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巻一百四十三 列伝第六十八

唐書巻一百四十三

列伝第六十八

高適 元結 李承 韋倫 薛珏 存慶 崔漢衡 戴叔倫 王翃 正雅 翊 凝 徐申 郗士美 辛秘



  高適は、字は達夫で、滄州渤海の人である。若い頃から気ままで仕事に精を出さなかった。梁・宋のあたりで居候をし、宋州刺史の張九皋が優れた人物だと思い、有道科に推挙して及第し、封丘県の尉に任命されたが、気に入らず官位を捨てて去った。河西で居候となり、河西節度使の哥舒翰が上表して左驍衛兵曹参軍となり、掌書記となった。安禄山が反乱すると、哥舒翰は賊を討伐するため召喚され、そこで高適を左拾遺に任命し、監察御史に転任し、哥舒翰が潼関を守備するのを補佐した。哥舒翰が敗れると、帝は群臣にどうすればいいか策を尋ね、高適は「宮中の倉庫を総浚えし、勇士を募集して賊に抵抗してください。まだ手遅れではありません」と述べたが、採用されなかった。天子が西に逃亡すると、高適は間道から馬を飛ばし帝に河池郡で追いつくと、「哥舒翰は忠義がもとからありますが、病でその聡明さを奪われ、失敗してしまいました。監軍や諸将は軍務を心配せず、俳優と賭博して楽しみ、渾州・隴州の兵士はくず米すら日に口にできず、死地にむかって責め立てられれば、その敗北はもとから決定してしまうのです。また魯炅何履光趙国珍が南陽に駐屯していますが、一・二人の宦官が監軍となって命令を改めるのに、どうして勝つことができましょうか。臣はしばしば楊国忠にこのことを申し上げましたが、聞き入れられませんでした。そのため陛下が今日の事のようになっても、なんら深く恥じることはありません」と延べ、帝は頷いた。しばらくして侍御史に遷り、諌議大夫に抜擢されたが、気ぐらいが高く容赦なく物事を言うから、皇帝の側近や権力者から嫌われた。帝は諸王を各地の守備に置いたが、高適は盛んに反対意見を述べ、しばらくして永王李璘が叛いた。粛宗は常にこれを聞いて、呼び寄せて計略を尋ねた。そこで永王が必ず敗れるから心配しなくてよいと述べた。帝はこの意見を優れたものと思い、揚州大都督府長史・淮南節度使に任命した。詔して江東の韋陟・淮西の来瑱と軍を率いて安陸で合流し、まさに軍が長江を渡ろうとしたときに永王は敗れた。李輔国はその才能を憎み、しばしば悪し様に言ったから、降格されて太子少詹事に任命された。

  まもなく蜀で反乱がおこると、出されて蜀州・彭州の刺史となった。それより以前、上皇(玄宗)は東に帰還し、剣南をわけて二節度使としたが、百姓は疲弊し、西山の三城に守備兵を配置していた。高適は上疏して、「剣南は東川・西川の二地方に分かれていますが、実際には一つの地方なのです。邛関・黎州・雅州よりは南蛮に、茂州によって西には、羌中・平戎等の城を経て吐蕃との境界に接しています。国境地帯で戦がおこれば、すべて剣南に補給を頼ることになります。以前は全蜀の生産力によって山南を助けましたが、それでもまかないきれない状況でしたが、今、梓州・遂州等の八州を割いて一節度使に専任させてしまったため、年月がたつにつれ、西川ではまなかいきれない状況になります。嘉陵ではこの頃夷獠の侵入に悩まされ、小康状態の日があっても戦乱はいまだに平定されず、耕作や紡績の産業は衰退し、衣食や貿易はすべて成都に助けられ、賦役もどうなるか未来がみえないことになっているのです。税収できるのはただ成都・彭州・蜀州・漢州の四州のみで、四州の消耗損害は十州の賦役に匹敵し、その弊害から目を背けるべきではありません。利があると言う者は、心の溝に思いはあれこれめぐり、朝に行き詰まったら夜にさからい、千考えて百書き記し、皆これを民に取り、官吏は譴責を恐れて、隣村を責めるに至り、威は懲罰や笞打ちを用いるから、逃れる者がますます増えるのです。また関中はこの頃飢饉となり、士人で蜀に流入する者は道路に連なりあい、蜀の地に入れば終わりとなるのに、税の取り立ては果てしなく、計とするのに難しいことなどありません。また戎を平定するために西に数城を築くのは、皆山の頂に困窮することになり、険しい小道に兵糧・馬草を運び、無人の村を防衛しています。戎狄に利することもなければ、戎狄にとってもそれほど必要なものではないのです。国家のためと言いながら、領土を拡大できるというほどでもありません。どうして弾丸のような狭い土地のために全蜀で平和に暮らしている人を困窮させるのでしょうか。またはすでに防衛している城は廃止すべきではなく、すでに駐屯している兵は回収すべきではないと言うのでしょうか。願うところは東川節度使を廃止し、すべて剣南に統合して全力で従事させます。そうでなければ陛下が関東を洗い清め、逆乱を清めるの意思ではなくなるのです。蜀人もまた心配し、それは朝廷の憂いを残すことになるのです」帝は受け入れなかった。

  梓州の駐屯将の段子璋が叛くと、高適は崔光遠に従って討伐して段子璋を斬った。しかし崔光遠の兵は武器を収めず、大略奪をしたから、天子は怒り、崔光遠は罷免され、高適を代わりに西川節度使とした。広徳元年(763)、吐蕃が隴右を奪取すると、高適は兵を率いて南部の国境に出撃し、牽制して敵勢力を制御しようとしたが、効果なく、松州・維州の二州および雲山城が陥落した。召還されて刑部侍郎・左散騎常侍となり、渤海県侯に封じられた。永泰元年(765)卒し、礼部尚書を贈位され、忠と諡された。

  高適は節義を尊び、天下を治める大方針を飽きることなく延々と語った。多難な時期に遭遇して、国家存亡の危機に身を処することをおのれの任務と考えていたが、貴顕からは軽く見られた。しかし政治は寛大かつ簡潔で、治めた土地の人からはありがたられた。年五十歳にしてはじめて詩をつくったが、巧みであり、質実さと気骨にあふれていた。一篇の詩を吟じおえるたびに、その道の人からもてはやされてたちまち世間に流布したのである。「賀蘭進明にあたうる書」では、梁・宋を救援して各軍と仲良くするよう説いたものであり、「許叔冀に与うる書」では、恨みを水に流すよう述べたもので、「未だ淮を度(わた)らずして将校に移檄(あた)える」では、永王李璘と絶縁して、それぞれ身のあかしを立てるよう求めたもので、有識者からは節義をもってしかも変を予知したものだといわれた。


