巻二百一 列伝第一百二十六

唐書巻二百一

列伝第一百二十六

文芸上

袁朗誼 承序 利貞 賀徳仁 庾抱 蔡允恭 謝偃 崔信明 鄭世翼 劉延祐 蔵器 知柔 張昌齢 崔行功 銑 杜審言 易簡 甫 王勃 勮 助 楊炯 盧照隣 駱賓王 元万頃 正 義方 季方 范履冰 周思茂 胡楚賓


  唐代三百年のうち、文章におよそ三度変化がある。高祖・太宗が混乱を平定した始めは、南朝の遺風をうけて、辞句は稀(きめこま)かにいろどられ、低卬(リズム)を凝らしたものであった。 そこで、王勃楊炯が覇者となった。玄宗は経学を好み、臣下達も少しずつ装飾にあき、文章に論理の趣を求めた。典雅であることを尊重し、軽薄さを除き、文章の気概はますます雄大になった。燕国公(張説)と許国公(蘇頲)とが当時の文壇を独占した。この時は、唐の国家が成立してもう百年もたち、諸々の文学者達が争いあい、それぞれ一家をなした。大暦・貞元年間(766-805)には、秀れた才能ある人々が次々に出、道の真髄を深くたしなみ、聖人の徳に浸っていた。そこで韓愈が古文を提唱すると、柳宗元李翱皇甫湜等が呼応し、異端の説を斥け、基準は厳しくなった。魏・晋を圧倒し、さかのぼって周代・漢代に比べられるまでになった。唐代の文章は、それで、完全に唯一の規範となったのである。これが、文章の極致であった。たとえば、天子のお相手する詩文では、李嶠宋之問沈佺期王維がおり、詔文を作ることでは、常衮楊炎陸贄権徳輿王仲舒李徳裕がおる。詩のジャンルでは、杜甫李白元稹白居易劉禹錫がおり、異常美を歌った者には、李賀杜牧李商隠がおる。どの人も皆、それぞれ卓越しており、その長所で時代の第一人者となった。尊重すべき者である。

  しかし、かつてこう言われたことがある。孔子の学派は、文学を一番下の範疇にしているが、それは何故か、と。きっと、天が君子や小人に与える文学の力は、一定の分け前というものがなく、ただ秀れた者だけがこれを得られるからであろう。だからこそ、一芸と公称するのである。中ぐらいの知者以下には、自分の文才をたのみにして失敗する者もあれば、良くない友の仲間入りをし、虚偽を言い飾る者もあるし、怨みや不平を抱いて国を譏る者もある。もし君子であれば、そうではない。自らの業績や実践活動で、その時代に自分が、より輝くことが出来る。それでも、主張を述べ立てて永遠に名を残そうと専心しなかった人がある。たとえ官に任用されなくても、それはそれでしばらく、自らの気持ちを開きのべつつ、のんびり自適する。異を唱えても、相手を排斥するまでにはせず、怨みを述べても、誹謗するわけでない。しかも、いつも君主を善導することを思い忘れない。それだから、尊敬すべき者なのである。さて今は、ただ、文学者としてのみ名声ある者を取りあげて、文芸篇を作る。たとえば韋応物沈亜之閻防祖詠薛能鄭谷らは、こういう人々はまだ多いし、皆明らかに文学作品があって、世間に伝わっているのだが、歴史家が、彼らの行動事跡を書き落としてしまった。それで、こういう人々のことを取りあげて述べることが出来ないのである。


  袁朗は、その先祖は雍州長安の人である。父の袁枢は、陳に仕えて尚書左僕射となった。袁朗は陳にいた時は秘書郎となり、江総によって優れた人物だとみなされた。後主はその才能を聞いて、詔して月賦一篇をつくらせ、あっさりとしていて思いは留まることがなかったから、後主は、「謝荘の独壇場ではなくなったな」と言った。また詔して芝草・嘉蓮の二頌をつくらせ、感じ入って賞があつかった。累進して太子洗馬・徳教殿学士に遷った。陳が亡ぶと隋に仕え、尚書儀曹郎となった。

  武徳年間(618-623)初頭、隠太子と秦王(後の太宗)・斉王が互いに不仲となり、争って名臣を呼んで自分の補佐とした。太子は詹事の李綱竇軌、庶子の裴矩鄭鄭善果、王友の賀徳仁、洗馬の魏徴、中舎人の王珪、舎人の徐師謩、率更令の欧陽詢、典膳監の任璨、直典書坊の唐臨、隴西公府祭酒の韋挺、記室参軍事の庾抱、左領大都督府長史の唐憲がいた。秦王には王友の于志寧、記室参軍事の房玄齢虞世南顔思魯、諮議参軍事の竇綸蕭景、兵曹の杜如晦、鎧曹の褚遂良、士曹の戴冑閻立徳、参軍事の薛元敬蔡允恭、主簿の薛収李道玄、典籤の蘇勖、文学の姚思廉褚亮、燉煌公府文学の顔師古、右元帥府司馬の蕭瑀、行軍元帥府長史の屈突通、司馬の竇誕、天策府長史の唐倹、司馬の封倫、軍諮祭酒の蘇世長、兵曹参軍事の杜淹、倉曹の李守素、参軍事の顔相時がいた。斉王には記室参軍事の栄九思、戸曹の武士逸、典籤の裴宣儼がいて、袁朗は文学となった。従父弟の袁承序もまた名で、王は召して文学館学士とした。袁朗は汝南県男に封ぜられ、再び給事中に転任した。卒すると、太宗は廃朝すること一日、高士廉に向かって「袁朗は微官であったが性格は謹厳実直であったから、人を派遣して哀悼させよう」と言い、詔して葬式代を給付し、その家に弔問させた。

  袁朗の遠祖の袁滂は漢の司徒であった。袁滂から袁朗にいたるまでおよそ十二世、その間、司徒・司空の位にいたものは四世で、袁淑・袁顗・袁察はみな宋の国難に死に、袁昂は斉・梁の時に節義をあらわした。袁朗は宮中の内外の人物にあって天下に冠となり、琅邪の王氏が連続で公卿となったはいえ、袁氏は特に歴代王朝の補佐となって功績があったから、同列にするにはとってたりないほどであった。


  袁朗の孫の袁誼は、神功年間(697)に蘇州刺史となった。司馬の張沛なる者は、侍中の張文瓘の子で、かつて袁誼に向かって「蘇州は一人の長官を得たが、隴西の李氏(唐室)は、天下の高貴の家をほしいままにしている」と言うと、袁誼は「門戸というものは、歴代名節が天下に名高いものをいい、この老夫がそうなのである。山東の人は閨閥を尊び、禄や利を求めるだけで、受命危うしとみるや、人材がいなくなってしまう。どうして尊ぶに足ろうか」と言い、張沛は大いに恥じた。


