10
その日は清々しい朝だった。
窓から見える空には雲ひとつ無く、その青色はまるでペンキで塗ったように濃い。先日
降った雪が日陰にわずかばかり残っている。朝の冷たい空気が、肺の奥底まで染み込む感
じがした。
ところが、そんな清々しさとは裏腹に俺の気分は暗澹としていた。と言うのも、今日が
公立高校入試の合格発表の日だからだ。
試験の手応えはどうだったかと言われれば、それはじゅうぶんだった。けれどもそこに
は、俺の価値基準では、と注釈をつけなくてはならない。
三年生になってから――つまり佐々木と出会ってから、俺の成績が飛躍的に向上したの
は決して自惚れなんかじゃなく、それは通知表の数値を見れば誰もが納得してくれるだろ
う。実際、試験の出来は申し分無かった。
だけど、受験に向けて勉強していたのは何も俺だけじゃないんだ。俺が成績を上げたぶ
んだけ、当然周りの奴らも同じように上げてきているわけで、結局はその中において競争
に打ち勝たなきゃいけない。となれば、もともとのスタートラインが著しく低い俺の今の
気分というのも、いくらかは察していただけるんじゃないかと思う。
そうは言っても、今更そんなことを言ったって仕方が無い。一応やれるだけのことはや
ったんだ。もう試験は終わった。今日はその結果を見に行くだけだ。
成績優良児佐々木の指導はとても的確だった。学校より塾よりわかりやすかった。その
佐々木に教えを乞うたのだ。ここで不安になるのは、佐々木のことを信用していないとい
うことじゃないのか? そう自分に言い聞かせた。
その佐々木はと言えば、一足先に市外の私立を決めちまっていて、今は身軽だ。私立の
合否が出たのは、公立の試験日よりも前のことだった。でも、相変わらず佐々木は塾に通
っていたし、俺の勉強にも付き合ってくれた。
服だけ着替えて髪は結ばないまま、寝ぼけ眼で朝食を摂っていると、電話が鳴った。母
さんが出て、俺に代わるように命じた。
「もしもし?」
電話の主は佐々木だった。
『やあ、キョン。まだ家に居たかい? 良かった。今日は公立の合格発表だろ? 是非、
僕も一緒に見に行きたいと思ってね』
「なんでまた」
『なんでって、気になるじゃないか。この一年、一番君の勉強を見ていたのは僕なんだぞ。
もし万が一ここで君が受からないようなことがあれば、僕だって多少の責任を感じてしま
うよ』
「そんなの、帰って来てから電話で教えるよ」
『いいじゃないか別に付いて行ったって。正直に言えば、こうしている今だって気が気じ
ゃないんだ。ひょっとしたら、自分の合格発表の時よりも緊張しているくらいだよ。一刻
も早く、君の合否が知りたい』
「自転車扱ぐのは俺なんだけどなあ」
『じゃあ僕も自分の自転車を出すよ。それでいいだろ?』
「嘘。冗談だってば。じゃあ待ってるね」
ひとまず電話を切り、朝食をやっつけた後、ポニーテールを結んで佐々木を待った。
しばらくすると、玄関のベルが鳴った。
「お待たせ、キョン」
「よし、行こう!」
いつものように自転車の荷台に佐々木を乗せ、走り出した。
俺は自転車を扱ぎながら、後ろの佐々木に話しかけた。
「本当のこと言うとさ、不安で不安でしょうがなかったんだ。一人で見に行くのはとって
も心細かった。だから佐々木が一緒に付いて来てくれるって言った時、嬉しかったよ」
佐々木は返事をしなかった。俺の背中のすぐ後ろにある顔の表情は、どんなに首を捻っ
ても見えはしない。
「大丈夫、俺は絶対受かってる。だって佐々木が教えてくれたんだもん。俺は佐々木のこ
と、信じてる」
やはり佐々木は黙っていた。表情も見えないけれど、きっと微笑んでいるのだろうと、
俺は勝手にそう思うことにした。だって、腰に回された佐々木の両腕が、それまでよりも
