唐書巻五
本紀第五
睿宗 玄宗
睿宗玄真大聖大興孝皇帝は、諱を旦といい、
高宗の第八子である。始め殷王に封ぜられ、冀州大都督・単于大都護を領した。成長すると温恭で学問を好み、訓詁に通じ、草書・隸書にたくみであった。豫王に移封され、また冀王に封ぜられ、右金吾衛大将軍・洛州牧に累遷した。相王に移封され、再び豫王に封ぜられた。
武后が
中宗を廃すと、立って皇帝となった。その国号を周と改めると、皇嗣となり、東宮に居住した。
中宗が房州より還ると、再び皇太子となり、
武后が皇嗣を封じて相王とし、太子右衛率を授けた。右羽林衛大将軍・并州牧・安北大都護・諸道元帥に累遷した。
中宗が復位すると、安国相王に号を進めた。
景雲元年(710)六月壬午、
韋皇后が
中宗を弑すと、詔をいつわって温王
李重茂を立てて皇太子とした。刑部尚書の
裴談と工部尚書の
張錫が同中書門下三品となった。吏部尚書の
張嘉福・中書侍郎の
岑羲・吏部侍郎の
崔湜が同中書門下平章事となった。諸府の兵五万を発して京師に駐屯させ、
韋温を総知内外兵馬とした。甲申、喪を発した。また遺詔をいつわって、自ら立って皇太后となった。
皇太子が皇帝の位につくと、
睿宗を参謀政事とし、大赦し、改元して唐隆といった。
太后が臨朝摂政し、
睿宗の参謀政事を解任して、太尉とした。嗣雍王
李守礼を封じて邠王とし、寿春郡王
李成器を宋王とした。丁亥、
温王の妃の陸氏が皇后となった。壬辰、
紀処訥・
張嘉福・
岑羲が節を持って関内・河南北を巡撫した。
庚子、臨淄郡王
李隆基が万騎の兵を率いて北軍に入って乱を討ち、
韋氏・
安楽公主および
韋巨源・
馬秦客・駙馬都尉の
武延秀・光禄少卿の
楊均を殺した。辛丑、
睿宗が皇帝を奉じて
安福門に御し、大赦した。文武の官に階・勲・爵を賜り、天下の歳租の半分を免除した。
李隆基を進封して平王とした。朝邑尉の
劉幽求が中書舎人となり、苑総監の
鍾紹京が中書侍郎となって、ともに機務に参知した。壬寅、
鍾紹京および黄門侍郎の
李日知が同中書門下三品となった。
紀処訥・
韋温・
宗楚客・将作大匠の
宗晋卿・司農卿の
趙履温が処刑された。汴王
李邕を左遷して沁州刺史とし、
蕭至忠を許州刺史とし、
韋嗣立を宋州刺史とし、
趙彦昭を絳州刺史とし、
崔湜を華州刺史とした。癸卯、太白(金星)が昼に見えた。平王
李隆基が同中書門下三品となり、
鍾紹京が中書令を代行した。
張嘉福が処刑された。
甲辰、
安国相王が
承天門で皇帝の位につき、大赦し、長流・長任および流人でまだ達していない者を帰還させた。内外の官に階・爵を賜った。再び
李重茂を温王とした。乙巳、
鍾紹京が宰相を罷免された。丙午、太常少卿の
薛稷が黄門侍郎となり、機務に参与した。丁未、平王
李隆基を立てて皇太子とした。
則天大聖皇后の号を復して天后といった。戊申、許州刺史の
姚元之が兵部尚書・同中書門下三品となった。
韋嗣立・
蕭至忠が中書令となり、
趙彦昭が中書侍郎となり、
崔湜が吏部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
七月庚戌、衡陽郡王
李成義を進封して申王とし、巴陵郡王
李隆範を岐王とし、彭城郡王
李隆業を薛王とした。癸丑、兵部尚書の
崔日用が黄門侍郎となり、機務に参与した。丁巳、洛州長史の
宋璟が吏部尚書を検校し、同中書門下三品となった。
岑羲が宰相を罷免された。壬戌、
蕭至忠を左遷して晋州刺史とし、
韋嗣立を許州刺史とし、
趙彦昭を宋州刺史とし、
張錫を絳州刺史とした。
崔湜が宰相を罷免された。丙寅、
李嶠を左遷して懐州刺史とした。
姚元之が中書令を兼ね、
蘇瓌が尚書左僕射となった。丁卯、
唐休璟・
張仁亶が宰相を罷免された。己巳、大赦し、改元し、内外の官および子で父の後嗣である者に勲一転を賜った。