  袁承序は斉王李元吉の府学士で、斉王府が廃止されると、建昌県令に補任された。統治は慈悲と簡潔をたっとび、吏民はその徳に懐いた。高宗が晋王となるや、太宗は下僚を選ぶことを崇び、梁・陳の名臣の子弟で誰がよいかを尋ねた。岑文本は、「昔、陳が滅亡すると、百官は走り逃げましたが、袁憲なる者がいて、朝服のまま後主の傍に立って、白刃を避けませんでした。王世充が隋を簒奪すると、群臣が帝位につくよう上表して勧めましたが、袁憲の子で給事中の袁承家は病と称して署名することをよしとしませんでした。今、袁家の末っ子の袁承序は、人品は清明で、先烈に恥じることはないでしょう」と答えた。帝はそこで召還して晋王友・兼侍読に任じ、弘文館学士を加えた。卒した。


  袁朗の従祖弟の袁利貞は、陳の中書令の袁敬の孫で、高宗の時に太常博士・周王侍読となった。周王が皇太子に立てられると、百官は上礼を行ない、帝は群臣と大会したいと思い、命婦とあわせて宣政殿で宴し、九部伎・散楽を演奏しようとした。袁利貞は上疏して諌め、「前殿の路や門は、命婦が宴会したり俳優が演ずる場所ではありません。命婦の宴は別殿で移して下さい。九部伎は左右の門から入り、散楽を演奏するのは止めてください」と述べ、帝は受け入れた。宴会が終わると、帝は利貞に詔を伝えて「卿は時代を通じて真心かつ剛直で、よく上疏して抗議し、朕の失策を諌めた。厚く賜物をしなければ善を勧める者がいなくなってしまうだろう」と述べて、賜物を百段とした。祠部員外郎に任じられ、卒した。中宗が即位すると、旧恩によって秘書少監を追贈された。


  賀徳仁は、越州山陰の人である。父の賀朗は、陳の散騎常侍で終わった。賀徳仁と従兄の賀徳基は周弘正に師事し、文章をよくして称えられ、人々は「学行は賀徳基を師とすべきで、文章は賀徳仁が充実している」と語った。兄第は八人いて、当時は漢の荀氏と比べられ、太守で鄱陽王の陳伯山が賀兄弟の居場所の甘滂里を改めて高陽里にしたという。

  はじめ賀徳仁は陳にあって、呉興王(陳の太子・陳胤)友となった。隋代になると、楊素がその人材を推薦して、豫章王(煬帝次男)の記室となり、豫章王は厚遇した。豫章王が斉王に移封されると、また斉王府の下僚となった。斉王府が廃止されると、官吏は罪にあたったが、賀徳仁は忠謹のため許され、河東司法参軍に補任された。

  昔から隠太子と親しく、高祖が挙兵すると、太子は隴西公に封ぜられ、賀徳仁を王友とし、庾抱を記室に任じた。にわかにともに中舎人となった。年老いて吏の事務職に堪えられないとして、洗馬に遷り、蕭徳言陳子良と東宮学士となった。貞観年間(623-649)初頭、趙王友に移り、卒した。

  従子の賀紀賀敳もまた博学であった。高宗の時、賀紀は太子洗馬となり、五礼を修するのに預かり、賀敳は率更令・兼太子侍読となり、皆、崇賢館学士となった。


  庾抱は、陳の御史中丞の庾衆の孫である。開皇年間(581-600)、延州参軍となった。入京して吏部に任命され、尚書の牛弘は文具を給い、自序させ、筆を助けて完成させた。元徳太子の学士となったが、たまたま嫡皇孫が生まれ、大宴となったとき、席中で頌を献じ、太子は驚き褒めた。隴西府にある時、檄文はすべてその手より出た。


  蔡允恭は、荊州江陵の人で、後梁の左民尚書の蔡大業の子である。容姿は美しく、詩を巧みにつくった。隋に仕え、起居舎人となった。煬帝は賦があれば、必ず唱和させた。宮人に教えるために派遣されたから、蔡允恭はこれを恥じて、しばしば病と称した。内史舎人を授けられ、宮中に入ることとなったが、固辞し、そのため疎んじられて斥けられた。帝が弑逆されると、宇文化及竇建徳に仕え、唐に帰順して秦王府参軍・文学館学士となった。貞観年間(623-649)初頭、太子洗馬に任じられ、卒した。著作に『後梁春秋』がある。


  謝偃は、衛州衛県の人で、本姓は直勒氏で、祖父の直勒孝政は、北斉に仕えて散騎常侍となり、謝氏に改姓した。謝偃は隋では散従正員郎となった。

  貞観年間(623-649)初頭、詔に応じて対策に成績優秀で合格し、高陵主簿に任じられた。太宗が東都(洛陽)に行幸すると、穀水・洛水が決壊して洛陽宮を破壊したから、詔して直言を求めた。謝偃は上書して得失を述べたから、帝は褒め称え、引き立てられて弘文館直学士となり、魏王府功曹に遷った。かつて塵賦・影賦の二篇をつくり、帝はその文を優れているとし、召見し、謝偃に賦をつくらせようと思った。まず帝が序一篇をつくり、天下太平・功徳繁盛の意を述べ、謝偃に与えて賦させた。謝偃は帝の指示によって、述聖篇をつくったから、帝は喜び、帛数十を賜った。

  それより以前、帝が即位すると、直中書省の張蘊古が「大宝箴」を進上し、帝に民衆の恐れだけでは懐かせることはできないとほのめかし、その文章は抜きん出ており、大理丞に抜擢された。謝偃もまた「惟皇誡徳賦」を献上し、その序の大略は以下の通りである。「治世においては乱を忘れ、安全の中では危きを忘れ、気楽であれば労を忘れ、得られれば失うことを忘れますが、この四つは人主であってもそうなのです。桀王は瑤台を壮麗にしましたが、南巣の禍いを悟らなかったのです。殷の辛(紂王)は象牙の箸によって華やかさとしたから、牧野での敗北を知らなかったのです。これによって聖人が宮中にあって前王が滅亡した理由を思い、万国に朝政して自身が尊くなった理由を思い、府庫を巡って今富貴を得た理由を思い、功臣を見てその輔佐の始めを思い、名将を見て能力を用いるようになった初めを思い、このように人が心を変えることがなければ、天下はどうして教化に服さないと心配することがありましょうか。朝にこれを行えば堯・舜のような聖天子となり、夕暮れに失えば桀王・紂王のような暴君となるのは、どうして人と異なることがありましょうか」その賦はおおよそ帝の成功を諌めて自ら処することが至難であることを述べたものという。また『玉諜真紀』を撰述して封禅を行うことを勧めた。当時、李百薬は詩を巧みにし、また謝偃も賦をよくしたから、当時の人は「李詩謝賦」と称えた。魏王府が廃止されると、湘潭県令で終わった。