力強く、俺のことを抱きしめたような気がしたから。
北高は山の上にあり、途中から勾配がかなり急になるので、そこからは自転車を降りて
徒歩で進まなければならなかった。
やがて北高に到着すると、同じように合格発表を見に来た受験生たちで溢れていた。合
格者の受験番号が記載された巨大な紙が、掲示板に貼り出されている。
「キョンの受験番号は何番?」
俺は持っていた受験票を佐々木に見せた。
「ふうん、縁起の良い数字だね。あるかな」
「無きゃ困る」
掲示板の正面は人だかりで容易に近付けない。俺は目を凝らして自分の番号を探した。
左上から順に、若い番号から並んでいる。自分の番号が近付いてくるにつれ、心拍数が上
がり、喉が痛いくらいに乾くのを感じた。そして――。
「……あった」
俺はもう一度手に持っていた受験票を確認した。
「合ってるよね? 間違いじゃないよね?」
何度も何度も交互に見て確認した。
「佐々木も見て。本当に合ってる? 見間違いじゃない?」
「ああ、合ってるよ。間違いじゃない。確かにちゃんと君の番号だ」
「や……」
緊張が解けて力が抜けるのと、嬉しさがこみ上げてくるのを同時に感じた。
「やったあ!」
喜びのあまり、俺は思わず佐々木に抱きついた。
「やった……佐々木……やったよお!」
「おめでとう、キョン」
佐々木も喜んでいた。俺は佐々木の小さな頭を胸の中に、思いっきり、力強く抱きしめ
た。俺たちは二人で喜びを分かち合った。
その時、後ろから声を掛けられた。
「キョンも受かってた?」
振り返ると、そこに居たのは国木田だった。そう言えば国木田も――実力的にはもっと
上を狙えたのに――北高を受けていたんだった。
「国木田、どうだった?」
「私も受かってたよ。また春からも一緒だね」
「うん」
俺は満面の笑みで答えた。
嬉しさとか、誇らしさとか、そんな感情で胸がいっぱいだった。その時は。
それから俺は、佐々木と一緒に昼食を摂り、その後、自転車で家まで送り届けた。
ともあれ、ひとまず受験は終わった。母さんも一安心だろう。これで俺はようやく、晴
れて塾通いから解放される。でも、それはつまり――。
「お疲れ様、キョン。やっぱり北高は遠いな」
――もう、佐々木を後ろの荷台に乗せて塾に行くことも無くなるってことだ。
「ありがとう。それじゃあまた、学校で」
俺は少し間を置いて答えた。
「……そうだね、学校で」
「じゃあね」
佐々木は微笑みながら玄関の中へ入っていった。
俺は少しの間そこに立ち尽くしてから、家に向けて自転車を扱いだ。
佐々木を降ろしたあとの自転車のペダルが、いつもより重い。そろそろ油を差す必要が
あるかも知れない。
見上げた空には雲ひとつ無く、その青色はまるでペンキで塗ったように濃い。先日降っ
た雪が日陰にわずかばかり残っている。暖かい午後の日差しが、そろそろ冬の終わり、そ
して春の訪れを告げている。
そんな清々しさとは裏腹に、俺の気分は暗澹としていた。
11
ついに、三年間過ごした学び舎を去る時が来た。
卒業式の前、最後のホームルーム。教壇に立つ担任の背後の黒板は、昨日の放課後にク
ラスメイトたちが描いた〈最後の思い出の落書き〉で埋め尽くされていた。だけどその中
に、俺が描いたものはない。さすがに担任も、今日の朝、教室に入るなりみんなの目の前
でそれを消してしまうような空気を読まないことはしなかったけど、どっちみち新学期が
始まる前には綺麗さっぱり消されてしまうのだから、思い出も何もありゃしない。だから
描かなかった。
卒業式はつつがなく終了した。
終わってからしばらくしても、卒業生たちは校門から出ようとせず、むせび泣きながら
抱き合い、別れを惜しんでいた。
言うまでも無いことだとは思うけど、一応言っておくなら、ここで言う卒業生たちって
