん、この瞬間は本当によいね。なかなか手間なんで、ついついインスタントに逃げてしま
うが、ちゃんと道具を用意してお茶を楽しむぐらいの余裕を本当は持つべきなのだろうね」
 やっと人心地がつくぐらいに温度は回復していた。
 ふむ、そこまでは考えたことはないな。会話をつなぐ。
「道具の準備から片づけまで、一連の動作として覚え込んでしまえば、こんなものはどうとい
うこともないのだろうさ。聞いた話では、SOS団には専属のお茶くみメイドさんがいるというで
はないか」
 ああ、朝比奈さんの煎れてくれたお茶のうまさは格別だぜ。いや、まぁあの人ご自身の愛ら
しさ、いじましさも相まってその味わいたるや格別だね。
「さ、キョン。ブレンドだよ、どうぞ」
 俺のセリフを遮るようにして、佐々木はコーヒーカップを置いた。
「自分で、別の……話を振ってしまうとは……くく、堪らないね。これは」
 顔を伏せて、何やら肩をふるわせる佐々木である。どうした、調子でも悪いのか。
「いや、問題はないさ。ささ、僕のコーヒーの味はどうかな? あ、ミルクと砂糖を出してい
ないね……しまったな。ミルクが冷蔵庫の中だ。冷え切ってしまっているね」
 とりあえず、ブラックでいいよ。ストレートコーヒーの味を見るならブラックだ。
「まぁ、それはその通りだね。では、味わってくれたまえ」
 佐々木が俺を凝視するので、そのプレッシャーに負け、横を向いてコーヒーを一口含む。
 ……む、これはなかなかの味わいではないか。口中で転がし、舌を刺激する苦みと酸味、
鼻に抜ける香気を味わう。ここのブレンドは割と好みではあるのだが、佐々木の入れたそれは、
店で出すブレンドより香りが高く、さらに俺の好みの味となっていた。
 横目でちらりと、佐々木を見る。なんということか、俺を凝視していた。リアルに見たこと
はないが、ラブレターの返事を待つ少女のように緊張した顔つきを佐々木は見せていた。
 俺は深く溜息をついた。残念だよ、佐々木。
「あ、ぼ、僕は何か失敗をしてしまっただろうか。すまない、未だ勉強が足りないようだ。
な、なんなら淹れ直そうか?」
 佐々木は半ば涙目になりながら、そんなことを言う。むくむくと俺の中の嗜虐心が立ち上が
るのも、むべなるかなというべきだろう。
 本当に、残念だ。お前が喫茶店をやっていれば、毎日でも通ったかもしれないのに。
「そんなぁ……へ? きょキョン! 酷いじゃないか」
 俺のセリフの意味を理解した佐々木が顔を赤らめる。
「うまいぜ、佐々木。さすがだな、使い慣れない道具だろうに。大したもんだ」
 直球で褒めると、佐々木はさらに照れた。一回、誤解させてからだったからな。なかなか調子
が戻らないようだ。
「まったく、キミってヤツは……酷い男だ」
 そうつぶやいて、自分の分なのだろう。別のコーヒー豆で、もう一杯コーヒーを淹れた。
「さて、今日、キミを呼んだのは、だね」
 どうやら、余計な前置きはしないでくれるようだ。一瞬、ここが異常な状況であることを俺も
忘れていた。コレが本当に閉鎖空間なのだとしたら、ここに長居を決め込むのは問題がある。
 佐々木は自分で淹れたコーヒーを一口啜った。
「キミを呼んだ理由はいくつかあるのだが、ひとつめは謝罪をするためだ」
 謝罪? 俺をこんな場所に呼び出したことについてか?
「いや、それは別に謝罪するつもりはない」
 なんだよ、人の意向を無視して連れ回すのはお前が俺の知らない人間なら犯罪なのだぞ。
しかも、略取誘拐、拉致監禁はかなりの重犯罪だ。
「そうは言っても、だね。現実的な三次元空間から、時間と場所の定義が曖昧な非現実的な
空間に引きずり込むのがどのような犯罪に当たるのかは前例がなく、また現行の刑法にはそ
