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巻一百九十六 列伝第一百二十一

唐書巻一百九十六

列伝第一百二十一

隠逸

王績 朱桃椎 孫思邈 田游巌 史徳義 孟詵 王友貞 王希夷 李元愷 衛大経 武攸緒 白履忠 盧鴻 呉筠 潘師正 劉道合 司馬承禎 賀知章 秦系 張志和 孔述睿 敏行 陸羽 崔覲 陸亀蒙



  古の隠者には、大体三種類がいる。上なる者は、身を隠しても徳は晦まさず、そのため自らの身を草野に放ったとしても、名は行ったところにそのままあらわれ、天子のような貴いものであっても、その跡を追って招聘したいと思うのである。その次なる者は、治世にあってそれを伸ばすことができず、あるいは品行が剛直で卑俗に屈さず、世の中の動きに応えたとはいえ、爵位や俸禄があってもおおらかに受け取り、それでありながら悠然として辞し、人君に常に仰ぎ慕わるものがあり、唖然として足りないかのようであるのが、その貴ぶべきところである。末なる者は、素質は薄弱で、山林を楽しみ、内にはその才能を秘めながら、ついに現実の世の中を捨てられず、そのため丘園に逃れて帰ってこず、人から常にその風が高いからと敢えて非難されないものである。また世には今まで欺瞞しなかった者はおらず、それにも関わらず今まで褒賞されずに先駆した者がいるのは、孔子がいうところの「隠れた賢者を用いれば、天下の民は政治に心を帰属させるであろう(『論語』堯曰篇)」とあるからである。

  唐が勃興すると、賢人が高位にいることが多く、隠遁して出ない者は、わずかにぼつぼつと述べるほどであって、だが皆下っ端の者である。さりとてそれぞれがその素意を保っており、沈黙を言葉にして託することはせず、崖や渓谷で充分として、志は城宮にあるのである。しかし利益本位の連中は、隠遁を口実として自らの名声を高め、これによって仕官して禄を得るように騙し、その多さは肩が道で触れ合うようなもので、終南山や嵩山での隠遁は仕官の名声を得るための近道とのたまうようになり、高尚の節は失われるのである。そのため称賛して慕うべき者を集めて篇とした。


  王績は、字は無功で、絳州龍門の人である。性格は簡潔かつ豪放で、身を屈めて人に頭を下げることを喜ばなかった。兄の王通は、隋末の大儒である。生徒を河汾(山西省)に集めて、古作の六経にならって、また『中説』を『論語』に擬した。諸儒が道を称えていないとしたため、著作は広まらず、ただ『中説』だけが残った。王通は弟の王績が気まま勝手な性格であることを識っていたから、家の事をさせず、郷族の慶弔冠婚のことでもさせなかった。李播呂才と親しかった。

  大業年間(605-618)、孝悌廉潔科の試験を受けて、秘書正字に任命された。朝廷にいても楽しまず、自ら地方官を求めて六合県の丞となったが、酒を嗜んでは仕事にならず、当時天下は乱れていたから弾劾され、遂に解任されて去った。嘆いて、「網が高く張り巡らされた。こんなところは立ち去って安住の地に落ち着こう」と言い、そこで郷里に帰った。田十六頃が河渚にあった。仲長子光なる者がいて、これまた隠者であり、妻子がなく、庵を北渚につくり、約三十年間、その能力でなければ食べなかった。王績はその純真さを愛し、お近づきになりたいと移った。仲長子光は言葉を発しない人で、いまだかつて言葉を交わしたことはなかったが、互いに向かい合って酒を酌み交わし非常に楽しんだ。王績には奴婢数人があり、黍を植え、春秋に酒を醸し、野鴨や雁を育て、薬草を栽培して自身に供給した。『周易』・『老子』・『荘子』を枕元に置き、他の書物はまれに読むくらいだった。兄弟に会いたくなると、すぐに河を渡って家に戻った。北山東皋に遊び、著書には自ら「東皋子」と署した。牛を乗って道で酒に酔い、留っても数日ほどであった。

  高祖の武徳年間(618-626)初頭、前官の肩書によって門下省に待詔を仰せつかった。当時、慣例として酒が一日に三升官給されており、ある者に「待詔は何が楽しいですか」と聞かれたから、「いい酒が恋しいくらいだな」と答えた。侍中の陳叔達がこれを聞いて、一日に一斗支給されることとなり、当時の人は「斗酒学士」と称された。貞観年間(627-649)初頭、病気のために辞職した。官職に復帰したが、当時、太楽署の府史の焦革が家で酒をつくっており、王績は丞(次官)になりたいと希望した。吏部は清流(士人)がなるべき職ではないと許さなかったが、王績はしつこく頼み込んで、「ここにこそ深い意味があるんだ」と言ったから、ついに任命された。焦革が死ぬと、妻が酒を絶えず送ってくれたが、一年ほどでその妻も死んでしまったから、王績は「天は私に旨い酒を呑ませてくれなくなったな」と言って、官を棄てて去った。このとき以来、太楽丞は清流の職となった。後日、焦革の酒法を『酒経』とし、また杜康・儀狄以来の酒造りの名人たちの事績をあつめて『酒譜』をつくった。李淳風は「君こそ酒家の歴史家といえるだろう」と言った。居住していた東南に盤石があり、杜康の祠をつくって祭り、尊んで師とし、焦革を合祀した。『酔郷記』を著し、次いで「劉伶酒徳頌」を著した。酒を呑むと五斗でも乱れず、人が来れば酒で迎え、貴賤問わずすぐに行き、「五斗先生伝」をつくった。刺史の崔喜がこれを喜び、会いたいと思ったが、「どうして座ったままで厳君平(厳遵)を召されようとするのでしょうか」と言い、ついに行かなかった。杜之松は友人で刺史となったが、王績に礼を習うことを願った。「わたしには君主の門に礼拝して酒粕を談じてうまい酒を捨てることなんてできないな」と言ったから、杜之松は毎年季節になるとうまい酒を贈ってくれた。それより以前、兄の王凝が隋の著作郎となり、『隋書』を撰して完成前に死んでしまい、王績もその事業を継続したが、また完成できなかった。前もって死ぬ日を知り、薄葬を命じて自らその墓誌を書いた。