のはもっぱら女子のことだ。男子が泣きながら抱き合ってる情景なんか気持ち悪いことこ
の上無いし、実際そんな奴は皆無だった。
そして俺の目からも涙なんか流れなかったのは、俺の性格が男子寄りだということを示
しているのかも知れない。ここぞとばかりに泣き叫ぶ同級生たちの姿が、どことなく白々
しく思え、俺は冷ややかな感情でその様子を眺めていた。
「そりゃあ俺だって、感慨深いものが無いとは言わないけどさ、別に今生の別れってわけ
じゃないんだ。会おうと思えばいつだって会えるんだぜ」
俺は隣の国木田に話しかけた。ちなみに国木田もいつも通り飄々としていて、涙は流し
ていなかったけど、こいつの場合はまた俺とも別なんだろうな。
「まあ、それはそうだけど、それを言っちゃあね。さて、私はそろそろ帰るけど、キョン
はどうする?」
「俺も帰るよ。いつまでも居たってしょうがない」
「そう。じゃあまた四月に。北高でね」
「その前に一回くらい連絡するよ。じゃあね」
そうして俺は母校を後にした。
家に帰っても、特に何をしたということはない。適当に雑誌を読んだり、CDを聴いた
りしながらだらだらと時間だけ潰していた。
夕食を食べたあとも、やっていたテレビ番組が面白くなかったから、俺は自室に戻り、
そのままベッドの上に身を投げ出した。
――俺は今日から中学生になる。
真新しい制服に袖を通し、これから三年間を過ごす学び舎に足を踏み入れる。
教室に入り、俺は隣の席の男子に声をかけた。
「はじめまして」
その天使のように繊細で美しい少年は、微笑みながら答えた。
「やあ、はじめまして」
「君、名前は何ていうの?」
「僕は佐々木だよ。君の名前は?」
俺は自分の本名を告げてから言った。
「キョンって呼んで。みんなそう呼んでるから」
「わかった。キョン、これから三年間よろしくね」
「うん」
そうだ、三年。中学生活はあと三年もあるんだ。そして三年間、佐々木とは毎日会うこ
とができるんだ。
「それじゃあキョン、また明日」
「うん、また明日ね」
そう、明日。明日だ。明日もまた、佐々木に会える――。
時計を見ると、針は十二時を回っていた。
知らない間に部屋の電気が消されていて、俺は掛け布団を掛けられていた。多分、風呂
に入れと呼びに来た母さんが、俺が寝てしまっているのを見てかぶせてくれたんだろう。
そして思い出した。
今日が卒業式だったことを。
明日は、もう学校には行かないことを。
中学生活の三年間は、もう終わってしまったことを。
――終わった。そう、終わったんだ。
休み時間に佐々木と話すことも、テスト前に佐々木に勉強を教えてもらうことも、夏休
みや冬休みの宿題を協力して終わらせることも、放課後、佐々木を自転車の荷台に乗せて
塾に通うことも、もう、無い。
後ろに乗った佐々木の両腕が腰に回されて、佐々木の存在と、鼓動と、息遣いと、体温
を感じながら自転車を扱ぐことは、もう――。
頬に何かが触れる感触がした。手で触れてみると、それは液体だった。温かい液体。頬
を伝う、涙。
「あれ?」
堰を切ったように、目から涙がとめどなく溢れてくる。
「なんで……」
喉の奥が、熱い。胸が締め付けられる。
「うぐ……あう……」
呼吸が荒くなり、咳き込む。口からは嗚咽が漏れ出る。歯を食いしばって耐えようとす
るけど、止められない。
「あううぅ……うああぁぁぁ」
口を押さえて声を止めようとする。目を押さえて涙を止めようとする。どちらも止める
ことはできなかった。
「あああぁぁ……!」
このままでは、体じゅうの水分が全部涙になって流れ出てしまうんじゃないかと思った。
顔も両手も涙で濡れに濡れ、余ったぶんは枕や布団に染み込んだ。
終わってしまったんだ。何もかも。全て。果てしない喪失感が、俺を包み込む。
嫌だ。
終わりなんて、嫌だ!
