巻五十六 志第四十六

唐書巻五十六

志第四十六

刑法


  昔、国を治めた者は、犯罪のあるごとにその内容を検討して個々に刑を決定し、刑法の成文を制定しておかなかった。それは、刑書の存在することにより、民が争ういとぐちを知ることを恐れたからである。後世になって刑書を作るようになると、ひたすら法文が完備しないことを恐れたが、それは民に行なってはいけないことを知らせようとするためである。その方法こそ異なっているけれども、その目的とするところは一つである。思うにいずれも民が罪を犯さないことを願ったものである。しかしこれは、かの、民を導くのに徳をもってし、民を斉えるのに礼をもってすれば、民は善に遷り罪から遠ざかり、しかも自分ではそれに気づかないようにさせることができる、ということをいまだ知らないものである。

  唐の刑書には四種類ある。律・令・格・式がそれである。令は尊卑貴賎の等級づけをしたのであり、国家の制度を規定したものである。格は百官有司の常に行なうべき事がらをしるしたものであり、式は百官有司の常に守るべきところの規定である。およそ国家の政治は、必ずこの三つのものに従って執り行なわれる。そして、この三つのものに違反することがあったり、また人が悪事を行なって罪に問われたりした場合には、もっぱら律によって処断する。唐の律の書は、前代の隋律を踏襲して十二篇から成っている。一は名例、二は衛禁、三は職制、四は戸婚、五は厩庫、六は擅興、七は賊盗、八は闘訟、九は詐偽、十は雑律、十一は捕亡、十二は断獄である。

  律において用いる刑に五つある。一には笞。「笞」とは「恥」ということである。すべて小さな過失は、むち打って恥ずかしめとする。漢代には竹を用いたが、後世ではあらためて茨の木を用いた。『尚書』に「扑もて教刑を作す」とあるのがこれである。二には杖。「杖」とは「持」ということで、手にもって撃つのである。『尚書』に「鞭もて官刑を作す」とあるのがこれである。三には徒。「徒」とは「奴」ということである。これは奴隷にして辱しめるという意であろう。『周礼』に、「その奴のうち、男子は罪隷に入れ、これに労働を課し、これを圜土のうちに置いて教化し、その罪の軽重を量って、一定の年数がたてばこれを捨(ゆる)す」とある。四には流。『尚書』に「流もて五刑を宥す」とあって、これは刑殺するのに忍びないので、死刑を宥して遠地に流す、ということである。五には死刑。すなわち古の大辟の刑である。

  隋より以前には死刑に五つあった。罄・絞・斬・梟・裂という。流刑と徒刑には鞭と答とがあわせ用いられ、その数はみな百をこえていた。隋になって初めて次のように定めた。笞刑は五等級で十から五十まで、杖刑は五等級で六十から百まで、徒刑は五等級で一年から三年まで、流刑は三等級で千里から二千里まで、死刑は二等級で絞と斬とした。前代の鞭刑および梟首や車裂の酷刑を除いた。また議・請・減・贖・当・免の規定があった。唐はこれらをことごとく襲用した。しかし隋の文帝は性質が残酷であったし、煬帝は理非の分別がなかったので、民はその害毒に堪えることができなかった。

  唐が興って、高祖が長安の都に入ると、法を簡約にして十二条とし、ただ殺人・劫盗・背軍・叛逆の者のみを死刑にすることにした。帝位を譲りうけるし、納言の劉文静らに命じて、律令の改訂をさせ、武徳二年(619)に、新しい格五十三条を頒布した。官吏が賄賂を受けとったり、盗の罪を犯したり、官の倉庫の物品について不正を行なったりした場合にかぎり、恩赦の際にも罪をゆるさなかった。すべて断屠の日、また正月・五月・九月には、死刑を行なわなかった。四年に、高祖がみずから囚徒の裁判記録を調べたところ、民は戦乱がもとで法を犯す者の多いことに気づいたので、その持ち主をおびやかし傷けなかった盗人、および逃亡した出征兵士、法をまげた官吏は、ことごとくこれをゆるした。やがてまた尚書左僕射の裴寂ら十五人に詔を下して、あらためて律令を選定させた。律はすべてで五百条あり、これに五十三条の格を付け加えた。流罪は三等級で、従来のそれにそれぞれ千里を加え、居作三歳から二歳半までのものは、ことごとく一歳とした。そしてこのほかは改めるところがなかった。

