達奚珣

達奚珣 たつけいじゅん

?-757
盛唐の官人。安禄山の大燕の宰相(在任756-757)。科挙に及第、中書舎人を経て、礼部侍郎となって貢挙にあたった。その後河南尹となったが、安禄山の叛乱を予見し、安禄山が馬三千匹を献上するため京師に向かおうとした際に反対意見を述べて阻止した。安史の乱が起き、天宝十四載(755)十二月に洛陽が陥落すると安禄山に降伏、翌年、安禄山が雄武皇帝と僭称し、国号を燕とすると、左相に任じられ、安禄山の子飼の将の張通儒厳荘よりも上位にたった。洛陽が唐に回復すると唐に帰順したが、重罪とされ、独柳で腰斬の刑に処された。子に達奚撫がいる。

本紀・志
『新唐書』巻五 本紀第五 玄宗 天宝十四載十二月丁酉条
『新唐書』巻五十六 志第四十六 刑法

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』達奚珣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E5%A5%9A%E7%8F%A3

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最終更新:2024年12月20日 23:11
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