こんな風に、岬さんが家を訪ねて来るのは、もう何度目だろう。
来客用のカップを暖めながら、天道樹花はふと思った。
明るい陽の光が差し込むリビングのソファには、先日より綺麗にメイクした岬祐月が座っていた。
「お待たせしました」
暖かい湯気の立つコーヒーを、岬の前に差し出す。
今日も岬はきっと「これも仕事なの」と前置いた後、兄がいなくなった時の様子を訊ねるのだろう。
兄が帰って来るまで、同じ質問が繰り返される。
樹花はそう思っていた。
見覚えのある文字で書かれた一枚の手紙と、それを差し出した岬の悲痛な表情を眼にするまでは……
「やっぱり、兄はもう帰って来ないんですね」
樹花は手紙を見つめたまま言った。
「やっぱりって、何か思い当たる事があったの?」
「離れている時は、もっと側にいる。今までも、そう言って家を開ける事はありました。だけど、今度は何となく違うと思ってました」
兄である
天道総司が帰って来ないと思ったのは、何時からだったろう。
学校の友達がワームだった時?二、三日前自宅の付近にワームが現れた時だったか?
新聞やニュースだけでなく、樹花の周りでもワームによる襲撃は、数え切れないほど起きていた。
その度に樹花を救ったのは、岬や蓮華、ZECTのメンバーであり、兄は助けに来なかった。
兄だけでなく、その友人や、樹花も慕っていたひよりも忽然と姿を消している。
本当は、岬が訪ねて来ることも、何か重大な事件にでも巻き込まれた証拠なのだと思っていた。
兄以外の誰かに助けられ、兄のいないリビングで膝を抱え、時が止まってしまったように長い夜を過ごす。
一人で過ごす寂しい夜が「もう帰っては来ない」と樹花に語りかける。
唯一出来る精一杯の抵抗は、朝、誰もいないリビングに向かい「お兄ちゃん。おっはよう!」と以前と変わらず声を掛ける事だけ……
そうしなければ、兄が二度と帰って来ないと認めることになる気がしたからだった。
だが、岬から見せられた「樹花を頼む」と締めくくられた手紙は、もうそれすらも必要ないと物語っていた。
樹花は必死に続けていた抵抗をやめなければならない。
大好きな兄の死を認める、人生で一番悲しい瞬間。
「なんとなく分かっていたんです。お兄ちゃんがもう帰ってこないのが……
なのに、おはようがやめられなくて、おはようって言い続けてたら、またお兄ちゃんが、おはよう樹花って……
お味噌汁を片手に、キッチンで笑って立っているような気がして……」
大粒の涙が頬を伝う。
一人きりになってから、ずっと我慢していた涙を諦めと言う心が開放した。
「あれ?おかしいな?泣かないって決めてたのに、なんで涙が出るんだろう……
だって、私が泣く時は、いつもお兄ちゃんが側にいてくれたから。
ツラくて悲しくて泣いてるのに、お兄ちゃんがいなかったら……お兄ちゃん、私どうしたらいいかわからないよ」
いつも涙を拭いてくれた兄の暖かい手は無く、零れ落ちた涙は、樹花の細い指先を濡らして行くだけだった。
∮
二日後、岬は再び樹花を訪ねた。
丸二日何も口にしていないのは顔を見ればわかる。ふっくらしていた頬が少し小さくなった。
渋る樹花を車に押し込み、Bistro la Salleへ車を走らせた。
岬がSalleへ行くのは、今週に入って三度目になる。一度目は天道の手紙を見せるため、二度目は樹花に会った直後。
一度目は、田所チームへ上からの命令だ。
ZECTは『この手紙は天道が死後届いた物で、別の時空といった記述は何かを示唆する意図の物である。
ワームの協力者等の犯罪組織に拉致され救出不可能な場所におり、生存、帰還の可能性は無い』と言う見解を出した。
矢車と加賀美については、すでにZECT本部からそれぞれもっとも近い間柄の者に連絡が行っている筈だった。
神代剣に関しては彼が死亡している事で、関係者に伝えるか否か、ZECT内で意見が分かれた。
じいやは今、ディスカビル家再興のためZECTに雇われている。
エリアZに程近い一角で衛生班と共に傷ついたZECTの隊員や、ワームによって瓦礫と化した街で、家を追われた人達の食事の世話をしてくれている。
ZECTの関係者である事、岬が自らじいやに伝えると志願したので、田所が上にその意見を通した。
ひよりについては、両親を亡くしているため、弓子が一番肉親に近い者として選ばれた。
そうして、失踪したひよりと天道、神代の関係者に手紙を見せ、事実を知らせるのは岬の仕事となった。
――辛い仕事になる。
田所にも言われたが、本当にそう実感したのは、通いなれたBistro la Salleの前に立った時だった。
愛する者を失う悲しみ。
岬自身も、痛い程よく分かっている。
実際、風間大介に手紙を見せられた時、人目も憚らず岬は泣いた。
なぜ、剣が死してなお戦わなければならなかったか。
加賀美や天道、ひよりまで、なぜ連れ去られてしまったのか?