  太宗は位につくと、長孫无忌房玄齢らに詔を下して、ふたたび旧来の令に改定を加えさせ、絞刑に該当する条項のうち五十条を審議して、すべて死刑を免じて右趾を断ち切ることにした。やがてまた、肢体を断ち切ることをあわれに思って、侍臣に語って、「肉刑は前代の王朝が廃止して以来すでに久しい。いままた人の趾(あし)を断ち切るのは、朕の忍びがたいところである」といった。そこで、王珪蕭瑀陳叔達が答えていうのに、「受刑者にとっては、死刑になるべきところを生かしてもらえるのであるから、どうして一本の趾を断ち切るのをはばかることがあろうか。趾を断ち切るのは、見る者に罪のおそろしさを知らせるためである。いま死刑を趾切りの刑にかえることは、刑を寛やかにすることであろう」と。帝は、「お前たちで、さらにこれを検討せよ」といった。そののち、蜀王府の法曹参軍の裴弘献が、律令の四十余項について反対意見を述べた。そこで房文齢に詔を下して、裴弘献らとともに、かさねて律令に改訂を加えさせた。房玄齢らの意見では、「むかし五刑があって、刖刑はその一つであった。そののち肉刑が廃止されて、今日では答・杖・徒・流・死をもって五刑としている。しかるに今また刖足(あしぎり)の刑を行なえば、これは六刑になる」ということであった。そこで、趾を断ち切る法を除いて、加役流三千里・居作二年とした。

  太宗はあるとき明堂針灸図を見て、人の五臓がみな背に近いところにあって、針や灸もその所をまちがえると、その害は死を招くことを知って、歎息していった。「そもそも箠(むち)で打つのは、五刑のうちでも軽いものであり、死は人にとって重大なものである。どうして、もっとも軽い刑にあたる罪を犯した者を、死なせてしまうことがあってよかろうか」と。そこで詔を下して、「罪人は、その背を鞭うってはならない」とした。

  貞観五年(631)に、河内の人で李好徳という者が、妖言の罪で獄に下された。大理寺丞の張蘊古は、「李好徳は狂気の病にかかっているから、法律上、罪すべきではない」といった。治書侍御史の権万紀がそれを弾劾して、「張蘊古は相州の人で、李好徳の兄の李厚徳は、いまちょうど相州の刺史である。それで張蘊古は、真実を上奏していない」といった。太宗は怒って、にわかに張蘊古を斬刑に処したが、やがて深くそれを後悔した。そこで詔を下して、「死刑にする場合は、たとえ天子の命令がすぐさま執行せよということであっても、みなすべて三たび覆奏せよ」と命じた。その後しばらくしてから臣下に語って次のようにいった。「死んだ者は再び生きかえることができない。むかし王世充鄭頲を殺したが、彼でさえそれを後悔した。近ごろ、役所の下役人が賄賂をとり、それもさほど多くはなかったのに、朕はこれを殺してしまった。これは朕の思慮が十分でなかったためである。囚人の死刑を執行するときには、三たび覆奏してはいるが、それも束の間に行なわれて、どうして十分考えるひまがあろうか。これから後は、二日のうちに五たび覆奏せよ。京師で死刑を執行する日には、尚食は酒や肉を供してはならず、内教坊や太常寺は、楽舞の教習をやめよ。地方の諸州で死刑を執行する場合は、三たび覆奏せよ。その日もまた菜食をし、つとめて礼にいう音楽を廃し食膳を減ずる精神にかなうようにせよ」と。

  旧来の律の規定では、兄弟は分居すれば、蔭による恩典が相及ばないのに、反逆の罪の連坐では、兄弟はともに死刑とされている。同州の人で房彊というものは、弟の謀反のかどで連坐することになっていた。帝は囚徒の裁判記録を調べたとき、この事件を知って顔をくもらせて次のようにいった。「反逆にも二種類があり、軍を興し衆を動かすのがその一であり、不穏な言辞を弄して法に触れるのがその二である。この二つは、罪の軽重が本来異なっているのに、ひとしくこれを反逆として、連坐すればいずれも死刑となる。これがどうして恒久不変な法たり得ようか」と。そこで 房玄齢らは意見を述べて、「礼では孫は王父の尸となる、それゆえ祖は孫を蔭するという令がある。これは祖と孫との関係は重くて、兄弟の関係は軽いということである」といった。そこで、反逆の場合には、祖孫と兄弟とは縁坐すればいずれも配没とし、不穏の言辞を弄して法に触れた場合には、兄弟は流刑にするだけとした。房玄齢らはさらに、法官たちとともに隋律に改訂を加えた。すなわち死刑の条項を下げて流刑の条項としたものが九十二条、流刑の条項を徒刑の条項としたものが七十一条あり、これを律とした。令一千五百四十六条を定めて、これを令とした。また武徳年間(618-623)以来の詔勅三千余条を削って七百条とし、これを格とした。また尚書省の諸部局、およびもろもろの寺、監、十六衛、計帳に関するものを集めて、これを式とした。

  およそ州や県にはみな獄があり、京兆府と河南府の獄は京師を管轄範囲とした。そのうち官吏で罪を犯した者や、金吾衛に逮捕された者については、別に大理寺の獄があった。京師の獄囚については、尚書刑部が毎月一度上奏し、御史がこれを巡察した。毎年、立春から秋分までの間、また大祭祀の当日、致斉の日、朔日と十五日、上弦と下弦の国、二十四気にあたる日、雨の日、および夜がまだ明けきらない時刻、休暇の日、断屠の月には、みな死刑を停止した。

