張全義 ちょうぜんぎ
852-926
唐末・五代の武将。字は国維。濮州臨濮の人。小作農の子として生まれ、
黄巣の乱に身を投じて吏部尚書、水運使となった。黄巣が敗れると、
諸葛爽・
諸葛仲方に仕え、諸葛仲方が
孫儒に逐われると、
李罕之とともに河陽を分割統治し、洛陽とともに
朱全忠に降った。しかし李罕之とは不仲になり、李罕之が
李克用を攻撃している隙に河陽を奪取し、李罕之は李克用のもとに身を寄せ、かえって李克用軍に攻撃された。
牛存節・
丁会ら一万人の救援によって李罕之を沇水で破った。河南尹に任じられた。戦乱で荒廃した河南の復興に尽力し、民より非常に頼りとされ、朱全忠が
昭宗を東に遷すと、宮殿の修復を行った。天平軍節度使、守中書令、東平王となり、
哀帝が即位すると河南尹、兼忠武軍節度使、判六軍諸衛事に任じられた。後梁が成立すると洛陽周辺を統治し、後唐成立後も重職を歴任した。『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻六十三 唐書三十九 列伝第十五 張全義
『新五代史』巻四十五 雑伝第三十三 張全義
外部リンク
最終更新:2025年01月26日 00:13