王翃 おうこう
733頃-802
中唐の官人。字は宏肱。并州晋陽県の人。王光謙の子、
王翊の弟。若い頃から従軍し、衛尉・羽林軍宿衛となり、才兼文武科に選ばれ、辰州刺史となる。襄州の
康楚元を討伐する功績によって秘書少監、朗州刺史となり、大暦五年(770)容管経略使となった。渓洞(苗族)の夷獠が連合して反乱し、夷酋の
梁崇牽は「平南都統」と号し、別帥の
覃問と合同すると、破って梁崇牽を捕虜とし、御史中丞・招討処置使を兼任した。
哥舒晃が反乱をおこすと、部将の李寔に救援させた、覃問がその隙を来襲したが、かえって生け捕りにした。金紫光禄大夫、河中少尹、汾州刺史、振武軍使綏銀等州留後、京兆尹を歴任した。建中四年(783)
李希烈討伐のため派遣された涇原の兵に対して、京兆尹は粗末な糧食を与えたため軍乱が起き、それがきっかけで
朱泚の乱がおこった。
徳宗とともに奉天に逃亡し、太子詹事を拝命した。乱が終わると大理卿、福建観察使、東都留守を歴任した。宰相
盧𣏌と親しく、その策謀を共にしたから、世間の評価は悪かった。子に
王正雅がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2025年01月04日 23:29