彼らは、どれだけ苦しんで逝ったのだろう。
残された者は『なぜ?』という行き場の無い思いを、一生背負い生きなければならない。
だからと言って伝えなければ、彼らは一生待ち続けている。
『いつか帰ってくるかもしれない』と何の根拠もなく……
意を決して岬はドアを開けた。
閉店前の時間だったため、他に客は見当たらなかったが、弓子は後片付けで一人忙しく働いていた。
以前は、天道に張り付いた蓮華が片付けを手伝っていた。
だが、天道がいない今、ZECTが蓮華を遊ばせておく訳がなく本部に呼び戻された。
弓子を手伝う者はいない。
岬に気が付いた弓子が片付けの手を止め、笑顔で迎えてくれた。
「忙し時間にすみません。一人じゃ大変そうですね。誰かバイト入れたりしないんですか?」
「それも考えたんだけどね~加賀美君。まだ、仕事休んでるんでしょ?普通ならクビよね。
本業も首になって、バイト先も無くなっちゃったら困るかな~なんて思って……
ひよりちゃんも荷物置きっ放しだし。二人とも帰って来る場所がないと可哀相でしょ?」
言葉に詰まる。
いつも二人を温かく見守ってきた弓子には、知らせなければならない。だが、そんな弓子だからこそ、受ける痛みは計り知れない。
一呼吸置き、弓子と向き合った。
「弓子さん。
加賀美新と
日下部ひよりの行方について、あなたにお伝えしなければならないことがあります」
いつになく真剣な岬に、弓子の表情が曇る。
岬の言葉を、一つ一つかみ締めるように、時折頷きながら弓子は聞いていた。
手紙を受け取り読み終えると長い長い沈黙の後、がっくりと肩を落とした。
「そうか……あの子たち、もう帰って来ないんだね。新しく揃いのエプロン買っちゃったんだけど、どうしようかな……」
厨房の隅にリボンの掛けられた包みを見ながら寂しそうに呟いたのは忘れられない。
そして帰り際に言われた弓子の言葉も……
「辛い仕事だったね。岬さん。私に教えてくれてありがとう。皆でしっかり樹花ちゃん励ましてあげよう。
加賀美君もひよりちゃんも、きっとそれを願ってると思うから」
とても勇気づけられた一言だった。
影山や風間達が戦ってくれているお陰で身体的な危険はそれ程心配ない。
心配なのは心のケアだ。
(私にそれが出来るの?大したことは出来ない。けれど、一緒に前に進もう)
自問自答を重ね、岬は答えを出した。
二度目は、じいやと共に樹花を元気付ける計画を練るため。
じいやに告げた時、「きっと、ぼっちゃまもそれを望んでいらっしゃるでしょう……」と弓子と同じ答えをくれた。
そして、今日は計画を実行する。
Salleに着くと、店の外まで良い香りがしていた。
昨日からじいやと弓子が、腕によりを掛けて樹花のために用意してくれた食事の香りだ。
戸惑う樹花の手を引き店内に入ると、弓子が明るい声で迎えてくれた。
久しぶりに誰かと食べる食事は、岬にとっても楽しい物だった。
樹花もそうなのか、少しずつだが口に運び会話にも答えてくれる。
弓子も安心したのだろう。さっきまでは厨房からしきりに様子をのぞいていたが、今は姿が見えない。
「じいやさんと弓子さんが、作ってくれたんですよね。じいやさんは?」
「残念だけど仕事なの。じいやさん、剣君の遺志を継いでディスカビル家再興のためにZECTで仕事してるのよ。
仕事と言っても、一般の人たちのために炊き出ししたり隊員の食事を作っていて、材料費を考えたらボランティアのようなものね」
そう言って、デザートの最後の一口を食べ終わった時、弓子が厨房から出てきた。
「樹花ちゃん。これ貰ってくれないかな?