  元結は、後魏の常山王の拓跋遵の十五世の孫である。曾祖父の元仁基は、字は惟固で、太宗に従って遼東を征伐し、功によって宜君田二十頃、遼河河口の馬の牡牝それぞれ五十頭を賜り、寧塞県の令を拝命し、常山公を襲封した。祖父の元亨は、字は利貞で、容姿端麗であった。かつて「私は王公の功業によって、鷹・犬・歌・音楽は習ってきたが、私は儒学を学んでこれらに変えていかなければならない」と言い、霍王李元軌はその名を聞いて、参軍事に任じた。父の元延祖は、三歲の時に父を失い、元仁基はその母をたしなめて「この児は私を祀るものである」といい、そこで名をその字とした。成長しても宮仕えせず、年四十歳を過ぎて、義兄が無理やり勧めたため、舂陵(延唐県)の丞となったが、たちまちに官を捨てて去り、「人は衣食のために生きるが、飢えたり飽食したりはかなうだろうが、また待つところがあるのはよくない」と言い、畑の畦に水をそそぎ、薪を拾い、「人生の仕事があるが、この音は感慨深いな」と言った。安禄山が叛くと、元結を呼び寄せ戒めて「仲間などは一生の間に多くなってしまって、自ら山林で安穏とすることができなくなるから、名節を立てるのにつとめ、羞辱を近づけてはならない」と言った。卒した時、年七十六歳で、門人は太先生と私諡した。

  元結は若い頃から自由気ままであったが、十七歳のときに心を曲げて学問に向かい、元徳秀に師事した。天宝十二載(753)の進士の挙人となり、礼部侍郎の陽浚がその文を見て、「合格することは元子にとっては迷惑なだけのこと。だが試験官にとっては大いに期待されること」と言った。はたして優秀な成績で及第した。また制科の挙人にもなった。天下が乱れると、戦火を逃れた。国子司業の蘇源明が粛宗に謁見し、天下の士を尋ねられると元結を用いるよう推薦した。当時、史思明が河陽を攻めたから、帝は河東に親征しようとしていたが、元結は召されて京師に至り、帝は言いたいことを述べるよう望み、元結が始めて帝に謁見したから、形式張らずに、言ったことが思いを尽くしていないことを心配していた。そこで「時議」三篇を奉った。その一つ目にいう。

  議論する者が尋ねた。「往年逆賊は、東は海に、南は淮・漢の地に、西は函・秦(長安近郊)の地に、北は北方の辺境に迫り、敵は縦横に跋扈し、四方にある者は何百万にもなり、当然だんだん惨禍は激しさを増していくというべきで、人心の危機なのです。天子は一人わずかな馬で霊武に到着され、寡兵を合わせ、強大な敵を取り除こうと軍は渭西におよんでいますが、そんなに時間もたっていないのに、敵の精鋭を粉砕して凶徒を追い払い、両京を回復し、河南の州県を奪還しようとしていますが、どうして簡単にできましょうか。つまり今河北の奸逆の徒は尽きることはなく、山林や江湖に逃れる者はなおも多く、盗賊はしばしば州県をおかし、百姓が転々とし、後から後から途絶えることがありません。将兵は敵に臨むと逃亡し、賢人君子も逃避して出てくることはないのです。陛下は霊武・鳳翔にあって、今日まで精兵がよく敵を殺すこともなく、今日警備して逃亡する者がいなくなったということはなく、今日威令によって盗賊が悪事を働かなかったということはなく、今日財を用いて百姓が流民とならなかったことはなく、今日爵位などの賞を与えて兵士が逃亡しなかったということはなく、今日朝廷が賢者を仕えさせることはなかったのですが、どうしてなのでしょうか。まさに天子はよく危機を安全としようとしていますが、耐え忍んで安全の中にあって危機を忘れないということがありましょうか」次のように答えた。「これについて述べることは難しいことではありません。先日天子は陵廟を異民族の逆賊のために汚されたことを内心恥じておられ、上皇が巴・蜀の地に南幸されたことを恨み嘆かれ、宗室や外戚が殺されたのを悼まれ、身を傾けて勤労され、自ら兵士を鼓舞することを憚らず、人に権力や高位を与えても、信じて疑わず、忠義の直言を聞くことを渇望され、度を越して諱を改めさせることはありません。これは弱きを以て強きを制し、危機を以て安全を取るのが道理なのです。今天子は城の郭を重ねて宮は縦深の奥にあり、奥深い燕寝で和やかに過ごされています。輝かしい冕服は黎明の時で、官服の飾りをつけて朝廷にのぞまれ、太官は詳細に理解し、時候を見ては献策を行い、太常は楽を備え、声を和して進言し、国機軍務は計略を参画してあえて進るのです。百姓が病で苦んでも、時には奏聞しないこともあるのです。厩舎では良馬に秣を与え、宮殿では美女がならび、礼服や礼物、吉祥や瑞兆の兆しは日に日に満ち備わっていくのです。朝廷では盛徳の大業を歌い、聴いても厭わず、四方からの貢賦は、上位を争って自身の成績としようとし、楽工や俳優は、天顔を喜び楽しませ、文武大臣から庶官に至るまで、皆高位や褒賞をいよいよ望むのです。これが強きを以て弱きを制し、まだ安全の中に危機を忘れないとすることが出来ない理由なのです。陛下が今日の安心をみて、霊武に避難する時のようなことがあった時、どうして寇盗の強弱を言うべきでしょうか」と。」