崔日用・
薛稷が宰相を罷免された。乙亥、
崇恩廟・昊陵・順陵を廃した。
皇后韋氏を追って廃して庶人とし、
安楽公主を勃逆庶人とした。
八月庚寅、譙王
李重福および汴州刺史の
鄭愔がそむき、処刑された。癸巳、
墨勅斜封官を廃止した。
裴談を左遷して蒲州刺史とした。
九月辛未、太子少師として致仕した
唐休璟を朔方道行軍大総管とし、突厥に備えた。
十月乙未、
天后を追号して大聖天后といった。癸卯、
義宗を太廟から出した。
十一月戊申、
姚元之が中書令となった。己酉、
孝和皇帝を定陵に葬った。壬子、
蘇瓌・
韋安石が宰相を罷免された。宋王
李成器が尚書左僕射となった。丁卯、
霊駕の通過したところを赦した。己巳、宋王
李成器が司徒となった。
二年(711)正月己未、太僕卿の
郭元振と中書侍郎の
張説が同中書門下平章事となった。甲子、
李重茂を移封して襄王とした。乙丑、妃の
劉氏・
竇氏を追冊して皇后とした。
二月丁丑、
皇太子を監国とした。甲申、
姚元之を左遷して申州刺史とし、
宋璟を楚州刺史とした。丙戌、太子少保の
韋安石が侍中となった。
劉幽求が宰相を罷免された。
墨勅斜封官を復活した。辛卯、屠殺を禁じた。
三月癸丑、
金仙観・
玉真観を作った。
四月甲申、
韋安石が中書令となった。宋王
李成器が宰相を罷免された。辛卯、
李日知が侍中となった。壬寅、大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜り、民間に三日の宴会を賜った。甲辰、玄元皇帝廟(老子廟)を作った。
五月庚戌、昊陵・順陵を復し、官属を置いた。壬戌、殿中監の
竇懐貞が左御史台大夫・同中書門下平章事となった。
八月乙卯、大赦し、三日の宴会を賜った。丁巳、
皇太子が国学で釈奠した。庚午、
韋安石が尚書左僕射・同中書門下三品となった。
九月乙亥、
竇懐貞が侍中となった。
十月甲辰、吏部尚書の
劉幽求が侍中となり、右散騎常侍の
魏知古、太子詹事の
崔湜が中書侍郎となり、ともに同中書門下三品となった。中書侍郎の
陸象先が同中書門下平章事となった。
韋安石・
李日知・
郭元振・
竇懐貞・
張説が宰相を罷免された。
十二月丁未、
潑寒胡戯を行った。
先天元年(712)正月辛未、太廟で享した。甲戌、并州・汾州・絳州の三州で地震があった。辛巳、南郊を有事摂祭した。戊子、籍田を耕した。己丑、大赦し、改元して太極といった。内外の官に階・爵を賜り、民間に五日の宴会を賜った。九十以上に下州の刺史を、八十以上に上州の司馬を版授した。辛卯、
安福門に行幸し、三日間の夜宴会した。壬辰、
陸象先が同中書門下三品となった。乙未、戸部尚書の
岑羲と左御史台大夫の
竇懐貞が同中書門下三品となった。
二月丁巳、
皇太子が国学で釋奠した。
この春、日照りがあった。
五月戊寅、北郊を有事摂祭した。辛巳、大赦し、改元して延和といった。内外官の陪礼者に勲一転を賜い、民間に五日の宴会を賜った。
六月癸丑、
岑羲が侍中となった。乙卯、
大聖天后に追号して天后聖帝とした。辛酉、刑部尚書の
郭元振が朔方道行軍大総管となり、突厥を討伐した。甲子、幽州都督の
孫佺・左驍衛将軍の
李楷洛・左威衛将軍の
周以悌が奚と冷陘山で戦い、敗れた。
七月辛未、彗星が太微に入った。兵部尚書の
李迥秀が朔方道後軍大総管となった。乙亥、
竇懐貞が尚書右僕射・平章軍国重事となった。己卯、
安福門に行幸して楽を観賞したが、三日で止めた。丙戌、旱害のため膳を減らした。
八月庚子、
皇太子を立てて皇帝とし、小事を聴政させた。自らは尊号を太上皇とし、大事を聴政した。壬寅、
天后聖帝を追号して聖后とした。甲辰、大赦し、改元し、内外官および五品以上の子で父の後嗣となる者に勲・爵を賜い、民に五日宴を賜った。丁未、皇太子妃王氏を立てて皇后とした。戊申、皇帝の子の
