――やはり、おかしい。
気のせいではない。いつものこいつより明らかに能力が上がっている。パワー、スピード、そして再生能力。
つい先程根元から斬り飛ばした指がすでに半ばまで再生しているのが見えたときは、さすがのクロスも驚きを禁じ得なかった。
加えて様子もおかしい。こいつはもともと馬鹿ではあるが、人間として最低限の知性はあったはずだ。
今日のこいつからはそれがまるで感じられない。いくら激怒しているとて、言葉までなくすようなことがあるだろうか。
これではまるで狂戦士【バーサーカー】ではないか。
度重なる斬撃に構わずファングの右腕が大きく引かれ、筋肉が肥大化するのが見えた。
次に来るのは恐らく超高速の横薙ぎ。直撃=即死の一撃。一流のエージェントであるクロスは、その極めて危険な状況を好機と見る。
身を硬くしたところで防御は不可能、ならば身構えず全身を柔らかく。神経を最大限に研ぎ澄ます。
…来る!!
直後眼前に迫りくる剛腕。銃弾すら超えよう速度にクロスは完璧に反応する。
予想以上の速さ、だが躱せるっ!
腕の軌道を見極め上体を大きくのけ反らすと、鼻先数ミリを通過する致死の剛腕。感じる、空気の焦げ付く臭い。
空間に取り残された一筋の銀髪が、その爪に触れて千切れ飛ぶ。
脅威の一撃を間一髪回避したクロスの目に映るは、腕の勢いに引かれるファングの無防備な背面。
視認と同時に体勢を低くその足元に踏み込む。
クロスの狙いは一つ。ファングを空中へ蹴り上げ『slow』――空中の物体の時間を約1000倍遅くする能力――で無力化する。
通常、鍛えているとはいえ標準的な女性のクロスに、体重100キロを超える獣化ファングを蹴り上げるのは難しい。
だが基本的に前傾姿勢のファングは常に重心が前面にある。ならば無防備な背面から全力を込めて蹴り上げれば、少しでも空中に浮かせることは可能なはず。
そうクロスは踏んでおり、それは間違っていなかった。戦闘は終了していたのだ。そのまま蹴ることができたのであれば。
「うっ!?」
踏み込んだ左足と同時に左手も地面につき右足を付き上げるその直前、黒い何かが両目を叩き一瞬視界が奪われる。
クロスにとって不運な偶然。その両目を叩いたのは、荒々しく跳ね上がったファングの尻尾だった。
ほとんど威力はないが不測の事態にクロスは混乱し、僅かに全身の動きが止まる。
それはほんの一瞬、瞬きほどの刹那。だがクロスがいるのは、その一瞬が命取りの世界だ。
次にクロスが見たのは、大きく捻られた身体を戻す勢いで繰り出された裏拳。既に十分な速度を持って迫る脅威。
このタイミングで回避は不可能とクロスは一瞬で判断し即座に動く。
逆手にナイフを持った右手を眼前に構え、左手で手首を掴み全身に渾身の力を込める、可能な限りの防御態勢。
直後に来るであろう巨大な衝撃に備え、歯を食いしばり身を硬くする。
「ライダアアァキック!!」
だが、その衝撃はやってこなかった。
クロスの目には、緑の突撃槍がファングの頭部に直撃したように見えた。
身体が傾いたことで軌道が逸れた裏拳は頭上を空振り、大きな隙を晒すファング。
細かいことは後と意識を即座に反撃に切り替え、ナイフを頭上にクロスは跳躍する。
「はあぁっ!」
衝撃にふらつくファングの額に、両手で思いきり突き立てる一撃。着地と同時に腰から抜き出す2本。
「これでっ!」
まっすぐ正確に、心臓目がけ深々と突き刺す二撃。残ったナイフを軽く放ると、それは空中にピタリと停止する。
「どうだっ!!」
空中停止したナイフを、渾身の力でその喉に蹴りこむ。全てが致命傷の三連撃。
ファングは人形のように吹き飛ばされて大の字に倒れ、それきりピクリとも動かなくなった。
クロスは蹴りこんだ右足をゆっくりと下ろしながら、フー…と大きく息を吐く。
「ちょ…ちょっとやりすぎじゃ……」
「奴に限ってやりすぎということはない。これだけやっても恐らく十数秒の時間稼ぎにしかならん」
「ええぇ…」
クロスは冷静に答えながら、隣に立つ声の主にチラリと目を向ける。倒れたファングに視線を戻して、また見る。
そこ立っていたのは緑色の、しいて言うなら服を着た人間大の虫。骨格からして人間と違うところを見るに、変身能力者とクロスは推測する。
「さっきは助かった、礼を言う。ときに君は何者だ」
「あー…僕は
鎌田之博。通りすがりの変身能力者です」
「そうかカマタユキヒロ、私はクロスだ。その姿は……カ…」
その人間と大きく異なる身体をさっと見回すクロス。期待の眼差しを向ける鎌田。
