文中子
584-618
隋代の儒者。隠遁詩人
王績の兄。
王福畤の父。
王勔・
王勮・
王勃・
王助・
王劼・
王勧の祖父。20才のとき経世の志をたて国都の長安に出て隋の文帝に謁見し、12条の太平策を奏上したが、公卿にはばまれて採用されなかった。それで郷里の竜門県(山西稷山の西、黄河と汾河の合流点)に帰り、著述に専念した。王氏6経がそれであって、儒教の基本経典である易・書・詩・礼・楽・春秋の6経を続成したものである。その門に集まるものは1,000人をこえ、その中には唐朝の文武大官になったものも少なくなかったが、王通の名は故あって著聞しなかった。彼の没したのは617(隋、大業13)年であるが、その享年については32才、33才、34才の諸説がある。王氏6経はやがて散逸してしまい、孔門における『論語』になぞらえて集録された『文中子中説』だけが現存する。『文中子中説』は、王通と門人との対話を分類整理した書。詳しくは『文中子中説』という。文中子は門人らのえらんだ王通の諡で、『易経』の「黄裳は元吉なり文が中にあればなり」にもとづく。王道・天地・事君・周公・問易・礼楽・述史・魏相・立命・関朗の各編をそれぞれ1巻としすべて10巻。11世紀初め、宋の阮逸によって注が加えられ、杜淹(王通の門人)の作ったという『文中子世家』その他を付録したものが通行しているが、なかに時代錯誤など種々の矛盾を含むために、いろいろ批判され、はなはだしきは阮逸の偽作とするものもある。しかし王通は明らかに実在した人物であり、この書物も『新唐書』芸文志に著録されている(ただし5巻という)から、まったくの偽作とはいえないであろう。おもうに中唐以後、儒教の道徳が唱導される機運に乗じて再評価されるようになり、その間多少の潤色が施されたものではなかろうか。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2023年08月03日 22:24