李嗣直を封じて郯王とし、
李嗣謙を郢王とした。己酉、宋王
李成器が司徒となった。庚戌、
竇懐貞が尚書左僕射となり、
劉幽求が尚書右僕射を代行し、ともに同中書門下三品となった。
魏知古が侍中となり、
崔湜が中書令を検校した。戊午、
劉幽求を封州に流した。
九月丁卯朔、日食があった。甲午、皇帝の子の
李嗣昇を封じて陜王とした。
十月辛卯、驪山で狩猟した。
十一月丁亥、誥して
皇帝を派遣して巡辺させた。甲午、幽州都督の
宋璟が左軍大総管となり、并州長史の
薛訥が中軍大総管となり、兵部尚書の
郭元振が右軍大総管となった。
先天二年(713)正月乙亥、吏部尚書の
蕭至忠が中書令となった。
二月、先天元年(712)の宴会を追って実施した。
六月辛丑、長雨のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、
郭元振が同中書門下三品となった。
七月甲子、大赦した。乙丑、誥して政務を
皇帝に帰属させた。
開元四年(716)六月、
百福殿で崩じ、年は五十五で、諡を大聖真皇帝といった。天宝十三載(754)、玄真大聖大興孝皇帝と増諡した。
玄宗至道大聖大明孝皇帝は、諱を隆基といい、
睿宗の第三子である。母は
昭成皇后竇氏といった。性格は英武で、騎射を善くし、音律・暦象の学に通じた。始め楚王に封ぜられ、後に臨淄郡王となった。衛尉少卿・潞州別駕に累遷した。
景龍四年(710)、京師に朝し、遂に留められて外地に派遣されなかった。庶人
韋氏がすでに
中宗を弑逆し、いつわって詔して称制した。玄宗はそこで
太平公主とその
薛崇簡、尚衣奉御の王崇曄・公主府典籤の王師虔・朝邑尉の
劉幽求・苑総監の
鍾紹京・長上折衝の麻嗣宗・押万騎果毅の葛福順・李仙鳧、道士の馮処澄・僧普潤とともに計略をさだめて乱を討伐した。またはまず相王(
睿宗)に願い申し上げて、玄宗は、「私たちに従ってください。これは王家の危事なのです。従ってくださらなければ、私達の計略は失敗してしまいます」といい、そこで夜に劉幽求らを率いて苑中に入り、葛福順・李仙鳧は一万騎の兵をもって
玄武門を攻撃し、左羽林将軍の
韋播・中郎将の
高嵩を斬って従わせた。左万騎は左に入らせ、右万騎は右に入らせ、玄宗は総監羽林兵を率いて
両儀殿に集合させ、梓宮宿衛兵は皆起ってこれに応じた。遂に
韋氏を誅殺した。夜明けに馳せて相王のもとに謁し、先に申し上げなかったことを謝した。相王は泣いて、「お前のお陰で免れた。そうでなければ私にもまた難がおよんだだろう」と言い、そこで玄宗殿は中監、兼知内外閑厩・検校隴右群牧大使、押左右万騎に拝し、平王に進封され、同中書門下三品となった。
睿宗が即位すると、立って皇太子となった。景雲二年(711)、監国となり、六品以下の官の任命を聴した。延和元年(712)、星官が「五帝坐星(惑星)の前の星に変があります」と申し述べた。睿宗は、「徳を伝えて災を避けよう。我が意は決した」と言った。七月壬辰、
皇太子に制して皇帝位に即位させた。太子は驚き恐れて願い出たが、
睿宗は、「これはわが所に天戒があったのに答えたものなのだ」と言い、皇太子はそこで
武徳殿に御し、三品以下の官を任命した。八月庚子、皇帝の位についた。先天元年(712)十月庚子、太廟に享し、大赦した。
開元元年(713)正月辛巳、
皇后が自ら養蚕した。
七月甲子、
太平公主および
岑羲・
蕭至忠・
竇懐貞が反乱を計画し、処刑された。乙丑、聴政を始めた。丁卯、大赦し、文武の官に階・爵を賜った。庚午、
崔湜を竇州に流した。甲戌、
大周万国頌徳天枢を破壊した。乙亥、尚書右丞の
張説を検校中書令とした。庚辰、
陸象先が宰相を罷免された。
八月癸巳、
劉幽求が尚書右僕射となり、軍国の大事を領知した。壬寅、宋王
李成器が太尉となり、申王