れが犯罪に相当するかどうかの規定がないと思うのだが、キミはどう考えるね」
 ぐっ、しまった。ルールや法律の分野に話を持って行って俺が佐々木に勝てるはずもない。
話題の転換を図るとしよう。
 この場合、俺の意見はどうでもいいだろ、俺が被害者であるのは変わらん。それよりも、
話題ずれてるぞ。謝罪してくれるのだろう?
「そのつもりだったのだがね、キミの態度を見るにつけ、この程度なら謝罪はいらないのでは
ないだろうかと思い出した」
 コラ。始めたならやり遂げろ、こっちが気持ち悪いだろうが。
「それも、そうだな。僕がこの世界を作り始めたのは橘さんいわく4年前なのだそうだ。それ
よりも前から在ったかもしれないが、それは観測できないことなので確定できない。よって
4年前には在ったというのが正確な表現だろうね」
 まぁ、その前はガンダルフの名ゼリフってことか。
「mey be Yes. mey be No.(そうかもしれない、そうでないかもしれない)まさしくそのとおりさ。
重要なのは2年前には確実にこの世界は存在したということだ」
 2年前、俺たちが高校受験のために同じ塾で机を並べていた頃ということか。
「それで、何が謝罪に相当するかというとだね、キミ。恥ずかしながら、告白させて貰うと。
僕はね、キミの夢を何度か見たことがあるのさ」
 さ、さすがにそれはなんというか、出演料を要求してもよいのかな?
「ふふ、それならば後で、ギャランティを決めようか。で、2年前にも、この能力を持ってい
たことを、ね。鑑みると、僕は夢だと思っていたのだが、今日のように僕がキミを僕の世界
に連れ込んでいた可能性がある」
 今、可能なんだから、2年前も可能だったかもしれないというわけか。
「この能力をある程度、制御できるようになった今となっては、それが無意識にやったことと
はいえ、どのくらい危険な事だったのかはわかってしまった。やったかどうかも定かでない
ことで、キミに謝罪しなければならないと思うほどにはね、危険な行為だった。申し訳ないこ
とを、多分、した」
 いや、まぁそんなことを言われてもなぁ。俺も覚えちゃいねぇし。
「僕が夢だと思っていたくらいだから、キミにとってはもっと現実感がなかっただろうからね。
今日だって、キミが橘さんに連れられて、僕の世界を体験していなかったから、こんなこと
は理解してくれなかったろう」
 中学の頃じゃ、今に輪を掛けて、閉鎖空間なんか知らなかったもんな。まさか、一般人には
触れることも、見ることも、入ることもできない異空間で特殊能力者が本当に戦っているとはねぇ。
「まったくだ。橘さんいわく僕の世界では戦う必要はない、そうなんだが、古泉くんだっけ? 
そちらの超能力使いは大変なようだね」
 まぁ、そうらしい、な。疲れの表情を見せていた古泉を思い浮かべる。それでも、去年の年末
辺りは結構落ち着いていたらしいんだが、ここ最近は、また大変らしいけどな。……どうやら、
お前と俺の所為らしいぜ。と心の中でつぶやく。
「ほう、そうなのか。僕と丁度逆だな。これも橘さんの受け売りなんだが、僕の力は去年に
なって急激に増大したらしい、そしてここ最近は落ち着いているのだ。まぁゆっくりと力は増
しているようだが、ね」
 コーヒーを啜り、まじまじと佐々木を見る。古泉は、ハルヒが普通の人間に近づいている、
そう言っていた。それに反比例するかのように増大する佐々木の力、俺の脳みそは、その
間を、つい因果関係を結ぼうとしてしまう。
「おかげで、今では、2時間程度であれば、閉鎖空間をコントロールして、キミを取り込み、
橘さんや九曜さんたちを入れない状態にすることも可能になった」