まだ終わりたくない。終わらせちゃいけないんだ。
そうだ、終わってない。俺の中学生活は、まだ終わってなんかいない。だってまだ、や
り残したことがあるから。それをしなくちゃ、終わらない。
やがて落ち着きを取り戻した俺は、せき立てられるように、家族の寝静まった家を忍び
足で抜け出し、自転車に跨り、暗闇の中へ走り出した。
深夜になって民家の明かりもほとんど消えて、僅かな街灯が照らす以外はほぼ完全な真
っ暗闇。一寸先も不明瞭な闇が、今あるこの現実を希薄なものにして、夢の続きのような
印象を与えていた。
そして辿り着いた場所、そこは、佐々木の家の前。
俺はポケットから、合格祝いに買ってもらったばかりの携帯電話を取り出し、番号を押
した。コール音が鳴る。しばらく鳴らし続けても、相手は一向に出なかった。
『“留守番電話サービスに接続し――”もしもし?』
「佐々木、ごめん、寝てた?」
『キョン? どうしたんだい、こんな時間に』
「お願いがあるの。今から、ちょっと出てこられる?」
『今から?』
「うん。実はもう、家の前に居るんだ」
『え?』
佐々木が窓を開けて顔を出した。俺は手を振って応えた。
『ちょっと待って。着替えないといけないから』
「わかった」
俺は電話を切って佐々木を待った。しばらくすると、玄関から佐々木が出てきた。
泣き腫らした顔は、佐々木からは暗闇で見えないはず。そうでなきゃ困る。
「急にごめんね、佐々木」
「一体何の用事なんだい?」
「乗って」俺は自転車の荷台を指して言った。
「乗るって、どこへ行くの?」
「どこでもいい。どこかへ」
我ながら、頭のいかれたような行動だと思う。でも、こうせずにはいられなかった。そ
して佐々木は、そんな俺に何も言わず黙って従って、自転車に跨ってくれた。
俺は再び自転車を扱ぎだした。佐々木は俺の腰に腕を回し、しっかりとしがみついてい
た。その感触と、佐々木の体重がかかった自転車のペダルの重さに、俺の中の空虚だった
部分が満たされていく感じがして、また涙が出そうになった。でも、佐々木の前では泣き
たくない。俺は必死に堪えた。
佐々木はもう一度『どこへ行くの』とは尋ねなかった。だから、どこへ行っても良かっ
た。いつまでもずっと、このまま自転車を扱いでいるのもいい。そんなことさえ思った。
でも決めていた。行き先はひとつ。ふさわしい場所は、あそこしかない。
それは、学校。俺たちが、一番長い時間をともに過ごした。
セキュリティ管理がずさんな我が母校の校門は開いたままだった。そこに自転車のまま
乗り入れ、そのまま校庭の中まで抜けた。
校庭の中心で自転車を停め、降りてスタンドを立てる。佐々木も続いて荷台から降りた。
俺はその場でぐるりと一周、周囲を見渡した。
「不思議だね。まだ卒業式が終わって一日も経たないのに、なんだかもう、ずっと遠い過
去のことのような気がする」
「そうだね」
「訊かないの?」
「何を?」
何を? ――それに俺は答えなかった。
佐々木の立場からしたら、訊きたいことは山ほどあるはずなんだ。
ここに何があるの? なんでこんな時間に? なんで自分を呼び出したの? これから
何をするの? そもそも、何を考えてるの?
何ひとつ佐々木は訊かなかった。思ってないはずはないんだ。でも、そんなことはおく
びにも出さない。
それだから、そんな佐々木だから、俺は――。
頭上には星が瞬いている。周囲に明かりが無いから、とても多く見える。
それでも、あの夏に田舎で見た、降るような満天の星空には及ばない。きっと、空気が
違うせいだろう。
その時だった。
視界の隅に、音も無く走る光の筋。
(あ……)
流れ星。
それはすぐ消えた。あっという間だった。願い事をする暇も、しようと思い付くまでの
間も無かった。
(ひょっとして今日は、また、あの流星群の日なんじゃないか?)
もしそうだったら、次に流れ星が出た時には、願い事を言おう。そう心に決めた。
あの日は、何を願えばいいかわからなかった。ううん、違う。わからないふりをしてた。
今なら言える。俺のささやかで、とても大切な願い事。
けど、それからしばらく待ってみても、一向に次の流星は現れなかった。流星は結局、
さっきのあれひとつだけだった。
だから仕方無い。今からでも願おう。もう遅いけど、消えてしまった流星に。
勇気を。
今、たった一度だけ。
小さな小さな勇気を、ください。
俺は佐々木に向き直った。心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、全身が熱くなる。
声が、出ない。焼け付くような喉からは、掠れた息しか出てこなかった。両脚の代償に、
美しい歌声を失った人魚姫のように。
たった二文字でいいのに。それが出ない。やっぱり、消えてしまった流星には、願いは
届かなかったのか。
ずっと沈黙していた。いや、ずっと声を出そうとしていたのだけど。
そしてついに、火を吐くような思いで喉の奥からその二文字を絞り出すことができた。
「……す…き……」
やっと言えた。言ってしまった。もう後戻りはできない。
ずっと怖かった。自分の想いを伝えてしまうことで、佐々木の俺に対する気持ちが変わ
ってしまうことが。想いを拒絶されることで、二人の間のささやかな関係が壊れてしまう
のならば、恋人じゃなく、友達のままの方が良いと。
だって佐々木は、恋愛感情なんて精神病だと言い張る奴だから。
でも、しょうがない。かかっちまったんだ。その精神病に。風邪をひきたいなんて言う
奴はいない。誰だってひきたくはない。それでもひくときはひくんだ。それと同じ。
佐々木のあの言葉を聞いてしまってから、俺は佐々木に対して恋愛感情を抱くまいとし
た。佐々木とずっと一緒に居たいのなら、そうするべきだと。その「ずっと一緒に居たい」
っていう気持ちが、そもそも恋愛感情から来るものだったというのに。
それでも伝えたかった。どうせ離れ離れになってしまうのなら、いっそ想いを。
そうして、俺が決死の思いで搾り出した告白に、こいつはなんて答えたと思う?