李成義が司徒となり、邠王
李守礼が司空となった。
九月丙寅、宋王
李成器が宰相を罷免された。庚午、
劉幽求が同中書門下三品となり、
張説が中書令となった。
十月、姚巂蛮が姚州を寇し、都督の
李蒙がここに死んだ。己亥、温湯に幸した。癸卯、驪山で武を講じた。
郭元振を新州に流し、給事中の
唐紹が処刑された。新豊県の来年の税を免除し、従官に帛を賜った。甲辰、渭川で狩猟した。同州刺史の
姚元之が兵部尚書・同中書門下三品となった。乙巳、渭川から到着した。
十一月乙丑、
劉幽求が侍中を兼ねた。戊子、群臣が尊号をたてまつって開元神武皇帝といった。
十二月庚寅、大赦し、改元し、内外の官に勲を賜った。中書省を改めて紫微省とし、門下省を黄門省とし、侍中を監とした。甲午、吐蕃が和を請うた。己亥、
潑寒胡戯を禁じた。壬寅、
姚崇が紫微令を兼ねた。癸丑、
劉幽求が宰相を罷免された。
張説を左遷して相州刺史とした。甲寅、黄門侍郎の
盧懐慎が同紫微黄門平章事となった。
開元二年(714)正月壬午、関内の旱害のため、直諌を求め、不急の務を停止し、収監囚を許し、名山大川を祀り、晒されている死体を埋葬した。甲申、并州節度大使の
薛訥が同紫微黄門三品となり、契丹を討伐した。
二月壬辰、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。突厥が北庭を寇し、都護の
郭虔瓘がこれを破った。己酉、囚人を再審した。
三月己亥、磧西節度使の
阿史那献が西突厥の都担を捕らえた。
四月辛未、諸陵へ供奉する鷹・犬を停止した。
五月辛亥、
魏知古が宰相を罷免された。
六月、京師で大風のために木が抜けた。甲子、
太上皇が避暑のため、遷って
大明宮に御した。
七月乙未、錦繍珠玉を前殿で焚いた。戊戌、珠玉を採取して彫って器玩をつくること、真珠の編絹で衣服をつくることを禁じ、織錦坊を廃した。庚子、
薛訥が奚・契丹と灤河で戦い、敗れた。丁未、襄王
李重茂が薨去し、追冊して皇帝とした。
八月壬戌、女楽を禁じた。乙亥、吐蕃が辺境を寇したので、
薛訥が左羽林軍将軍を摂り、隴右防禦大使となり、右驍衛将軍の
郭知運が副使となって、これを討伐した。
九月庚寅、
興慶宮を作った。丁酉、京師の侍老と
含元殿の庭で宴し、九十歳以上に几杖を、八十歳以上に鳩杖を賜い、婦人もまた同様とし、その家に賜った。戊申、温湯に幸した。
十月戊午、温湯から到着した。甲子、
薛訥が吐蕃と武階で戦い、これを破った。
十二月乙丑、子の
李嗣真を封じて鄫王とし、
李嗣初を鄂王とし、
李嗣玄を鄄王とした。
開元三年(715)正月丁亥、郢王
李嗣謙を立てて皇太子とした。死罪を一等降し、流以下を赦した。三日の宴会を賜った。癸卯、
盧懐慎が黄門監を検校した。
二月辛酉、囚人で悪逆・造偽ではない者を赦した。
四月庚申、突厥部の三姓葛邏禄(カルルク)が来附した。右羽林軍大将軍の
薛訥が涼州鎮軍大総管となり、涼州都督の
楊執一が副総管となった。右衛大将軍の
郭虔瓘が朔州鎮軍大総管となり、并州長史の
王晙が副総管となり、突厥に備えた。
五月丁未、旱害のため京師の囚を録した。戊申、正殿を避け、膳を減らした。
七月庚辰朔、日食があった。
十月辛酉、巂州蛮が辺境を寇し、右驍衛将軍
李玄道がこれを討伐した。壬戌、
薛訥が朔方道行軍大総管となり、太僕卿の
呂延祚と霊州刺史の
杜賓客が副総管となった。癸亥、郿に行き、通過した場所の徒罪以下を赦し、侍老九十歳以上および病のあつい者に物を賜った。甲子、鳳泉湯にいった。戊辰、大理寺で囚人の罪を一等降した。
十一月己卯、鳳泉湯から到着した。乙酉、温湯に幸した。丁亥、相州の人の崔子喦がそむき、処刑された。甲午、温湯から到着した。乙未、白衣長髪で会するのを禁じた。
十二月乙丑、鳳泉湯の通過した場所の死罪以下を一等降した。