  京師で死刑を執行するときには、御史と金吾を現場に立ちあわせ、地方の州や県で行なうときには、州・県の上司が、その他については判官が立ちあった。五品以上の者が死刑を論決された場合には、車に乗せて刑場に行かせ、大理正が現場に立ちあったが、自宅で自尽を許されることもあった。すべて死罪の囚人が刑を執行されて、その死屍を引き取る親族がない場合には、将作監が棺をあたえて、京城から七里離れたところに埋めた。壙(つかあな)には甎(せん)にきざまれた銘を設け、その上に立札をかかげて、後日、家族の者が引きとって葬ることのできるようにした。

  すべて獄の長官は、五日に一度ずつ囚人の様子を見まわり、夏には飲み水を備えておき、月に一度は沐浴をさせ、病気のときには医薬をあたえ、重病の者には械をといて、家族の一人を獄に入れてつきそいをさせ、職事官・散官の三品以上の者の場合には、妻や娘もしくは子や孫のうちの二人を獄に入れてつきそわせた。

  天下の罪の定めがたい裁判は、大理寺に伺いをたてた。大理寺で断決することのできない場合は、尚書省で会議を開いて審議した。後の法則とすべきものは記録にとどめて秘書省に送付した。駅馬を馳せて上奏する必要がなく、再審を経た上で罪を決定すべき者については、尚書刑部は毎年正月、使者を地方に派して巡回再審させた。そして、行くさきざきで、囚徒の杻(てかせ)・校(くびかせ)や食物を点検し、規定どおりに行なわれていないものを取り締まった。

  杻(てかせ)・校(くびかせ)・鉗(くびかせ)・鎖(くさり)には、それぞれ長短や広狭の制があって、囚徒の罪の軽重に従って用いた。

  囚徒の訊問は二十日に一度ずつ行ない、三度訊問して終わることにし、その際、打つ杖の数は二百をこえないこととした。

  すべて杖は、みな長さ三尺五寸で、節目を削りとった。訊問に用いる杖は、大頭は直径三分二厘、小頭は直径二分二厘とした。本来の杖刑に用いる杖は、大頭の直径は二分七厘、小頭の直径は一分七厘とした。笞刑に用いる杖は、大頭の直径は二分、小頭の直径は一分半とした。

  死罪の者には校(くびかせ)して杻(てかせ)をほどこし、官品や勲階が第七品以上の者には、鎖だけをつけて監禁した。軽罪の者、および十歳未満、八十歳以上の者、廃疾、侏儒、妊娠している者は、いずれも械をかけずに監禁して、断決を待たせた。

  居作の者は鉗(くびかせ)もしくは校(くびかせ)をつけ、京師ならば将作監に隷属させ、女子は少府に隷属して裁縫をさせた。そして、十日ごとに一日の休暇をあたえ、臘と寒食にはそれぞれ二日の休暇をあたえたが、労役の場所から出ることはできなかった。病気の場合には、鉗や校を解いて休暇をあたえ、病気がなおれば休んだだけの日数の労役をさせた。謀反の場合は、その家の男女や奴婢を没入して官奴婢とし、司農寺に隷属させたが、年七十以上の者は免除した。すべて労役は、男子は野菜畑の耕作をさせ、女子は調理場の仕事をさせた。

  流刑や移郷に処せられた者が、途中で重病になったり、婦人が出産したり、祖父母・父母が死亡したり、家の男女や奴婢が死んだりした場合には、いずれも休暇をあたえ、一定の食糧を支給した。

  反逆の縁坐によって流配せられた者でないかぎり、六歳ののちにこれを縦した。また、本来の罪は流刑でないのに、特に流配せられた者も、三歳ののちにはゆるされ、官を有する者は、再び仕えることができた。

  初め太宗は、上古は裁判を行なうとき、三公や九卿の意見を問いただしたという故事のあるところから、詔を下してで、死罪の決定にあたっては、中書・門下両省の五品以上の者、および尚書らの官に、これを評議させた。三品以上の官が罪を犯した場合、それが公罪の流や私罪の徒以下であれば、いずれも本人の身がらを検束しないこととした。また一般に法の条項を詳細に規定しているのは、もっぱら仁恕の精神にもとづくようにさせようとしたものである。ところが、張蘊古が死刑になってからのち、法官は、誤って人を無罪としたり罪を軽くしたりすることを努めて避けるようになり、誤って人を有罪としたり罪を重くしたりしても、いっこうに罪を科せられることはなかった。これによって、役人の法を用いることがいよいよ細密となった。帝はこのことを大理卿の劉徳威にたずねたところ、劉徳威は答えていった。「律の規定では、誤って有罪としたり罪を重くしたりした場合、法官は、その誤った罪から三等級を減じた罪をうけ、誤って無罪としたり罪を軽くしたりした場合には、その誤った罪から五等級を減じた罪をうけることになっている。ところが現在では、誤って有罪としたり罪を重くしたりしても罪にはならないで、誤って無罪としたり罪を軽くしたりした時には大罪を科せられる。それで役人は、みな法をことさらに厳しく適用するのである」と。

