彼のことを考えると、とても胸が熱くなる。これが恋ということはわかっているんだけど、どこかそれを認めたくない自分がいる。そんなことを考えていると、いつも彼は私の顔を覗きながら「どうしたの?」と疑問半分、心配半分といった気持ちで聞いてくる。そしてそれに対して、私はいつも「別に」とそっぽを向きながら、赤く染まった顔を見せたくなくてそう答える。
だけれど、その日は違った。なぜだろうか? 考えてみてもわからない。なぜか、その時私は、彼の困った顔を見てみたいと、どうしてか思ってしまった。
ボーダーラインを自分から踏み越えてみたいと、そう思ったのだ。
だけれど、その日は違った。なぜだろうか? 考えてみてもわからない。なぜか、その時私は、彼の困った顔を見てみたいと、どうしてか思ってしまった。
ボーダーラインを自分から踏み越えてみたいと、そう思ったのだ。
「……先輩。私と付き合ってくれませんか?」
*
井筒と綾坂があれから、猫の殺害現場に行ってみると、近くのベンチでうずくまった綾瀬結先輩を発見した。するとすぐに、井筒が彼女の傍に駆け寄り、呼びかけた。
「先輩! 大丈夫ですか! 怪我はありませんでしたか!?」
「わた、わたし、私は、何ともないの。でも、でもね、猫ちゃんが。猫ちゃんがね」
話しかけられた綾瀬はゆっくりと涙でぐちゃぐちゃになってしまっている顔をあげた。その必死な様子は、誰しも見てて胸が痛む光景だろう。もう見ていられなくなったのか井筒は、
「落ち着いてください。先輩。もう大丈夫ですから」
そういって、両腕でやさしく綾瀬を抱き寄せた。その腕の中で綾瀬は安心した所為もあるのだろう、うっぐ、うっぐ、とすすり泣き始めてしまった。どれくらいの時間がたったのだろうか。いつしか綾瀬はスースーと井筒の腕の中で心地良さそうに寝息を立てていた。
当然ながら、通りかかる人々がその二人の光景を訝しんでいたが、井筒は決して構うことをせず、綾瀬を抱き上げて綾坂に抱き渡しながら、ゆっくりだがしっかりした口調で綾坂に頼み込んだ。
「すまん。綾坂。綾瀬先輩を頼めるか?」
「それは別に構わねえけど、実際どうするんだ? これから。これはお前がさっき言ったようにもう刑事事件のたぐいだ。一介の学生が突っ込んでいい領域を超えちまってるぜ」
「安心しろ。その事件といま俺が追ってる事件は無関係だ。だから俺は関わらない」
それは普段とは違ったぞっとするような冷たい声音。その様子に綾瀬は思わずたじろぎながら、井筒に再度問いかけた。
「ど、どういうことだ? 何で無関係だって断言できるだよ」
「手口がこれまでと違いすぎるんだ。これまでは犬に対して切りつけたといっても、話を聞く限りじゃほんの小さな傷だし、猫には猫除けの水を使ったりしていた。まるで猫は傷つけたくない、と言わんばかりにね。ところが今回はその猫を無残に殺してる。これは明らかな矛盾だ」
「そ、それはそうかもしれないけど、犯人が突然心変わりしたかも知れないじゃないか。それに、だ。犬を切り付けた事件と猫除けの事件が同一犯だって決めつけるのは、早計だろ」
「まあな。否定はしない」
そういって井筒は肩をすくめた。その表情には一切の悔しさも見られず、むしろ言われて当然といったようなものである。
「直感だけどな。関係無いって感じがしたんだ。それに猫の死体はあの電話に出た野郎に持っていかれてるし、調べようが無い。そして現場を見る限り、血すら一滴もない。だから気にするだけ無駄ってことさ」
「あ、ああ。まあそうだな。それじゃあこの先輩を介抱したら、俺も手伝うよ」
そう綾坂は申し出たが井筒は、首を横に振った。
「それよりも綾瀬先輩を見ててくれるか。多分見た光景はトラウマになるほどだと思うから、見知った顔が傍にいてくれれば心強く感じるだろうからな」
お前にしか頼めないんだよ、そう続けて井筒は説得をすると綾坂も渋々といった様子で承諾し、未だ何か言いたげな綾坂に背を向けて井筒は二人と別れた。その足は迷うことなく再びサークル会館のほうへと向かっている。
