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ミノタウロス殺しの船

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ミノタウロス殺しの船 ◆JvezCBil8U



*****


……分かってた。
分かってたんだ。

こうなっちまうって、分かってたのに。
それでもオレは、助けられるんじゃあないかって……、どっかで思っちまってた。

バカだよなァ、オレの時は槍が……少しでも待ってくれてたから、時間を引き延ばせたってのによ。

……どっかからウジャウジャ湧いたこいつらを相手にしてたのは、オレたちだけじゃなかったんだ。
この人もずっと闘ってたんだ。
だから、その間はずっと槍に魂を取られて……、こう、なっちまった。

まだ言葉が通じるうちに、少しでも話しかけて……、強引にでも、槍を取り返して。
こんな取り返しのつかない姿にゃならなかったのに、よう。
オレがもっとはやくどうにかしてりゃあ、こうはならなかったのに、よう……。

オレのせいだ。
オレのせいだ。
……オレのせいだ。

くるしいぜ……。
助けられる人を助けられなかったって、すげえくるしいよ……。

唇を噛むと、血が出た。
鉄臭い味が、俺の口に広がる。

……オレはまだ、人間なのに。

「うしお……、気に病むな。
 お前が槍を取り戻すには、状況が許さなかった。
 彼の者との力量差、桂雪路を守るという悪条件、そしてこの世ならざる者どもの横行。
 これは必然――運命だったのだ。
 この獣どもが雲海の如く我等の眼前に現れた時、いや、彼の者が獣の槍を手にした時からの……な」

「分かってる、分かってるよ! けど、よう!
 こんなん……酷過ぎるぜ、運命だなんて認められるかよぉ!
 桂先生さえ見失っちまって……」

くっそぉぉ、涙で前が見えねぇよ!
徳野さん、さとり……、オレって、どうしてこんなに無力なんだよ!

ごしごしと目を擦る。
その時だった。

一気に名前も知らねぇ兄ちゃんが、こっちに向かって走り始めたのは。
背を低くして、人間だったとは思えねえ速度で近づいてくる。

凄い殺気が、全身を突き刺した。
本気……なんだな、獣の槍……、ギリョウ、さん。

オレが頼りないから、オレじゃあ白面を倒すのは無理だから、オレを見限ってその人の魂を喰っちまったのか?
ごめんよ、ごめんよォ……。
涙がぼろぼろぼろぼろこぼれてとまらねぇ……。なっさけねぇなァ。

頼むよ……、その人の魂だけでも、返してやっておくれよォ。
オレの魂ならよ、いっくらでも使ってくれていいからさァ……。

なあ、獣の槍……、オレじゃあ、やっぱり無理なのかなァ。


胸が痛いけど、でも、止めなくちゃ……!

「……っ、もう、やめてくれよぉっ!!」

槍の、石突きの方を兄ちゃんに向けて、オレも走りだす。

狙うのは……手だ。
弾き飛ばせば、もしかしたら戻るかもしれない。
いつもなら、そうなるはずなんだ。
どんなに希望が小さくても、諦めるなんてできねぇよ……!

突き込んできた獣の槍を、スライディングして避ける。

そのまま踏み込んで――、一閃。
頼むよ、当たってくれ……ッ!

びゅう、と頭の上で風を切る音がした。

「あ……、」


……当たら、ねェ。
届かねえ。

オレは……獣の槍には、届かねえ。

その現実を、突き付けられた。

「ちく、しょう……」

がっくりと、膝を着きそうになる。
獣の槍のトドメの一撃を、覚悟する。

……けれど、それは来ない。

気付く。

「狙いはオレじゃ……ねえ! 聞仲さん!」

無理矢理震える手で槍を地面に突き刺して、方向転換。

オレは障害物でしかなくって、相手にすらされてなかったんだ。
……最初っからオレを飛び越えて、聞仲さんを仕留めるつもりだったんだ……!

「逃げろーっ! 聞仲さ――、」

そしてオレは見た。

聞仲さんの鞭の一撃が、あっさりと獣の槍を持つ兄ちゃんを叩き落とすのを。
ううん、叩き落とすだけじゃなくて、まわりの妖怪たちをまとめてふっ飛ばしさえしてる……!