  貞観十四年(640)に詔を下して、流罪の者は遠流近流にかかわりなく、辺境要害の州に配流することとした。これからのち法を犯す者がだんだん少なくなった。貞観十六年(642)に、さらに天下の死罪の囚人を選して西州におらせ、流罪の者はこの地の防衛にあたらせ、犯した罪の軽重に従って交替年限を定めた。

  広州都督の党仁弘は、その昔、郷兵二千をひきつれて、高祖の挙兵を助け、長沙郡公に封ぜられた。党仁弘は、有力な酋長と往来して金銀財宝を手に入れ、降服した獠族の男女を投入して奴隷とし、また、ほしいままに蛮人から税をとりたてた。帰任したときには、舟七十隻をもっていた。ある者が、彼に不正取得のあることを朝廷に告発した。その罪は法律上、死刑に該当するものであった。しかし帝は、彼が年老いており、かつまた功労のあったことを哀れにおもったので、貸(ゆる)して庶人の身分におとした。そこで帝は、五品以上の官にある者を召し出して、「賞罰をするということは、天に代わって法を行なうことである。いま朕が、党仁弘の死刑を寛したことは、天子みずから法を弄んで、天意にそむいたものである。臣下に過ちがあれば罪の裁きを君主に求め、君主に過ちがあれば、罪の裁きを天に求めるべきである。それ、係りの役人に命じて、都の南郊に三日の間、藁の座席を設けさせよ。朕は罪の裁きを受けるであろう」といった。房玄齢らは、「陛下が党仁弘を寛されたのは、陛下の私心によってではなく、その功労によるものである。どういう罪の裁きを受けようとされるのか」といい、百官も頓首して三たび懇請したので、ついにとりやめとなった。

  太宗はすぐれた武力をもって天下を平定したけれども、その天性はなさけ深く思いやりがあった。帝位についた初め、威刑をもって天下を粛正されるようにと勧める者があったが、魏徴はそれを不可とし、そのおりに上奏して、「王者の政治が仁恩を根本とするのは、人民を愛し、風俗を厚くすることをねがってのものである」といった。太宗は喜んでこの意見をいれて、ついに寛仁をもって天下を治め、刑法に関しては特に慎重を期した。

  貞観四年(630)に、天下で死罪に断決された者は、二十九人にすぎなかった。貞観六年(632)に、帝みずから囚徒の裁判記録を調べ、死罪の者三百九十人にあわれみをたれて、釈放して家に帰らせ、来年の秋に刑を執行することを約した。期日になると、囚徒はみな朝堂に集まってきて、おくれてくる者は一人もなかった。太宗は囚徒が約を守った誠実さをよみして、ことごとくその罪をゆるした。しかし太宗はあるとき群臣に語って次のようにいった。「朕は、諺に「一歳に再赦すれば、好人喑啞す」とあるのを聞いている。朕が天下を治めて以来、これいんあまでたびたび恩赦を行なわなかったのは、民が僥倖で罪をのがれるようになるのを欲しないからである」と。房玄齢らが律令格式を改定して以来、太宗の治世の終わるまでそれを用いて、改変するところがなかった。高宗は位についた当初、律学に精通した者に詔を下して、律文の疏を撰定させた。また長孫无忌らに詔して、格勅に改定を加えさせて、尚書省の各部局の日常の業務に関するものを留司格と呼び、広く天下に頒布するものを散頒格と呼ん。龍朔・儀鳳年間(661-679)、司刑太常伯の李敬玄、尚書左僕射の劉仁軌が、あいついでまた改訂を行なった。

  武后のとき、内史の裴居道、鳳閣侍郎の韋方質らが、また武徳年間(618-623)以来、垂拱年間(685-688)にいたるまでの詔勅を刪定して新格とし、役所に存置するものを垂拱留司格といった。神龍元年(705)に、中書令の韋安石が、またそれ以後、神龍年間(705-707)にいたるまでの詔勅を続修して、散頒格とした。睿宗が位につくと、戸部尚書の岑羲らが、また太極格を著わした。

  玄宗の開元三年(715)に、黄門監の盧懐慎らが、また開元格を著わした。開元二十五年(737)になって、中書令の李林甫が、また新格を著わした。これは、これまでの格の数千条に改訂を施したものである。その翌年、吏部尚書の宋璟がまた後格を著わした。上記のいずれにも開元の年号を書名に冠した。天宝四載(745)に、また刑部尚書の蕭炅に詔を下して、しだいに改訂を加えさせた。