「……カミキリムシ?」
「カマキリ!!」
おお、新発想だ。
やりとりが聞こえていた晶はこの女性に、なぜか感心に似た感情を覚えるのだった。
「ともかくお手伝いしますクロスさん。一人より二人のほうが危険は少ない」
そう言って半身に構える鎌田をもう一度見て、遅れてやってきた晶を一瞥し、クロスは言う。
「悪いがカマタ、彼女を連れて一刻も早くこの場を離れてほしい。一般人を奴との戦いに巻き込むわけにはいかない」
「それならなおさら協力します。長引けば別の被害者も出かねない」
「いやしかし奴は本当に危険でだな」
「こういうことは慣れてます。そう足手纏いにはならないと思いますよ」
「………ふむ。そうか」
それきりクロスは黙り、未だ動かないファングに向けて右手でナイフを抜き身構える。そして…
ごく無造作に、一切目も向けず左手が振られ、放たれるナイフ。数歩隣に立つ鎌田の顔面に向けて、一直線に飛ぶ投げナイフ。
「っ!!!?」
「………」
そしてナイフは空中でピタと停止する。鎌田が反射的に出した腕の数センチ前で。
「っな……なんっ!?」
「悪いが実力を試させてもらった。なるほど、良い反応だ」
驚く鎌田に対して悪びれもせず、クロスは数歩歩いて空中に浮かぶナイフを回収する。
「わかった、カマタ。君を一時的に戦力として数えさせても」
「っ来ます!!」
突如声を上げる晶。直後、跳ね起きるなり襲いかかるファング。
いち早く反応し走って迎え撃つクロスは、突進の軌道を見切り脇をすり抜けると同時に太腿を切り裂く。
バランスを崩し減速した鼻面に、合わせて跳んだ鎌田の飛び後ろ回し蹴りが炸裂、鼻血が吹き出す。
ふらりと後ずさる腹に、大きく踏み込んだ鎌田の直突きとクロスの横蹴りが同時にめり込む。
ファングは数メートル吹き飛ばされ、先にあった鋼鉄の手すりに後頭部を強打。頭蓋骨の軋む鈍い音が響いた。
クロスは油断なく身構えたまま、離れた位置にいる晶へ向けて声を大きくする。
「君は奴の心が読めるのか」
「は、はい、少しなら」
「ならば聞くが奴は今何を考えている。どういった動機で襲ってきているのかわかるか」
「その…怒ってます! 理由はわかんないけどものすごく怒ってる、それだけです!」
「それだけか!? 他に考えていることはないのか!?」
「なんかおかしいです、普通じゃない。心がこんな怒り一色になるなんて普通ありえないんです!」
「……そうか、わかった。君はナオキと一緒に離れていてくれ」
やはり……と小さく呟く。
今思えば、出くわした瞬間から奴の様子はおかしかった。今の奴は私の挑発に関係なく、何らかの理由で正気を失った暴走状態にあるのだろう。
後々本部に詳しく報告する必要があるだろうな。そうクロスは考えた。
ともかく今は、ここを切り抜けること。意識を切り替え、指先からピクピクと動き出しているファングを睨みつける。
「さてカマタ、奴の名はファングだ。見ての通り超速再生能力を持っていてほぼ不死身、体力は無尽蔵で急所を突いても死なない。
一瞬で粉々にするなり消し炭にするなりしなければ奴を倒すことは不可能だ。君にそれは可能か?」
「そ、それはさすがに無理です」
「そうだな、そこで私の能力を使う。先程ナイフで見せた空中の物体をほぼ停止させる能力だ。あれは生物にも適用される」
「つまりあのファングをなんとか投げ飛ばすなり打ち上げるなりして、能力で空中停止させると?」
「そういうことだ。ちなみに奴の体重は100キロ超、どちらも私の力では苦しい。カマタには可能か?」
「はっきり自信は持てませんが…やってみます」
「いいだろう。私が先に斬りこみ奴の動きを止める。隙を見てやってくれ」
「わかりました」
鎌田は大きく深呼吸すると、握りしめていた拳を開く。開く指に伴い解放される鎌。鎌田の蟷螂人たる証。
カマキリの鎌は刃物ではない。獲物に引掛け、確実に捕らえるための道具なのだ。
ヒビの入っていた頭蓋骨が完全に再生し、ゆらりと立ち上がるファング。
まるで本物のカマキリのように両手の鎌を前方に向け、身構える鎌田。
左手に3本のナイフを取り、右手の大型ナイフを握りしめるクロス。
騒がしかった蝉の声が、ぱたりと消える。時間が止まる。
それは一秒か、十秒か、はたまた刹那の間だったか。
最初に動いたクロスのナイフ投躑を合図に、三つの影は弾けるように動き出した。
<続く>
登場キャラクター
最終更新:2010年12月26日 20:16