韓滉 かんこう
723-787
中唐の財務官僚・宰相(在任785-787)。字は太仲。玄宗の宰相
韓休の子。
韓浩・
韓洽・
韓洪・
韓汯の弟。
韓渾・
韓洄の兄。大暦年間(766-779)初頭に吏部郎中、給事中となり、大暦六年(771)戸部侍郎判度支となる。この間に財政機構の粛正を断行する。大暦十二年(777)に雨水の大害があったが、損田の数を欺奏した罪で晋州刺史に左遷され、まもなく江南に転出する。蘇州刺史・浙江東西都団練観察使を拝命した。建中四年(783)の
朱泚の反乱がおこり、中国北部が混乱状態に陥る。そのとき韓滉は江南の治政、管内の経済的安定をはかり、軍隊の訓練をつよめ、中原地方への物資輸送幹線の保安を確保するとともに、万一、中央政府が江南へ東渡する場合をも想定して、各地に要塞築城を準備したのである。興元元年(784)には検校吏部尚書を加え、翌年の貞元元年(785)検校左僕射同平章事(宰相)を拝命する。貞元二年(786)春に晋国公に封ぜられ、この後に江淮転運使を加えられ、江南のゆたかな物資を、疲弊した中原に送る任務の総監督となる。宰相韓休の子であり、名門であったが、節倹をもってし、衣服・住居も粗末であったが、それを意に介しなかった。琴・鼓を好み、書は
張旭の書法を会得し、絵をよくして、牛馬を描くのを得意とし、その筆になる「五牛図」は北京故宮博物院に現存する。子に
韓群・
韓皋がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
長廣敏雄訳注『歴代名画記2』(平凡社東洋文庫,1977年)
外部リンク
最終更新:2024年04月28日 22:19