  その二つ目にいう。「議論する者が次のように述べた。「私は兵士たちが共に謀っているのを聞いています。「昔我らは天子を奉って逆賊を防ぎ、勝利して家も国も両方保全し、勝てなければ両方滅んでいた。そのため生死を戦いに決し、是非を諫言に極めるのです。今我らは名や官位は重く、財貨は満ち足り、爵位や褒賞はあつく、働きはすでに極致に達した。外部には我らを害する怨敵がおらず、内部にも貧窮のあまり我らに迫ってくる者もいない。どうして鋒や刃の前で死に近づいたり、人主をたのんで禍いに近づくことがあろうか」また次のように聞きました。「我が州の中では父が病んで母が老い、兄は独り身になり婦は連れ合いを失い、皆生計を求めても、寒さと飢えで足りることはない。ましてや死んだ者を人は誰が悲しもうか」また次のように聞きました。「天下は破壊し、百姓は危険かつ困窮し、賦を受け役を与える者は、皆身寄りがなくさびしく暮らす独り者で、定住の地がなくさすらい、遺族は他郷に流浪し、道路で悲しみ憂い、思うにまた極致なのです。天下が安んずれば、我らはどうして田畑を自分で扱えないのだろうか。もし天下が安じなければ、我らは二度と忠義仁信によって死線にあたることはしないだろう」と。人々はまたこのようであるが、どうであるか」次のように答えた。「国家はそのようにしたとは考えていません。思うに明晰さや信任を失っただけなのです。明晰さというのはつまりその内情をみて、まさに内情をおさめて則ち生下が惑わされないようにすることです。よく必ず信任させれば、信任は必ずとすべきなのです。しかし信任の中に、悪者が来るならば最も憎悪を受けるところなのです。このように朝廷が剛直・誠実さを滅ぼしてしまえば、天下は忠信の者を失い、百姓はますます無実の罪で民心の綻びが大きくなるのです。これをおさめようと思っても、理由がありましょうか。我らが在野で議したところで、またどうすることができましょうか」と。」

  その三つ目にいう。「議論する者が次のように述べた。「陛下は百姓を安じられようと思われ、悪逆を滅ぼし、太平をはかり、心を労して精力的に尽くされること今に至るまで四年となりましたが、議論する者が意見を異にするのはなぜなのでしょうか」次のように答えた。「天子の思し召しのように、議論する者が意見を異にしているのは、これを知らないわけではないのです。だいたい詔令に懇切に述べられていたところで、すべてが行われず、空言を一言二言述べたところで、すべては児戯の類なのです。今、憐れみの命令があり、国事を憂慮する誥をしても、人はみな仲間を集め、群れをつくって語り、指さしてこれを議論します。天子はそうだということを知らず、詐りによって行われなかったとしても、なんとか勧めることもできます。彼が勧めを阻んだとしても、詳らかかつ平等で必ず行うことがあるのです。
天子はようやく過去の命令を行うことができた有様で、必ずや将来の法、雑徭の有害な制度、煩わしい法令への頓着をすべて消し去るのは天下の賢士に任せ、小人を除去し、その後仁愛誠実の信威令を推し進め、実直に迷いのなく行うのです。これは帝王の常道であり、どうして到底およばないというのでしょうか」と。」

  帝は「卿はよく朕の心配事を打ち破った」と言い、右金吾兵曹参軍、摂監察御史に抜擢し、山南西道節度参謀とした。義士を唐州・鄧州・汝州・蔡州で募集し、匪賊五千を降し、戦死者で骨が露わになっている者を泌南で埋葬し、「哀丘」と名付けた。

  史思明が再度叛くと、帝は親征しようとしたが、元結は建言して、「賊は精鋭で戦ってはなりません。挫くのに謀略を用いるべきです」と言ったから帝はこれをよしとし、そこで宛・葉の軍を発して賊の南を挫くよう命じられ、元結は泌陽に駐屯して要害を守り、十五城を保全した。賊を討伐した功績によって監察御史裏行となった。荊南節度使の呂諲が増兵して賊を防ぐことを要望していたが、帝は元結を水部員外郎に昇進させて、王諲の幕府を補佐させた。また山南東道の来瑱の幕府に、当時、父母が子の在軍に従う者がおり、元結は来瑱に説いて「孝行者で真心がある者は、ともに忠義を言うでしょう。信にして勇なる者は、これによって義を全うするでしょう。どうして忠信義勇を責めてこの孝慈を勧めないことがありましょうか。将兵の父母に衣食を給付するのがよいでしょう。そのようにするならば義があることを示すことができるのです」と述べ、来瑱は受け入れた。来瑱が誅殺されると、元結は幕府の代理となった。しばらくして代宗が即位すると、官位を辞して親もとにいるため樊上に帰ることを願った。著作郎に任じられた。著書をあらわし、「自釈」をつくった。以下に述べる。

  「河南は元氏の望である。結は元子の名である。次山は元結の字である。代々の業績は国史に載せられ、世系は家諜(系譜)にある。若くして商余山にいて、『元子』十篇を著し、そのため元子を自称とした。天下が兵乱となり、兵乱を逃れて猗玗洞に入ったから、始めて猗玗子と称した。後に瀼浜を家とし、そこで浪士と自称した。役人となると、人はあのぶらぶらした者も漫りに官になったかと、「漫郎」と呼んだ。樊水のほとりに居候し、漫は遂に名があらわれた。樊水のあちこちは皆漁師であって、しばしの間たがいにふざけあっていたから、さらに「聱叟(頑固じじい)」と呼ばれた。彼は謗るのに頑固者であったから、言う事を聞こうともせず、関与せず、漁具を舟に満載し、ひとり勝手に釣魚車(リール)を操っている。酒徒はそのためまた「あなたの「漫」は「聱」のようなものかな。あなたは著作を守るのは漁具を持たないようなものか。世間で漫浪でいることは世俗を迎合せずにはできようか。あなたは漫であることは長いのだから、漫を叟とすべきだろう」ああ!私は時勢に従わず、当世に関わっていないから、誰彼が頑固者といっても私はこれに従おう。彼の聱叟が漁具を持っていても恥じず、私もまたどうして著作を薄くしようか。彼の聱叟は郷里で時勢に従わないのを恥じないが、私もまたどうして世間で漫浪することを恥じようか。酔っ払いの議論を採用して漫叟を自称としよう。直接その情性に放蕩し、そのするところを蔓延させ、人をしてあるところなく、待つことがないのを知らしめよう。そこで告げて、「よく漁具を帯びる者は、一人を全して生を保ち、よく世俗に迎合しないことを学ぶ者は、宗族を保って家を全うする。聱(頑固)というのはこのようなことだ。漫であるかそうでないか。」