  王績は出仕すると酔っ払って失職するから、村人はこれを止めさせようと忠告したが、無心子に託して自らの心を伝えた。「無心子は越にあり。越王はその大人な人柄を知らなかった。仕えて留められたが、顔には喜びの様子はなかった。越の国法では、「放蕩なものは同等ではない」とあり、無心子が放蕩な人物であることが知られると、王は退けたが恨みをみせる様子はなかった。退いて野に放浪すると、通過した村で凡俗の人に出会った。凡俗の人は手で股を叩いて、「ああ、あなたのような賢者は罪があって廃されたのか」と言ったが、無心子は答えなかった。凡俗の人は、「おしえてください」と言うから、「あなたは蜚廉氏の馬について聞いたことがありますか。一頭は朱色の頸毛に白い柔毛、龍のような骨格かつ鳳凰のような見た目で、走りは舞いのようで、一日中轡を解かれなければ熱で死んでしまいます。一頭は頭が重くて尻尾ははねあがり、駱駝のような頭と足をしており、蹴飛ばしたりかじったりするがよく跳ね起き、あちこち野に放てば、歳末には肥えふとっています。鳳凰は山で暮らすことを嫌っておらず、龍は泥の中でとぐろまくことを恥じていません。君子は本当に清らかでなければ不幸に遭っているとし、放蕩を避けずに精神を保養するのです」と述べた。」自らを処することはこのようであった。


  朱桃椎は、益州成都の人である。淡白で俗世との交流を絶ち、裘(かわごろも)を着て縄を曳いており、人々は何をしているのかわからなかった。長史の竇軌が彼に面会し、衣服・鹿皮の頭巾、鹿皮の革靴を贈り、無理やり郷正(村長)に任命し、この地を委ねようとしたが、命令に服することをよしとはしなかった。改めて山中に家をつくり、夏は裸で、冬は木の皮や葉をまとって自らを覆い、贈り物は受け取ることはなかった。かつて十足の芒で織った沓を道の上に置き、見た者が「君士の沓だ」と言い、米や茶を売ってこれと変えて、この場所に置いて、たちまち取り去り、ついに人と接しなかった。沓は、草は柔らかく細く、しっかりと編まれており、人々は争ってその沓を履いた。高士廉が長史となると、贈り物を備えて招き、階段を降りて話したが、答えはなく、凝視して出ていった。高士廉は拝礼して、「先生、私はどうやったら無事に蜀を治められるでしょうか」と言い、そこで法律を簡素化し、賦税を軽くし、益州は大いに治った。しばしば人を派遣してご機嫌伺いさせたが、見るとたちまち林や草むらに走って自ら隠れてしまったという。


  孫思邈は、京兆華原県の人である。百家の説に通暁し、よく老子・荘周(荘子)のことを述べていた。周の洛州総管の独孤信が年少の時に面会し、彼を優れた人物だとし、「聖童であるが、器を見てみると大難があるが用いられる」と言った。成長すると、太白山に住んだ。隋の文帝が宰相となると、国子博士となって召還されたが、拝命しなかった。密かに人に向かって、「五十年後に聖人が出るから、私はまた彼を助けるのだ」と言っていた。太宗が即位した当初、召還されて京師に詣でた。年老いていたが、目や耳は明瞭であった。は感嘆して、「有道の者だな」と言い、官位を授けようと思ったが、受けなかった。顕慶年間(656-661)、再び召見され、諌議大夫を拝命したが固辞した。上元元年(674)、病と称して山に帰り、高宗は良馬を賜い、鄱陽公主の邑司に任じてここに居らせた。

  孫思邈は陰陽・推歩(天文)・医薬において得意ではないものはなく、孟詵盧照隣らは孫思邈に師事した。盧照隣には重い病気があり、どうすることもできず、感じ入って「名医が病気を治すのは、どうしてなのでしょうか」と尋ねた。孫思邈は次のように答えた。「天にはいつも五行があり、寒さや暑さは互いにやって来て、和するなら雨となり、怒りならば風となり、凝るなら雪霜となり、張れば虹となるのは、天の常数である。人の内蔵である四支五蔵や、目覚めては寝て、息を吸っては吐きのくりかえし、流れて栄衛(血脈)となり、しるしは顔色となり、発すれば音声となるのは、人の常数だ。陽はその形を用い、陰はその精を用いるのは、天人が同じくすることである。失わればわいて熱が生じ、そうでなければ寒さが生じ、結すれば瘤となり、陥没すれば腫れ物となり、走れば息切れし、乾けば焦げ付くように、面に発し、形を動かすのだ。天地もまたそうであり、五緯(木星・火星・土星・金星・水星の五星)の軌道は伸び縮みし、彗星は飛び流れるのは、天地の不祥の前兆である。寒いのも暑いのも常ではなく、天地がわくかどうかなのである。石が立って土が踊るのは、これは天地の瘤である。山が崩れて土が陥没するのは、これは天地の腫れ物である。強風が吹いて大雨となるのは天地の息切れであり、川の流れが枯れるのは天地の焦げ付きである。名医は導くのに治療法により、救うのに鍼や薬を用いる。聖人は和を以て至徳とし、助けるのに人事による。そのため身体には治すべき病があり、天には振うべき災いがあるのである。」

  盧照隣が「人事はどういうことでしょうか」と尋ねると、「心臓はこれを君主とし、君主は恭しみを尊ぶから、小を欲するのである。『詩』に「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如く(『詩経』小雅、小旻)」とあるのは、小のことを述べているのである。肝はこれの将となり、果断なる決断によって勤めとし、だから大を欲するのである。『詩』に、「雄々しき武夫は、公侯の護り手(『詩経』周南、免罝)」とあるのは、大のことを述べているのである。「仁者は静かなり(『論語』雍也篇)」とあるのは、地の象で、だから方を欲するのである。 『伝』に「利のために礼に背かず、義に照らしても心に疚しさを覚えない(『左伝』昭公三十一年)」とあるのは、方のことを述べているのである。「智者は動き(『論語』雍也篇)」とあるのは、天の象で、だから円を欲するのである。『易』に「その機を見て措置を講じ、日を終えるのを待たずただちにこれを実践にうつす(『易』繋辞下)」とあるのは、円のことを述べているのである」と答えた。

