巻二百二十四上 列伝第一百四十九上

唐書巻二百二十四上

列伝第一百四十九上

叛臣上

僕固懐恩 周智光 梁崇義 李懐光 陳少游 李錡


  僕固懐恩は、鉄勒部の人である。貞観二十年(646)、鉄勒九姓の大首領が衆を率いて降伏し、分けて瀚海・燕然・金微・幽陵などの九都督府に置き、別に蕃州をなし、僕骨歌濫抜延を右武衛大将軍・金微都督とし、訛って僕固氏とし、乙李啜を生み、乙李啜は懐恩を生み、代々都督を世襲した。

  懐恩は戦闘をよくし、戎の事情に通暁し、部族には謹厳に接した。安禄山が叛くと、朔方節度使の郭子儀に従って賊を雲中に討ってこれを破った。薛忠義を背度山に破り、七千騎を殺し、薛忠義の子を捕虜とし、馬邑を下した。進軍して李光弼と合流し、常山・趙郡・沙河・嘉山で戦い、史思明を敗走させた。粛宗が即位すると、郭子儀とともに霊武に赴いた。当時、同羅(トンラ)部落が叛き、安禄山は北進して朔方を攻略したから、郭子儀は懐恩を率いて迎撃した。懐恩の子の僕固玢は戦うも敗れて敵に降伏し、しばらくして脱走して帰還したが、懐恩は怒り、叱責してこれを斬ったから、将士は震えあがり、皆ことさらに死力を尽くして戦い、遂にその敵を破り、馬・橐它・器械を鹵簿すること非常に多かった。帝はまた詔して燉煌王承寀とともに回紇に使して援軍を要請し、回紇は命を聞き入れた。至徳二載(757)、郭子儀に従って馮翊・河東を下し、賊将の崔乾祐を敗走させ、潼関を襲撃して破った。賊将の安守忠李帰仁と苦戦すること二日、王師は敗北した。懐恩は渭水に至ったが舟がなく、馬の鬣(たてがみ)にしがみついて逃れ、敗残兵を収容して河東に帰還した。郭子儀は鳳翔に赴き、李帰仁は精兵をもって迎撃すること三度、郭子儀は懐恩をして王升・陳回光渾釈之李国貞の五将軍とともに白渠の下に兵を伏せ、賊は伏兵に遇って敗走した。また清渠で戦ったが不利で、引き挙げて帰還した。

  当時、回紇(ウイグル)は葉護・帝得をして四千騎を援軍とし、南蛮(南詔)・大食等の兵もまた相次いで至った。帝はそこで広平王(後の代宗)に詔して元帥とし、懐恩をして回紇の兵を率いさせ、広平王に従って香積寺の北で戦った。賊は一軍を営の左に伏せたが、懐恩は馳せて急襲し、首を斬って残す者はなく、賊は気を阻まれた。合戦すると、回紇で賊を挟撃し、戦が最高潮になると、兜を脱いで矛を引っ提げて直ちに陣に突入し、十人あまりを殺し、多くは驚いて靡き、また李嗣業と合流して苦闘して全力を尽くし、賊軍は総崩れになって大敗した。たまたま日暮となり、懐恩は広平王に見えて、「賊は必ず城を棄てて逃げます。願わくは壮騎二百をお借りできれば、安守忠と李帰仁らを縛って麾下に連れて参ります」と言った。広平王は、「将軍は戦い疲れている。しばらく休まれよ。明るくなったら将軍とともにこれを計ろう」と言ったが、答えて、「安守忠らは皆天下の驍賊で、彼らはたびたび勝っていましたが、今回は敗れています。これは天が我に与えたことなのです。どうして逃がしてよいのでしょうか?また軍を再集結させてしまえば、必ずや我の患いとなります。後悔したとしても及ばないのです」と言ったが、広平王は従わなかったから固く願った。夕を通して応酬すること四五回であった。明け方、偵察が戻ってきて、安守忠らははたして逃げ去っていた。また広平王に従って賊を新店で破った。両京(長安・洛陽)を回復してとくに功ありとされ、詔して開府儀同三司・鴻臚卿を加えられ、豊国公に封じられ、封二百戸を賜った。