  しばらくして道州刺史に任命された。それより以前、西原蛮が居人数万を拐って去り、遺った戸数はわずかに四千ばかりで、諸使は符牒二百函を徴発していた。元結は人々が非常に困苦しているのによって、賦税を加えるのに忍びず、そこで上言して「臣の州は賊のために焼き払われ、兵糧の蓄え、家屋、男女、牛馬はほとんど尽くされてしまいました。今百姓の十人に一人もおらず、老人や子供が騒乱して離れ、いまだに落ち着ける場所とてありません。嶺南の諸州、寇盗は尽きておらず、守捉使の偵察により四十屯あまりを得ましたが、一つとして静かに治まってはおらず、湖南もまた乱れているのです。どうか百姓が負担している租税および租庸使、和市の雑物十三万緡を免除されますように」と述べ、帝は許可した。翌年、租庸使が探し求めた十万緡を上納すると、元結は再度上奏して「毎年の正式な租庸以外は、その税率を時宜によって増減してくださいますように」と述べ、詔して裁可された。元結は民のために家や給田を造営し、徭役を免除したから、流亡の者で帰ってきた者は一万人あまりに及んだ。昇進して容管経略使を授けられると、単身蛮地に分け入って説諭し、八州を回復した。母の喪に遭うと、人々は皆節度府に詣でて残留を願ったから、在任のまま左金吾衛将軍を授けられた。民はその教化を喜び、石を建てて頌徳碑をつくった。罷免されて京師に戻り卒した。年五十歳。礼部侍郎を贈られた。


  李承は、趙州高邑県の人である。幼くして父を失い、その兄の李曄に養われた。成長すると孝悌の人物として知られるようになった。明経科に推挙され、大理評事に遷り、河南采訪使判官となった。尹子奇が汴州を陥落させると、李承を拘束して洛陽に送り、賊の謀を知ることができたから、すべて密かに朝廷に送信した。長安・洛陽の両京が平定されると、例によって臨川県の尉に貶された。三か月もしないうちに、徳清県令に任じられた。ついで監察御史に抜擢され、吏部郎中、淮南西道黜陟使に遷った。奏上して常豊堰を楚州に設置し、これによって海の潮から防潮し、灌漑してやせた塩分を含んだ土地に屯田し、収益は例年の十倍になった。徳宗は梁崇義を討伐しようとしたが、李希烈は推し量ってこれを知り、そこで梁崇義の悪事を上奏して、誅伐させてくれるよう願い出たから、帝は喜び、しばしば左右の者に対してその忠義を称えた。その時、李承は黜陟使から帰還すると、李希烈はよく功績を立てるが、しかしその後に制御することができなくなるのを恐れると申し上げた。帝は当初はそうではないと言っていたが、梁崇義が平定されて李希烈がやはり叛くようになると、始めてその発言を思い出し、抜擢して河中尹・晋絳観察使とした。李承は清廉かつ実直で常に人望があり、才能は当時有名であった。しばらくもしないうちに、山南東道節度使に改められた。当時、李希烈はまだ襄州によって、帝は李希烈が命令を受けないことを憂慮し、禁軍の兵によって李承を護衛して送ろうとしたが、李承は辞退し、単騎で入ることを願った。到着すると、李希烈は李承を外館に泊まらせ、毎日あれこれ脅迫したが、李承は落ち着いて死守を誓った。李希烈は屈服させることができず、遂に大いに掠奪して去ったから、襄州・漢州は荒野と化した。李承は安撫し、一年の任期で、境域は回復した。それより以前、李希烈が去ったとはいえ、部下の将校を留めて監視させ、家々を往来したから、李承はそこで叔父の李雅に賄賂を厚く贈らせ、李希烈の腹心の周曾王玢姚憺と結んだ。周曾らが李希烈に謀殺されたのは、李承が首謀したからであった。密詔によって褒賞された。ついで検校工部尚書・湖南観察使となった。建中四年(783)卒し、年六十二歳であった。吏部尚書を追贈された。


  韋倫は、その系譜はもと京兆の人であった。父の韋光乗は、開元・天宝年間(713-756)に朔方節度使となった。韋倫はその蔭位によって藍田県の尉に任命され、力をつくして勤務を行い、楊国忠によって鋳銭内作使判官に任命された。楊国忠は多く州県の平民を徴発して鋳銭を行わせ、督促しながらも教えなかったから、過失があれば鞭打って厳格をきわめたが、ますますうまくいかなかった。韋倫はあらかじめ定めてから工匠を募り、困窮している人と交替することを願い、これによって役用は減り、鋳銭は多くなった。玄宗の晚年は盛んに宮殿を造営し、吏は造営を行いながら欺いていたから、韋倫は工員の実数を調査し、費用を半分に省いた。帝に従って入蜀し、監察御史、剣南節度行軍司馬・置頓判官となった。当時、宦官や兵士は次第に横暴となり、抑えることが難しかったが、韋倫は清廉で自己を保全したから、官僚は頼り切っていた。宦官はこれを憎み、讒言して衡州司戸参軍に貶された。度支使の第五琦は韋倫の才能を推薦し、商州刺史・荊襄道租庸使に抜擢された。襄州の裨将の康楚元が叛乱をおこし、東楚義王を自称し、刺史の王政は城を捨てて遁走した。賊は南の江陵を襲撃し、漢・沔の糧道を途絶させた。韋倫は兵を徴発して鄧州に駐屯し、手厚く安撫して賊を降した。賊の攻撃はますます弱まり、そこで攻撃して康楚元を捕虜にして献上し、租庸二百万緡を収容した。召喚されて衛尉卿となり、にわかに寧州・隴州の二州刺史を兼任した。

  乾元年間(758-760)、襄州が叛乱をおこすと、韋倫に詔して山南東道節度使としたが、李輔国が国家で専制をおこない、韋倫は拝謁することをよしとせず、そのため恨まれ、中途で罷免されて秦州刺史となった。吐蕃・党項(タングート)が毎年辺境に侵入し、韋倫の兵は寡少で、しばしば敵と戦ったが敗れ、巴州長史に貶され、務川県の尉に遷された。代宗が即位すると、忠州・台州・饒州の三州の刺史を次々と拝命した。宦官の呂太一が嶺南で叛乱をおこすと、詔して韋倫を韶州刺史・韶連郴都団練使に任じた。呂太一によって反間され、信州司馬に貶され、辺地に打ち捨てられること十年、豫章をさまよった。