  また盧照隣が本性を育てる要について尋ねたから、以下のように返答した。「天には虚があふれ、人には危がたむろしているが、自ら慎まず、助けることができないのである。だから本性を育てるには必ずまずは自ら慎むことを知らなければならない。慎しみとは畏れがその根本となり、だから士は畏れることなければ仁義を簡素化し、農民は畏れることなければ種まきや収穫から堕落し、工人は畏れることなければ決められた寸法を適当にし、商人は畏れることなければ貨殖を増やさず、子は畏れることなければ孝を忘れ、父は畏れることなければ慈愛をやめ、臣は畏れることなければ勲功を立てず、君主は畏れることなければ乱れて統治しないのである。これによって太上であるのは道を畏れることで、その次が天を畏れることで、その次が物を畏れることで、その次が人を畏れることで、その次が自身を畏れることだ。自身を心配する者は人に拘泥せず、自分を畏れる者は彼を制さず、小に慎しむ者は大を恐れず、近きを戒める者は遠きを悔いることがない。これを知れば人事はすべてなのだ。」

  それより以前、魏徴らは斉・梁・周・隋等の五家の史書を修撰したが、しばしば遺漏がないかと尋ねたが、その伝えるところは最も詳しかった。永淳年間(682-683)初頭に卒し、年は百余歳で、薄葬を遺令し、明器(副葬品)を納めず、祭祀から犠牲を取り去った。

  孫処約はかつて子どもたちを会わせると、孫思邈は、「孫俊はまず名声を得るだろう。孫侑は晩年に尊くなる。孫佺は兵を率いることに禍いがある」と言ったが、後々すべてその通りであった。太子詹事の盧斉卿が幼かった頃、孫思邈は、「あと五十年で地方長官になるだろうが、私の孫が部下となるから、可愛がってくれよ」と言ったが、当時、孫思邈の孫の孫溥はまだ生まれていなかった。孫溥が徐州蕭県の丞となった時、盧斉卿は徐州刺史であった。


  田游巌は、京兆三原県の人である。永徽年間(650-655)、太学生となった。辞めて帰り、太白山に入った。母および妻がふたりとも俗世間から離れる意志があり、共に各地の山水で遊んだ。蜀から荊・楚を経て、夷陵青渓を愛し、留まってその側に庵を営んだ。長史の李安期がその才能を上奏し、召されて京師に赴いたが、汝州に到着したところで、病気によって辞退して箕山に入り、許由の祠の傍らに住み、自ら「由東隣」と号し、頻繁に召されたが出なかった。

  高宗が嵩山に行幸すると、中書侍郎の薛元超を派遣してその母のご機嫌伺いをし、薬や物や絹帛を賜った。が自らその門までやってくると、田游巌で出迎えて拝礼し、威儀は慎み深く、帝は側近に拝礼を止めるよう手助けさせて、「先生はこの頃はお元気でしょうか」と言うと、「臣はいわゆる泉石にとりつかれ、山水の美しさにひかれた病人になっています」と答えた。帝は、「朕が君を得られたなら、どうして漢が商山四皓を得られたのと違うことがあろうか」と言うと、薛元超は帝を称えて、「漢は嫡子を廃して庶子を立てようとしたから、四人が出てきたのです。どうして陛下のように自ら巌穴に降りてきたのと比べられましょうか」と言うと、帝は喜び、そこで田游巌に家族を率いて駅伝に乗って都に赴くよう勅し、崇文館学士を拝命した。帝は奉天宮を造営したが、田游巌の旧宅が奉天宮の左にあたったが、詔して壊すことを聴さなかった。天子は自ら立て札をその門に書いて、「隠士田游巌の宅」と書いた。太子洗馬に昇進した。裴炎が死ぬと、普段より親しかったことに連座し、放って山に返された。養蚕して自給耕作し、同時代の者と交わらず、ただ韓法昭と宋之問のみが俗世間の外の友としたという。


  当時、また史徳義という者がいて、崑山の人で、虎丘山に住んだ。牛に乗って瓢を持ち、城や野に出入りした。高宗がその名声を聞いて、召されたから洛陽にやってきたが、にわかに病と称して帰った。天授年間(690-692)初頭、江南宣労使の周興が推薦して、また召されて都に赴き、朝散大夫に抜擢された。周興が死ぬと、官を罷めて帰ったが、もとからの名声はやや衰えた。


  孟詵は、汝州梁県の人である。進士に及第して、鳳閣舎人となった。ある日、劉禕之の家にやってきて、賜った黄金を見て、「これは薬金です。焼くと火に五色の気があります」と言い、試しにやってみるとその通りであった。武后がこのことを聞いて不快となり、京師から出されて台州司馬となり、しばしして春官侍郎に遷った。相王が召して侍読となった。同州刺史を拝命した。神龍年間(707-710)初頭、致仕し、伊陽山に住み、薬の調剤の方法を治めた。睿宗に召されて、用いられようとしたが、老年を理由に固辞し、物百段を賜り、河南に詔して春と秋に羊・酒・お粥を給付された。河南尹の畢構は孟詵に古人の風があるから、住んでいるところを名付けて子平里とした。開元年間(713-741)初頭に卒し、年九十三歳であった。

  孟詵は官にいるときは非常に苛斂誅求で、しかもこれによって統治は称えられた。その間、かつて人に向かって、「本性を育てるということは、言うのは簡単だが実行することはできない。良薬は手から離すことはできない」と言い、当時の人々はその通りだと伝えあった。


  王友貞は、懐州河内の人である。父の王知敬は隷書をよくした。武后の時、仕えて麟台少監となった。王友貞は若くして司経局正字となった。母が病となり、医者が人肉を得て食べさせるとよくなると言ったため、王友貞は自分の股を割いて与え、母の病は癒えた。詔してその一門を表彰した。平素より学問を好み、子弟に教え諭すことは父母のようであった。口頭で人の過ちを語らず、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、当時の人々は君子だと思っていた。長水県令に任じられ、罷めて帰った。中宗が東宮であった時、召されて司議郎となったが、実際には職に就かなかった。神龍年間(707-710)初頭、太子中舎人として召されたが、病と称して固辞した。詔して珍肴を贈られ、禄を終身給付され、季節のたびにその所に贈られ、州県がご機嫌伺いをした。玄宗が東宮であったとき、上表によって蒲車で召されたが、やってこなかった。卒した時、年九十九歳で、銀青光禄大夫を追贈され、県令に勅して弔祭させた。


  王希夷は、徐州滕県の人である。家が貧しく、父母を喪い、人に使われて羊を放牧し、賃金を受け取って葬式を行った。嵩山に隠遁し、黄頤に師事して養生を学ぶこと四十年となった。黄頤が死ぬと、改めて兗州に住んで行き来し、劉玄博と友となって親しかった。『周易』・『老子』を読むことを喜び、松や柏の葉・雑花を食べ、年七十歳以上でも、筋力柔強であった。刺史の盧斉卿が面会して政治について尋ねると、「「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」、この言で足りる」と答えた。