「……どうやら私を狙っているようだな。
 獣の槍は妖怪を滅する為に在る武具。……なれば、此処に向かったのも私を穿つ為という事か」


――強ぇ。

聞仲さんは、一歩も動かずにそこにただ立っている。
それだけなのに、とても力強い。
唐突に、流兄ちゃんの寂しそうな言葉を思い出した。

『……あァ、残念だぜ。
 お前が本気で立ち向かってくれてたら、オレは……』

……本当に、強ぇ。
あの時の流兄ちゃんもとんでもなく強かったけど、聞仲さんはそれ以上かもしれねえ。

でも、だったら、どうして。

「どうして……あの時はコテンパンにされちまったんだ?」

どうしてあんなにも、覇気がなくって。
そしてどうして今は――、こんなにすっげぇんだ?

砲弾みたいにあっちへ行った獣の槍の兄ちゃんが、ガレキを足場に跳ね返ってきた。
けれど、聞仲さんは返す手首の動きで鞭を操って、簡単にそれをあしらっている。

呆然と立っているだけの、オレ。
……聞仲さんをかっけえと思う心の裏っ側で、自分がみっともなかった。
三度目の、どうして。
どうして――聞仲さんは、そんな役に立たないオレを、仲間だって言ってくれたんだろう。

「お前が人を惹きつけ、立ち上がる力と羨望を与える輝きの持ち主からだ」

……え?

オレ、今何も……言ってない、よな?

ぽかんと口を開けて固まったオレに、聞仲さんが小さく笑いかける。

「そう驚く事もない、心根が真っ直ぐすぎるのだ、お前は。
 顔に全てが出ているぞ。
 ……そこがまぶしく、佳い所ではあるのだがな」

そんなんじゃねえ、って言いたかった。
けれど聞仲さんは真剣で、だから言い返す事は出来なかった。
こんな状況だってのに、オレは照れ臭くてほっぺを掻いて目を逸らす。

「私は――、此処に来る前、守りたかったものを失った。
 ……いや、とっくの昔に失っていたという事実から、目を背け続けていたのだよ」

聞仲さんは、何処か遠くを見るように目を細める。
どうしてかそれを見てると、オレは悲しくなっちまった。
胸が締め付けられるように、苦しくなる。

聞仲さんは、オレを守るように鞭を振るい続ける。

「……澄んだ心の持ち主だな。そんなお前と出会った事が、私に力を与えたのだ、うしお」

……買いかぶりだ、聞仲さん。
言おうとしたけど、口が動かない。

体が、震えてくる。
……どうして、震えてんだよ。この人は優しくて凄くて、オレを守ってくれてるのに。
怖い、なんて、そんな事を思っちまうんだ……?

「違う……、オレ、そんな立派な奴じゃねえよ……」

もつれた口が、オレらしくねえ小さな言葉しか出してくれない。
こっちを見つめる視線が、怖い。
潰れちまいそうだ。

「強いさ、お前は。
 大切なものの死を直視し、慕ったものに裏切られてさえ……なお仲間であると信じ続けた。
 疑うのは易いが信じ続けるのは難い。
 今のお前が弱いとするならば、己を信ずる心が崩れかけたからだ。
 そしてそうなったのは……お前のせいではない」

「オレのせいなんだよぉぉぉっ!
 みんなみんな、オレが弱いから……、うぁあああぁぁああっ!」

……う、あ、あ……。なんで……なんで心配してくれる人に怒鳴っちまうんだよ!
最低だぜ、この馬ッ鹿野郎ォ……ッ!

地面にへたり込んで、地面を何度も何度も何度も叩く。

けど、それでどうなる訳もなかった。
ただ、オレはずっと泣きじゃくっていた。

聞仲さんがあんな目で見ていると思うと、頭ン中がぐちゃぐちゃになっちまいそうで。
でも、怒鳴っちまった事に幻滅されたかもしれないと思うと、それも怖くて。
どうしようもなくって、うずくまるしかなくて。