「悪いな。綾坂。こうでも言わないと、お前の事だから付いてきかねないからな。
……もう先輩みたいに、俺のせいで巻き込まれてしまった被害者が出て欲しくないんだよ」
その悲痛な叫びにも似た声は周囲の雑踏の波にのまれて、誰にも届く事は無かった。
「先輩! 大丈夫ですか! 怪我はありませんでしたか!?」
「わた、わたし、私は、何ともないの。でも、でもね、猫ちゃんが。猫ちゃんがね」
話しかけられた綾瀬はゆっくりと涙でぐちゃぐちゃになってしまっている顔をあげた。その必死な様子は、誰しも見てて胸が痛む光景だろう。もう見ていられなくなったのか井筒は、
「落ち着いてください。先輩。もう大丈夫ですから」
そういって、両腕でやさしく綾瀬を抱き寄せた。その腕の中で綾瀬は安心した所為もあるのだろう、うっぐ、うっぐ、とすすり泣き始めてしまった。どれくらいの時間がたったのだろうか。いつしか綾瀬はスースーと井筒の腕の中で心地良さそうに寝息を立てていた。
当然ながら、通りかかる人々がその二人の光景を訝しんでいたが、井筒は決して構うことをせず、綾瀬を抱き上げて綾坂に抱き渡しながら、ゆっくりだがしっかりした口調で綾坂に頼み込んだ。
「すまん。綾坂。綾瀬先輩を頼めるか?」
「それは別に構わねえけど、実際どうするんだ? これから。これはお前がさっき言ったようにもう刑事事件のたぐいだ。一介の学生が突っ込んでいい領域を超えちまってるぜ」
「安心しろ。その事件といま俺が追ってる事件は無関係だ。だから俺は関わらない」
それは普段とは違ったぞっとするような冷たい声音。その様子に綾瀬は思わずたじろぎながら、井筒に再度問いかけた。
「ど、どういうことだ? 何で無関係だって断言できるだよ」
「手口がこれまでと違いすぎるんだ。これまでは犬に対して切りつけたといっても、話を聞く限りじゃほんの小さな傷だし、猫には猫除けの水を使ったりしていた。まるで猫は傷つけたくない、と言わんばかりにね。ところが今回はその猫を無残に殺してる。これは明らかな矛盾だ」
「そ、それはそうかもしれないけど、犯人が突然心変わりしたかも知れないじゃないか。それに、だ。犬を切り付けた事件と猫除けの事件が同一犯だって決めつけるのは、早計だろ」
「まあな。否定はしない」
そういって井筒は肩をすくめた。その表情には一切の悔しさも見られず、むしろ言われて当然といったようなものである。
「直感だけどな。関係無いって感じがしたんだ。それに猫の死体はあの電話に出た野郎に持っていかれてるし、調べようが無い。そして現場を見る限り、血すら一滴もない。だから気にするだけ無駄ってことさ」
「あ、ああ。まあそうだな。それじゃあこの先輩を介抱したら、俺も手伝うよ」
そう綾坂は申し出たが井筒は、首を横に振った。
「それよりも綾瀬先輩を見ててくれるか。多分見た光景はトラウマになるほどだと思うから、見知った顔が傍にいてくれれば心強く感じるだろうからな」
お前にしか頼めないんだよ、そう続けて井筒は説得をすると綾坂も渋々といった様子で承諾し、未だ何か言いたげな綾坂に背を向けて井筒は二人と別れた。その足は迷うことなく再びサークル会館のほうへと向かっている。
「悪いな。綾坂。こうでも言わないと、お前の事だから付いてきかねないからな。
……もう先輩みたいに、俺のせいで巻き込まれてしまった被害者が出て欲しくないんだよ」
その悲痛な叫びにも似た声は周囲の雑踏の波にのまれて、誰にも届く事は無かった。
*
彼がいてくれることが当たり前だと思った。彼さえいててくれれば、まるで砂漠にも似た荒んだ心は自然と平穏が訪れた。彼と一緒にいるだけで、ただただ楽しく心が洗われた。彼を一目見ただけで不思議と笑みがこぼれた。
彼と出会ってから知ったさまざまな感情が激流となってこみあげてくる。もはや決壊してしまったボーダーラインはダムの役割を果たさない。
彼を求める思いが制御できない。抑えられない。蓋をしてもあふれ出てくる。