開元四年(716)正月戊寅、
太上皇を西宮(太極宮)で朝覲した。
二月丙辰、温湯に幸した。辛酉、吐蕃が松州を寇し、廓州刺史の
蓋思貴がこれを討伐した。丁卯、温湯から到着した。癸酉、松州都督の
孫仁献が吐蕃と戦い、これを破った。
六月甲子、
太上皇が崩じた。辛未、京師と華・陜の二州で大風のため木が抜けた。癸酉、大武軍子将の
郝霊佺が突厥の黙啜を殺した。
七月丁丑、吐蕃が和を請うた。丁酉、洛水が氾濫した。
八月辛未、奚・契丹が降った。
十月庚午、
大聖真皇帝を橋陵に葬った。
十一月己卯、
盧懐慎が宰相を罷免された。丁亥、
中宗を西廟に遷した。丙申、尚書左丞の
源乾曜が黄門侍郎・同紫微黄門平章事となった。
十二月乙卯、定陵の寝殿で火事があった。丙辰、温湯に幸した。乙丑、温湯から到着した。
閏月己亥、
姚崇・
源乾曜が宰相を罷免された。刑部尚書の
宋璟が吏部尚書兼黄門監となり、紫微侍郎の
蘇頲が同紫微黄門平章事となった。
開元五年(717)正月癸卯、太廟の四室が壊れたので、神主を
太極殿に遷し、素服で正殿を避け、朝政を五日みることをやめた。己酉、
太極殿に享した。辛亥、東都にいった。戊辰、大霧があった。
二月甲戌、大赦し、従官に帛を賜い、河南に一年免税とし、河南の北の蝗・水害の州の今年の租を免除した。
三月丙寅、吐蕃が和を請うた。
四月甲申、洛受図壇を破壊した。己丑、子の
李嗣一が亡くなった。
五月丙辰、詔して公侯の子孫に襲封させた。
七月壬寅、隴右節度使の
郭知運が吐蕃と戦い、これを破った。
九月壬寅、紫微省を中書省にもどし、黄門省を門下省とし、監を侍中とした。
十月戊寅、神主を太廟に祔った。甲申、史官に命じて月奏を行事とした。
開元六年(718)正月辛丑、突厥が和を請うた。
二月壬辰、朔方道行軍大総管の
王晙が突厥を討伐した。
六月甲申、瀍水が氾濫した。
八月庚辰、旱害のため囚人を再審した。
十月癸亥、河南府と懐州・汝州・鄭州の三州の父老に帛を賜った。
十一月辛卯、東都から到着した。丙申、太廟で享した。
元皇帝以上、三祖の枝孫で官を失った者に五品の京官を授け、
皇祖の妣(夫人梁氏)の家の子孫で選にある者を抜擢した。知頓(皇帝の食宿)および傍らの州で供応する者に一年間の租税を免除した。乙巳、伝国の璽を改めて「宝」といった。この月、突厥が単于副都護の張知運を捕らえた。
開元七年(719)五月己丑朔、日食があり、素服で、音楽をやめ、膳を減らし、中書門下で囚人を再審した。
六月戊辰、吐蕃が和を請うた。
閏七月辛巳、旱害のため正殿を避け、音楽をやめ、膳を減らした。甲申、囚人を再審した。八月丙戌、囚人を再審した。
九月甲戌、宋王
李憲を移封して寧王とした。
十月、
義宗廟を東都に造った。辛卯、温湯に幸した。癸卯、温湯から到着した。
十一月乙亥、
皇太子に学を歯冑(視学)させ、陪位の官および学生に帛を賜った。
開元八年(720)正月辛巳、
宋璟・
蘇頲が宰相を罷免された。京兆尹の
源乾曜が黄門侍郎となり、并州大都督府長史の
張嘉貞が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
二月戊戌、子の
李敏が亡くなった。
三月甲子、水害・旱の州で債務を免除し、四鎮の行人の家を一年間免税とした。
五月丁卯、
源乾曜が侍中となり、
張嘉貞が中書令となった。
六月庚寅、洛水・瀍水・穀水が氾濫した。
九月、突厥が甘州・涼州を寇し、涼州都督の
楊敬述が突厥と戦い、敗れた。丙寅、京城の囚の罪を一等降し、杖以下を赦した。壬申、契丹が辺境を寇し、
王晙が検校幽州都督・節度河北諸軍大使となり、黄門侍郎の
韋抗が朔方道行軍大総管となり、これを討伐した。甲戌、中書門下の囚人を再審した。
十月辛巳、
長春宮にいった。壬午、下邽で狩猟した。庚寅、温湯に幸した。十一月乙卯、温湯から到着した。