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「僕は、成長している」
 なんだか、知らないが佐々木の小柄な身体から異常な威圧感が生まれていた。
「キョン、僕にとっても鍵はキミであった。そう結論するのが妥当なようだ」
 ごくり、とコーヒーを嚥下する。
「伝えておきたいことのその2だよ」
 それでおしまいか? 他にもあるんなら、この機会に聞かせておいてくれ。
「そうだね。言うだけならタダだし、キミは起きれば、このことは春の夜の夢として忘れてし
まうだろう。だから、言っておくよ。僕はキミとの友情の間に何人たりとも割り込ませる気は
ない。それがたとえ、涼宮さんであっても」
 そういって、微笑んだ。やけに安心感のある微笑だった。心が安らいだ、そう、危険なほどに。
「なんだよ、そんなことか」

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

 だが佐々木からもたらされるプレッシャーはまったく減じていない。
「折角、また出会えたんだ。俺もお前との友情は大事にしたいよ、それじゃあ、ダメか?」
 そう、つぶやくのがやっとだった。
「何を言っているんだ。それが一番大事なのだ。僕とキミの間の友情、それに比べたら他の何
もすべては些末な出来事に過ぎない。意見の一致を見て、嬉しいよ」
 それは何よりだ。
「コーヒーのお代わりはどうかな?」
 もらうとしよう。再びコーヒーの準備を始めた佐々木に尋ねる。それで、俺はいつになったら、
この夢から醒めることができるのだ。
「いつ、だと思うね? キミは、不思議に思ったことはないか? なぜ、夢を見るのだろう、と。
夢についてはいろいろな方向性から研究が行われているね」
 ああ、そうらしいな。記憶の整理をしているなんて説もあるな。
「うむ、眠っている間に、シナプスは結合し、記憶は定着するようだね。だから、一夜漬けの
時こそ、計画的に寝るべきなのだ。もちろん、そんな泥縄は試験対策としては下の下だ。
普段から、きっちりと授業内容を反復し、定着しておくべきだね」
 ……できる人はできない人のことなんか理解できないのだぜ。
「キョン、どうせキミのことだから、今も試験勉強は、一週間前からなのだろう」
 いや、こんなところで試験対策の話なんかしなくてもいいだろう。
「うむ、まぁそうだね。もうすぐ時間切れだし」
 時間切れって?
「この空間はもうすぐ崩壊する。あと数分で僕たちの逢瀬も終わりだ」
 だ、大丈夫なんだろうな。俺は無事に帰れるよな?
 佐々木は唇を人差し指で撫でて、薄く微笑んだ。
「うふん、では、お約束と行こうか。キミは閉鎖空間をその創造主と共に出る方法を知ってい
るはずだ」
 そう言って、佐々木はカウンターに腰を乗せ、身を乗り出してくる。細い腰が妖しい曲線を
描き、佐々木の身につけているコロンの香りが俺の身を包む。
 ちょ、ちょっと、まて、何のことだ?
「ん~~、往生際の悪い王子様だね。僕が何にも知らないとでも思っているのかね。親愛なる
キョン」
 佐々木は俺の首に両手を回して、ぶら下がるようにして俺の顔を覗き込む。
「据え膳食わぬは男の恥だよ」
 そうはいってもだな、そのやっぱりだな、こういうことは……
「んっ………」
 佐々木は腕を閉めてくる。そうなれば、当然……受け入れるしかない。佐々木の身体に俺の
両腕を絡めて、半ば彼女を持ち上げる。
 佐々木の柔らかな唇の感触が俺の……ぬお。


「ん、残念だけれど、そろそろ時間のようだ、ね」
 つ~、とお互いの唇と唇の間に唾液の橋が架かった。
 言っておくが、ここまではしなくてもって、閉鎖空間解けてねえじゃあ……そう文句を付け
ようとしたその瞬間、急速に周囲が霧にかかったように良く見えなくなった。佐々木の顔が
ぼやけていく。
「おやすみ、キョン。有意義な時間であった。僕の大好きなキョン。このことは忘れてくれた
まえ。また、夢の中で逢おう」
 佐々木が何か言っていたが、その言葉は俺の脳に届く前に消えていた。

 勢いよく、ベッドの上に起きあがる。
 夢、か。でも、一体どんな夢を見たんだ? 夢の記憶は砂がこぼれるかのように消えていく。
部屋の中には、なぜか淹れたてのコーヒーのような香りが漂っていた。
 何か、大事なことがあったような気がするが、よくは思い出せない。なんだろう。誰かに相談
しなければならない、そう考えて……。

「このことは忘れてくれたまえ」

 今日も一日、頑張りますか。俺は洗顔のために立ち上がった。

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最終更新:2007年10月10日 08:47
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