  張蘊古は、洹水の人である。尚書や左伝に詳しく、世務にあかるく、文章は当時の文壇をほしいままにした。後に事件に罪して誅殺された。


  崔信明は、青州益都の人である。高祖父の崔光伯は、後魏に仕えて七兵尚書となった。崔信明が生まれたのは、五月五日の正午で、怪しい雀が鳴いて庭の樹に集まったから、太史令の史良が占って「五月は火であり、火は離を主としており、離は文をなしている。日中は、文の盛であり、雀は五色であって鳴く。この児は文才によって世に現れるだろうが、しかし雀は類がいるという徴候であるから、位はほとんど高くはならないだろう」と言った。成長すると、博覧強記で、美しい文章を書いた。郷人の高孝基はかつて人に語って「崔君の才能は豊かで、この時代に冠たる者になろうが、ただ残念なのは位は高くはならないことだ」と述べた。隋の大業年間(605-618)、堯城県令となった。竇建徳が帝位を僭称すると、崔信明の族弟の崔敬素なる者が賊の鴻臚卿となり、自らを得意として、崔信明に「夏王は英武で、天下の心をつかみ、男女が子供を背負ってやって来る者は数えきれないほどだ。兄さんはこの時に功績を立てられなければ、どうしていうまでもなく機会を窺って日が終わるのを待たないのか」と言ったから、「昔、申包胥は海で釣人に会って、よくその節を固めたという。お前は私の身を賊中に屈させて少しばかりの報償を求めるというのか」と答え、ついに城を去って、太行山に隠れた。貞観六年(632)、家に詔があって興勢県の丞を拝命した。秦川県令に遷り、卒した。

  崔信明は驕り高ぶり、名門であることを自負し、かつて自身の文章を誇って、李百薬を超越したと言ったが、議論する者たちはそうではないとした。揚州録事参軍の鄭世翼なる者もまた傲慢で、しばしば軽率に人と争い、崔信明と江を渡る舟の中で出会い、「公に「楓落ちて呉江冷かなり」の文があると聞いているが、そのほかをみせてくれないか」と言ったから、崔信明は喜んで多数の詩篇を見せたが、鄭世翼が見終わらないうちに「見たところ聞くに及ばないようだ」と行ってすべて水に投げ捨て、舟を引いて去っていった。

  鄭世翼は、鄭州滎陽の人で、周の儀同大将軍の鄭敬徳の孫である。貞観年間(623-649)、怨みにより誹謗されて巂州に流謫されて死んだ。『交游伝』を撰述し、世に盛行した。

  崔信明の子の崔冬日は、武后の時に黄門侍郎となったが、酷吏に誣告されて死んだ。


  劉延祐は、徐州彭城の人である。伯父の劉胤之は、若くして学を志し、孫万寿李百薬とは互いに親しい友人であった。武徳年間(618-623)、杜淹によって信都県令に推薦され、善政を行った。永徽年間(650-655)初頭、著作郎・弘文館学士となり令狐徳棻陽仁卿らと国史および実録を撰述し、労によって陽城県男に封ぜられた。楚州刺史で終わった。

  劉延祐は進士に及第し、渭南県の尉に補任され、官吏として有能であり、統治第一とされた。李勣が「君は年若くして美名があるが、少しは自らを抑えた方がよい。人の上に出ることがないように」と戒めたから、劉延祐は謹んで受け入れた。後に検校司賓少卿となり、薛県男に封ぜられた。

  徐敬業が叛乱をおこして敗れると、劉延祐に詔して持節させて軍を率いさせた。当時吏は議論して徐敬業に任命された五品の官は死を賜い、六品を流刑とするとしたが、劉延祐は脅された事情を汲むべきだと言い、そこで五品官を授けられた者は配流とし、六品以下は除名し、大半の者の赦すべきと主張した。箕州刺史を拝命し、安南都護に転じた。もとは俚戸は一年の収穫の半分を租として納めることになっていたが、劉延祐は責めてすべて納入させたから、衆は怨みを懐き、叛乱を企てた。劉延祐はその首領の李嗣仙を誅殺したが、残党の丁建らがついに叛乱をおこし、衆を合わせて安南府を包囲した。城中の兵は少なく城を支えられず、防備を固めて救援を待った。広州大族の馮子猷は功を立てようとして、兵を待機させて出さなかったから、劉延祐は殺害されてしまった。桂州司馬の曹玄静が兵を進軍させて丁建を討伐してこれを斬った。


  劉延祐の従弟の劉蔵器は、高宗の代に侍御史となった。衛尉卿の尉遅宝琳が人を脅して妾としており、劉蔵器は弾劾して妾を戻していたが、尉遅宝琳が密かに帝に願って戻すのを止め、だいたい再度弾劾しては再度戻すのを止めていた。劉蔵器は、「法は天下の法度で、万民が共にするところです。陛下が情によって法を捨てられれば、法は何の施すところでしょうか。今、尉遅宝琳は密かに願ったところを陛下は従われました。臣が公けに弾劾すると、陛下はこれもまた従われました。今日従って明日改めるのならば、下は何に従えばよいのでしょうか。彼の匹夫匹婦は信を失うのに憚るかのようですが、ましてや天子にいたってはどうでしょうか」と述べ、帝はそこで詔して裁可したが、内心ではふくむものがあり喜ばなかった。しばらくして比部員外郎に遷った。監察御史の魏元忠がその賢人ぶりを称え、帝は抜擢して吏部侍郎にしようとしたが、魏玄同が阻んで「彼が道を守るのに篤くはない者ですが、どうして用いるのでしょうか」と述べたから、遂に京師から出されて宋州司馬となり、卒した。

  子の劉知柔は、性格は慎ましく物静かで、風采や行ないは美しかった。親を喪うと、墓の側に庵を立てて守ったから、詔して墓前に石闕を築いてこれを表した。国子司業に任じられ、工部尚書に遷った。開元六年(718)、河南が大洪水となり、詔して劉知柔に駅で急派させて民の辛苦および官吏の善悪を査察させ、所表陳州刺史の韋嗣立、汝州刺史の崔日用、兗州刺史の韋元珪、符離県令の綦毋頊らを表彰し、治世の成績は二十七人にとどめた。しばらくして太子賓客に遷り、彭城県侯に封ぜられた。致仕したが、禄は終身給付された。薄葬を遺令し、葬式は自らその費用を用いた。太子少保を贈られ、文と諡された。弟の劉知幾は別にがある。