……どれくらい時間が経ったろう。
そんなに長い時間じゃなかったと思うけど、今の状況では充分に長いと言える時間。
数秒か、数十秒か、それとも数分か。

唐突に、その時は来た。

不意にオレの上に影が差して。

あれ、と思って空を見上げて。

その、瞬間に。

獣の槍が、俺に向かって――、


ぶじゅう、と、血の花が咲いた。

「……う、ぁ、」


……ぽた、ぽた、と、血がオレの顔に流れる。
頬を、濡らしていく。
まるで――血の涙の様に。

オレの手の中の槍が、名前も知らない兄ちゃんの肩口を縫い止めていた。
ちょうど獣の槍を持ったその片手の自由を、奪うように。

「あれ……?」

全く、そんな事をしたつもりはなかった。
なのに体は勝手に動いて、向かってきたこの人を止めようとしていた。

ずる……、と、獣の槍が兄ちゃんの手から落っこちた。
からんころころと地面を跳ねて、転がり止まる。

それを見た瞬間、何も考えずに、獣の槍へと手を伸ばしている自分に気づく。

……どうして、こんな事を?
見放されて、自分が嫌で、信じられるのさえ嫌だって思ってたはずなのに。
まだ……オレは、手を伸ばしてる。

掴もうとする。

「身に刻んだ経験は、決して裏切らない。
 そして……、いくら意思が拒んだとて、魂の在り様も変わる事はない。
 今取ったすべての行動こそが、お前だうしお」

聞仲さんが、変わらない眼差しでこっちを見ている。
すぅ……っと、さっきまでは刃のようだったその眼が、声が、溶けて染み込むようにオレの体に馴染んでいく。

「信じろうしお、己の事を。お前の成したことも、心がけも、全てはいつかどこかに辿り着く為に必要な事だったと。
 自分を信じられぬ者に、ついてくる者などいない。
 堂々と己を誇れ、悔いはしてもそれを否定するなうしお。
 ……さすれば、失ったものを取り返し、それ以上のものを得る事さえきっとできる」

……あったけえ。
うれしい、なァ。そう言ってくれる人がいるって……きっとしあわせだ。

だけど、……消えない不安だってあるんだ。
期待されても、もし自分が応えられないって考えると、立てねぇ。
……怖ぇんだ、見限られちまう事が。
声を絞り出す。

「で、も……、こんな、獣の槍にもとらにも、流兄ちゃんにも見捨てられたオレに、何ができるんだろう。
 オレが期待どおりに動けなかったから、みんな離れちまった……。
 ぶ、聞仲さんだって……」

ゆっくりと、聞仲さんと目と目を合わせた。

その姿は、揺るがない。

「大丈夫だ。今は私が――お前を信じている。幾度過ちを重ねようと、それは揺るぐ事はない。
 それではお前が自分を信じる根拠として不足か?」


――憑き物が落ちたみたいだった。


……はは。
あっははははははははははは!

そうだよ、何を疑ってんだよ蒼月潮
オレを信じているって言ってくれてる人がいる。
なのに、オレが自分を信じなけりゃあ、その人に対する裏切りじゃねえか。
その人を――聞仲さんを疑ってるって事になっちまうじゃねえか!

そいつだけは許せねえ。
オレは信じるぜ、聞仲さんを。
仲間だけは、絶対に疑わねえ!

うしお、自分を信じて対決していけ。

蝉兄ちゃんの言葉が、聞こえる。
ギチギチって、さっきまであんなにオレの心を締めつけていた蝉兄ちゃんの言葉。
なのに、それが今はとても頼もしくて、オレを支えてくれていた。

そうだ――立てる。
掴み取れる!

手を伸ばす、獣の槍に。
だけど――、

「おれ……の、ちからぁ……っ!」

ガキン、と。
目の前で、星が瞬くように獣の槍が掻っ攫われた。

ざわざわと空気が蠢いて、獣の槍に喰われた兄ちゃんが、こっちに向き直ってくる。
オレを完全に、敵って認めたんだ。

……ああ、そうだよなぁ。
許してほしい、なんて言わねえ。
許してくれなくて構わないし、そんな事を言ったらこの人が槍を使った時の覚悟まで侮辱しちまう。

「聞仲さん」

オレは自分の持っていた槍を杖にして、立ち上がる。
何の変哲もない、ただの槍を。

「こいつは、オレに戦わせてくれ。オレが止めなきゃあ、いけないんだ。
 もっと早く……止めなきゃあ、いけなかったんだ」

きっと相手を睨む。
聞仲さんは少しだけ黙って、それから数歩退いてくれた。

「……この魍魎どもの相手に徹していよう。いざとなれば、助けに入る」

「必要ねえ。……絶対に勝つ。
 そうでもなきゃ、オレはオレに戻れねえんだ。聞仲さんに仲間なんて呼んでもらう資格はねえ」

強気に答える。それを挑発って思ったのか、それとも偶然か。
目の前の、名前も知らない人が――友達になれたかもしれない人が、吼えた。
その最後、小さなつぶやきが耳に届く。

「まも……る……。おれ……が……、どう……なって……」

しゃがれた、人のものと思えない声。
だけどそれが、泣いているように耳に痛かった。

戦いたく、ない。
この人だって、守りたいものがあったからこうなったんだって――分かっちまったから。

でも。

「ごめんよ……、止めるぜ」

それだけ小さく口にして、一歩踏み出す。

走る。

突き抜く!