  粛宗代宗のときには改訂が行なわれなかった。徳宗のときになって、中書門下に詔を下して、律学に精通した者を選んで、至徳年間(756-758)以後の詔勅や奏識のうち、法則とすべきものをまとめて、これを役所に存置したが、書名はつけなかった。

  憲宗のとき、刑部侍郎の許孟容らが、天宝年間(742-756)の詔勅を刪定して、これを開元格後勅とした。

  文宗は尚書省の郎官に命じて、各自所属の尚書六部に下付された詔勅を刪定させ、これを尚書左・右丞が六部の侍郎とともに検討し、中書門下がその採否の判定に参与して奏進し、これを太和格後勅とした。開成三年(838)に、刑部侍郎の狄兼謨が、開元二十六年(738)以後、開成年間(836-840)にいたるまでの詔勅のうち、その繁冗なものを刪り去って、開成詳定格とした。

  宣宗のとき、左衛率府倉曹参軍の張戣が、刑律をもとにして分類して部門を分け、これに格勅を付載して、大中刑律統類とした。そして、尚書刑部に詔を下して、これを天下に頒布した。

  以上記したところが、当時、世に施行された代表的なものであり、その他にその書があっても、常には施行されなかったものは、記述するに値しない。『尚書』に「乃(なんじ)の出す令を慎め」とあるが、おもうに、法令は簡潔であることが大切で、あれば明白であり、長いあいだ行なうことが大切で、長いあいだ行なわれると信頼される。ところが、平凡な君主や凡庸な役人は、おおむねこれを守ることができず、好んで改変を加えるが、改変をかさねて法令が繁多になると、たとえ精明な者があっても、残らずそれに習熟することができないし、役人は法の適用を重くしたり軽くしたりして姦悪を行なうことができる。これが刑書のもつ弊害である。おもうに高宗より以後には、特記すべき重要な事柄はないが、格令の書はその煩にたえないほど多い。

  高宗は暗弱であった上に、ひきつづいて武后の乱が起こり、その害毒は天下に流れ、唐はいまにも滅亡せんばかりであった。永徽年間(650-655)より以後、武后はすでに政治を意のままに行ない、刑罰は大いに乱れるにいたった。当時の大獄は、尚書刑部と御史台と大理寺とがあい寄って取り調べにあたり、これを三司といった。そして、司法の役人は残酷であることをもって有能とされ、はては枷(くびかせ)を着けたまま囚人を笞棰(むち)うって死なせてしまっても、すべてこれを禁じなかった。律には、杖百に該当する規定がおよそ五十九条あり、罪を犯した者が死んでしまっても、まだ打つべき杖の数は終わっていないというようなこともあった。そこで詔を下して、そのうち四十九条を除かせたが、なんの益にもたたなかった。武后は、天子に代わって政治を行なうようになると、天下の民心の服しないことをおそれて、威権をもって制御しようと考えた。そこで、北周のときの告密の法をとりいれ、役所に詔を下して、犯罪の取り調べをうけている者が、他人の密事を口にすることのあった場合には、駅馬を馳せて急遽これを上奏させた。徐敬業・越王李貞・琅邪王李沖などが、武后討滅の兵を起こしたことがあって以来、武后はいよいよ恐怖心をいだいた。そこで、酷吏の周興来俊臣らの中からを起用して、大獄の裁判をつかさどらせ、侯思止王弘義郭弘霸李敬仁康暐衛遂忠などとともに、もっぱら人の罪状を告発することを任とする者数百人を集めて、あいともに『告密羅織経』をなし、こじつけて無実の者を罪におとしいれた。唐の皇族を始め朝廷の仕臣も、日ごとに告発逮捕されることが数えきれないほど多くなり、天下の人々は、このためおびえて足をそばだてて歩いた。狄仁傑魏元忠などでさえ、告発され逮捕をまぬがれないありさまであった。

