朱宣 しゅせん
?-897
晩唐の藩鎮・群雄。朱瑄とも。宋州下邑の人。父は塩の密売人で官に処刑され、亡命して
王敬武の牙軍となった。天平軍節度使
曹存実から濮州刺史に任命されたが、中和二年(882)魏博節度使
韓簡の攻撃で曹存実は戦死、朱宣は敗残兵をまとめて濮州を死守して撃退した。天平節度使、同中書門下平章事に任じられた。以後その死まで天平節度使として勢力を振るった。弟(ないしは従父弟)の
朱瑾は兗州節度使となったから同盟を結んだ。
秦宗権が
朱全忠を攻撃すると、朱瑾とともに秦宗権を撃退したが、光啓三年(887)八月から朱全忠と全面戦争となり、感化軍節度使
時溥・河東節度使
李克用と同盟を結んだが、時溥がまず朱全忠に滅ぼされ、
李克用の救援軍は、魏博節度使
羅弘信に後背をつかれたことによって途絶え、次第に朱全忠が有利となり、乾寧四年(897)
龐師古・
葛従周の軍に鄆州を落とされ、逃亡したが民家で捕らえられて朱全忠に突き出され、汴州で処刑された。『新唐書』『旧唐書』『新五代史』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年05月19日 01:11