槍と槍が、交差する。

火花が散って、楽器の様な音がした。

衝撃が手を痺れさせる。

弾かれた勢いで、後ろに下がる。

勢いは殺さない。片足を軸に、一回転。

――薙ぎ払う!

獣の槍が、それを止める。兄ちゃんの体には届かない。

「もう……どこにも……いかな……」

必死な形相でオレを睨み付ける、兄ちゃん。

……ああ、くるしいくらいに伝わってくるぜ。
痛いぜ、こころが。

守りたかったんだよ……なァ。
絶対に手放したくない何かがあったんだよ、なァ。

十字の形に組み合った槍が、二人の真ん中で止まってる。

ぎりぎりと、押される力がどんどん強くなる。
ちくしょう、思いの強さに潰されちまいそうだよ。

オレにも良く分かるそのこころを、応援してやりたくなっちまう。

でも、今の兄ちゃんは、間違ってる。
絶対に、このままにしちゃなんねぇんだ。

だって、よう――、

「に、くい……、じゃま、するな……」

そんな顔で、ぶっ壊れちまって、大切な人が喜ぶはずねーじゃんかよう!

オレだってあの時、とらに、母ちゃんに、そんな顔なんかさせたくなかったんだよう!

……この人は、オレだ。
だから――兄ちゃんの全て、オレが受け止めてやる。

この何の力もねえ、弱っちい、ただの蒼月潮でも――それくらいはやってやるさ……。

どんな事が起きても、自分を信じてやるさ!

ごとり。
力づくで抑え込まれて、押し倒される。背中が地面にぶつかる。
兄ちゃんの吐く息が近くて、眼に入るのは獣になった顔だけだった。

喰われちまいそうだって、体が縮む。

けど、……負けるかよォォォォッ!

止める!
その為に――ただ大切なことだけを考える。

眼を閉じる。
暗闇の中にいるのは、オレだけ。
オレがどうしたいのか、それだけに集中する。

己の心を細くせよ。川は板を破壊できぬ。水滴のみが板に穴を穿つ。

そうだ……、杜綱さんたちに教わったことさえ、オレは思い出せてなかったんだ。

分かる。
獣の槍と、兄ちゃんの、暴れ続ける怨嗟の声が。

息を整え、見極める。
ほとんど獣の槍に引き摺られちまってる兄ちゃんの、それでも決して獣の槍と馴染まない呼吸のズレを。
最後まで残った、いちばんたいせつなものを。


「あ……に、き……」

言葉と同時、一気に押し込んだ獣の槍が俺の槍を胸に押し付ける。
肺が苦しくて、息が詰まる。
歯を噛んだ。ギリ、という音も、もう聞こえない。

「馬ッ鹿野郎――っ! そんな姿、兄貴に見せるってのかよぉ――ッ!」


……今、この時だ。
この時を、待っていた……!

「らぁぁぁあああぁぁあああぁぁあああぁぁぁあああああぁぁあああっ!」

片手を槍から離して、オレの槍の柄に――上からゲンコを叩き込む!

ぼき、って、嫌な音がした。
たぶん、オレの肋骨が折れたんだと思う。
当たり前だ、オレの体そのものを支えにしたんだから。

でも――、

「――!?」

獣の兄ちゃんは、何が起こったか分からないって顔でごろごろ転がっていった。

テコの力だ。

真正面からぶつかり合っても力負けすんのは分かってたから、オレを地面との間に挟んで、槍をテコにして押し返したんだ。

……寝てる暇なんてねぇ。思いっきりテコを打ちつけられて、兄ちゃんの手から離れた獣の槍が、宙を飛んでるんだから。

勢い任せに立ち上がる。
胸の下がでっけえ金槌でぶん殴られた様に痛くて、吐きそうなほどに気持ち悪かったけど、そんなの……関係ねぇ!


オレは思いっきり手を空に伸ばして――叫ぶ!