  玄宗が東に巡狩すると、州県に詔してあつく行在に謁見するよう勧めさせ、当時九十歳以上で、張説に訪ねさせて政治のことを問いたださせ、宦官に助けられて宮中に入り、ともに語って非常に喜び、国子博士を拝命されたが、山に帰ることを聴された。州県に勅して春と秋に束帛・酒・肉を給付し、絹百・衣一揃えを賜った。


  李元愷は、邢州の人である。博学で、天文・律暦をよくし、性格は慎み深く、今まであえて人と語ったことがなかった。宋璟はかつて李元愷に師事し、宰相となると、厚く束帛を贈り、朝廷に推薦しようとしたが、拒んで答えなかった。洺州刺史の元行沖は迎えようとやって来て、経の語句の意味を尋ね、衣服を贈ったが、「私の身体は新しく綺麗な服を着るべきではない。相応でないもので咎めを招くことを恐れるのだ」と辞退したから、元行沖はまた汚れた服を与えると、やむを得ず受け取った。にわかに自らが養蚕でつくった白糸を返礼にして「理由もなく財を受け取るのはよくない」と言った。これより以前、定州の崔元鑑が礼学をよくし、張易之に用いられ、朝散大夫を授けられ、家は俸給を半分受けていた。李元愷は「功績もないのに禄を受けるのは災いだ」と謗った。卒した時、年八十歳以上であった。


  衛大経は、蒲州解県の人である。抜きん出て立派な行いをし、一度言ったことには二言がなかった。武后の時、召されたが、病と称して固辞した。平素より魏の夏侯乾童と親しく、その母が亡くなったことを聞いて、盛暑に歩いて弔問に向おうとすると、ある者が止めて「夏になろうとしてるのだから、遠い場所では書簡を送るのにこしたことがない」と言うと、「書簡で意を尽くすことができようか」と答え、到着した時、夏侯乾童が葬儀を行おうとしており、そこで席を設けて弔礼を行い、その家族を訪ねることなく帰還した。開元年間(713-741)初頭、畢構が刺史となると、県令の孔慎言に面会させようとしたが、辞退して面会しなかった。

  衛大経は易に詳しく、人々は「易聖」と言った。あらかじめ死ぬ日を占って、墓誌を彫って自ら記したが、終わりは記された通りであった。


  武攸緒は、則天皇后の兄の武惟良の子である。淡白な性格かつ寡欲で、易・荘周(荘子)の書籍を好んだ。若くして姓名を変え、長安の市で占いの商売をし、銭を得るとたちまち逃げ去った。後に太子通事舎人となり、累進して揚州大都督府長史・鴻臚少卿に遷った。武后が革命すると、安平郡王に封ぜられた。武后が中岳に封ずるのに従ったが、固く官を辞退し、隠居を願い出た。武后は偽りではないかと疑い、許したものの、行動を監視させた。武攸緒は巌の下に庵をつくり、もとからの隠遁者であるかのようで、武后はその兄の武攸宜を派遣して厚く賜い物をしたが、ついにそこから出ず、武后は不思議に思った。龍門・少室の間をさまよい歩き、冬は泥壁の家に住み、夏は石室にいて、賜った金銀や宝物・野服、王公から贈られた鹿の裘(かわごろも)・白衣の障子・癭(こぶ)木の杯は、塵となって流れ積まれ、用いなかった。田を潁陽で買って、家奴に雑作させ、自らは民に混ざった。晩年肌肉が消えて眼病となり、瞳に紫の光があり、昼でもよく星が見えた。

  中宗が即位したはじめ、巣国公に降封され、国子司業の杜慎盈を派遣して書簡によって安車で召還し、太子賓客を拝命した。再三山に戻れるよう願い出て、詔して裁可された。安楽公主が降嫁すると、また通事舎人の李邈を派遣して璽書で迎えた。到着しようとすると、は役人に勅して両儀殿に班位を設けさせ、道を尋ねる礼を行うこととし、詔して日頃山で過ごしていたような葛の頭巾のままでの謁見とし、名を呼ばず拝礼させないこととした。武攸緒が到着すると、冠帯に改めた。儀仗が入ると、通事舎人がつくべき班位の席を唱え、武攸緒は走って通常のように班位について再拝したから、帝は愕然とし、礼は行うに及ばずとし、朝廷は歎息した。賜い物は受けず、親族や貴い者が来謁しても、安否を訊ねた他は、何も言わなかった。帰ることになると、中書・門下・学士・朝官の五品以上が集まって、城の東で見送った。

  にわかに韋氏が誅殺され、武氏も連座したが、ただ武攸緒だけは追求が及ばなかった。睿宗は恐れて自らを安心させることができず、詔を下して慰諭させ、また召還されて太子賓客を拝命したが、任に就かなかった。譙王李重福の乱で、武攸緒は誣告によって拘禁されたが、張説が廬山に置くように上表し、中書令の姚元崇が「武攸緒は武后の時代であっても、簡単に出てきたことはありません。今州県に押し込めさせるなら、士は驚くでしょう。願わくば詔して嵩山の旧居を賜わりになり、州県に安否確認をさせてください」と奏上したから、詔して裁可された。開元十一年(724)卒した。


  白履忠は、汴州浚儀県の人である。文学・史書を熟知し、古大梁城に住んで、当時の人は梁丘子と号した。景雲年間(710-712)、召されて校書郎となったが、官を棄てて去った。開元十年(722)、刑部尚書の王志愔が白履忠のことを博学で操を守っており、褚无量馬懐素に代わって入閤して侍読とすべき人物であると推薦して、国子祭酒の楊瑒もまたその賢人ぶりを上表し、召されて京師に赴いた。病と老いのため職にたえないと辞退すると、詔して朝散大夫を拝命した。帰還を願うと、手づから詔して京師で遊ぶことを許し、おもむろに郷里に帰った。白履忠は数月留まってから去った。

  呉兢はその里の人であり、「あなたは平素から貧しく、一斗の米、一匹の帛すら満足ではないのに、五品の官を得たところで何の益がありますか」と言ったから、白履忠は、「契丹が入寇してきて、家々では討伐のための夫役を徴発で取られているが、私は読書によって、県から免除されている。今終身高臥し、傜役からのびのびしているが、どうして簡単に得られようか」と答えた。