そんな状態が何日続いただろうか。あるときその私の激情の川の氾濫は唐突にして堰き止められた。そして水の中に毒を盛り込んできた。他でもないあいつの手によって…………。
彼と出会ってから知ったさまざまな感情が激流となってこみあげてくる。もはや決壊してしまったボーダーラインはダムの役割を果たさない。
彼を求める思いが制御できない。抑えられない。蓋をしてもあふれ出てくる。
そんな状態が何日続いただろうか。あるときその私の激情の川の氾濫は唐突にして堰き止められた。そして水の中に毒を盛り込んできた。他でもないあいつの手によって…………。
*
まずは、情報の整理を始めよう。今は木曜日の午後一時。久賀千景さんが脅迫、じゃなかった依頼をしてきた時が二日前の火曜日。そして綾瀬先輩がぽーちゃんとかいう野良犬の怪我を見つけたのが今週に入ってかららしいから、恐らく月曜日だろう。そして猫除けの水が置かれるようになったのが、約一週間前からだって倉田は言っていた。そして今日の惨殺死体と電話に出た正体不明の男。
「一番最後の二つは恐らく今回の俺が追っている件とは関係ないだろうが、ここ一週間で不自然なことが起こりすぎだ……。なんだよこれは。まるで体は子供、頭脳は大人な奴がこの学校に来たみたいじゃないか……」
思わず頭を抱えてしまったが、本来の目的である思考の整理を遂行させる。
「まず事件自体が有名になってないから、注目を集めたい模倣犯の疑いは限りなく低い。さら集団でやったにしてもやっていることが意味不明すぎる。と、なるとこれはやった奴はここの大学生で、単独か二人の線が濃厚だろうな。それも目的は自分の鬱憤を晴らしたいとか、感情のはけ口として、だろう。そうでもないとこんな理解できない行動を、わざわざ地方の大学校内でやる必要がない」
ぶつぶつと言いながら、井筒は大学の厚生食堂の裏口の壁に背中を押しつけている。目の前にはサークル会館が見える形だ。当然通る人々は奇異の目線で見てくるが井筒は気にすることなく、というか気づくことなく自分の考えを整理していく。そんな井筒を見る人々もこいつならしょうがないか、といったように見なかったことにしている人が大半だ。いかに井筒が変人であるかが、大学内で浸透しているかがわかる光景である。
「そうなると、ここ一週間で変化があったことを片っ端から聞いて回るか。うん、それが一番手っ取り早いな」
「あらあら、相変わらず奇妙なことをしているのですね。井筒君」
自分の中で行動の指針を決め、今まさに行動しようとした矢先の井筒の前に女性が現れた。その女性は長髪で黒髪、そしてスレンダーな体型はまさに凛としたといった表現が当てはまるだろう。しかし柔和な笑みを浮かべながらもどこかその眼には鋭利さを孕んでいる、それはまるで観察されているかのように感じるのは気のせいではないだろう。それを知ってか知らずか、井筒は安心したかのように、「なんだ。黒曜先輩ですか」と声をかけた。
「なんだとは失礼ですね。それに翼先輩でいいと言っているでしょう」
「ああ、失礼しました。黒曜翼先輩」
黒曜翼と呼ばれた女性は、なんでフルネームで呼ぶんですかー、とぷくーと頬を膨らせてみせた。どこか演技がかかったその仕草も彼女がやるとどこか品がある。そして、そんなことよりと居住まいを正し、改めて井筒に向き合った。
「また、何かあったんですか? 井筒君?」
また、の辺りにアクセントがあった聞き方だった。それに構うことなく井筒は質問に答えた。相変わらずキャラがわからないなーと思ったのは秘密にして。
「ええ、詳しいことは説明できないんですが、ここ最近一週間以内で何かおかしなこと起こりませんでしたか?」
「おかしなこと、と言われましてもねえ」
そういって黒曜は口元に手を当てた。深く問いただそうとしないあたり、黒曜も井筒の所業には慣れているのだろう。
「この大学内か周辺で起こったことですよ」
そう井筒が付け足すと、すっと黒曜の目が細められそっと囁くように言った。ありますよ、と。それはどこか感情を押し殺したような声だった。