  張昌齢は、冀州南宮の人である。兄の張昌宗とともに文章によって自らその名を顕したから、冀州は秀才に推挙しようとしたが、張昌齢は秀才科が廃止されて久しいことから、固辞した。さらに進士に推挙され、王公治と名を等しくしたが、皆、考功員外郎の王師旦に斥けられた。太宗がその理由を尋ねると、「張昌齢らは華やかですが実は少なく、その文章は浮ついていて、優秀な人材とはいえません。かれらを採用した後に向かうところ、陛下の風雅を乱しましょう」と答え、帝はその通りだと思った。

  貞観年間(623-649)末、翠微宮が完成し、頌を帝に献上して召見され、試しに兵を休ませる詔をつくらせると、わずかな間に文章をつくってみせた。帝は大いに喜び、「昔、禰衡と潘岳は自分の才能を誇って、死んでしまったが、卿の才能は二人にも劣らない。前事を鑑みて、朕の求めるところを補佐してほしい」と戒め、そこで勅して通事舎人として供奉した。まもなく崑山道記室となり、亀茲(キシュ)を平定するための無封の書は、兵士に称えられた。賀蘭敏之の奏上により北門の編纂事業に参与したが、卒した。

  張昌宗は、官は太子舎人・修文館学士に至った。『古文紀年新伝』数十篇を撰述した。


  崔行功は、恒州井陘の人である。祖先の崔謙之は、北斉に仕え鉅鹿太守で終わり、鹿泉に遷った。若くして学を好み、唐倹はその才能を愛して唐倹の娘を妻とした。そこでたびたび文章をつくった。高宗の時代、累進して吏部郎中に遷り、奏上をよくした。常に通事舎人、内供奉を兼任した。事件に連座して游安県令に貶されたが、また召還されて司文郎中となった。蘭台侍郎の李懐儼と並んで朝廷の文章を司った。

  それより以前、太宗は秘書監の魏徴に命じて四部の群書を書写して、内府に収蔵しようとし、校正で二十人、書工を百人設置した。魏徴が失脚したため、詔して虞世南顔師古が事業を引き継いだが、事業が完成しなかった。顕慶年間(656-661)、校正の人を罷免し、書工が家で書写し、官に送って賃金を受け取ることを許し、散官を交代制にして校正させた。ここにいたって詔東台侍郎の趙仁本・舎人の張文瓘および崔行功・李懐儼に詔して監督を行なわせ、詳正学士を設置して散官と交替した。功労により蘭台侍郎に転じ、卒した。


  孫の崔銑は、定安公主を娶り、太府卿となった。それより以前、定安公主は王同晈に降嫁し、後に崔銑に降嫁した。公主が卒すると、王同晈の子の王繇が父と合葬することを願い出た。給事中の夏侯銛が反駁の奏上を行ない、「公主は王氏と絶縁しました。喪はまさに崔氏のもとに帰るべきです」と述べ、詔して裁可された。夏侯銛はそれでも京師より出されて瀘州都督となった。崔行功の兄の子の崔玄暐は別にがある。


  杜審言は、字を必簡といい、襄州の襄陽の出身で、昔の征南将軍の杜預の遠い子孫にあたる。進士の試験に合格して隰城の尉となった。才能を鼻にかけて、傲慢なふるまいがあったため、人々に憎まれた。蘇味道が天官(吏部)侍郎として選考試験を行ったとき、杜審言は試験に応じたが、試験場から出てきて人にいうには、「味道はきっと死ぬぞ」。人が驚いてわけを聞くと、「やつはおれの答案を見て、恥ずかしくて死んじまうのさ」と答えた。またあるとき人にむかって、「おれの文学にかかっては、屈原・宋玉も下っぱあつかい、おれの書の前では、王羲之も弟子同然だな」。その誇り高さと放言癖はざっとこんなものだった。

  官を重ねて洛陽の丞になったが、罪にふれて吉州司戸参軍に左遷された。そこでも同僚と折りあいがわるく司馬の周季重と司戸の郭若訥は、杜審言の罪をでっちあげて、彼を獄につなぎ、殺そうとした。折から周季重らが酒盛りを開いて酩酊中のところへ、杜審言の息子で十三になる杜并が短刀を忍ばせて押しかけ、周季重をその場で刺した。とりまきの連中がすぐ杜并を殺した。いまわのきわに周季重は、「杜審言に孝行息子があろうとは、わしは知らなんだ。郭若訥めがわしをそそのかしおって」といった。杜審言は官職を免ぜられて洛陽にかえった。蘇頲は杜并のあつい孝徳をいたんで、その墓誌銘を書き、劉允済は祭文を作ってとむらった。

  のち武后が杜審言を召し出して、起用しようとし、「そなた、うれしいか」とたずねると、彼は三拝九拝して武后に感謝した。武后は「歓喜の詩」を作らせたが、そのできばえがいたくお気に召して、著作佐郎を授けられ、さらに膳部員外郎にかわった。神龍年間初頭(757)、張易之とつきあいのあったことが災いして、峯州に流された。やがて都にかえって国子監主簿・修文館学士となり、亡くなった。太学士の李嶠らが官位の追贈を願いで、詔によって著作郎を賜った。

  それより先、杜審言の病勢が重かったとき、宋之問武平一らが見まいに訪れ、どうだと聞くと、「天の小わっぱに痛めつけられ ていて、今さら何もいうことはない。だがおれの在世中は、長い間諸君の頭を抑えつけたな。今は死にゆく身とて、さだめしほっとしたことだろうが、あとがまになる人材のないのが残念じゃ」と答えたという。若いころから、李嶠崔融蘇味道とともに「文章の四友」と呼ばれ、世に「崔・李・蘇・杜」と称された。崔融が亡くなったとき、杜審言は喪に服したといわれる。

  杜審言の従祖兄の杜易簡は、九歳でよく文をつくり、成長しては博学で、岑文本によって才能があるとみなされた。進士に選ばれ、渭南の尉に任命された。咸亨年間(670-674)初頭、殿中侍御史を歴した。かつて道で吏部尚書の李敬玄と会って、道を譲らなかったため、李敬玄に恨まれ、召されて考功員外郎となって屈服させられた。しかし侍郎の裴行倹と李敬玄は仲が悪く、そのため杜易簡は上書して李敬玄の罪を申し立てたが、李敬玄は、「襄陽の小童は軽薄なだけだ」と言い、そこで杜易簡の落ち着かなさを上奏すると高宗は怒り、開州司馬に左遷された。

  杜審言は子の杜閑を生み、杜閑は杜甫を生んだ。


  杜甫、字は子美、青年時代は貧乏で、うだつがあがらず、呉越と斉・趙(山東・河北)に放浪生活を送った。李邕はその才能を非凡とし、自分から出かけて面会を求めたことがある。進士に挙げられたが及第せず、長安で生活に苦しんだ。