  郭子儀に従って安太清を破り、懐州・衛州の二州を下し、相州を攻め、愁思岡で戦い、常に先鋒となり、勇ましさは軍中に冠たるものであった。乾元二年(758)、朔方行営節度使を拝し、大寧郡王に進封された。

  懐恩の人となりは雄々しく重厚で寡黙であり、応対すればゆったりしているが、剛毅で決断力があって上に逆うこともあった。始め偏裨(副将)の地位であっても、意見が合わなければ、相手が主将であっても必ずくじいて詰った。その麾下は皆蕃人・漢人の強兵で、功を恃んで多く不法なことをしたが、郭子儀の軍政は寛容であった。李光弼が郭子儀に代わると、懐恩は副将となった。李光弼は河陽を守って懐州を攻め、安太清を降伏させた。また子の僕固瑒は戦いをよくし、儀同三司(懐恩)の将兵を用いて、深く侵入するごとに多くを殺し、賊はその勇を憚って、「猛将」と号した。安太清の妻は美しく、僕固瑒は奪って帷幕に拉致した。李光弼はこれを帰すよう命じたが、聞き入れず、兵士で守らせた。騎馬で走らせて七人を射殺し、妻を奪って安太清に返還した。懐恩は怒って、「閣下は賊のために官兵を殺したのですか?」と言ったが、李光弼は法を厳格に保ち、少しも耳を貸さなかった。これより以前、軍を汜水で合流させたが、朔方将の張用済が遅れて来たのを纛(旗)の下で斬った。懐恩は心に李光弼を憚り、自ら張用済を誅殺したが、常に憂えて楽しむことはなかった。李光弼が史思明と邙山で戦うと、命令を聞かず、そのため王師は敗北して潰滅した。帝はその功績を思って、召喚して工部尚書とし、寵愛して礼を殊にあつくした。代宗が即位すると、隴右節度使を拝したが、まだ任地に行く前に、朔方行営節度に改められ、郭子儀の副将となった。

  それより以前、粛宗は寧国公主を毘伽闕可汗(ビルゲ・カガン)に降嫁させたが、また末子のために婚姻を求め、そのため懐恩の娘をその妻とした。その末子が即位し、登里可汗(テングリ・カガン)と号し、懐恩の娘を可敦とした。宝応元年(762)、帝は回紇の兵を招集しようとしたが、登里可汗はすでに史朝義に誘われて、軍十万を率いて国境を侵犯し、関中は大いに震えた。帝は殿中監の薬子昂を遣わしてこれを労い、可汗は懐恩およびその母の面会を請い、詔あって許可の旨を答えた。懐恩は行くのを嫌がったが、帝は鉄券を賜い、手づから詔して強いて派遣したから、行った。可汗と太原で会い、可汗は大いに喜び、遂に和を請い、史朝義を討つのを助け、即ち兵を引き上げて陝州に駐屯し、軍は出撃の時期を待った。