  盧鴻は、字は顥然で、その先祖は幽州范陽県の人で、洛陽に移った。博学で、籀(大篆)を書くことをよくした。嵩山を家とした。玄宗の開元年間(713-741)初頭、礼を備えて召されること再三であったが、やって来なかった。開元五年(717)、詔に次のように述べた。「鴻には老荘の道、中庸の徳があり、その鉤爪は微かで奥深く、自然広大でしっかりとしている。詔書をしばしば下したが、そのたびにたちまち口を閉ざして謝絶しており、朕は心を虚しくして首を長くして待たされること、今まで数年になろうとしている。平素から幽人の助けを得るとはいえ、亡き父がますます威儀を正してきた命を失うのだ。どうして朝廷がからといって趣を異にするようなことがおこるというのだろうか。もし勝手気ままに山林を行き来するのに、行って帰って来ることができないというのであろうか。礼には大倫があり、君臣の義は廃するべきではない。今、城・宮殿は近くに接し、労とするほどではない。役人に束帛の一具をもたらし、重ねてこの趣旨を宣旨させるのは、これによって今までの生き方を一変するだろうと思うからであり、朕の意に沿っているのだ」

  盧鴻が東都にやって来ると、玄宗に謁見したが拝礼せず、宰相が通事舎人を派遣してその理由を問いただした。「礼は、忠信が軽んじるところで、臣はあえて忠信によってお目見えするのです」と答えた。は召寄せて内殿に昇らせ、酒宴をした。諌議大夫を拝命したが、固辞した。また制を下して、山に帰ることを許し、毎年米百斛・絹五十を給付し、府県にその家を訪ねさせ、朝廷の得失を聞き、そのことを報告させた。出発しようとした時、隠居の服を賜り、官が草堂を営み、恩礼はことさらに厚かった。盧鴻が山中に到着すると、学舎を広くし、生徒を集めること五百人になった。卒すると、帝は一万銭を賜った。盧鴻は自分の居室を、自ら「寧極」と号したという。


  呉筠は、字は貞節で、華州華陰県の人である。経書の意味内容に通じ、文章は美しく、進士に推挙されたが及第しなかった。性格は高邁かつ剛直で、時代の浮き沈みに堪えられず、去って南陽倚帝山に居住した。

  天宝年間(742-756)初頭、召されて京師にやって来て、道士の籍に属するよう願い、そこで嵩山に入って潘師正に師事して、その術を究めた。南は天台山に遊び、海を見て、名のある士とともに娯楽し、彼らとの文章は京師まで伝わった。玄宗は使者を派遣して 大同殿で召見し、ともに語って非常に喜び、勅して待詔翰林となり、『玄綱』三篇を献上した。はかつて道を尋ねたが、「道に深いものは、老子の五千文に勝るものはありませんが、その他はいたずらに紙の束を失っているだけです」と答えたから、再び神仙修練の方法を尋ねると、「これは野人の事で、歳月を積んで求めていくものであって、人主の留意すべきことではありません」と答え、呉筠は開陳するごとに、すべて人のふみ行うべき道や世の中の務めであって、意味深い言葉で天子に仄めかしたから、天子は重んじた。仏僧たちはその厚遇に嫉妬して、高力士が平素から仏教につかえていたから、共に呉筠についてを帝に告げ口し、呉筠もまた天下が乱れようとしていることを予見し、嵩山に帰ることを嘆願した。詔して彼のために道館を建てた。安禄山が挙兵しようとすると、そこで茅山に帰還した。両京が陥落し、江・淮に盗賊が起こると、東は会稽・剡渓一帯に入った。大暦十三年(778)卒し、弟子は私諡して宗元先生とした。

  それより以前、呉筠は高力士に憎まれて排斥され、そのため文章は仏僧に非常に悪様に言われた。呉筠が親しかったのは孔巣父李白で、歌詩は大概同格であったという。


  潘師正は、貝州宗城県の人である。若くして母を喪い、墓を家とし、そのため孝によって有名になった。王遠知に仕えて道士となり、その術を得て、逍遥谷に住んだ。高宗が東都に行幸すると、召見され、必要なものを尋ねると、「松は茂り、泉は清らかであることが臣にとって必要とするところですが、すでに乏しくはありません」と答えたから、は尊んで優れたものと思い、詔してその家を崇唐観とした。奉天宮を造営すると、また勅して逍遥谷に向かって門をつくって「仙游」といい、北を「尋真」といった。当時、太常が新楽を献上すると、帝はさらに祈仙・望仙・翹仙曲と名付けた。卒した時、年九十八歳で、太中大夫を追贈して、体玄先生を諡した。


  また劉道合という者がいて、同じく潘師正とともに嵩山に住み、はそこで劉道合が隠遁していた所に太一観を建てて住まわせた。当時、太山を封じようとしていたが、雨が止まず、帝は劉道合に祈らせると、にわかに晴れ、そこで駅伝で馳せさせて先行して太山で祈らせた。得た賞賜はたちまち散らして貧乏となり、蓄えることはなかった。

  咸亨年間(670-674)、のために丹薬をつくり、調剤がなってから卒した。帝は後に宮室を営み、劉道合の墓を遷して、その棺を開けてみると、骸は裂けて抜け殻になったかのようであった。帝はそのことを聞くと、「私のために丹薬を調合したのに、自分だけ服用して去りよって」と恨んだが、残された丹薬は他と異なることはなかった。


  司馬承禎は、字は子微で、洛州温県の人である。潘師正に仕えて、辟穀術(断穀)・導引術を伝えられ、通暁しないものはなかった。潘師正は優れた人物だと思い、「私は陶隠居(陶弘景)から正一法を得て、四世となる」と言い、そこで挨拶して去り、名山を遍歴し、天台を家として出なかった。武后はかつて召寄せたが、しばらくもしないうちに去った。睿宗が再びその兄の司馬承禕に命じて赴いて呼び寄せた。やって来ると、掖廷に引き入れられ、その術を尋ねられた。「「道を修めると日に日に知識が失われていく。知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ(『老子』第四十八章)」とあります。また心や目で知見するところは、減らしたとしてもなお止むことできず、ましてや異端を攻めたところで知識が増えるのでしょうか」と答えると、帝は「身を治めるのはそうなのだろう。国を治めるのはどうか」と尋ねると、「国を身のようなものです。そのため「お前の心を恬淡無欲の境地に遊ばせ、お前の気を空漠静寂の境涯に合わせ、何事についてもその自然なあり方に従って自分の勝手な心をさしはさむことのないようにしたなら、天下はうまく治まるであろう(『荘子』内篇、応帝王篇第七)」というのです」と答えると、は歎息して、「広大な言いだな」と言い、宝琴・霞紋の着物を賜い、帰した。

