李説 りせつ
740-800
中唐の宗室・藩鎮。字は巌甫。その世系は太祖
李虎→鄭孝王
李亮→淮南王
李神通→
李孝節→
李瑜→
李暈→
李遇→李説である。父の蔭位によって率府兵曹参軍に補任され、
馬燧が太原節度使となると、辟召されて少尹に任命され、汾州刺史に遷った。河東節度使
李自良の少尹となり、李自良の死により軍乱を防ぐため、監軍の
王定遠と謀って喪を秘匿し、詔により通王
李諶を節度大使とし、李説は行軍司馬・節度留後となった。しかしかえって王定遠を専横を招き、王定遠を追放して検校礼部尚書・河東節度使となり、隴西県男に封ぜられた。晩年病のため職務を執行できず、河東軍が乱れることになる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻七十八 列伝第三 宗室 太祖諸子 淮安靖王神通 説
『旧唐書』巻一百四十六 列伝第九十六 李説
外部リンク
最終更新:2024年09月29日 16:00