  ここにおいて雍王(後の徳宗)は元帥として中軍を率い、懐恩は同中書門下平章事に拝して副将となり、左殺(シャド。回紇の官職名)を先鋒とした。時に諸節度使は皆兵を合流させ、黄水に進んだが、賊は防壁をつくって自ら固守した。懐恩は西原に陣を敷き、多く旗旝を立て、突騎をして回紇とともに次第に南に進出し賊の左を取り囲み、旗を挙げるに応じて、賊の壁を破り、賊の死者は数万に及んだ。史朝義は精鋭の騎兵十万を擁して援軍し、根を埋めて決戦し、短兵が接敵すると、殺したり捕虜となる者が相当の数に及んだ。魚朝恩は射生軍五百人に矢を集中射撃させ、賊は多く死んだが、陣は堅く侵入できなかった。馬璘は怒り、単騎で旗を持って直進し、二つの盾を奪うと、賊は辟易とし、大軍はこれに乗じて進入し、軍は混乱を止められず、史朝義は敗れ、斬首は一万六千級、捕虜四千人あまり、降伏する者は三万人にのぼった。石榴園・老子祠に転戦し、賊は再び敗れ、自ら互いに逃げて踏まれて死に、尚書谷を埋めて大量に満たした。史朝義は軽騎兵で逃走した。懐恩は進軍して東都・河陽を収め、府庫を封じて、私とするところはなかった。賊に置かれていた許叔冀王伷らを釈放し、衆は皆安堵した。回紇を留めて河陽に駐屯し、僕固瑒および北庭兵馬の将の高輔成をして一万騎で北に逐い、懐恩は常に賊を圧迫して侵入した。鄭州に至って、再戦して再び勝利し、賊帥の張献誠は汴州とともに降り、滑州を下した。史朝義は衛州に至って、その党の田承嗣・李進超・李達盧とともに合流し、軍勢は四万あり、黄河によって戦った。僕固瑒は援軍して岸を上って肉薄し、賊の党は潰滅して敗走した。進んで昌楽に進出し、史朝義は逃れ、偽帥の李達盧は降伏し、薛嵩李宝臣は相州・衛州・深州・定州などの九州を挙げて献上した。史朝義は貝州に至り、その党の薛忠義を得て、軍勢三万を率いて僕固瑒から臨清を防衛した。賊の気は盛んで、僕固瑒は兵をまとめてその先鋒を挫き、高彦崇・渾日進李光逸をして三度伏兵を設けて待機させ、賊が半ば渡ると伏兵を発してこれを攻撃し、史朝義は敗走した。その時軽騎兵が至ると、僕固瑒は急速前進してはせ参じ、大いに下博県で戦い、賊は背水の陣を敷き、軍は急襲すると賊は大いに崩れ、死体を積んで流れを蔽って下っていった。史朝義は退いて莫州を守った。ここにおいて都知兵馬使の薛兼訓郝廷玉、兗鄆節度使の辛雲京が軍に合流して城下に至り、史朝義と田承嗣はしばしば戦いを挑んだが勝てず、前線で偽党の敬栄が斬られた。史朝義は恐れ、残衆を率いて幽州に逃れた。王師は追撃し、史朝義はさらに平州に逃げたが、自ら縊死し、河北は平定された。懐恩と諸将は皆兵を止め、功によって尚書左僕射兼中書令・河北副元帥・朔方節度使に遷り、封戸四百を加えられた。

  それより以前、帝は詔があって、ただ史朝義の罪のみ取り、その他一切を赦した。そのため薛嵩張忠志李懐仙田承嗣は懐恩を見て皆叩頭し、力に効って伍することを願った。懐恩は自ら功績が高く、かつ賊は平定されて勢いが軽くなり、寵を保つことができないとみて、そこでことごとく河北を割いて大鎮に分けて授けるよう願い、密かにその心と結んで助けとなろうとしたから、薛嵩らはついに拠って患いとなったと言われる。