「ほ、本当ですか、いつ、なにが起こったんですか?」
思わぬ言葉に井筒は驚きを隠しきれず、矢継ぎ早に尋ねた。黒曜の異変に気付くことなく。だが気づかないのも無理はない。次に口を開いたときは黒曜は普段の様子のままだったのだから。
「ちょうど一週間前の夜だったかしら。男女が口論していました。夜だったので誰かはわかりませんでしたが、口論というよりも女性の方が一方的に攻めていたようでしたわ。関わり合いたくなかったのでその場は見なかったことにしました」
そこまで聞いて、おや、と井筒は違和感を感じたがそれがなんなのかはわからなかった。とりあえず今回の事件とは関係なさそうだな、と思ったが念のためにという気持ちで深く追求した。
「それは場所はどこでしたか?」
「サークル会館のそばの駐車場かしらね。木の茂みに覆われているところ」
ちょうどあそこだったわ、と黒曜はピッと井筒から向かって右斜め前方を指差した。言っていたようにそこは木々が茂っている。
それを聞いた井筒は、またサークル会館がらみか、とぼそりと黒曜に聞こえないように呟いた。
「ありがとうございます。黒曜先輩。参考になりました。他には何かありませんでしたか?」
「……他はビルの幽霊騒ぎくらいですね」
黒曜は少し考えるようにして言った。
「ビルの幽霊騒ぎ? どこかで聞いたような」
「それはもうそこそこ有名ですもの。一週間前位から深夜のビルの屋上で人が立っているのが見えるんですって。それも一人や二人じゃなく、多くの人が目撃しているそうですよ」
「へえ……。先輩も見たんですか?」
そう井筒が聞くと、いえ、とさも残念そうに黒曜は頭を振った。
「残念ながら見ていないんですの。私は西千葉の駅前をあまり通りませんから」
「ああ、西千葉駅周辺で起こってるんですか」
「そうですよ。まさか知らなかったんですか!? あの駅前の裏通りですよ」
黒曜は信じられないといった表情で、眼を剥いて抗議するように井筒に畳み掛けた。
「そ、そうなんですか。裏通りっていうと……西千葉駅の北口から出てドテールの店の前をそのまままっすぐ行った通りの事ですか?」
黒曜の剣幕に少し気圧されたように井筒は声を出した。
「そうですよ。まったく。いつもトラブルの中心にいる井筒君とは思えませんね」
「……はい。なんかスイマセン」
「そんなことよりも、やっぱりまたトラブルを抱えているんですね」
今度は驚きや呆れとも違い、黒曜の瞳にはどこか優しさがあり言葉には労りと悲しみが込められていた。
「スイマセン」
井筒はそんな黒曜の気持ちを申し訳なく思ったが、出たのは事情を説明するものではなくある種拒絶を意味する謝罪であった。
「謝ってばかりの男は嫌われますよ。もういいです。井筒君のそういうところは慣れていますから」
「………………」
井筒は視線を下に落とし何も答えない。そんな井筒を見て黒曜は冷たい言葉を浴びせる。
「倉田ちゃんがあなたのことを嫌いになるのも道理ですよ」
「…………厳しいっすね。先輩」
「同じバイト先の先輩としての忠告と同じ女としての怒りをこめましたから」
「……その想いは重いですね」
「その冗談はつまらないです。そしてこれは、私、黒曜翼個人としての助言です。教育学部小学校教員養成課程国語科選修1年生にさっきと同じような話をしてみなさい」
「え? それはどういう」
「それではごきげんよう。井筒君」
言うだけ言うと満足したのか黒曜は優雅に一礼してその場を去っていった。井筒は狐につままれたような気分になりながらも、さっきの言葉を頭の中で思い出そうとしたが、残念ながら1年てことしか覚えていなかった。自分の記憶力に絶望しながらも、とりあえずサークル会館付近の事件とビルの幽霊騒ぎを中心にして聞き込みを続けることにした。
「一番最後の二つは恐らく今回の俺が追っている件とは関係ないだろうが、ここ一週間で不自然なことが起こりすぎだ……。なんだよこれは。まるで体は子供、頭脳は大人な奴がこの学校に来たみたいじゃないか……」