  左台御史の周矩は上奏して次のように諫めた。「このごろ姦佞なやからが人の秘密をあばき、それが日常茶飯事として行なわれている。犯罪を吟味する役人は、極めて残忍な取り調べをもって功となし、ありもしない罪をさぐり出してはその才能をきそい、苛酷であることをもって自慢しあっている。囚人の耳を泥でふさぎ頭を覆い包み、肋骨をくじき竹の串を手足の爪に刺し、頭髪で身体をつり下げて火で耳をいぶし、大小便の中に寝起きさせ、四肢や身体を傷つけそこない、獄中に放置してただれ腐らせ、これを「獄持」とよんでいる。飲食をあたえず、昼も夜も眠られないようにして、これを「宿囚」とよんでいる。このように、残虐をほしいままにし暴威を逞しくして、これを見て楽しみとしている。無実の罪をきせられた者が、もし死刑になることを求めさえすれば、いつでも死刑になることができる。およそ国を治める者は、仁徳をもって根本とし、刑罰をもって補助とする。周は仁徳をもって栄え、秦は刑罰をもって亡んでいる。願わくば陛下が、刑罰をゆるやかにして仁徳を施されたならば、天下の甚だ幸いとするところである」と。武后はこの上奏をうけいれなかった。麟台正字の陳子昂も、また上書してきびしく諌めたけれども、取り上げられなかった。周興来俊臣らが誅殺された頃には、武后もまた年老い、残酷な心がやや衰えた。そしてまた、狄仁傑姚崇宋璟王及善らがあい共に、垂拱年間(685-688)以後、刑罰のひどい乱脈なため無実の罪をきる者が多いことを論弁したので、武后も感じ悟るところがあり、再び誅殺を行なわなくなったが、しかしその害毒の及ぼしたところは、昔からいまだかつてないほどであった。大足元年(701)に、そこで法官と推事使とに詔を下して、あえて犯罪を立証するための文書を多く作って、それに自分の意見を書き加える者は、故意に人を罪におとしいれるものとして、その罪を論じさせた。中宗韋后の時は、ひきつづいて乱れに乱れた政治であった。

  玄宗は即位の当初から、政治に精励し、常に太守や県令の選任をみずから行ない、親しくこれを教え戒めた。かくて、りっぱな役人が州・県に配置され、民は安楽な生活をいとなむことができて、二十年間は、よく治まった太平の世であると称えられた。衣食は満ち足りて、民は法を犯すことがほとんどなかった。この年、尚書刑部の扱った判決のうち、天下で死罪となった者は五十八人にすぎなかった。昔から大理寺の獄舎には、雀も住まないといい伝えられていたが、このごろ鵲がその庭樹に巣を作るようになった。それで、群臣は天子に祝辞をたてまつって、刑を用いなかった古の理想の状態に近づいたとした。ところが、李林甫が政治の実権をにぎった。来俊臣が誘殺されて以後、ここにいたって初めて大獄が起き、無実の罪におとされて殺される者が、数十百人におよび、韋堅李邕などみな当時の名臣であったが、またその厄にあい、天下の人々はこれを無実の罪とした。その上、天子自身また好んで辺境での戦争を行ない、将兵を四方に派遣して夷狄を攻撃させたが、戦争はしばしば大敗し、士卒の死傷は万をもって数えた。国費はつかいはたされて、物資は車や船で輸送され、遠いところも近いところもおびただしい費用がかかって、民力は疲弊しつくしてしまい、盗賊が起こって裁判ことがむやみと多くなった。天子はここにいたって心をいため、詔を下して次のようにいった。「徒刑は重刑ではないのに、徒役に服する者は、寒いときも暑いときも械をかけたままで釈かれない。杖刑はむかし肉刑に代替されたものである。ところが、犯した罪は凶悪でないのに、棰(むち)で打って殺してしまうことがある。これらの者は、みな罪をゆるして諸軍に配属し、それぞれみずから誠をつくさせるようにせよ。民の年八十以上の者、および重病の者は、罪があってもみな法にかけないようにせよ。侍丁は法を犯しても、ゆるして父母のみまかるまで孝養をつくさせよ」と。天子はこのようにして仁徳をこれらの者に施したが、しかし大盗が起こって、天下はその害毒をこうむり、人民はその恩恵をうけることがなかった。

  安史の乱に、朝敵のがわの官についた陸大鈞らは、賊軍にそむいて朝廷に帰順してきた。安慶緒が河北に逃走すると、おびやかされて賊軍に従っていた者が連れだって罪の裁きを天子に仰いだ。それは、大臣の陳希烈ら以下、すべて数百人にもおよび、御史大夫の李峴、御史中丞の崔器らを三司使としてその取り調べにあたらせた。粛宗はこのとき刑罰をもって世を治めることを好み、崔器もまた法を用いることが残酷であった。それで、河南尹の達奚珣ら三十九人を重罪とした。そのうち、独柳の下で斬られた者が十一人、達奚珣と韋恒とは腰斬の刑に処せられ、陳希烈など獄中で自尽を賜わった者が七人、このほか重杖に処せられて死んだ者が二十一人あって、歳除(おおみそか)の日に刑を執行し、百官をその場に集めて見物させた。彼らの家族は遠地に流された。

  当初、史思明高秀巌らは、みずから賊軍を抜け出して朝廷に帰順してきたが、達奚珣らが誅殺されたのをきいて、おそれて不安の念をいだき、そこでまたもや朝廷に叛いた。しかも三司使の刑罰を用いることがいく年もつづき、流刑になったり官職を降されたりすることが、いつまでもつづいた。王璵が宰相になると、「詔を下されて、三司使の取り調べのまだ終わっていない者は、一切放免せられるように」と奏請した。しかし河北の叛乱者たちは、誅殺されることをおそれて降服せず、戦乱はひきつづき行なわれて終わらず、朝廷ではたびたび大獄を起こした。粛宗はのちになってやはり後悔して、「朕は三司使のために誤られた」といって歎いた。崩ずるに際して天下に詔を下し、流刑になっている者はすべてこれを釈放せよ、といった。