  天宝十三載(754)、玄宗が太清宮に老子を祭り、太廟に先祖を、南郊に上天を祭ったとき、杜甫は賦三篇を奉った。玄宗はそのできばえを非凡とし、集賢院の御用係りにとりたて、宰相に命じて文章を試験させた。河西県(雲南)の尉官に抜擢されたが拝命せず、改めて右衛率府の冑曹参軍に任命された。杜甫はしばしば賦頌を奉り、それによって誇って言うには、「わが先祖の杜恕・杜預以来、儒者の家としての伝統をつぎ、仕官の家としての本分を守りつづけること十一代、杜審言に至って、文学をもって中宗皇帝のみ代に世に知られるようになりました。臣は先祖の遺業をついて、七歳より詩文を作りはじめ、四十年にもなろうとしています。しかしながら身につける着物とてなく、常に人に寄食しているようなしまつであり、あげくはみぞに転げ落ちてのたれ死にするのではないかと、ひそかに恐れております。伏して願わくは天子の憐れみをたまわんことを。もし幸いにわが先祖の名誉を思い出したまい、臣を泥土の久しき辱しめより引き上げたもうならば、臣の著述するところは、六経を世におしひろめるまではゆかなくとも、重々しくて抑揚にとみ、時宜に応じて筆先きが敏捷であるという点に至っては、古の楊雄・枚皐にも比肩しうるでありましょう。かくのごとき臣がありますのに、なぜ陛下はうち棄てたままにおかれたもうのですか」と。

  安禄山の乱に遭遇し、玄宗が四川に落ちのびたとき、杜甫は賊軍を避けて三川県に逃がれたが、粛宗の即位を聞き、鄜州より変装して、霊武の行在所にかけつけようとして、賊軍の捕虜となった。至徳二年(757)、賊中より脱出して鳳翔にのがれ、天子に拝謁して、右拾遺を授けられた。房琯とは仕官前からの交があったが、ときに陳涛斜の戦いに敗北し、また客の董廷蘭のことに連座して宰相を罷免された。杜甫は房琯のために上奏文を奉っていうのに、「些細な罪により、大臣を罷免してはなりません」と。粛宗は激怒し、命じて刑部・御史台・大理寺の三司尚書合同で杜甫を取り調べさせたが、宰相の張鎬が、「杜甫がもし処刑されるようなことがあれば、以後諫言をなすものの道を絶つことになるでありましょう」と弁護したことにより、帝ははじめてその気持ちをほぐすに至った。杜甫は上奏文を作って感謝していうには、「房琯は宰相の子で、若くして世に立ち、純の誉れ高く、大臣の風格を備えており、世論もまたの才能が補佐の職責にたえうることを認めておりました。陛下はその期待どおりに宰相の職をおゆだねになられたわけでありますが、陛下は房琯が陛下の憂いたもうところに深くその思いをよせ、正義の心のその顔色にあらわれているのをご覧になられたことでありましょう。しかしながら房琯はその性格に余りにも抜けたところがあり、かつ琴を鳴らすことを過度に好むところがありました。ために房琯の門下に身を託していた董廷蘭なるものが、貧乏と病気のためにすっかりぼけてのことではありますが、房琯の威勢をたのんでよからぬことをしでかすに至ったようなしだいであります。まことに瑄は人情にひかれて、つまづくに至ったものといえましょう。臣は房琯がその功名をまだとげぬうちに、志気の挫折してしまったことを歎くものであります。願わくは陛下には、房琯の小さなとがを棄てて、その大いなる功を取り上げていただきたいものです。臣が死して申し述べましたのは実にそのためであります。ぶしつけきわまることばに足をふみこみ、聖主のみ心にたがいさからたてまつりましたが、陛下が臣の百死に値する罪を許したまい、臣に休職を賜りましたことは、天下の人びとの幸福であり、その幸は臣がひとりこうむるばかりではないでありましょう」と。しかしながら帝はこののち余り社甫をおひき立てになられるようなことはなかった。

  その時は至る処に賊軍の略奪があり、杜甫の家族は鄜州に住んでいたが、一年にもわたって生活に困窮し、幼児が餓死するまでに至った。そのために天子は杜甫に家族を鄜州に見舞うことをお許しになられた。長安が回復されるに及び、皇帝に従って長安に帰ったが、転出して華州の司功参軍となった。ときに畿内一帯に飢饉があり、杜甫はかってに官を棄てて去り、秦州に旅して、たきぎを負い、ささぐりを拾って自活した。ついで四川に放浪して、住居をこしらえた。召されて京兆功曹参軍に任ぜられたが、赴かなかった。たまたま厳武が剣南・東西川節度使として成都に赴任して来たので、杜甫は厳武をたずねてその庇護を受けた。のち厳武はいちど都に召還されたが、ふたたび剣南節度使として成都にもどって来るに及び、厳武の上奏によって杜甫は剣南節度参謀・検校工部員外郎の官を得た。厳武は父の代からのつきあいにより、はなはだ厚く杜甫を待遇し、親しく杜甫の家を訪問したが、時には杜甫は厳武に会うのに、ずきんをかぶらぬままのこともあった。しかも杜甫は生まれつき怒りっぽくて、ごうまんであり、あると酒に酔って厳武の寝台に上がり、厳武をにらみつけていうには、「厳挺之どのにまさかこんな息子があろうとは」と。厳武もまた乱暴者であった。厳武は外面ではさからわぬもののごとくであったが、心中にはこのことを根に持ったのだった。ある日、厳武は杜甫と梓州刺史の章彝を殺そうとし、部下をその門に集めた。厳武が出かけようとしたとき、冠が三度すだれの留め金にひっかかった。そばのものが厳武の母にことのしだいを報らせたので、母は杜甫を救いにかけつけて杜甫を殺すことを厳武に思いとどまらせることができた。厳武はひとり章彝を殺しただけだった。厳武が亡くなると、崔旰らが成都において反乱を起こしたため、杜甫は梓州と夔州との間をさまよい歩いた。

  大暦年間(766-779)、瞿唐峡を出て江陵に下り、そこより沅江・湘江をさかのぼって、衡山に登った。そのついでに耒陽に行き、そこから岳祠に出かけたとき、にわかに洪水に見舞われ、十日間も食べ物が手に入らなかった。耒陽の県令が舟を準備して迎えに来てくれたので、やっと耒陽に帰ることができた。県令があるとき杜甫のために牛のあぶり肉と白酒とを贈り届けてくれたことがあるが、杜甫はその酒を飲みすぎて一晩で亡くなった。年五十九。

