世界はいつの間にか黒幕が掛かったような闇で埋もれている。
風が吹き抜けると、それが今は、千の刃のように、痛ましく、そして悲しく、私達の心の奥の奥に強く響き渡っていた。
三日月は高い。あのような物体が私達の遥か上空に存在し、そして認識されている事を、ふと、不思議に思う。
私は何かに対して酷く慌てて、辺りを見渡し、現状を必死で理解しようとしていた。そうだ、私は今、学校の屋上にいる。
世界は冷たく凍てついていて、その事が、私達二つの呼吸を、やけに落ち着かせる。寒い。だけど、今はこの寒さが、少なくとも私には似合っている。
私達は今、学校の屋上にいる。
どのような経緯でここに来ているのかは、私にはよくわからない。というより、覚えていない。
多分、何てことない会話から、こんな所に私があの人を連れてきてしまったのだろうと思う。
「この学校にいられるのは、あと何ヶ月かしかないんだ」。ふとそんな想いが、私の体中を巡った。
すると次の瞬間、私は柄にも無く、強引に彼の腕を引っ張り、そしてこんな所に連れ込んでしまった訳だ。
屋上の端の、冷たい手すりに掴まって、何かを物語るように、大きな背中を私に向けて、貴方は世界を想う。
沈黙すらも凍てついて剥がれ落ちしまいそうな、私達の存在するこの世界で、どんな思いが、貴方の脳裏には浮かんでいるのだろうか。
それを私は探ってみようと思う。ふと、「探ってみたい」と、そう思う。
でも、それは私がどんなに足掻いても、理解する事も、ましてや解析する事も許されない、貴方自信の問題。とても個人的で、匿名的なその思索を、私は探ることが出来無い。
だって私には今、貴方が浮かべているその表情を、目にする事すら許されていないんだもの。
貴方はこの街を。或るいは、この世界を。たくさんの時間を掛けて、様々な方角を眺める。
吐く息は、白く
私は貴方のその体を、ふと、抱きしめてしまいたいと。貴方その体を、自分の物にしてしまいたい。と思う。思ってしまう。
この醜い感情を、押し殺し、息絶えさせ、止めを刺す事が、今の私には上手く出来無い。
むしろ、しようとしなかっただけなのかもしれない。
「そこからは、どんな景色が見えるんだい?」。私は貴方の後方から、貴方の背中に問いかける。
貴方は言った。「暗くてなあんにも、見えやしねえよ」。と、投げ捨てるように。
でも、その言葉の余韻には、少しのぬくもりが感じられた。
「お前も見てみろよ。ホラ。真っ暗な闇ってのも、見てると結構面白いもんだぜ」。
貴方は屋上の手すりに寄りかかりながら言う。危ないなあ。手すりの耐久性が万が一、老化していたりしたら、死んでしまうのだぞ。と、そんな事を思う。
貴方がいなくなってしまった後の世界を、私は想い、そして、唇が震えた。
恐らく、これ程恐ろしい概念は、私という固体の中には存在しないだろう。
「貴方がいない、この世界」
どんなに美しい花が咲き乱れていたとしても、
どんなに心地良い風が私の肌をなぞったとしても
そして、どんなぬくもりに包まれていたとしても、
貴方がいないこの世界に、本当のぬくもりなんて存在しない。それと同時に、私は味を感じたりしない。
そこでは全てが無味であり、無臭であり、そして無意味なんだ。
貴方がいない。そんな世界なら、いっそ全て消えてしまった方がマシだ。ぬくもりを感じる事も、意味を問いただす事も出来無い世界なんて、私はいらない。
それならいっそ消えうせて、そして忘れさせて欲しい。
屋上の手すりに寄りかかる貴方を見て、瞬時にそんな事を想ってしまった。
「寄りかかると、危ないよ」。私はワナワナと震える唇で、貴方に告げる。
「それもそうだな」。貴方は言う。そして、貴方は冷たい手すりから離れる。私はホッとする。過度な心配だ。と、自分でも思う。
「本当、馬鹿みたいだ」
私は貴方に歩み寄って、ソッと肩を並べる。
私の隣に、貴方が立って、笑い合っている現実そのものが、自身の命なんかよりも、ずっとずっと大事に思えた。
そうだ。例えば私はこんな日常を守る為なら、自らの命を捨ててしまうことだって、惜しまない。
暫く続く沈黙を無言で破るように、私は貴方の肩に触れた。
この指先で、貴方に触れない訳にはいかなかった。だから私は触れた。この掌で、貴方の体温の流れを認識してしまいたかった。
理性を制御してしまう能力が、今の私には大きく欠落してしまっているのかもしれない。誰かがそれを意図的に、そうさせてしまったのか、
それとも私が理性という内なる壁を、自ら殺してしまったのかは、よくわからない。わからなくても良い事だと、今の私には思えた。
私は欲望のまま貴方の胸の中に飛び込む。つまり、抱きついた。それはまるで水のように、綺麗で美しくて透き通っていて、それと同時に、すぐに黒く染まってしまいそうな、そんな欲望。
そんな欲望を、「僕」は、「キミ」にぶつけてしまった。
貴方は私を受け入れた。その証に、私の冷たい体を、貴方の温かいぬくもりで、包んでくれた。
私にはそれだけで十分すぎた。むしろ、今の幸せが爆発してしまいそうで、未来を、ふと恐れてしまう。
貴方は、いつか私を見捨ててしまうかもしれない。それとも私のこの感情が、逆に貴方を見捨ててしまうのかもしれない。
けれど、やはり今はそんな事、どうでも良かったんだ。何故ならば私は貴方の優しすぎるその体温に触れていて、そして、貴方は私の体温を感じていてくれるから。
私の頬にはいつの間にか、一粒の雫が伝って、そして静かに、コンクリートに落ちて、弾けた。
貴方は、私のその雫の通り道を、細長い指で優しく拭い取る。
そして、そのまま私に一つ、口付けをした。
「そろそろ帰るか。佐々木」
私は、貴方のその問いに、頷いた。涙を流しながら、静かに頷いてみせた。
貴方は確かに、ここにいて、私も少なからず今は、ここにいる。そんな現実。そんな、日常。
私は、噛み締める。貴方に出会えて、貴方を愛して、貴方と共に呼吸し続けている今を、私は噛み締める。
すると、私の瞼からはやっぱり、涙が留めなく溢れてきた。
でも、何でだろう。なんで私、こんなに心の奥底から、笑えているんだろう?不思議でしょうがないよ。
そんな私を見て、貴方は、ふと微笑み、そして何度も何度も、私の唇に、口付けをしてみせる。
やはり、キミを手放してしまう事は、どうも僕には出来無いらしい。
すまないね、もうちょっとだけ、僕に付き合ってておくれよ。
大好きな、キョン。
最終更新:2007年12月29日 00:36