  開元年間(713-741)、再び召されて都に到着し、玄宗は詔して王屋山に壇室をつくって住んだ。篆書・隸書をよくし、は命じて三書体で老子を書写し、語句を校訂・刊行した。また玉真公主および光禄卿の韋縚に命じて司馬承禎の住むところに向かわせ、司馬承禎は金籙を授けて祠を設けたから、帝は厚く賜い物をした。卒した時、年八十九歳で、銀青光禄大夫を追贈し、貞一先生と諡し、帝自らその碑を書いた。

  潘師正劉道合から司馬承禎らとともに、言葉はでたらめで方士に似ており、これらを削除して記録しなかったが、直にその蘊奥を採用したという。


  賀知章は、字は季真で、越州永興県の人である。性格は度量が広く開けっぴろげで、談論をよくし、族姑の子の陸象先と親しかった。陸象先はかつてある人に向かって「季真は清譚風流で、私は一日も会わなければ、せせこましい心が生まれてくる」と言っていた。

  証聖年間(695)初頭、進士・超抜群類科に及第し、太常博士に遷った。張説が麗正殿修書使となると、賀知章および徐堅趙冬曦を上表して入院させ、『六典』等の書籍を編纂させたが、長年かかったものの完成しなかった。開元十三年(725)、礼部侍郎、兼集賢院学士に任じられたが、一日で両方とも辞退した。宰相の源乾曜が張説に「賀公は両職の誉れに命じられ、栄誉にたるものがあったが、学士と侍郎とではどちらがよかったのだろうか」と語ると、張説は「侍郎は身分衣冠による選ですが、具員(五位以上の官の名簿)の役人から選ばなくてはなりません。学士は先王の道、経書・緯書の文からの考察によりますが、具員以降の者を処遇しています。この場合はその間がよかったのです」と言った。玄宗は自ら賛をつくって賜った。太子右庶子、充侍読に遷った。

  申王が薨去すると、詔して挽郎に選ばれたが、賀知章は不平を放置し、貴族の子弟が争って騒ぎ立てるのを止めることができず、賀知章は牆の上に登って首を出して物事を決したから、人々は皆馬鹿にし、罪とされて工部に遷った。粛宗が太子となると、賀知章は賓客に遷り、秘書監となったが、左補闕の薛令之とともに侍読を兼任した。当時、東宮の官は長年異動がなく、薛令之は壁に礼遇が薄いことを恨んで書きつけたが、が見ると「自分自身の心のままにすること聴す」と書き付けた。薛令之はそこで官を棄て、徒歩で郷里に帰った。

  賀知章は晩年勝手気ままで傲慢となり、村々を遊び楽しみ、自ら「四明狂客」および「秘書外監」と号した。酔うたびにたちまち文章をつくり、筆は書いて止まらず、すべてみるべきものがあり、訂正したことがなかった。草書・隸書をよくし、好事家は筆と硯を携帯して賀知章に従い、意に適うことがあれば、揮毫を拒まなかったが、紙にわずかに十数字であっても、世間では伝えて宝とした。

  天宝年間(742-756)初頭、病となり、宮殿で遊ぶ夢を見て、数日して目覚めると、道士となって、郷里に帰ることを願い出て、詔して許され、邸宅を千秋観としてここに住むこととした。また周宮湖の数頃の地を求めて放生池とし、詔があって鏡湖・剡川の一帯を賜った。出発すると、は詩を賜い、皇太子・百官は餞別した。その子の賀曾を抜擢して会稽郡司馬とし、緋魚を賜い、侍り養わせ、幼子もまた道士となることを聴した。卒した時、年八十六歳であった。粛宗の乾元年間(758-760)初頭、旧事によって、礼部尚書を追贈された。


  薛令之は、長渓県の人である。粛宗が同じく旧恩によって召寄せたが、薛令之はその前に卒していた。


  秦系は、字は公緒で、越州会稽県の人である。天宝年間(742-756)末、乱を剡渓に避け、北都留守の薛兼訓は上奏して右衛率府倉曹参軍としたが、就任しなかった。泉州をさまよい、南安に九日山があり、大きな松が百本以上あり、俗伝では東晋の時に植えられたといい、秦系はその山の上に庵を営み、穴のあいた石を硯とし、『老子』の注釈書を書いたが、年月を経ても出てこなかった。刺史の薛播がしばしば往見し、毎年季節替わりになると羊酒を送り届けたが、秦系は出てきて城門ですらやって来たことがなかった。姜公輔が流謫すると、秦系に面会し、一日が終わろうとしても去ることができず、家を造って互いに近くにいて、流落の苦みを忘れた。姜公輔が卒すると、妻子が遠くにいたから、秦系が姜公輔を山の下に葬った。張建封は秦系が宮仕えを拒んでいることを聞いて、校書郎を加えることを願った。

  劉長卿と親しく、詩のよって互いに贈答しあった。権徳輿は、「劉長卿は自分のことを五言の長城だと思っているが、秦系がわずかな軍勢でこれを攻めているから、老いてもますます盛んだな」と言った。その後、東は秣陵に渡り、年八十歳以上で卒した。南安の人は秦系を思慕し、子の秦亭を立ててやり、その山を号して高士峰としたという。


  張志和は、字は子同で、婺州金華県の人である。初名は亀齢であった。父の張游朝は、『荘子』・『列子』の二書に通暁し、『象罔説』・『白馬証』の諸篇を著してその説を助けた。母は楓が腹の上で生えた夢をみて張志和を産んだ。十六歳で明経科に選ばれ、作戦案を粛宗に提出すると、特に褒賞されて重んじられ、待詔翰林に命じられ、左金吾衛録事参軍を授けられ、そこで名を賜った。後に事件に連座して南浦県尉に貶され、赦免されて帰還した時、親を亡くして喪に服し、再び仕えることなく、江湖に住み、自ら「煙波釣徒」と称した。『玄真子』を著し、またこれを自号とした。韋詣という者がいて、彼のために内解を撰述した。張志和はまた『太易』十五篇を著し、その卦は三百六十五卦であった。