  杜甫はきまま勝手で、みずからを律するところがなく、好んで天下の大事を議論したが、その意見は高遠すぎて現実的でなかった。若くして李白とその名声をひとしくし、時の人は二人をつらねて「李杜」とよんだ。あるとき李白と高適とに従って汴州に立ちよったとき、酒の酔ったころ吹台に登り、古を懐って意気たからかであったが、そのときの胸のうちは凡俗にははかり知ることのできぬものがあったであろう。また杜甫はしばしば戦乱を経験したが、節操を守って身を汚すことなく、詩を作って悲しみ、その心はつねに君主を忘れることがなかったので、人々はそのまごころに感動したのである。

  賛にいう。唐の初め、詩人たちは陳・隋の遺風を継承して、内容のない美しさを誇りあっていたが、宋之問沈佺期らに至って、音律がみがききたえられ、平仄がととのえられるようになった。そして人々はそれを律詩とよび、競ってそれにしたがいならっていたが、開元年間(713-741)に及んで、ようやく雅正をねらいとして詩を作るようになった。しかしながら華美を誇るものは実質が伴わず、美麗を好むものは勇壮さが失われ、人々はその一端を得れば、皆それをみずからすぐれるところとして誇っていたが、杜甫に至って、つつみこんで広々とし、さまざまの変化に富み、古今の詩を兼ね合わせて、それらを一身に所有したのである。他の詩人たちは不十分であったが、杜甫こそはあり余るものであったといえよう。杜甫の大いなる余沢が、後世の詩人たちに恵み与えたところは多大である。故に元稹はいう、「詩経詩人のかた、いまだ子美のごときものはない」と。杜甫はまたよく時事を述べたが、調子がよくて対句がうまく、千言を費しても少しも緩むところがない。そうした時は世に詩史と呼ばれている。昌黎公の韓愈は、文章においてはなかなか人を認めなかったが、歌詩に至っては独り推挙していうのに、「李杜に文章の在りて、光は万丈も長し」と。その評言はまことに信頼してよいといえよう。


  王勃は、字は子安で、絳州(山西省)龍門の人である。六歳にして文章をよくし、九歳で顔師古が注釈した『漢書』を読め、誤ちを指摘し間違いを見つけ出した。麟徳年間(664-665)初頭、劉祥道が関内を巡行し、王勃は書をたてまつって自らの意見を述べたから、劉祥道は朝廷に上表し、成績優秀で合格した。年齢はまだ加冠の歳ではなかったが、朝散郎を授けられ、しばしば頌を宮中に献上した。沛王李賢はその名を聞いて、召しかかえて沛王府の修撰とし、論じて「平台秘略」を著した。書が完成すると沛王は寵愛して重んじた。当時、諸王たちは闘鶏をしていたが、王勃は戯れに「英王(後の中宗)の鶏に檄する文」をつくったから、高宗は「これがもとで諍いとなるだろう」と怒り、出府をさしとめた。

  王勃は失脚すると、剣南の地で客となった。かつて葛憒山に登って展望し、慨然として諸葛亮の功績を思い、詩を賦して心内を詠んだ。虢州に薬草が多いことを聞いて、参軍に任命されることをのぞんだ。才能を鼻にかけて傲慢に振る舞ったので、同僚の憎しみを買った。官奴の曹達が罪を犯したのを、王勃が匿ったが、事が露見するのを恐れて、たちまち殺してしまった。事件が発覚して死刑にあたるところを、たまたま恩赦にあって除名のみとなった。父の王福畤は雍州司功参軍であったところを、王勃に連座したため交阯令に左遷された。王勃は父に会いに行く途中、海を渡ったところ水に溺れ、衰弱して卒した。年二十九歳。

  それより以前、旅して鍾陵に出て、九月九日に都督の大宴が滕王閣で行われ、その婿に命じて作らせた序を客に見せびらかしており、そこで紙と筆を出してきてしきりに客に請うのであったが、あえて誰もそれにあたる者はいなかった。王勃の所に来ると、おおらかにも辞退しなかった。都督は怒り、席を立って着替えに行くとみせかけ、官吏を遣わしてその文をつくる様子を伺わせて逐一報告させた。一度、二度と都督のもとに報告がくるたびに、語はますます優れていき、そこでハッとして「天才だ」といい、ついに都督は王勃に文を完成させることを頼み込んだ。そのため場は喜びに満ちて解散となった。王勃は文をつくると、はじめからとくに考えもせずに、まず墨を磨いて数升すり、呑んで酩酊して布団を引っ張って寝転がり、目覚めると筆を走らせて篇を完成させ、一字も変えることがなかったから、当時の人は王勃のことを「腹稿」といった。王勃はとりわけ著述を好んだ。

  それより以前、祖父の王通は、隋末に白牛渓にいて、門人を教えていたがその数は非常に多かった。かつて漢・魏より晋まで書をつくること百二十篇、古尚書に続かせたが、後にその序は失われてしまい、書に無いもの十篇を再録し、王勃が欠損を補完し、定めて二十五篇を著した。かつて人の子は医術を知らないでいるべきではないと言い、当時長安の曹元なる秘術つかいがいて、王勃は彼に学び、その要領を尽くしたのである。かつて『易経』を読んでいると、夜に夢で告げる者があり、「易には太極がある。お前は懸命に研究しなさい」と言い、目覚めると『周易発揮』数篇をつくったが、「火地晋卦」の部分にいたるとたまたま病に罹ったため止めてしまった。また、「王者で土徳の王は、世代は五十代で千年にもなる。金徳の王は、世代は四十九代で九百年。水徳の王は、世代は二十代で六百年。木徳の王は、世代は三十代で八百年。火徳の王は、世代は二十代で七百年。これは天地の一定不変の期限である。黄帝から漢までが五行の順序通りの帝王で、五行が一巡りし、土運がもう一度唐に戻ってきた。唐は周・漢を受け継ぎ、北周・隋の短い時代を受け継いではならない」と延べ、そこで魏・晋以降は真主正統ではなく、皆五行の災害不祥の気であるとし、ついに『唐家千歳暦』をつくった。

  武后の時、李嗣真は周・漢を二王後(前朝待遇)として、北周・隋を二王後から廃することを願い出た。中宗は再び北周・隋を二王後とした。天宝年間(742-756)、太平なること久しく、上言する者の多くは欺いてこれまでとは違うものをすすめようとした。崔昌なる者が王勃の旧説を採用し、五行応運暦を献上し、周・漢を二王後として、北周・隋を二王後から廃して非正統とし、右相の李林甫がまた賛同して補助した。公卿を集めて可否を議させると、集賢学士の衛包・起居舎人の閻伯璵が上表して、「都堂集議の時、四星が尾に集まっており、天意はあきらかなのです」と言ったから、ここに玄宗は詔を下して唐は漢王朝の後継をとし、隋以前の帝王をしりぞけ、介国公(北周の後裔)・酅国公(隋の後裔)を廃し、周・漢を尊んで二王後とし、商を三恪とし、京城に周の武王・漢の高祖の廟を建立した。崔昌に太子賛善大夫を、衛包に司虞員外郎を授けた。今度は楊国忠が右相となると、自ら隋の宗室であると自称し、建議して再び魏を三恪とし、北周・隋を二王後とし、酅国公・介国公の二公に再び旧封を授け、崔昌を烏雷尉に、衛包を夜郎尉に、閻伯璵を涪川尉に左遷した。