  徳宗が位を継ぐと、絶域への使者になる者を選び、韋倫を太常少卿に抜擢し、和吐蕃使とした。韋倫は到着すると、天子の威徳を諭し、賛普は従い喜び、そこで入献した。帰還すると太常卿に昇進し、御史大夫を兼任した。再び使者となり、その趣旨は同じようであった。韋倫は朝廷にあっては、しばしば政治の得失を論じたから、宰相の盧𣏌は韋倫を憎み、太子少保に改めた。奉天への巡狩に従った。盧𣏌が失脚すると、関播は罷免されて刑部尚書となり、韋倫は朝堂にあって涙を流して「宰相の功績がなくて、天下にこのようになったと言っているのに、失態がないのに尚書とするならば、後はどうして勧めることができましょうか」と言い、聞く者はそれを公にするのを憚った。帝は後に再び盧𣏌を起用して刺史としようとしたが、韋倫は極めて諌め、言葉をつくして極端であり、帝はこれを受け入れた。太子少師・郢国公に昇進し、致仕した。当時、李楚琳が僕射兼衛尉卿に、李忠誠を尚書兼少府監としたが、韋倫は「李楚琳は節に逆らい、李忠誠は戎どのなので、寵遇して官とするにはあたりません」と申し上げた。また義倉をつくることを願い出て、飢饉の年から防いだ。賢者を選んで、帝の左右に任じた。吐蕃は豺虎のように野心があるから、信じて約諾すべきではなく、辺境の防備を備えるべきであると言った。帝はその発言をよしとし、厚く重んじた。家にあっては孝行と慈悲の心を称えられた。卒し、年は八十三歳であった。揚州都督を追贈され、諡を粛という。


  薛珏は、字は温如で、河中宝鼎県の人である。蔭位によって懿徳太子廟令となり、累進して乾陵台令に遷った。一年を通して清廉潔白のため知られ、考課が第一であったから、昭応県令に改められた。人々は紀徳碑の石碑の建立を願ったが、薛珏は懸命に辞退した。楚州刺史に遷った。それより以前、州に営田があり、宰相が遥任して領していたが、刺史が勝手気ままにでき、俸給および他の給付は百万あまり、田官は数百人で、毎年考課は優となって他に遷されることができ、別に三千戸が刺史の雑役に付された。薛珏が到着すると、ことごとくを廃止し、租入は他の刺史の時よりも満ち溢れた。観察使はその潔癖さを嫌い、誣告して罪とし、峽州刺史に左遷された。建中年間(780-783)初頭、使者に命じて諸道に分けて官吏の降免を査察させ、李承は薛珏の簡素を奏上し、趙賛はその清廉さを、盧翰はその慎やかさを申上して上奏し、ここに中散大夫を拝命して、紫の服と金魚袋を賜った。劉玄佐は上表して汴宋行軍司馬を兼任した。李希烈は汴州を棄てて逃走し、そこで薛珏は汴州刺史を拝命し、さらに河南尹に遷った。京師に入って司農卿となった。当時、刺史・県令となるのに足る者百人ばかりを推薦させ、召し寄せて人々の苦しみや官吏の得失を尋ね、最も通暁した者を十人中二人ほど採用し、宰相は文章を校正させようとした。薛珏は「良吏を求めるのに文学を責とすべきではありません。君主や人民を愛する人を大事にすべきです」と言い、宰相はそのはかるところを多くし、用いたものはすべて職で称えられた。京兆尹となり、司農寺が後宮に供給する家畜や野菜は車三十台におよび、不足していたから、京兆尹に市するよう要請した。当時、韋彤が万年県令となっており、薛珏は韋彤に商売を禁じ、民は苦しんだ。徳宗は怒り、薛珏と韋彤の俸給を剥奪した。帝は下情に通じていないのではないかと疑い、そこで詔して延英殿に御座して毎日諸官の長官二人に許して政務の欠失を述べさせ、これを「巡対」といった。薛珏は剛直かつ厳格で、法令に通暁し、身を謹んで部下に勧めたが、しかし細かいところまで詮索し、経世の要述や大局の道理がなかった。竇参と親しかったのに連座して、太子賓客に改められ、京師から出されて嶺南観察使となった。卒し、年七十四歳であった。工部尚書を追贈された。

  子の薛存慶は、字は嗣徳で、容貌は立派であった。進士に及第し、御史・尚書郎を歴任した。五たび職を変遷して給事中となり、韋弘景とともに詔書を封駁し、当時の人々はその実直さを称えた。劉総が幽州とともに帰順すると、穆宗は宰相に向かって「必ず薛存慶を用いて、朕の意を述べさせるべきである」と言い、延英殿で一刻ほど面会して派遣したが、鎮州に到着したところで、疽が背にできて卒した。吏部侍郎を追贈された。


  崔漢衡は、博州博平県の人である。性格は沈着で温厚、よく人と交わった。はじめ費県令となり、滑州節度使の令狐彰が上表して掌書記となった。大暦六年(771)、検校礼部員外郎の地位によって和蕃副使となった。帰還すると右司郎中に遷った。建中二年(781)、吐蕃が盟を願うと、殿中少監に抜擢され、和蕃使となり、吐蕃の使者の区頬賛(クゥギャツェン)とともにやって来て盟約した。鴻臚卿に改められ、持節して区頬賛を送って帰還し、遂に清水(甘粛省清水県)で会盟した。徳宗は奉天に行幸し、吐蕃は援軍で渾瑊を助け、賊を破って武功をたてた。秘書監を拝命した。にわかに上都留守・兵部尚書・東都淄青魏博賑給宣慰使を拝命した。また幽州に使者として派遣され、帰還・復命してお褒めの言葉をいただいた。貞元三年(787)、吐蕃と平涼で盟することになっていたが、捕らえられ、敵は殺そうとしたが、吐蕃語で語って、「私は結賛と親しい。私を殺してはならない」と言い、崔漢衡は非常に信義があったことは顕著であったから、敵もまた尊重し、そのため河州に到って帰還することができた。翌年、京師から出されて晋慈隰観察使となった。卒すると、尚書左僕射を追贈された。


