王勃
647-674
初唐の文学者。絳州・竜門(山西省稷山県)の人。字は子安。
王福畤の子。
王勔・
王勮の弟、
王助・
王劼・
王勧の兄。隋の大儒
王通の孫で、隠者
王績は大叔父にあたる。666(麟徳3)年の幽素。若くして朝散郎を授けられ、沛王
李賢の府修撰に召された。当時、諸王のあいだに闘鶏が流行していたが、王勃は戯れにこれを題として檄文を書いたために、高宗の怒りにふれて府を出され、剣南に放浪したのち、虢州の参軍となったが、事に連座し官吏の資格を奪われた。交趾令に左遷されていた父王福畤を尋ねて南海を渡る途中、あやまって水に落ちて死んだ。詩文に長じ、
楊炯・
盧照隣・
駱賓王とともに、「初唐四傑」とよばれ、その華麗な詩風は唐初の詩壇を圧した。文集を『王子安集』30巻といい、日本にも早くから伝わり、正倉院その他に残本が伝わっている。注としては、清の蔣清翊の『王子安集註』がすぐれる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2023年08月03日 22:09