  兄の張鶴齢は、張志和が遁世して戻ってこないことを恐れ、彼のために家を越州東郭につくったが、茨は草を生やし、椽や棟は斧による加工を施さず、豹皮の座席に棕櫚の履物で、釣糸を垂らすたびに餌をつけなかったのは、思いは魚を釣ることではなかったからである。県令は溝を浚わせたが、籠を持つばかりで逆らう様子はなかった。かつて大布で衣をつくろとし、兄嫁が自ら機織りして完成すると、これを着て、暑くても脱ぐことはなかった。

  観察使の陳少游がやってくると、日がな一日留まり、その家を上表して玄真坊とした。門が狭かったから、彼のために大門をつくり、回軒巷と号した。これより先、門は流水に阻まれて、橋がなかったから、陳少游は彼のために橋をつくり、人々は大夫橋と号した。帝はかつて奴と婢をそれぞれ一人づつ賜ったが、張志和は娶せて夫婦とし、漁童・樵青と名付けた。

  陸羽は常に、「どこを往来してきましたか」と尋ねると、「大空を部屋とし、明月を灯火とし、四海の諸公とともにいて、少しも分け隔てる心はなかった。何を往来するというのか」と答えた。顔真卿が湖州刺史となると、張志和はやって来て謁したが、顔真卿は舟がぼろぼろであるから、舟を替えるよう願った。張志和は、「浮かぶ家にして苕水・霅水のあたりを往来したいと思っているだけです」と答えた。弁舌の才覚の様子はこのようであった。

  山水を描くことを得意とし、酒が酣となると、ある時は鼓を打って笛を吹き、筆を舐めて整えるとたちまちに完成した。かつて漁歌をつくったが、憲宗が張志和の姿を描いて漁歌を求めたが、得られなかった。李徳裕は張志和を「隠れても名があり、名が顕れても何事もなく、窮せず達せず、後漢の厳光に比せられる」と称えたという。


  孔述睿は、越州山陰県の人である。梁の侍中の孔休源八世の孫である。高祖父の孔徳紹は、竇建徳に仕えて中書侍郎となり、かつて檄文の草稿をつくって太宗を悪様に述べ、賊が平定されると、捕らえられて汜水の楼に登らされ、太宗は孔述睿を「お前は檄文で私を謗ったのはどうしてか」と責めると、「犬が吠えるのはその主ではないからです」と答えると、は「賊を主だというのか」と怒り、勇士に命じて楼の下に墜落させた。曾祖父の孔昌寓は、字は広成で、貞観年間(623-649)に策問で回答して優秀な成績を治め、魏州司馬を歴任して、統治に優れたとの報告があり、帝はそのため魏州に刺史を設置しなかった。統治すること三年、璽書で褒賞され、膳部郎中に昇進した。祖父の孔祖舜は、字は奉先で、監察御史となり、部下に連座して成武県令に任じられ、仁政により雉がなれて庭に降りてきた。

  孔述睿は若くして兄の孔充符・弟の孔克譲とともに孝に篤く、父を失ってから、一緒に嵩山に隠棲した。しかし孔述睿は生まれつき学を好み、大暦年間(766-779)、劉晏代宗に推薦したから、太常寺協律郎となって召し出され、司勲員外郎・史館修撰に抜擢された。孔述睿は遷任するたびに、ただちに朝廷に到って謝し、にわかに病と称して帰り、これが常となった。

  徳宗が即位すると、諌議大夫を拝命し、河南尹の趙恵伯に命じて詔書と一束の帛といった礼物をもたせ、礼を備えて手厚く贈った。到着すると、別殿に対面し、邸宅を賜い、厩馬を給付し、兼皇太子侍読とした。固辞したが、許されなかった。しばらくして秘書少監、兼右庶子に改められ、再び史館修撰となった。孔述睿は地理志を重修し、本末は最も詳しかった。性格は謙遜の人で、人と争ったことはなく、親族や親しい者との宴会での集まりであっても、厳然として黙ること終日で、人々は恐れた。令狐峘と同職で、令狐峘はしばしば侮辱したが、しかしついに追い詰めなかったから、当時の人々は長者であると称えた。

  貞元四年(788)、は平涼の難(吐蕃による詐盟誘引による使節団襲撃事件)のことを思って非常に悲しんで心をいため、孔述睿が真面目で誠実であったから、そこで祭具を持たせて派遣し、臨祭を行うという詔を発した。また病によって解官を願うと、しばらくして許され、太子賓客の職によって帰郷し、帛五十匹・衣一襲を賜った。故事では、致仕すると公の駅馬を給さないことになっていたが、帝は特に命じて給わった。卒した時、年七十一歳で、工部尚書を追贈された。


  子の孔敏行は、字は至之で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第した。岳鄂観察使の呂元膺が上表したから節度府に入り、呂元膺が東都・河中に遷ると、たちまち府に従って遷った。京師に入って右拾遺を拝命し、四度仙人して司勲郎中・集賢殿学士・諌議大夫となった。李絳が殺害され、事の張本人は監軍の楊叔元であったが、当時の人々はあえて何も言わなかった。しかし孔敏行は上書して非常に厳しく訴えたから、楊叔元は罪とされた。名臣の子であって、若い頃から高潔で純粋で、仕官すると、当時の豪傑と交わり、名は当時有名であったが、節操は父に及ばなかった。卒した時、年三十九歳で、工部侍郎を追贈された。


  陸羽は、字は鴻漸で、一名は疾、字は季疵であるといい、復州竟陵県の人である。生まれた場所はわからず、あるいは僧が水浜で見つけて育てたともいう。成長すると、易で自らを筮(うらな)い、「蹇より漸に之く」を得た。「鴻陸に漸(いた)る、その羽を用て儀となすべし(『易』鴻)」とあり、そこで陸を氏とし、名付けて字とした。

  幼い時、その師匠が傍らで行書を教えたが、「兄弟が少なく、後嗣が絶えるのなら、孝とすることができますか」と答えたから、師は怒り、便所掃除や壁塗りをさせて苦しめ、また牛三十頭を放牧させたが、陸羽は密かに竹で牛の背に描いて字とした。張衡の「南都賦」を入手したが、読むことができず、端座して群児が習うのをささやいて熟読して読めるようになったが、師匠に捕まり、草刈りをさせられた。文字を書くにあたっては、ぼんやりとして残すことがあるかのようであったが、日を過ぎてもならず、いつも鞭打たれて苦しみ、そこで「歳月は過ぎ去るだけなのに、どうして書を知らないのか」と、嗚咽して自分ではどうすることもできず、そこで逃げ去って、匿われて俳優となり、諧謔数千言をつくった。