  戴叔倫は、字は幼公で、潤州金壇県の人である。蕭穎士に師事して門人の第一人者となった。劉晏が塩鉄の専売を管理していた頃、ある時上申して戴叔倫に湖南での運搬の管理にあたらせた。雲安に行ったら、楊子琳が四川で反乱を起こし、配下の者を急ぎ遣わして、「貨幣を渡せ、そうすれば殺すのだけは勘弁してやる」とおどした。戴叔倫は「わが身は殺すこともできようが、財は奪うことができまい」と応じ、そこで戴叔倫を見逃がした。嗣曹王李皋が湖南や江西を治めていた時、上表して戴叔倫を幕府に招いた。李皋が李希烈を討った時、戴叔倫を出征させないで留めて役所の仕事をやらせ、撫州刺史を代行せしめた。そこの民は毎年灌漑用水をめぐっていざこざをくり返していたので、そのために彼は水を平等に使う均水法を作ったが、その土地の人はそれを便利に感じた。収穫は年ごとに多くなり、獄に繋がれる者はいなくなった。ほどなく本官になった。それからちょうど満一年目、詔書でおほめのみ言葉があり、譙県開国男に封ぜられ、紫の服と金魚袋とを賜った。斉映劉滋が政を執っていた頃、戴叔倫は彼らに次のように勧告した。「国の乱れがまだ収まらない。これを安んじるには、兵が何よりも先である。兵を支えるものは食糧である。だから金銭や穀物を扱う役は簡単に人を替えるべきではない。天下の州県には、上・中・下・緊・望・雄・輔の人口の多少による等級がある。どこに誰を任命するかは一応役人が詮議するのだが、彼らは皆様の気持ちで便宜をはかる。これは官のために人を選び、人民のためによい政治をしようとするやり方ではない。この最もひどいのが県令と録参軍事であるが、この二者は当然中書門下の任命に係るべきである。資格序列を計ることなく、遠方にいるか近くにいるか、身分が高いか低いかを問題にせず、成績のよしあしで昇進・降等を決めれば、人は一所懸命になる」と。斉映等はその言を重んじて、彼を容管経略使に任じた。えびすの部族を安んじいたわり、威名が伝わり聞こえた。彼の政治のしかたは清らかで思いやりがあり、一方方略にもたけ、それゆえいたるところで第一等の成績をあげた。徳宗はかつて中和節の詩を作り、使者を遣わして彼に賜った。勤務を交代してもらって帰還し、その道中で卒した。五十八歳であった。


  王翃は、字は宏肱で、并州晋陽県の人である。若くして兵法を治めた。天宝年間(742-756)、王翃は衛尉・羽林軍宿衛を授けられた。才兼文武科に選ばれ、京師から出されて辰州刺史となった。襄州の康楚元を討伐する功績があり、秘書少監を兼任し、朗州刺史に遷った。大暦年間(766-779)、容管経略使に抜擢された。それより以前、安禄山が叛乱を起こすと、嶺南に詔して兵を南陽の魯炅に隷属させた。魯炅が敗北し、軍は潰走した。渓洞(苗族)の夷獠が互いに連合して反乱し、夷酋の梁崇牽は「平南都統」と号し、別帥の覃問と合同し、また西原の賊の張侯・夏永はさらに吹聴して誘引し、そのため城邑は陥落し、ついに容州を根拠地とした。前経略使の陳仁琇・元結長孫全緒らは全員藤州・梧州によって統治していた。王翃が到着すると、軍に向かって「私は容州刺史である。どうして他の所で居候しようか。必ず容州を奪還して阻止しよう」と言い、そこで私財を出して兵士を募集し、功績がある者は署吏に放ったから、ここに人々は奮起した。数か月もしないうちに、賊帥の欧陽珪を斬った。そこで広州に到着し、節度使の李勉に出兵および合力を願ったが、李勉は許さず、「容州は賊の手に陥ってから長く、夷獠はますます強くなり、今速かに攻めるなら、ただ敗れるだけだ」と言ったが、王翃は「大夫はそれでしたら軍を出さずに、書簡を州県に下して、表向きは兵で援軍とするとしてください。この声明を借りて、万が一の功績をなしとげたいと思います」と言ったから、李勉は許諾した。王翃はそこで書簡を義州・藤州の二州の刺史に送り、皆討伐のため進軍することを約諾し、兵三千を率いて賊と戦って皆殺しとし、一日に数回戦った。激励をやめれば、たちまち隠れて進軍せず、戦えばいよいよ力となり、ついに賊を破って、梁崇牽を捕虜とし、ことごとく容州の故地を復した。勝報が届くと、詔してさらに順州に置かれ、ほかの乱を平定した。王翃はおおむね百戦ほど戦い、首領七十人を捕虜とし、覃問は遁走した。再び将の李寔らを派遣して分けて西原を討伐し、郁林ら諸州を平定した。累進して御史中丞・招討処置使を兼任した。たまたま哥舒晃が反乱をおこすと、王翃は李寔に命じて全軍で広州を救援させたが、覃問はそこで軍を集めて隙に乗じて来襲した。王翃は伏兵を設けて攻撃し、覃問を生け捕りにし、嶺表は平定された。代宗は使者を派遣して慰労し、金紫光禄大夫を加え、邸宅を京師に賜った。

  当時、吐蕃が入寇すると、郭子儀は全河中の兵を辺境に送り込み、王翃を召して河中少尹とし、節度使の後務を行わせた。悍将の凌正がしばしば法を犯して不逞を働き、その徒と約諾して夜に関を斬って王翃を放逐しようとした。王翃はこれを悟って、ひそかに漏刻を乱して、その時に入ったから、衆は驚き、あえて反乱はおこらなかった。にわかに凌正を捕らえて誅殺し、一軍は休まった。汾州刺史となり、振武軍使綏銀等州留後となった。京師に入って京兆尹を拝命した。かつて涇原の兵を発して李希烈を討伐しようと、滻水に行くと、京兆では軍に供給しようとして、食事は粗末で肉は腐り、軍は怒って「こんなものを食べて討賊しろというのか」と言い、遂に叛いた。王翃は身を挺して奉天に逃げ、太子詹事を拝命した。徳宗が都に帰還すると、再び大理卿に遷り、京師から出されて福建観察使となった。東都留守に移され、到着すると、田を二十屯あまり開墾し、器械を修築し、甲冑を良金や良革でつくり、兵士を訓練し、明快に号令した。にわかに呉少誠が叛き、ただ東畿だけは備えがあり、関東はこれを頼った。貞元十八年(802)卒し、尚書右僕射を追贈され、諡を粛という。

