李寰 りかん
?-830
中唐の武将。成徳軍節度使
王承宗の部将。博野鎮遏使。元和十五年(820)王承宗が死ぬと、軍はその弟
王承元を推戴したが、王承元は成徳軍を朝廷に返還して長安に向かったため、軍は混乱となり、
王廷湊が自立して軍を掌握。朝廷は
田弘正を成徳軍節度使としたが、王廷湊に殺害され、博野県は楽寿県の
傅良弼ととも王廷湊の兵十五万にもおよぶ猛攻を受けた。詔によって李寰の部下の兵士を右神策軍に所属させ、忻州営と名付け、また李寰を都知兵馬使とした。李寰は兵三千を率いて忻州に走り、追撃した敵軍を三百級を斬った。長安に赴いて保義軍節度使に任命され、大和元年(827)
李同捷を討伐のため横海軍節度使を授けられたが、行軍中に掠奪を行い、しかも軍の動きが緩慢であったため、解任された。大和二年(828)夏綏宥節度使に任じられ、任地で没した。『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年06月19日 11:13