  代宗は人となり寛仁であって、至徳年間(756-758)以来、刑罰によって政治の行なわれたことをいつもみずからの戒めとしていた。河洛の地方が平定すると、詔を下して、河北や河南の吏民で、賊軍の官職に任ぜられていた者も、すべてその罪を問わない、とした。史朝義の将士の妻子四百余人をとりこにしたときも、みなこれを放免した。僕固懐恩が反乱したときも、その家族を発して縁坐させなかった。大盗の高玉は徒党を南山に集め、数千人をその仲間にひき入れたが、のち捕えられた。そのとき恩赦が行なわれ、代宗は高玉の死刑を貸(ゆる)そうとした。高官たちは相はかって塩辛に処せられるようにと奏請したが、帝はききいれず、ついに彼を杖殺させた。諌官たちはいつも、政治が寛大なために朝廷の綱紀が粛正されない、とそれとなく帝を諌めていたが、帝は笑って、「国家が艱難に際会していた当時は、仁政がしもじもに及ばず、かえって刑法が厳酷で、威圧を加えるだけで恩恵を施さなかった。このようなやり方は、朕の忍びがたいところである」といった。代宗が位について五年すると、府県や大理寺の獄には重罪の囚人がなくなった。

  以前には、特別に勅命があって罪人に捶(むちうち)を行なう場合、その打つ数はきまっていなかった。それで、宝応元年(762)に詔を下して、「すべて勅命で一頓の杖をあたえる場合には、その打つ数は四十までとする。一頓の重杖、一頓の痛杖をあたえるような場合でも、いずれも六十までとする」とした。

  徳宗は生まれつき猜疑心がつよく恩情にかけていたが、刑罰にはひどい濫用はなかった。刑部侍郎の班宏が上奏して次のようにいった。「謀反・謀大逆と謀叛・悪逆の四は、十悪のうちでも大罪である。これを犯した者は、律の定めるとおりに刑を行なうべきであるが、それ以外の罪で斬・絞刑に処すべき者は、重杖一頓を行なって死に処し、死刑に代えられたい」と。従来、死罪はまず杖を行ない、その数は百であったり六十であったりしたが、これ以後、これまでのやり方をことごとくやめた。

  憲宗は英明果断であった。位について以来、しばしば方鎮を誅伐し、その専横をおさえようとして、もっぱら法度を用いた。しかし刑罰の適用にあたっては好んで寛大な処置をとった。当時、李吉甫李絳とが宰相であった。李吉甫は次のようにいった。「天下を治めるには、必ず恩賞と刑罰とによるべきである。ところが、陛下はたびたび恩赦の令を出され、滞納の租税を免除し、飢えている民をにぎわされ、その恩徳はまことに広大である。しかし刑罰の方は、まだ十分な成果があがらず、朝廷の内にも地方にも懈怠の気風がある」と。李絳はこれに対して、「いま天下は、まだ非常によく治まってはいないけれども、さりとて甚だしくは乱れてもいない。これはすなわち、むかし秩序のできた国には中典を用いる、という時代にあたっている。昔から天下をよく治めようとおもう君主は、必ず徳化を第一とし、暴乱の世になって、始めてもっぱら刑法を用いるものである。李吉甫の言はまちがっている」といった。憲宗は李絳の言をもっともだとした。司空の于頔もまた帝に、刑罰を用いて威権を掌握せらるべきである、とそれとなく諌めた。帝は宰相に、「于頔は悪だくみをいだいて、朕に民心を失わせようとしている」といった。元和八年(813)に詔を下して、「両京・関内・河東・河北・淮南・山南東道・山南西道における死罪のうちで、十悪・殺人・鋳銭・造印の罪を犯した者、または強盗が武器をもって京兆府内で人を劫(おびやか)した場合、およびその他の盗で賊が三匹以上の者は、従前どおり死刑にする。上記以外の死罪の者は、みな天徳軍の五城に配流することにする。その父・祖や子孫で、罪人について行こうとする者があれば、これを禁止してはならない」といった。おもうに刑罰は政治の輔助をなすものである。政治がよろしきを得れば、仁義は盛んに行なわれて、礼譲は民の風俗となる。それでもなお刑罰を廃止しないのは、民が罪を犯すのを防ぎとめるためである。ただその場合、刑罰を寛やかにするにすぎない。いま、その根本を隆んにすることなく、風俗がどのようであるかを見知っていながら、しかも昔から変わることなく用いられてきた刑罰を廃止するのは、それは民の禁制をゆるめ、かれらの悪事を誘発するものであって、あたかも水を貯めて堤防を決潰させるようなものである。故に玄宗が徒刑と杖刑とを廃止して以後、今また死刑を廃止することとなったが、民は君主の恩徳を理解せずに、ただこれ幸いとするだけである。