  王勃の兄の王勮、弟の王助は皆進士に及第した。

  王勮は、長寿年間(692-693)に鳳閣舎人となり、寿春王李成器ら五王が宮中を出て封地に赴任することとなり、役人が儀式を準備したが、冊文を記載し忘れてしまい、群臣はすでに勢ぞろいしており、そこでその落ち度があることが発覚し、宰相は顔色が真っ青となった。王勮は五人の官吏を呼び寄せて執筆させ、それぞれわけてその文を口述筆記させると、鮮やかにすべて終わってしまった。人々は感服した。ついで弘文館学士を加えられ、天官侍郎を兼任した。それより以前、裴行倹が官吏の選考をつかさどって、王勮と蘇味道を見て、「この二人は人事選考の才能がある」と言い、ここに到って言った通りとなった。王勮はもとから劉思体と親しく、用いて箕州刺史としたが、綦連耀とともに謀反したため、王勮と兄で涇州刺史の王勔が助力したとして全員連座して誅殺された。神龍年間(705-707)初頭、詔して復官した。

  王助は、字は子功で、七歳にして母を失って哀惜の声をあげ、隣里に泣き声が届くほどであった。父の喪になると、悲しみのあまり痩せ細って骨ばかりとなった。服喪がすぎると、監察御史裏行となった。

  それより以前、王勔王勮王勃は皆才名があらわれ、そのため杜易簡は「三珠樹」と称した。その後王助王劼もまた文によって名があらわれた。王劼は若くに卒した。王福畤の末っ子の王勧もまた文名があった。王福畤はかつて韓思彦に自慢し、韓思彦は戯れに、「武氏の子に馬癖があり、君には自分の子を誉める癖がある。王家の癖はなんと多いことなのか」と言ったから、王福畤は王助に文章をつくらせて出させた。韓思彦は、「あんな子が産まれたら、そりゃ自慢したくもなるよ」と言った。

  王勃と楊炯盧照隣駱賓王は皆文章によって名を等しく知られ、天下は「王・楊・盧・駱」と称し、「四傑」と号した。楊炯はかつて「盧の前に置かれるのは気がひける。王の後に置かれるのはしゃくにさわる」と言ったが、議する者はそうだと言い合った。


  楊炯は、華陰の人である。神童科の試験に合格し、校書郎を授けられた。永隆二年(681)、皇太子が釈奠を執り行った時、上表して天下の英俊を崇文館学士に充てることとなり、中書侍郎の薛元超は楊炯および鄭祖玄鄧玄挺崔融らを推挙し、詔して認可された。詹事司直に遷った。しばらくして従父弟の楊神譲徐敬業の乱に参加したのに連座して、都より出されて梓州司法参軍となった。盈川県の県令となり、張説は行くのに際して箴を贈り、その苛烈な性格を戒めた。官となると、果たして厳しく酷薄で、官吏は少しでも意に違えば、笞打って殺し、人でなしなことが多かった。在官のまま卒し、中宗の時に著作郎を贈られた。


  盧照隣は、字を昇之といい、范陽の人である。十歳のとき、曹憲・王義方について古代の字書を学んだ。鄧王李元裕の宮家で典籤に任命されたが、王はことのほかめをかけ、人に向かって「この男はわしの司馬相如だ」といった。新都県の尉に任命されたが、病気のため官を去った。太白山に住み、方士の調合した玄明膏を手にいれて 服用した。ちょうど父の死去にあい、号泣して吐き気をもよおし、腹にあった丹薬が出てしまった。このことから病気はいっそうひどくなった。東龍門山に身を寄せたが、そまつな衣服に野菜のスープといった生活で、裴瑾之・韋方質・范履冰などが、しょっちゅう衣服や薬をおくってくれた。病気はひどくなり、足はひきつり、片手も役に立たなくなった。そこで具茨山の麓に行き、数十畝の畑を買い、緑水の川から水を引き、家の周囲にめぐらした。またあらかじめ墓を作り、その中に身を横たえた。盧照隣は思いめぐらすと、高宗の時代(649-683)には実務家を尊重したのに自分ひとりが儒者であり、武后の時代(684-705)には法律万能であったのに自分ひとりが道教にこり、武后が嵩山で天を祭る儀式を行い、度々すぐれた人物を招聘するようになったときには、自分は役に立たなくなっていると考えたから、「五悲」という文章を書いて、自分の気持ちを明らかにした。永年の大病の末、親類縁者と訣別し、穎水に身を投げた。


  駱賓王は、義烏の人である。七歳で詩を作ることができた。最初、道王李元慶家の属官となった。あるとき、王は自分の得意とすることを述べさせたが、駱賓王は返答しなかった。武功県の主簿を歴任した。裴行倹が洮州総管になると、書簡・上奏を担当させようと、かれの任命を申請したがかれは応じなかった。長安県の主簿に任じられた。武后時代、たびたび上奏文をたてまつって意見を具申し、臨海県の丞(次官)に左遷された。くさくさして心が満たされず、官を捨てて去った。徐敬業が反乱を起こすと、その幕僚とした。駱賓王は徐敬業のために檄文を書いて天下に呼びかけ、武后の罪を指弾した。武后は読んでせせら笑っていただけだったが、「一抔の土未だ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る」という箇所までくると、きっとなって「誰がこれを書いたのか」といった。駱賓王ですと答えるものがあると、武后は「宰相がどうしてこれほどの男をほうっておいてよいものか」といった。徐敬業が敗北すると、駱賓王は逃亡し、その行方は分からなかった。中宗の時代、詔勅を下してかれの文章を探し求め、数百篇を得た。


  後年、崔融張説に向かって王勃らを批評して、「王勃の文章は壮大で普通人の及ぶところではない。楊炯盧照隣ならば追いつくことができる」。張説は「そうではない。楊盈川(楊炯)の文章は、たぎり落ちる滝のようで、酌んでもつきない。盧照隣よりもすぐれ、王勃にひけをとらぬ。王勃・楊炯・盧照隣・駱賓王は四傑といわれ「王楊盧駱」と称されたのに対し、楊炯はかつて「わしは盧の前に置かれるのは気がひける。王の後に置かれるのはしゃくにさわる」といったが、後に置かれるのはしゃくにさわるとは、なるほどもっともだ。前に置かれるのは気がひけるとは、謙遜である」といった。