  天宝年間(742-756)、州の人で大宴会となり、役人は陸羽を俳優として呼んだが、太守の李斉物は見て、優れた人物だと思い、書を授け、遂に火門山に居を構えた。容貌は風采が上がらず、吃音があった。人の善を聞けば、自分がそうであるかのようであったが、過ちの者を見れば、ただし戒めて従順ではない人となった。朋友たちが集う所でも、心の中で行く所があればたちまち去ったから、人々は怒りっぽい人であると疑った。人と約束があれば、雨や雪、虎や狼がいても避けなかった。上元年間(760-761)初頭、さらに苕渓に隠棲し、自らを桑苧翁と称し、門を閉ざして書籍を著した。ある時は一人で野の中を行き、詩を詠んで木を叩き、徘徊したが満足せず、ある時は慟哭して帰り、そのため当時の人は「今接輿(接輿は孔子時代の世捨て人)」と言った。しばらくして、詔して陸羽を太子文学に任じ、太常寺太祝に遷ったが、実際の職にはつかなかった。貞元年間(785-805)末に卒した。

  陸羽は茶を嗜み、『茶経』三篇を著し、茶の源・茶の法・茶の具を述べては最も備わっており、天下はますます飲茶を知ることになった。当時、茶を売る者は、陶で陸羽の人形をつくって炉と煙突の間に置き、祀って茶神とした。常伯熊という者がいて、陸羽の論によってまた広く茶の功を著した。御史大夫の李季卿が江南を宣慰した時、臨淮に行って、常伯熊が茶を煮ることをよくすることを知って、召し出すと、常伯熊は茶器を持って前に出てきて、李季卿は二杯を飲んだ。李季卿が江南にやって来ると、また陸羽を薦める者がいたから、陸羽を召し出すと、陸羽は平民の服装で、茶器を捧げて入ってきたから、李季卿は礼遇せず、陸羽は恥じて、さらに『毀茶論』を著した。その後、茶を尚ぶことは世間の風潮となり、当時回紇が入朝すると、はじめて馬を駆けて茶を交易した。


  崔覲は、梁州城固県の人である。儒学によって自らの業とし、自ら耕作して自給した。老いても子がなく、そこで田宅・財産を分けて奴婢に給付してそれぞれに業とさせ、自らは妻と南山に隠れ、奴婢と約束して、その家を通り過ぎる時に酒食を提供させ、夫婦で歌い舞っては一緒に楽しみとした。山南西道節度使の鄭余慶辟署して参謀とし、手厚く就職を促したが、役人の事務に明るくはなかったから、鄭余慶は長者であると称えた。文宗の時、左補闕の王直方は、その里出身の宦官であり、彼に政事を上書し、便殿で面会すると、民間にうもれている有能な人を訪ねるよう述べ、王直方は崔覲の高尚な行いを推薦したから、詔して起居郎として召し出されたが、病と称して辞退してやって来なかった。


  陸亀蒙は、字は魯望で、陸元方の七代目の孫である。父の陸賓虞はすぐれた文章を書くことによって侍御史をつとめた。陸亀蒙は若くから昂然たるものがあり、六経の大義に通暁し、とりわけ『春秋』には明るかった。進士の受験資格はとったが、一度受けて合格せずそれきりにしてしまった。そこで都を去って湖州刺史の張摶についてその任地へ行った。張摶は湖州、蘇州刺史を歴任したが、かれを招いて自らの補佐としたのである。かつて饒州に行ったことがあるが、三日の間どこへも伺候しなかったところ、刺史の蔡京が部下をひきいて会いに来た。だがかれは蔡京をすかず衣のすそをはたいて去った。

  松江の里に住み、論著が多い。幽憂・疾病のうちにあり、十日の生計をたてるほどの金もないほどであったけれども、しばらくの間も書くことをやめなかった。文章が書きあがると原稿を文つづらの底にして、あるものは何年も放っておいたので、好事家に盗まれるということもあった。書物を手に入れると熟読暗誦してから記録し、照合校正をきちんとやるので、朱と黄の枚正用の筆が手を離れることがなかった。所蔵の書物は少なかったけれども、それはよりぬかれたものでみな後の世に伝うべきばかりであった。人から書物を借りても、それに破損や乱丁などあれば、必ずとじなおしたり訂正したりした。人が学問するときけばよろこび、議論して倦まなかった。

  数百畝の田地、三十間ばかりの屋敷があったが、水田は低地で、長雨がつづくと江とつながって水びたしになってしまう。そのためいつも飢えを気づかい、自身もっこやすきや鍬をもって野良に出て休むことがなかった。ある者がその身分に似あわぬ労働を謗ったが、「堯や舜は垢にまみれて痩せさらばえ、禹はたこを作った。かれらは聖人だ。わしは一介の凡人にすぎん。これが頑張らずにおれようか」と答えた。茶をたしなんで顧渚山のふもとに茶園をつくり、年年あがりのお茶を自分で品定めした。張又新が「水説」を唱えたが、七種の水のうち第二にあげた山の泉、第三の虎丘の井戸、第六の松江の水を、かれの好みを満足させてやろうとする者が、百里の遠くからでもそれらをもって来てやった。初めは酒に魅入られていたが二年たってぱったりやめた。その後は客が来ると徳利をきよめ杯を眼の前におくが、自分はもう飲まなかった。俗物との交際をきらい、そういうものが門前までやって来ても会おうとはしなかった。馬には乗らず船にのり、それにとまをかけ、ひとたばねの書物・茶釜・筆架・釣具を持ってあちこちと出かけた。当時の人はかれを江湖散人といい、あるいはかれ自身は天随子・甫里先生と号し、自ら涪翁・漁父・江上丈人になぞらえた。のち志高潔なる人物として朝廷に召されたが応じなかった。李蔚盧攜と平素から親しく、かれらが宰相になると、召されて左拾遺に任ぜられた。その詔勅がまさに下らんとするとき、かれは死んだ。光化年間(898-901)に、韋荘が陸亀蒙および孟郊ら十人を称揚してみな右補闕を追贈された。

  陸氏の家は姑蘇にあり、その門に大きな石がある。遠祖の陸績がかつて呉につかえ鬱林太守となったが、やめて帰るときになんの旅装もなく、船が軽すぎて海を渡れないので、石をとって来て重しにした。人々はその清廉をたたえて「鬱林の石」となずけ、代々その住居に保存したということである。


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最終更新:2025年08月16日 14:31
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