劉玄佐 りゅうげんさ
729-792
中唐の武将・藩鎮(宣武軍節度使)。本名は劉洽。滑州匡城県(河南省長垣市)の人。若い頃は無頼で、盗賊業から永平軍に入って牙将となった。宋州を襲撃・奪取して刺史となり、淄青節度使
李納が朝廷に叛くと、これを攻撃して濮州を陥落させ、検校兵部尚書・兼曹濮観察・淄青兗鄆招討使・汴滑都統副使となった。建中二年(781)宣武軍が設置された。
李希烈が叛くと、
李勉・
陳少游・
哥舒曜と連合して攻撃し、陳州を救援してかえって汴州を奪取した。汴宋節度使・陳州諸軍行営都統となり、玄佐の名を賜り、入朝すると涇原・四鎮・北庭兵馬副元帥、検校司徒に任じられた。
韓滉と親交を結んで義兄弟となり、対吐蕃の適任として推薦されたが、朝廷が出費を惜しんだため、沙汰止みとなった。貞元八年(792)部下の楽士朝に毒殺された。宣武軍の後継として、朝廷は陝虢観察使の
呉湊を推したが、軍は子の
劉士寧を推戴した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年07月19日 23:14