韋絢 いしゅん
801—879
中唐の官人。字は文明。
順宗の宰相
韋執誼の六男。
鄭余慶・
劉禹錫に師事し、
元稹の娘の元保子を娶った。大和二年進士に及第し、滑鄭節度使の
李徳裕の幕府に
辟署され、涇陽県尉に遷った。さらに李徳裕が浙西節度使となると節度推官となり、監察御史里行となる。李徳裕の失脚とともに袁州に貶され,之後在湖南観察使の
盧周仁に観察支使に辟署され、
狄兼謨が御史中丞になると監察御史となり、昇進して左補闕、右史、起居舎人を歴任した。
武宗の時に侍御史、秘書少監を歴任。李徳裕が東都留守となると、河南少尹に任じられたが、その失脚とともに明州長史に貶され、亳州別駕に改められた。咸通年間(860-874)義武軍節度使、兼御史中丞となり、入京して検校工部尚書、大理卿、秘書監を歴任した。
著作に『劉公嘉話録』『戎幕閒談』がある。
史料
「韋絢墓志」
外部リンク
最終更新:2025年09月03日 23:36