ひよりちゃんのために用意してたものなんだけど、樹花ちゃんが使ってくれたら喜ぶと思うの」
弓子は白いエプロンの入った包みとノートを樹花の前に置いた。
一緒に手渡されたノートを、そっと一枚一枚めくる。
ノートに綴られた一品一品からは、ひよりの料理に対する愛情という思いに満ち溢れていた。
一緒にノートをめくる岬の指先へも、その暖かさが伝わってくる。
樹花の表情が和らいでいく。
最後の1ページを読み終えた樹花の目には涙が滲んでいた。
「最後のレシピ、まだ完成してないんですね」
「それは、樹花ちゃんにお願いしようかな?いつか完成させてね。天道君の妹だものきっと出来るわ」
樹花は答えなかった。ただ『天道の妹』その言葉が誇らしいのか、はにかんだ笑顔を見せた。
健気で可愛い。
岬も無意識に微笑んでいた。
(天道君、これね。あなたの守りたかったのは……でも、あなたもこの笑顔に救われていたんじゃない?)
岬はそっと樹花の肩を抱き寄せ言った。
「笑ってなさい。渋谷隕石で両親を亡くした天道君も、あなたの笑顔でどれだけ救われたことでしょうね。だから笑ってなさい」
岬の腕の中で、樹花が大きく頷いた。
食事を終えた樹花は、ひよりのエプロンを着け、後片付けを手伝った。
岬が車を表に着けるとノートとエプロンを大事そうに抱え、弓子にぺこりと頭を下げ助手席に乗り込んだ。
「気をつけて帰ってね。また、いつでもいらっしゃい。待ってるから」
手を振りながら弓子は、今日は綺麗にメイクしてたのね。と一言付けたし岬をからかった。
岬はあわてて否定する。
「あぁ、これですか?メイクなんていらないって言ってるのに、風間大介が無理やりしていったんです?
でも、鏡を見て反省しました。泣き腫らしたひどい顔してたんだなぁって。あんな顔してたら、剣君が眠れないでしょうから……」
そう言って髪をかきあげる岬の前より細くなってしまった手首で、銀のブレスが光っていた。
帰りの車中で先に口を開いたのは樹花だった。
「じいやさんのお手伝い、しちゃダメですか?」
「どうして?あそこは危険だし……料理がしたいなら、Salleじゃだめなの?」
どちらも学生である樹花を雇う訳にもいかないが。
真意を訪ねるため岬は問い返した。
「祖母が言ってました。 受けた恩は山盛り一杯返しなさいって。今日私がして貰ったように、
ワームのせいで家族がバラバラになった人たちの力になりたいんです。私、誰かを幸せにする料理を作ってみたい」
お祖母ちゃんが言っていた、久しぶりに聞いた台詞が岬の心に少し痛い。
「わかったわ。お給料の出ないボランティアになるけど、私が非番の時ならいいわよ。ボディガードになるから」
「やったぁ!」
もとよりゼクトに非番などないが、田所なら理解してくれるだろう。
「じゃあ、日曜日に」
「はい!今日は、ありがとうございました」
そう約束を交わし、樹花は車を降りた。
笑顔が戻った事に安堵する岬の頬を、サイドミラーに映った太陽が照らした。
(大丈夫よ、天道君。私があの子の笑顔を守るから)
岬に答えるように太陽が煌いた。
∮
日曜日、いつもより早く眼を覚ました樹花が、バタバタと階段を駆け下りてくる。
ひよりのノートをめくりながら簡単な朝食を済ませ、白いエプロンをバックに詰め込む。
燦燦と輝く太陽を仰ぎ(お兄ちゃん。行ってきます!)と心の中で声を掛けた。
眩しい朝の光の中を樹花は走る。
――美味しい料理を作ろう。
どんな時でも希望が持てるように、辛い人生も変えてしまうぐらい、とびっきりの料理を。
ひよりさんの残してくれたノートと、お兄ちゃんがくれた『愛情』と言うレシピで……
最終更新:2020年12月29日 02:58