思わず頭を抱えてしまったが、本来の目的である思考の整理を遂行させる。
「まず事件自体が有名になってないから、注目を集めたい模倣犯の疑いは限りなく低い。さら集団でやったにしてもやっていることが意味不明すぎる。と、なるとこれはやった奴はここの大学生で、単独か二人の線が濃厚だろうな。それも目的は自分の鬱憤を晴らしたいとか、感情のはけ口として、だろう。そうでもないとこんな理解できない行動を、わざわざ地方の大学校内でやる必要がない」
ぶつぶつと言いながら、井筒は大学の厚生食堂の裏口の壁に背中を押しつけている。目の前にはサークル会館が見える形だ。当然通る人々は奇異の目線で見てくるが井筒は気にすることなく、というか気づくことなく自分の考えを整理していく。そんな井筒を見る人々もこいつならしょうがないか、といったように見なかったことにしている人が大半だ。いかに井筒が変人であるかが、大学内で浸透しているかがわかる光景である。
「そうなると、ここ一週間で変化があったことを片っ端から聞いて回るか。うん、それが一番手っ取り早いな」
「あらあら、相変わらず奇妙なことをしているのですね。井筒君」
自分の中で行動の指針を決め、今まさに行動しようとした矢先の井筒の前に女性が現れた。その女性は長髪で黒髪、そしてスレンダーな体型はまさに凛としたといった表現が当てはまるだろう。しかし柔和な笑みを浮かべながらもどこかその眼には鋭利さを孕んでいる、それはまるで観察されているかのように感じるのは気のせいではないだろう。それを知ってか知らずか、井筒は安心したかのように、「なんだ。黒曜先輩ですか」と声をかけた。
「なんだとは失礼ですね。それに翼先輩でいいと言っているでしょう」
「ああ、失礼しました。黒曜翼先輩」
黒曜翼と呼ばれた女性は、なんでフルネームで呼ぶんですかー、とぷくーと頬を膨らせてみせた。どこか演技がかかったその仕草も彼女がやるとどこか品がある。そして、そんなことよりと居住まいを正し、改めて井筒に向き合った。
「また、何かあったんですか? 井筒君?」
また、の辺りにアクセントがあった聞き方だった。それに構うことなく井筒は質問に答えた。相変わらずキャラがわからないなーと思ったのは秘密にして。
「ええ、詳しいことは説明できないんですが、ここ最近一週間以内で何かおかしなこと起こりませんでしたか?」
「おかしなこと、と言われましてもねえ」
そういって黒曜は口元に手を当てた。深く問いただそうとしないあたり、黒曜も井筒の所業には慣れているのだろう。
「この大学内か周辺で起こったことですよ」
そう井筒が付け足すと、すっと黒曜の目が細められそっと囁くように言った。ありますよ、と。それはどこか感情を押し殺したような声だった。
「ほ、本当ですか、いつ、なにが起こったんですか?」
思わぬ言葉に井筒は驚きを隠しきれず、矢継ぎ早に尋ねた。黒曜の異変に気付くことなく。だが気づかないのも無理はない。次に口を開いたときは黒曜は普段の様子のままだったのだから。
「ちょうど一週間前の夜だったかしら。男女が口論していました。夜だったので誰かはわかりませんでしたが、口論というよりも女性の方が一方的に攻めていたようでしたわ。関わり合いたくなかったのでその場は見なかったことにしました」
そこまで聞いて、おや、と井筒は違和感を感じたがそれがなんなのかはわからなかった。とりあえず今回の事件とは関係なさそうだな、と思ったが念のためにという気持ちで深く追求した。
「それは場所はどこでしたか?」
「サークル会館のそばの駐車場かしらね。木の茂みに覆われているところ」
ちょうどあそこだったわ、と黒曜はピッと井筒から向かって右斜め前方を指差した。言っていたようにそこは木々が茂っている。
それを聞いた井筒は、またサークル会館がらみか、とぼそりと黒曜に聞こえないように呟いた。
「ありがとうございます。黒曜先輩。参考になりました。他には何かありませんでしたか?」
