楊思勗

楊思勗 ようしきょく

?-740
盛唐の宦官・武将。羅州石城県(広東省湛江市)の人である。もとは蘇氏で、養父の姓を名乗った。内侍省につとめ、景龍元年(707)の李重俊の挙兵に際して、その将を斬殺したため、乱鎮圧の一翼を担った。玄宗に従って韋后太平公主討伐に功績をあげ、開元十年(722)安南の蛮酋梅叔鸞が叛くと、討伐に赴くことを願い出て、光楚客とともに鎮圧した。以後、南方の叛乱討伐に功績をあげ、開元十二年(724)五渓の首領の覃行章の叛乱、開元十四年(726)邕州封陵の獠の梁大海の叛乱、開元十六年(728)瀧州の獠の陳行範の叛乱を鎮圧した。鎮圧には李邕が参加したこともある。楊思勗は捕虜の拷問、皆殺しを厭わず、そのため軍は恐れて功績をあげたという。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 楊思勗
『旧唐書』巻一百八十四 列伝第一百三十四 宦官 楊思勗

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』楊思勗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%80%9D%E5%8B%97

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最終更新:2024年08月11日 23:06
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