「なあに?」
何? 「何?」って言ったんだ、こいつ。
佐々木は自分の名前を呼ばれたと思ったんだ。俺の声が小さ過ぎて聞き間違えたんだ。
「スキ」を「ササキ」と。
思いもよらない形で俺の決断はまた先延ばしにされた。
佐々木には今の告白は聞こえなかった。今なら、まだ戻れる。へたに告白して愛想を尽
かされるなら、やめておくべきじゃないか? 高校が別だったって、友達同士なら、連絡
を取り合って会うことだって別におかしなことじゃない。だったら今のままで――俺の弱
気な部分がそう訴えかける。
いや、だめだ。なんのためにわざわざこんな時間に、佐々木を呼び出して、こんな所ま
で来たと思ってるんだ? 伝えなきゃだめなんだ、絶対に。
だから俺はもう一度、佐々木の目を真正面から見据えて、大きく息を吸い込んだ。
さっきは言えたんだ。もう一度、同じことを言えば良いんだ。たった二文字。
そして言った。
「……ささき……」
「何?」
「高校に行っても、お互い頑張ろうね」
佐々木は微笑みながら答えた。
「うん」
――終わった。
これで終わったんだ。全てが。ようやく。
後悔なんてしない。いつだって、自分の選んだことが最良だと、そう自信を持っていな
きゃ、いられないから。
俺は荷台に佐々木を乗せて、帰路についた。
これが本当に、最後の二人乗り。
背中にある佐々木の感触、佐々木の鼓動、佐々木の息遣い、佐々木の体温、そして自転
車のペダルにかかった佐々木の体重を、絶対に忘れないように脳裏に刻み付けた。
佐々木の家に着いた。
「ごめんね、佐々木。こんな時間に呼び出して」
「いいよ、気にしないさ。僕も似たようなことをしたしね」
「それじゃあ、おやすみ」
「ああ。バイバイ、キョン」
「……うん、さようなら、佐々木」
佐々木に見送られながら、俺は家に向けて自転車を扱ぎ出した。
この間油を差したばかりの自転車は快調だ。これなら四月からの通学も快適だろう。
心は、不思議なくらい晴れ晴れとしていた。
12
春休み最後の日。俺は駅前に向けて自転車を飛ばした。
駐輪場に自転車を停めて、待ち合わせ場所に向かう俺の背中に声が掛けられた。
「やあ、キョン」
「うわっ!?」
それはほとんど不意打ちだった。ぼんやりしてたところに、すぐ背後から声がしたんだ
から。俺は飛び上がって振り向いた。
「なんだ、佐々木か」
「なんだとはとんだご挨拶だ。随分久し振りに会ったっていうのに」
その言葉とは裏腹に、顔には柔らかい微笑が浮いていた。
「キョン、そう言えばこの前、須藤から電話があったよ。なにやら三年時のクラス一同で
同窓会をしたがっていた。彼は直接的に言わなかったけど、どうやら当時の女子の誰かに
未練たらたらの恋心を抱いてるみたいだったね。実際のところ、僕はどうでもいいんだけ
ど、キョンはどうだい?」
「同窓会ね。やるって言うんだったら、そりゃ行くよ。結構親しくしてたのに、卒業以来
になっちまってる奴も何人か居るし」
「そう言うだろうと思ったよ。けどね、その卒業以来になっちまってる奴の中には、僕も
含まれているんだろうね? 実際、君と会うのはそろって卒業証書を拝領したあの日以来、
一年ぶりだ。ところで、キョンは北高だったね。どうだい? 愉快な高校生活をつつがな
く送れてるかい?」
俺は肩をすくめて言ってみせた。
「全く、毎日毎日愉快過ぎて身が持たないくらいだよ。それもこれも、佐々木が勉強教え
てくれて北高に合格させてくれたおかげだね」
「なにそれ、嫌味?」
「さあ、どうかな。まあ少なくとも、不愉快じゃないよ。俺のこの一年間の話をし出した
ら長くなるぜ」
「それは何よりだね。僕の方はあまり話すことが無いよ。面白くないわけじゃないんだけ
ど、人生観が転換するようなショッキングな出来事は無かったな」