「……他はビルの幽霊騒ぎくらいですね」
黒曜は少し考えるようにして言った。
「ビルの幽霊騒ぎ? どこかで聞いたような」
「それはもうそこそこ有名ですもの。一週間前位から深夜のビルの屋上で人が立っているのが見えるんですって。それも一人や二人じゃなく、多くの人が目撃しているそうですよ」
「へえ……。先輩も見たんですか?」
そう井筒が聞くと、いえ、とさも残念そうに黒曜は頭を振った。
「残念ながら見ていないんですの。私は西千葉の駅前をあまり通りませんから」
「ああ、西千葉駅周辺で起こってるんですか」
「そうですよ。まさか知らなかったんですか!? あの駅前の裏通りですよ」
黒曜は信じられないといった表情で、眼を剥いて抗議するように井筒に畳み掛けた。
「そ、そうなんですか。裏通りっていうと……西千葉駅の北口から出てドテールの店の前をそのまままっすぐ行った通りの事ですか?」
黒曜の剣幕に少し気圧されたように井筒は声を出した。
「そうですよ。まったく。いつもトラブルの中心にいる井筒君とは思えませんね」
「……はい。なんかスイマセン」
「そんなことよりも、やっぱりまたトラブルを抱えているんですね」
今度は驚きや呆れとも違い、黒曜の瞳にはどこか優しさがあり言葉には労りと悲しみが込められていた。
「スイマセン」
井筒はそんな黒曜の気持ちを申し訳なく思ったが、出たのは事情を説明するものではなくある種拒絶を意味する謝罪であった。
「謝ってばかりの男は嫌われますよ。もういいです。井筒君のそういうところは慣れていますから」
「………………」
井筒は視線を下に落とし何も答えない。そんな井筒を見て黒曜は冷たい言葉を浴びせる。
「倉田ちゃんがあなたのことを嫌いになるのも道理ですよ」
「…………厳しいっすね。先輩」
「同じバイト先の先輩としての忠告と同じ女としての怒りをこめましたから」
「……その想いは重いですね」
「その冗談はつまらないです。そしてこれは、私、黒曜翼個人としての助言です。教育学部小学校教員養成課程国語科選修1年生にさっきと同じような話をしてみなさい」
「え? それはどういう」
「それではごきげんよう。井筒君」
言うだけ言うと満足したのか黒曜は優雅に一礼してその場を去っていった。井筒は狐につままれたような気分になりながらも、さっきの言葉を頭の中で思い出そうとしたが、残念ながら1年てことしか覚えていなかった。自分の記憶力に絶望しながらも、とりあえずサークル会館付近の事件とビルの幽霊騒ぎを中心にして聞き込みを続けることにした。
そんな井筒の後ろ姿を暖かい目で見ながら、黒曜はぽつりと言葉を残した。
「そろそろ動き出しますか。楽しい楽しいお茶会の為に用意しておかなくてはなりませんね」
*
あいつにさえ出会わなければ。あいつにさえ遭遇しなければ。私と彼はどうなっていただろう。互いに何も変わることなく変化を望むことなく、そのままの関係でいられただろう。
「それが幸せなのか? それは本当に恋愛しているといえるのかな? 君の一方的な感情を相手に押し付けてそれで満足なのか」
あいつに言われたことが耳の中で反響する。いやだいやだいやだいやだ。
そんな私を慰めようとするように足元で、にゃーと猫がまとわりつく。こいつさえいなければ。元からあったボーダーラインをまた構築さえすれば私は…………。
「それが幸せなのか? それは本当に恋愛しているといえるのかな? 君の一方的な感情を相手に押し付けてそれで満足なのか」
あいつに言われたことが耳の中で反響する。いやだいやだいやだいやだ。
そんな私を慰めようとするように足元で、にゃーと猫がまとわりつく。こいつさえいなければ。元からあったボーダーラインをまた構築さえすれば私は…………。
知らず知らずのうちにあいつに誘導されているとは思いもせずに。私はボーダーラインを引いていった。もはやそれは境界というよりも段差であると気付いた時には引き返すことなど出来なくなっていた…………。