  穆宗は暗愚であったが、刑罰の適用を慎重にすべきことをよくわきまえていた。司法の役人が大獄を断決するごとに、中書舎人のうちの一人に命じてそれを参酌して、罪を重くしたり軽くしたりさせた。これを参酌院といった。大理少卿の崔杞が上奏して次のようにいった。「国家の法度は、高祖太宗が制定されて、二百余年を経たものである。周礼に、「正月、刑を布き、これを門閭および都鄙・邦国に張る」とあるが、これはしばしばくり返して教え、天下に刑法を謹み守らせるためである。大理寺は法を守る陛下の役所である。ところがいま、別に参酌の官を設け、司法の役人が刑罰を決定すると、それを検討して重くしたり軽くしたりする。これは生殺与奪の決定が、人の情に左右せられるものであって、法官はその職務を遵守することができない。昔、子路が政治についてたずねたとき、孔子は、「必ずや名を正さんか」といったが、私が考えるのに、参酌という名は正しくない。よろしくこれを廃止すべきである」と。そこでこれをやめた。

  大和六年(832)に、興平県の民の上官興という者が、酒に酔って人を殺して逃亡したが、自分の父が捕らえられたと聞いて、自首して出た。京兆尹の杜悰と、御史中丞の宇文鼎は、上官興が刑をうけて、父を釈放させたことによって、死罪を減軽されるように上請した。帝は中書・門下両省に詔して、これを審議させた。両省の意見は、人を殺した者が死刑になることは、昔からすべての天子が守ってきたところである。もしこれを許して死刑をまぬがれさせれば、これは民を誘って人殺しをさせるようなことになる、ということであった。諌官もやはり同様の意見を述べた。文宗は、上官興が囚われた父を放免されるようにしたのは、義に近い行為であるとして、杖を行なった上で霊州に流刑とした。これを世の識者は刑が当を失したものと考えた。文宗は政治に心を用い、みずから身を持することが恭謹であった。しかし宦官らが専横をほしいままにし、天子はそれを抑制することができず、大臣を誅殺し、その一族をみな殺しにするという事態にたちいたり、それに連累する者は数えきれないほど多かった。文宗は心中その無実なことを知っていて、そのために恨みを飲み涙を流したけれども、それをとどめ救うことができなかった。おもうに、仁者は世の乱れを制し止め、弱者は世の乱れをそのまま見過するのである。してみると、剛強な者は実は不仁ではなく、柔弱な者こそ仁をそこなう賊である。

  武宗李徳裕を任用し、「劉稹らを誅滅して、ここに兵を用いる大刑が行なわれた。ところが、武宗は人となり厳酷であった。旧来、竊盗は死刑にならなかった。それは民が衣食に窮して罪を犯すのをあわれみゆるすことによるものである。このときになって、竊盗の贓が千銭に達する者は死刑とした。のち宣宗のときになると、これをやめた。しかし、宣宗もまた好んで刑罰を用いて政治を行ない、いつも、「わが法を犯す者は、たとえ自分の子弟でもこれを宥さない」といっていた。しかしながら、宣宗は仁愛の徳にかけていたので、唐王朝の徳望はこれからのち衰えていった。

  おもうに、高祖太宗が隋の暴虐を除き去って、寛仁公正な政治を行なって以来、民はその安らかな生活をたのしんで、法を犯すことを憚りつつしんだ。太平の治世をもたらしたその偉業は、夏殷周三代の盛世に近いものであった。考えてみると、心をつくして民をあわれんだことは、まさに仁というべきである。ところが高宗や武后から後は、害毒が国家に浸透し、唐朝の命脈は一時とだえて、かろうじてまた存続するというありさまであった。玄宗は初めのうち、精励して政治を行ない、二十年間ほどは、裁判事件が減少して、年間に断決した死罪の数は、わずかに五十八人にとどまった。このことから考えてみると、治世をもたらすことは難事ではあるが、それに努めればたやすいことであり、努め行なってなお実現されなかったものはない。それから後は、戦乱があいついで起こり、国家は多事となったが、君主はただ茫然と太宗のような大志をもつものがまたとなかった。君主の中には治世を実現したいと思う者があっても、国家の大法を考えることができず、しかも君主の性格に寛仁なるのと苛酷なるのとがあり、すべてその改革したところのものは、一時的なその場しのぎの間にあわせで、あるいは重かったりあるいは軽かったりして、ただ法律を煩瑣にするだけで、後世の範とするに足るものがなく、高祖や太宗の作った法は、わずかに保存されているというにすぎない状態であった。故に粛宗から後は、記載すべきものがほとんどなく、懿宗以後は、言うに足るものがない。


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最終更新:2024年08月16日 16:46
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