良いことじゃないか。そんなもんがあちこちにあったら今頃全国区でパニックだろうよ。
「ところでキョン、今日は一体何の用事なんだい?」
その言葉に、俺は本来の目的を思い出して時計を見た。
「げっ、もう過ぎてる! ごめん、佐々木、連れと待ち合わせてるんだ。時間に喧しい奴
でさ。遅れたら何をしでかすかわからない」
「連れ? 高校の? へえ、その待ち合わせ場所まで僕も同行させてもらって構わないか
な。キョンの友人だったら僕の友人も同然さ。是非、尊顔を拝ませて頂きたい」
「別に拝んでもご利益のある顔じゃないと思うけどなあ。まあ、佐々木がそうしたいんな
ら、構わないけど。それより佐々木も用事あるんじゃないの?」
「ああ、塾に行くところだけど、寄り道するくらいの時間はあるさ。じゅうぶんね」
俺は佐々木と並んで、集合場所に向かって歩き出した。
「キョン、君は変わってないね」
「そう?」
「ああ。ほっとしたよ」
「なんだよ、がっかりだなあ。これでもちょっとは成長したつもりなんだぜ。例えば、ト
ップとアンダーの差とか」
「僕も背が伸びたよ」
「ふうん、それは驚いた。気付かなかったよ、全く」
俺たちは声を上げて笑った。
佐々木が続けた。
「そうじゃないよ。外見なんて、変えようと思えばいくらだって変えられる。髪型を変え
たり、化粧や服装を変えるだけで見た目の印象なんて別人のように変化するものさ。女性
は特にね」
「で、俺は女だけど、全く変わってないわけだ」
「やっぱり少し変わったかな」
「本当?」
「うん。素敵になった」
心臓が飛び跳ねた。今になってそんなこと言うなよ。ばか。
「本当に変わらないのは内面さ。良くも悪くも、だけどね」
変わったよ。お前からは見えないところがね。一年かかって、ようやくだけど。
「人間の精神が物質に宿るものだとしたら、構成物質をよほど違うものに取り替えない限
りは、考え方やものの見方もそう異ならないんだろう。あるいは、考え方が一変するよう
な聖パウロ的、またはコペルニクス転回が無い限り、だね。世界の変容はイコール、価値
観の変容なんだ。なぜなら、人間は己の認識能力を超えた事象を決して正しくは理解でき
ないのだから。例えば、赤外線は人間の目には見えないけれど、蛇なんかは熱映像視野を
持っている。犬笛の音は人間には聞こえないけれど、犬はちゃんと反応するだろう? ど
ちらも人間には感知することはできない。だけど、それらは存在しているんだ」
「お前、北高に来れば良かったかもな。お前と話が弾みそうな奴が一人居るよ。ちょうど
いい、今日待ち合わせてる連中の一人だから、知り合いになっとけば?」
「くくっ、それは楽しみだ」
そしていつしか、俺を除くSOS団全員の姿は、もう間近に迫っていた。
腕を組んで仁王立ちしていたSOS団々長、涼宮ハルヒは、俺の姿を見て取るなり、周
囲の迷惑なんて微塵も顧みない様子で声を張り上げた。
「キョン! 遅いわよ! あんた、たるんでるんじゃないの? いつもいつも最後に来る
ばっかりか、あまつさえ時間に遅れるなんて! いい? 時間の流れはあんただけのもん
じゃないの。あんたが遅れることで、あたしたち全員の貴重な時間まで均等に失われてい
くのよ! 一度失った時間は元には戻せないんだからね! 罰金よ罰金! お金じゃあ時
間は買えないけど、あたしたちの心を朗らかにするという意味では、ほんのちょっぴりだ
けど、慰めにはなるからね」
そしてハルヒは、そこで初めて気が付いたように佐々木を見て尋ねた。
「それ、誰?」
「ああ、こいつは俺の――」
俺と佐々木は顔を見合わせて、そして言った。
「親友!」
二人の声が、見事に調和した。
『流星に何を願う』――完――
最終更新:2008年01月29日 09:24