「戻って、こい……。もう一度、一緒に戦うんだ……。
 来いーっ、獣の槍ィ――――ッ!」


*****


そこからは、私の眼ですらまともに捉えきれない刹那の出来事だった。

空に舞った獣の槍が急激に方向転換し、するりとうしおの手に収まる。
そしてその毛が一気に伸び――、気がつけばうしおは獣の青年の前に立ち、延髄に槍の一撃を見舞っていた。

それで、終わりだった。

静寂。

そして、沈黙。

はらりとうしおの伸びた毛が散って、ぐらりと倒れ込む。

「……っと、」

慌てて駆け寄り、その肩を支える。
俯いたその顔を見る事は叶わない。

ただ私は、こう檄をかけていた。

「……よくやった」

そしてうしおは、顔を上げる。
照れと悔恨の混じり合った、複雑な表情だった。

「これで……、よかったのかなァ」

……思う所は、色々あるのだろう。
彼の器量は知りながらも、過去を知らぬ私に返せるいらえなどなく。
確かにある事だけを、告げた。

「お前の手には、取り返したものがある。……だろう?」

「うん……」

そしてようやく、小さな小さな笑いを見せた。
私も安堵をそこに得る。


同時。
背後の殺気が膨れ上がったのを理解。

雷と炎が、うしおを襲う。
新手――!?

「させるか……!」

この贋作では、払いきれん。
ならば身を呈して庇うのみ……!

じゅう、と、背の肉の焦げる匂いが鼻を焼いた。
体が痺れ、動きが阻害される。

「ぐぅ……っ!」

「ぶ、聞仲さ――、」

悲痛な声。
……平気だ。この程度、取るに足らぬ傷でしかない。
お前が無事ならば、それで良い。
眉をしかめながら、緩慢な動きで背後を向く。

そこには。

「……なんだ、あれは……」

涙目で私の背を見つめ、無言だったうしおが、ぽつりと呟く。


「字伏……」

おぉぉおおおおぉぉおおおおぉおぉぉおおおぉぉん!

遠吠えが、辺りに響き渡る。

そうか。
それが、このバケモノの呼名か。

人であった頃の字名すら――伏せてしまった獣。

理解する。
これは、あの獣となった青年の末路であるのだと。


右腕の贋作を構え、相対する。
うしおもまた、私を気にしながらも獣の槍を握り締める。

だが、それは杞憂に終わった。
更なる咆哮を残すと、字伏は一転して駆けだして行く。
何処とも知れぬ場所へと向かって。

……何ゆえか?
何故、戦わない?

疑問が私たちの頭を埋め尽くすも、答えるべき字伏は既に此処におらず。
追うにしても、雷を受けたこの体は機敏な動きを許してくれず。
……ただ、無数の魑魅魍魎どもが字伏の通った道を埋め尽くし、我々を取り囲んでいた。

うしおが、呟いた。

「槍が昂ぶってる……。白面の気配が復活した、って……」


*****


憎い……、憎いぞ……。

この体は……なんだ。

何故、こうなった。

思い……出せない。だが、俺がこんな化け物ではなかった事は分かる。
俺は……、誰で、何故こんな姿になっている!?

ああ。
憎い、憎い、憎い憎い憎い憎いぃぃぃッ!

俺をこうした元凶が憎い。
関わってきた全てが憎い。

分かる事は、二つだけ。
俺は……あの男を守らねばならないという事。
どういう関係だったかも思い出せないが、あの顔だけは決して忘れない。
そして、俺は白面が憎いという事。

そうだ、俺の傍でずっと語っていた誰かも言っていたではないか。
白面こそ諸悪の根源であると。

臭う……、臭うぞ白面白面白面……ッ!
何処に隠れていた!?

いや、それはいい。
今必要なのは絶殺の意志。

この爪で奴を切り裂き、あぎとで引き裂き、雷と炎で身を焼く事に専心するのみだ。

そら、あの女だ。
あそこで暢気に突っ立っている女。
奴こそが……白面の宿主よ!

届く、届くぞ。俺は届く!

もはや障害は眼前に非じ!

あと十歩か九歩か七歩か六歩か!
五歩か四歩か三歩か二歩かァ!


女ァ、死ィィィィ……ねェェェッ!


さあ、この牙を臓腑に抉り込もう。

一歩踏み込み、零を貫くぞォッ!


取ったァ……ッ!



ザクリ。



肉が血が、臓腑が骨が零れ落ちる。
この獣のあぎとが赤に染まる。

先ほどの様なまやかしではない。
今度という今度こそ、肉人形を貫いた……ッ!


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