陳少游
724-784
唐代の官人。淮南節度観察使。陳慶の子。幼い頃より老荘に通じ、宰相
陳希烈に評価された。侍御史・回紇糧料使となり、はじめて検校職方員外郎充使に任じられた。
僕固懐恩の奏により河北副元帥判官となり、晋州・鄭州の二州刺史となった。朝廷の権勢の者に賄賂を贈って昇進をはかり、
李抱玉の上表により沢潞節度副使となり、陳鄭節度留後となった。また桂管観察使に抜擢されたが、南方遠地の赴任を嫌い、宦官
董秀が驚くほど多額の賄賂を贈って任地を変更させて宣歙池観察使に改められた。淮南節度使に移った。宰相
元載にも賄賂を贈ったが、失脚が目前になると見放し、僕固懐恩の下僚であった時代に知己であった
関播・
盧𣏌が宰相になると、検校尚書左僕射、同中書門下平章事となった。度支汴東両税使の
包佶より徴税の財八百万緡を強奪した。
李希烈が叛くと、勢力を浸食され、李希烈の起居注に陳少游の降伏が書かれた記事があること知って恥じ入りのあまり病死した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2023年01月21日 01:22