開元九年(721)正月、田畝の検地を行った。丙寅、温湯に幸した。乙亥、温湯から到着した。
二月丙戌、突厥が和を請うた。丁亥、全国の開元七年(719)以前の賦税を免除した。
四月庚寅、蘭池の胡の
康待賓が辺境を寇した。
五月庚午、現在の囚人で死罪・流罪の者で従軍してよく戦った者、徒以下でまだ発覚していない者を赦した。
七月己酉、
王晙が
康待賓を捕らえた。
八月、蘭池の胡の
康願子が辺境を寇した。
九月乙巳朔、日食があった。癸亥、天兵軍節度大使の
張説が兵部尚書・同中書門下三品となった。
十一月庚午、大赦し、文武の官に階・爵を賜り、唐隆・先天年間(710-713)の実封の功臣で罪によって免官された者、もしくは死んだ者を加贈した。民間に三日の宴会を賜った。
十二月乙酉、温湯に幸した。壬辰、温湯から到着した。
この冬、雪がなかった。
開元十年(722)正月丁巳、東都にいった。
二月丁丑、
望春亭に行き、にわかに従官に帛を賜った。
四月己亥、
張説が持節・朔方軍節度大使となった。
五月戊午、突厥が和を請うた。辛酉、伊水・汝水が氾濫した。
閏月壬申、
張説が辺境を巡視した。
六月丁巳、黄河が博・棣の二州で決壊した。
七月庚辰、水害に遭った州に一年間の免税を賜った。丙戌、安南の人の
梅叔鸞がそむき、処刑された。
九月、
張説が
康願子を木盤山で破り、これを捕らえた。己卯、京兆の人の
権梁山がそむき、処刑された。癸未、吐蕃が小勃律(ギルギット)を攻め、北庭節度使の
張孝嵩がこれを破った。
十月甲寅、
興泰宮にいき、上宜川で狩猟した。庚申、東都にいった。
十二月、突厥が和を請うた。
開元十一年(723)正月丁卯、東都の囚人の罪を一等降し、杖以下を許した。己巳、并州にいき、囚人の罪を一等降し、徒以下を許した。侍老に物を賜った。庚辰、潞州に行き、囚人を許し、免税五年とし、故邸を飛龍宮とした。辛卯、并州に行き、并州を改めて北都とした。癸巳、太原府で赦し、一年間免税とし、下戸三年は、元従家は五年とした。侍老で八十歳以上に上県の令を、婦人に県君を版授した。九十歳以上に上州長史、婦人を郡君とした。百歳以上は上州刺史、婦人を郡夫人とした。
二月己酉、
張嘉貞を左遷して豳州刺史とした。壬子、汾陰にいき、后土を祠り、文武の官に階・勲・爵・帛を賜った。癸亥、
張説が中書令を兼ねた。
三月辛未、汾陰から到着し、通過した場所のこの年の税を免除し、京城で赦した。
四月甲子、
張説が中書令となった。吏部尚書の
王晙が兵部尚書・同中書門下三品となった。
五月乙丑、
中宗を太廟にもどした。己丑、
王晙が持節・朔方軍節度大使となった。辛卯、使者を分遣して天下を巡察させた。
六月、
王晙が辺境を巡視した。
八月戊申、
宣皇帝に追号して
献祖といい、
光皇帝を
懿祖といった。
十月丁酉、温湯に幸し、
温泉宮を作った。甲寅、温湯から到着した。
十一月戊寅、南郊を有事摂祭し、大赦した。奉祠官に階・勲・爵を、親王・公主の一子に官を、老年の者に粟帛を、孝子・孝孫に終身勿事(労役の免除)を賜った。天下で三日の宴会をおこない、京城では五日おこなった。
十二月甲午、鳳泉湯にいった。戊申、鳳泉湯から到着した。庚申、
王晙を左遷して蘄州刺史とした。
開元十二年(724)四月壬寅、詔して傍継の国王の礼で廃すべきにして近親の者を郡王に封じた。
七月己卯、
皇后王氏を廃して庶人とした。十月、庶人王氏が亡くなった。
十一月庚午、東都にいった。庚辰、溪州の首領の
覃行章がそむき、処刑された。辛巳、申王
李撝が薨去した。
閏十二月丙辰朔、日食があった。
開元十三年(725)正月戊子、死罪に一等降し、流以下を赦した。使者を派遣して天下に宣慰した。壬子、朔方・隴右・河西で戦没した者を葬った。
三月甲午、郯王
李潭を移封して慶王とし、陜王