  開元年間(713-741)、張説徐堅と近代の文章を評論した。張説は「李嶠崔融薛稷宋之問の文章は、良質の金、美しい玉のようで、何にでも適用できる。富嘉謨は孤峯絶壁が万仞の高さにそそりたち、密雲わき起こり、鳴りとどろくいかづちが一斉に発するようで、いかにもいかめしいが、もし宮廷・宗廟に用いるならば、度胆をぬくであろう。閻朝隠はきらびやかな衣服にあでやかな化粧をし、燕の国の歌をうたい趙の国の舞をまっているようで、観客は疲れを感じない。もしこれを詩経の仲間に入れようとすれば、とんでもないことになる」といった。徐堅が「現代はどうだね」とたずねると、張説は「韓休の文章は大羹玄酒のように、典雅であるけれども、滋味は少ない。許景先は豊満できめ細やかな肌のように、華やかさは愛すべきだが、迫力に乏しい。張九齢は軽やかな白絹のように、当面の実用にはなるが、はばがせまい。王翰は玉の杯のように、あざやかで珍重すべきだが、きずが多い」。徐堅はもっともな議論だと言ったよしである。


  元万頃は、後魏(北魏)の京兆王の元子推の末裔である。祖父の元白沢は、武徳年間(618-623)、仕えて梁・利の十一州都督となり、新安公に封ぜられた。元万頃は家の蔭位によって通事舎人に任じられた。

  李勣に従って高麗遠征に従軍し、管書記となった。李勣は別将の郭待封に命じて水軍で平壌に向かわせ、馮師本に兵糧を運搬させて後詰めとしたが、間に合わなかったか。李勣に知らせようと思ったが、諜報によって敵の手に落ちることを恐れ、元万頃は作離合詩をつくって李勣に元に送った。李勣は「軍機が切迫しているのに、どうして詩なんかをつくったのか」と言い、郭待封を斬ろうとしたから、元万頃は詩の意味を読み解いたから、助命された。ま元万頃に高麗を責める檄文を作らせたが、鴨淥の要衝を守る者がいないと非難したところ、莫離支(泉男生)が「謹んでご命令を聞こう」と答えて兵を移動させて防衛したから、軍は進入することができなかった。高宗はこれを聞いて、元万頃を嶺南に流謫した。

  赦されて召還され、著作郎となった。武后は帝にほのめかして諸儒を召集して禁中で論述させ、元万頃は周王府戸曹参軍の范履冰苗神客・太子舎人の周思茂・右史の胡楚賓とともに選にあたり、『列女伝』・『臣軌』・『百寮新戒』・『楽書』等の九千篇あまりを編纂させた。朝廷に疑議の表疏が来るとすべて密使が元万頃らのもとに来て、宰相の権限を分割するようなものであったから、そのため当時の人は「北門学士」と呼んだ。周思茂・范履冰・苗神客は帝の左右に供奉することは約二十年あまりにも及んだ。

  元万頃は文章に巧みであったが、放縦で細かいことにこだわらず、儒者の雰囲気がなかった。武后の時、累進して鳳閣侍郎となったが、連座して誅殺された。


  范履冰は、河内の人である。垂拱年間(685-688)、鸞台天官二侍郎・春官尚書・同鳳閣鸞台平章事(宰相)を歴任し、修国史を兼任した。載初年間初頭(689)、叛乱摘発に連座して殺された。


  苗神客は、東光の人で、著作郎で終わった。


  周思茂は、漳南の人であり、弟の周思鈞とともに早くから名を知られた。累進して麟台少監・崇文館学士となった。垂拱年間(685-688)、獄に下されて死んだ。


  胡楚賓は、秋浦の人である。文章をつくるのがかなり速く、必ず酒を飲んでから筆を取った。高宗が作文を命じた時に、常に金銀の杯酒を賜って飲み、文章が完成すると杯を賜った。家にいてもいつも飲んでいたから、蓄えが貯まらず、金が尽きるとまた宮中に入り、賜い物を得て出てくる、いつもそんな感じであった。性格は慎重で、禁中の事を語ったことはなく、ある人が酔わせて聞いてみたが、また熟視するだけで答えなかった。崇賢直学士を兼任し、卒した。


  元万頃の孫の元正は、名節をおさめたから、明経に挙げられて成績優秀で及第し、監門衛兵曹参軍を授けられた。舅の孫逖と物の理を話し合い、おのれが及ばないことを歎いた。粛宗の在位の初め、吏部尚書の崔寓典が選にあたり、元正を書判第一として召還して京師に到らせようとしたが、父の元詢倩が老いて、看病するからとして辞退した。河南節度使の崔光遠が上表してその幕府に置いた。史思明が河・洛の地を陥落させると、父を載せて山中に隠れたが、賊はその名声を求めたから、元正は事が急であると考え、弟に「賊の禄で親を養ってはならない。彼らが私の名で利することを免れることは難しいだろう。しかし身を汚さずに死ねば、私は生きているようなものだ」と言った。賊は元正を捕らえると、高位で誘ったが、目を怒らせて固く拒絶したから、兄弟は全員殺害され、父も聞いいて毒薬を仰いで死に、路行く人々は涙を流した。乱が平定されると、詔して節義で斃れた者十一姓を記録したが、元正をその冠とした。秘書少監を贈られ、その子の元義方を華州参軍とした。


  元義方は、京兆府司録に任じられ、韋夏卿・李実継が京兆尹となると、事がおこると必ず諮問された。虢州と商州の二州の刺史、福建観察使を歴任した。宦官の吐突承璀は閩(福建)の人であり、元義方はその親族を用いて側近とした。李吉甫が再度宰相となると、密かに吐突承璀の宮中の奥での助けを望み、そこで元義方を召還して京兆尹とした。李絳はその党派を憎み、京師から出して鄜坊観察使とした。すべての統治の方法は過酷であったから、人々の多くは怨んだ。卒すると左散騎常侍を贈られた。


  弟の元季方は、明経科に推挙され、楚丘県の尉に任命され、殿中侍御史となった。兵部尚書の王紹が上表して度支員外郎となり、金・膳二部の郎中となり、「能職」と号された。王叔文が重用されると、元季方を嫌ったから用いられず、兵部郎中として新羅に派遣された。新羅では中国の喪を聞いても、常に使者を派遣するわけではなく、供物も乏しかったから、元季方は色を正して責め、戸を閉ざして絶食して死を待った。夷人は悔いて謝り、好を結んで帰還した。卒した時、年五十一歳で、同州刺史を贈られた。

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最終更新:2024年11月03日 21:08
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