  王翃はつねに盧𣏌と親しく、盧𣏌が崔寧を殺した時や、李懐光が参内できなかったのも、すべてその謀をともにし、議論する者は非難した。


  子の王正雅は、字は光謙で、行ないは慎み深く、崔邠によって器とされた。元和年間(806-820)初頭、進士に選ばれ、監察御史となった。穆宗の時、京邑に盗賊多く、王正雅は万年県令となって威信を振るった。京兆尹の柳公綽は優れた能力を奏上し、緋魚と賜り、抜擢されて汝州刺史となった。監軍が専権を振るったから、そこで病と称して去った。京師に入って大理卿となり、当時宋申錫の疑獄事件を弁護して、自説を非常に堅固にしたから、宋申錫は死ななかった。大和年間(827-835)卒し、左散騎常侍を追贈された。


  王翃の兄の王翊は、性格は謙虚かつ穏やかで、山南東道節度使を歴任した。代宗は見て忠純篤実の臣であるとし、世間は慎み深くかつ清廉であることを称えた。卒すると、戸部尚書を追贈され、諡を忠恵という。


  王翊の曾孫の王凝は、字は成庶で、若くして父を失い、舅で宰相の鄭粛をたよった。明経科・進士に推挙され、すべて合格した。台省を歴任し、次第に名を知られ、礼部侍郎に抜擢された。権力者に追従せず、京師から出されて商州刺史となった。駅路では、吏は破産して給付することができず、しかし州では賦や羨銀を治めたから、常に実直な官吏を打ち砕き、吏が奉仕するのを考課で優とした。王凝は取らず、そこで市の馬を用い、そのため騒動することがなかったから、人々は皆安撫して帰服した。湖南観察使に遷った。僖宗が即位すると、召喚されて兵部侍郎となり、塩鉄転運使となった。不適当な人物を推挙したのを罪とされ、秘書監の職によって東都分司となり、そこで河南尹を拝命した。宣歙池観察使に遷ったが、時に乾符四年(877)のことであった。王仙芝の党が至徳を屠り、勢力はますます伸張し、王凝は牙將の孟琢を派遣して池州への援軍として守備した。賊は兵を増やして来攻し、実は南陵を襲撃しようとしたが、王凝は樊儔を派遣し水軍によって青陽を抑えた。樊儔は命令に違い、軽率に賊と戦って勝てなかったから、王凝は斬って全軍に布告した。諸将は聞いて、全員戦慄し、死を賭して賊をつなぎとめたから、賊は進むことができなかった。当時、江南では周囲を賊が取り巻いており、王凝は強弩を用いて采石により、偽の幟を掲げ、別将の馬穎を派遣して和州の包囲を解いた。翌年、賊は大挙して襲来し、都将の王涓は永陽から敵地に赴き、王凝は大いに宴し、王涓に向かって「賊は勝利を続けて驕っており、自重して待つべきである。慎重にして戦ってはならない」と言ったが、王涓の思いは鋭く、一日に四舎(百二十里)走り、南陵に到着したが、食事の前に陣を敷いたから、死んだ。監軍は他の兵卒数千人を収容して、城に逃げ帰り、戦いに敗れて弱くなって去ろうとすることなく、兵卒もまた気まま勝手をして禁止することができず、王凝はへりくだって「吏で蝗を捕らえる者は、たえられずに食を民に仰いでいる。これは暴を率いて災をたすけることになる。今兵は敵に対峙することができず、また気まま勝手に民の生業を犯している。なにゆえに朝廷は将軍の意を待つことを称えることがあろうか」と言ったから、監軍はこの言葉に屈し、腹心の吏をうながして民家に入って馬を奪い、王凝は門の上に乗って望見し、左右を率いて捕らえて殺し、これによってあえて留らず、ますます貯蓄して防備を修繕して賊に備えたから、賊は到着しても攻撃することができなかった。たまたま大星が寝殿の庭に落下し、術家はお上が病んで事をみることがないと占ったが、王凝は「東南は国家があらわれたところである。述べるところは上級官府のことで、私の判断は禍を脱することができるというものだ。一方を顧みるのに何を頼ろうか。誓って城とともに存亡し、また申してはならない」と言ったが、既に賊は去っていた。しばらくもしないうちに卒し、年は五十八歳であった。吏部尚書を追贈され、諡を貞という。


  徐申は、字は維降で、京兆の人である。進士に及第し、累進して洪州長史に遷った。嗣曹王李皋李希烈を討伐すると、徐申を励まして長史に刺史の事務を行わせ、徐申が有能で物事を任せられたから、李皋はその優秀な能力を上表し、韶州刺史に遷った。韶州では兵乱がおこってから四十年たっており、刺史は県を治署としていたが、令・丞は民間に雑居していた。徐申は上奏して公田で荒廃したものを調査し、人を募って牛や犁を貸し出して開墾させ、納めるところの半分を与えたから、田が長らく治らなかったが、そのため肥沃となり、歳入はおよそ三万斛になった。諸工が庸物を計算すると、粟を受けること差があり、そこで遷して故の州を治めさせた。しばらくもしないうちに、村々は元のようになった。駅路をつくり、大市をつくり、道具はすべて備わった。州の民が観察使に詣でて、その功績によって、生祠をつくることを願ったが、徐申は固辞した。観察使が上奏したから、合州刺史に遷った。始めて韶州に来たとき、戸数は七千戸どまりであったが、六年ほどして、二倍のさらに半分を足したほどとなった。当時、はじめて景州を設置し、刺史を授け、銭五十万を賜い、節度副使を加えた。邕管経略使に遷った。黄洞は人質を納めて賦を供給したから、あえて荒々しくはしなかった。翌年、嶺南節度使に昇進した。前節度使が死に、吏は印を盗み、府の職員百人あまりを任命していたが、事が漏洩するのを恐れ、謀って反乱しようとした。徐申は悟ってこれを殺したが、連座は一切不問とした。遠俗では攻撃したり掠奪するのを互いに自慢しあっていたが、徐申が一切禁止すると、再び犯す者はいなかった。外蕃では毎年珠・玳瑁・香・文犀を海上から輸送してやってきていたが、徐申は常時の貢納以外では、贈り物を求めたりしたことはなかったから、商売はにぎわって物に満ち溢れた。劉闢が反乱をおこすと、上表して兵卒五千人を徴発し、馬援の故道にしたがって、爨蛮の地より蜀にあたり、劉闢が防備を固めていないところを叩くことを願った。詔して裁可され、検校礼部尚書を加えられ、東海郡公に封ぜられた。詔が到着する前に卒し、年七十歳であった。太子少保を追贈され、諡を平という。