李浚を忠王とし、鄫王
李洽を棣王とし、鄄王
李滉を栄王とした。子の
李涺を封じて光王とし、
李濰を儀王とし、
李澐を潁王とし、
李沢を永王とし、
李清を寿王とし、
李洄を延王とし、
李沐を盛王とし、
李溢を済王とした。
九月丙戌、祥瑞を奏するのをやめた。
十月辛酉、兗州にいった。庚午、濮州に行き、河南の北五百里内の父老に帛を賜った。
十一月庚寅、泰山で封をおこなった。辛卯、禅を社首でおこなった。壬辰、大赦した。文武の官に階・勲・爵を、致仕の官に一季禄を、公主・嗣王・郡県主の一子に官を、諸蕃の酋長で朝会に来た者に一官を賜った。通過した所で一年間の、兗州で二年間の租を免除した。天下に七日の宴会を賜った。丙申、孔子の宅に幸し、使者を派遣して太牢祭をその墓で行い、近墓五戸に一年間免税とした。丁酉、徐州・曹州・亳州・許州・仙州・豫州の六州の父老に帛を賜った。
十二月己巳、東都にいった。
開元十四年(726)二月、邕州の獠の
梁大海がそむき、処刑された。
四月丁巳、戸部侍郎の
李元紘が中書侍郎・同中書門下平章事となった。庚申、
張説が宰相を罷免された。丁卯、岐王
李範が薨去した。
六月戊午、東都で大風のため木が抜けた。壬戌、詔して州県の長官に政事を言上させた。
七月癸未、瀍水が氾濫した。
八月丙午、黄河が魏州で決壊した。
九月己丑、磧西節度使の
杜暹が黄門侍郎を検校し、同中書門下平章事となった。
十月甲寅、太白(金星)が昼に見えた。庚申、広成湯にいった。己巳、東都にいった。
十二月丁巳、方秀川で狩猟した。
開元十五年(727)正月辛丑、河西・隴右節度使の
王君㚟が吐蕃と青海で戦い、これを破った。
七月甲戌、
興教門観に雷がおち、焼失した。庚寅、洛水が氾濫した。己亥、都城の囚人の罪を一等降し、徒以下を赦した。
八月、澗水・穀水が氾濫し、澠池県を破壊した。己巳、天下の死罪・嶺南の辺州の流人を一等降し、徒以下を赦した。
九月丙子、吐蕃が瓜州を寇し、刺史の
田元献を捕らえた。
閏月庚子、吐蕃が安西を寇し、副大都護の
趙頤貞がこれを破った。庚申、回紇が甘州を襲い、
王君㚟がここに死んだ。
十月己卯、東都から到着した。
十一月丁卯、城南で狩猟した。
十二月乙亥、
温泉宮に幸した。丙戌、温泉宮から到着した。
開元十六年(728)正月壬寅、
趙頤貞が吐蕃と曲子城で戦い、これを破った。乙卯、瀧州の首領の
陳行範がそむき、処刑された。庚申、徒以下の囚人を許し営農を保持させた。
三月辛丑、営農の囚人の罪を免除した。
七月、吐蕃が瓜州を寇し、刺史の
張守珪がこれを破った。乙巳、隴右節度使の
張志亮と河西節度使の
蕭嵩が吐蕃の大莫門城を落とした。八月辛卯、吐蕃と祁連城で戦い、これを破った。
九月丙午、長らく雨が降ったため囚人の罪を徒以下は赦した。
十月己卯、
温泉宮に幸した。己丑、温泉宮から到着した。
十一月癸巳、
蕭嵩が兵部尚書・同中書門下平章事(宰相)となった。甲辰、貯水池の禁を緩めた。戊申、寧王
李憲の邸宅に幸した。庚戌、寧王
李憲の邸宅から到着した。
十二月丁卯、
温泉宮に幸した。丁丑、温泉宮から到着した。
開元十七年(729)二月丁卯、巂州都督の
張審素が雲南の昆明城・塩城を落とした。
三月戊戌、
張守珪が吐蕃と大同軍で戦い、これを破った。
四月癸亥、死罪を一等降し、流以下を許した。乙亥、大風、雷のため藍田山が崩れた。
六月甲戌、
源乾曜・
杜暹・
李元紘を宰相から罷免した。
蕭嵩が中書令を兼ねた。戸部侍郎の
宇文融が黄門侍郎となり、兵部侍郎の
裴光庭が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
九月壬子、
宇文融を左遷して汝州刺史とした。
十月戊午朔、日食があった。
十一月庚寅、太廟で享した。丙申、橋陵を拝し、奉先県で赦した。戊戌、定陵を拝した。己亥、献陵を拝した。壬寅、昭陵を拝した。乙巳、乾陵を拝した。戊申、乾陵から到着し、大赦した。この年の税の半分を免除した。文武の官に階・爵を、侍老に帛を賜った。孝子・孝孫・義夫・節婦を表彰し、終身勿事(労役の免除)を賜った。唐隆年間(710)の両営の立功で三品以上の一子に官を授けた。供頓した県でこの年の税を免除した。諸軍の行人に勲両転を賜った。
十二月辛酉、
温泉宮に幸した。壬申、温泉宮から到着した。
この冬、雪がなかった。
開元十八年(730)正月辛卯、
裴光庭が侍中となった。
二月丙寅、大雨、雷が左飛龍厩に落ちて、火災となった。辛未、囚人の罪で杖以下を免じた。
四月乙卯、京師の外郭を築いた。
五月己酉、奚・契丹が突厥についた。
六月甲子、彗星が五車より出た。癸酉、星孛が畢・昴に出現した。乙亥、瀍水が氾濫した。丙子、忠王
李浚が河北道行軍元帥となった。壬午、洛水が氾濫した。
九月丁巳、忠王
李浚が河東道諸軍元帥を兼ねた。
十月戊子、吐蕃が和を請うた。庚寅、鳳泉湯にいった。癸卯、鳳泉湯から到着した。
十一月丁卯、
温泉宮に幸した。丁丑、温泉宮から到着した。
開元十九年(731)正月、瀼州別駕の
王毛仲を殺した。丙子、
興慶宮で耕した。己卯、鯉魚を捕ることを禁じた。
四月壬午、死罪以下を一等降した。丙申、太公廟を立てた。
六月乙酉、大風で木が抜けた。
七月癸丑、吐蕃が和を請うた。
八月辛巳、千秋節によって死罪に一等降し、流罪以下を許した。
十月丙申、東都にいった。十一月乙卯、洛城南に行き、従官に帛を賜った。
この年、揚州の穭に稲が生えた。
開元二十年(732)正月乙卯、信安郡王
李禕が河東・河北道行軍副元帥となり、奚・契丹を討伐した。
二月甲戌朔、日食があった。壬午、囚人の罪を一等降し、徒以下は許した。
三月己巳、信安郡王
李禕が奚・契丹と薊州で戦い、これを破った。
五月戊申、忠王
李浚が捕らえた奚・契丹を献上した。
六月丁丑、
李浚が司徒となった。
八月辛未朔、日食があった。
九月乙巳、渤海靺鞨が登州を寇し、刺史の韋俊がここに死に、左領軍衛将軍の蓋福慎がこれを討伐した。戊辰、宋州・滑州・兗州・鄆州の四州で水が出たため、この年の税を免除した。
十月壬午、潞州にいった。丙戌、中書門下で巡幸して通過したところの囚人を再審した。辛卯、潞州で赦し、三年免税とし、老人に粟帛を賜った。
十一月辛丑、北都にいった。癸丑、北都で赦し、三年免税とした。庚申、汾陰にいき、后土を祠り、大赦した。供頓した州でこの年の税を免除した。文武の官に階・勲・爵を、諸州の侍老に帛を賜り、武徳年間(618-623)以来の功臣の後裔および唐隆年間(710)の功臣の三品以上の一子に官を授けた。民間に三日の宴会を賜った。
十二月辛未、汾陰から到着した。
開元二十一年(733)正月丁巳、
温泉宮に幸した。二月丁亥、温泉宮から到着した。
三月乙巳、
裴光庭が薨去した。甲寅、尚書右丞の
韓休が黄門侍郎・同中書門下平章事となった。
閏月癸酉、幽州副総管の
郭英傑が契丹と都山で戦い、
郭英傑はここに死んだ。
四月乙卯、宣慰使・黜陟官吏を派遣し、囚人を裁決した。丁巳、寧王
李憲が太尉となり、薛王
李業が司徒となった。
五月戊子、
皇太子が
妃を納したため、死罪一等を降し、流罪以下を許した。
七月乙丑朔、日食があった。
九月壬午、子の
李沔を封じて信王とし、
李泚を義王とし、李漼(
李渙)を陳王とし、
李澄を豊王とし、
李潓を恒王とし、李漩(
李漎)を涼王とし、
李滔を深王とした。
十月庚戌、
温泉宮に幸した。己未、温泉宮から到着した。
十二月丁巳、
蕭嵩・
韓休が宰相を罷免された。京兆尹の
裴耀卿が黄門侍郎となり、中書侍郎の
張九齢とともに同中書門下平章事となった。
最終更新:2024年12月30日 23:58