  郗士美は、字は和夫で、兗州金郷県の人である。父の郗純は、字は高卿で、進士・抜萃科・制策科に推挙されてすべて優秀な成績で及第し、張九齢李邕はしばしば称えた。拾遺から七たび官職を変遷して中書舎人となった。何事も正直で、宰相の元載に嫌われた。当時、魚朝恩が牙将の李琮を両街功徳使に任命し、李琮は権勢をたのんで横暴をきわめ、大勢で京兆尹の崔昭を禁中で辱めたから、郗純は「これは国の恥だ」と言い、そこで元載に詣でて速かにその罪を処分することを要請したが、元載は受け入れず、遂に病と称して辞職して東都に帰り、「伊川田父」と号し、十年間出なかった。徳宗が即位すると、崔祐甫が宰相となり、召喚して太子左庶子・集賢殿学士としたが、拝命せず、老いた身のため辞職を願った。詹事に改められ、致仕を聴された。帝は召見し、褒め称え感嘆すること非常に長い間に及び、紫の服と金魚袋を賜った。公卿以下全員が都門で見送り、世間は節度が高いと言っていた。


  郗士美は年十二歳にして、五経・『史記』・『漢書』に通じ、すべてよく読めた。父の友の蕭穎士顔真卿柳芳とともに議論し、かつて「我らの仲間は他日、二郗の間に交わるだろう」と言った。まだ加冠して成人となる前に陽翟県の丞となり、李抱真を潞州幕府で補佐した。才能によって王虔休李元の幕府にいたが、全員が留めて他に遷さなかった。しばらくして房州刺史・黔中経略観察使に昇進した。渓州の賊の向子琪が八千人ともに山によって掠奪を働き、郗士美は討伐して平定し、検校右散騎常侍を加えられ、高平郡公に封ぜられた。京兆尹に遷り、天子は多く尋ね及んだ。

  京師から出されて鄂岳観察使となった。当時、安黄節度使の伊慎が入朝し、その子の伊宥が後務を司り、高くそびえていたが、母が京師で死んで喪を発せず、その権力を固めようとしていた。郗士美はこれを知って、府の属官をその境界を通過させ、伊宥が出迎えると、そこで母の訃報を告げ、そこで旅装させ、伊宥はおそれてにわかに上京した。

  河南尹、検校工部尚書に改められ、昭義軍節度使に任じられた。昭義軍では李抱真以来、全員武臣が節度使であり、個人の厨房では月に米六千石・羊千頭・酒数十斛を費やしており、潞州の人は非常に困苦していた。郗士美が到着すると、すべて廃止し、給付された銭を出して物を売買して自給した。また盧従史の時代、毎日三百人分の膳を備えて牙兵に食事させていたが、郗士美は「兵卒が牙(節度使)を守るのは、もとより仕事だからだ。どうして多くを費やして私恩をきせることができようか」と言い、これまた廃止した。王承宗を討伐することになると、大将の王献を派遣して一万人を率いて先鋒とした、王献は勝手に敵を避けたから、郗士美はただちに斬って全軍に布告して、下令して「敢えて退く者は斬る」とし、自ら鼓舞したから、大いに賊を破り、敵軍の三営を下して柏郷を包囲した。当時、諸鎮の兵は合わせて十万あまりが賊を包囲していたが、多くが敵に対して消極的であり、かつ法を犯していたが、ただ郗士美の兵は精鋭で規律があり、最も先に功があった。憲宗は喜んで、「もとより郗士美が私の事をよく代弁してくれる」と言った。王承宗は大いに恐れおののき、ほとんど死ぬところであった。たまたま詔があって軍を返したが、威信は両河を震わせた。病によって召喚されて工部尚書を拝命した。後に検校刑部尚書となり、忠武節度使となった。卒したとき、年六十四歳で、尚書左僕射を追贈され、諡を景という。平生、人と交わっては、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行したから、これによって名は世間で重じられた。


  辛秘は、その世系は隴西から出ている。貞元年間(785-805)、明経科に及第し、華原県の主簿を授けられた。推薦されて長安県の尉に任命された。学問は礼家に最も優れ、高郢が太常卿になると、奏上して博士となった。再び兵部員外郎に遷ったが、常に博士を兼任した。再び礼儀使府に任じられた。

  憲宗が即位したばかりの頃、湖州刺史を拝命した。李錡が叛くと、大将を派遣して先ず支州を奪取した。蘇州・常州・杭州・睦州の四人の刺史は、ある者は戦って敗れ、ある者は捕らえられて脅されたが、ただ辛秘は儒者であったから、賊は組みやすしとした。まだ到着する前に、辛秘は牙将の丘知二を召寄せて夜に城を開いて壮士を収容し、数百人を回収し、逆賊は大いに戦い、その将軍を斬り、進撃して軍営を焼き払った。李錡が平定されると、紫の服と金魚袋を賜った。皆が辛秘を将帥たるにたえうる人材であるといい、たまたま河東の范希朝が出撃して王承宗を討伐し、辛秘を召寄せて范希朝の司馬となり、留守の任務を司った。累進して汝州・常州の刺史、河南尹に遷り、昇進して昭義軍節度使を拝命した。この時、恒州・趙州を討伐しての後を受け、潞州の人は色濃く消耗していた。辛秘が到着すると、そこで出入を前もって約束し、財務・税制を節減し、四年して、銭の儲えは十七万緡・糧食は七十万斛となり、武器は堅固かつ良好で、隠然としながら再び昭義軍を保全した。召喚されて帰還することとなったが、道の途上で病のため卒した。年六十四歳で、尚書左僕射を追贈され、諡を粛といい、後に諡を懿と改めた。

  辛秘は大官となっても、住居を邸宅に改めず、服は最初のものとは変えず、俸禄をすべて父母方の親族に与えた。病になると、自らその墓の墓誌銘をつくり、書を一通つくって封した。卒した後に開封して見てみると、葬式の制であり、控えめで礼に違っていなかったという。


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