  しばらくもしないうちに、太子少師を加えられ、戸五百、第一区を増し、一子に五品官を与えた。詔して回紇を護って帰国させ、太原を通過しようとしたが、辛雲京は心内では懐恩を嫌っており、また懐恩と回紇が親しかったから、可汗に襲わせようとしていると思い、閉関して敢えて軍を労わなかった。懐恩はすでに父子が新たに功を立て、河朔を挙げて拾遺するが如くであったから、名は諸将の遠く甚しきにも出ていて、そのため辛雲京が拒んでいるのに大いに怒り、上表してその顛末を奉った。にわかに軍を汾州に向け、配下の将の李光逸に兵で祁州を守らせ、李懐光を晋州に拠らせ、張如岳を沁州に拠らせ、高暉ら十人あまりは自身に従えた。監軍の駱奉先は辛雲京より帰るところで、辛雲京はすでにその勢力とあつく結んでおり、よって懐恩と可汗に申して状に反すること明白であることを約した。駱奉先は懐恩のもとを過ぎ、堂を昇って母を拝した。母は譲って、「もし我が子と兄弟の契りを約してくれれば、今どうして自ら辛雲京と親しくされますか?そうなのでしたら前事は勿論、今から初めのようにしてください」と言い、酒宴してたけなわとなり、懐恩は舞った。駱奉先は厚く幣を納めた。懐恩は未だ酬いるにおよばず、奉先はしばらくして辞去したが、懐恩はそこで左右の者を遣わしてその馬を隠し、駱奉先は己に謀があることを疑い、夜陰に乗じて逃げ帰り、懐恩は驚き、その馬を追跡した。駱奉先が帰還すると、具さに懐恩が反くの状を奏上し、懐恩もまた辛雲京・駱奉先の誅殺を請うたが、詔して両者を和解させた。懐恩が潞州を通過すると、李抱玉は金や馬を贈り、懐恩もこれに贈答した。にわかに李抱玉が表立って懐恩と私的結びつくことになった。

  広徳年間(763-764)初頭、進んで太保を拝し、一子に三品を、一子に四品官を与え、封戸五百を増やした。僕固瑒は一子に五品官を与え、封戸百を得た。よって鉄券を賜り、名を太廟に蔵(おさ)め、肖像画を凌煙閣に描いた。また僕固瑒を検校兵部尚書・朔方行営節度使とした。しかし懐恩は晴れ晴れとせず、また性格は強固で、讒言のために屈するのをよしとせず、自ら釈明することもなかったが、そこで陳情を上書して、「臣は代々もとは夷人で、幼い頃より上皇(玄宗)に用いられました。安禄山の乱では、臣は部将として決死に難を鎮め、天の采配のおかげで神威があり、強胡に勝って滅ぼしました。史思明が謀叛を継続すると、先帝は臣に兵を委ねられ、国の仇を雪(そそ)ぐことを誓い、攻城野戦、身は士卒に先んじ、兄弟は戦陣で死に、子や一族は軍で死にました。九族の内、十人のうち一人も生き残らず、そして生き残った者も満身創痍でした。陛下は龍潜(即位以前)の時、親しく軍を統べられ、臣は麾下でお仕えし、臣は愚かながら尽くしました。この時しばしば微功がありましたが、すでに李輔国に讒言され、しばらくして家を壊されました。陛下が即位すると、誹謗されていることを知り、遂に独見の明を開かれ、多くの者たちの口をふさぎ、臣を汧州・隴州に抜擢され、臣を朔方節度使に任じられました。魂が離れても体に戻り、骨が朽ちても肉が再生しました。先日、回紇が辺境に侵入し、士人には名案が浮かばず、京師は震撼しましたが、陛下は臣に詔して太原に至らせて労問させ、臣に一切の処置を許し、よって可汗と計議することができ、道を分けて兵を用い、東都(洛陽)を回復し、燕・薊を掃蕩しました。当時可汗は洛陽にあって、魚朝恩のために疑われて阻まれ、すでに歓心を失いました。臣が回紇に護送すると、辛雲京は城を閉じて出ず、隠れて掠奪したから、蕃夷は怨んで怒り、いよいよ多種多様なことを縫い合わせ、そこで国に帰すことができました。臣は汾州に帰り、兵馬を休息させ、辛雲京はまた一つも連絡することなく、臣は弾劾奏上されることを恐れ、そのため誹謗を構え、異端を起こしました。陛下は明察を垂れられず、忠直の臣を使おうとして、讒言する邪悪の党に陥られたのは、臣が悲しみのあまり胸を打ち、血の涙を流すことになった原因です。しかし臣には罪が六つあり、死を逃れるところがありません。むかし、同羅が叛き、河曲が騒動し、兵は包囲を解かなかった時、臣は老母を顧みず、先帝を行在に従い、兵を募って賊を討ち、同羅を殲滅しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の一つめです。子の玢を斬って兵士たちに号令しましたが、天性の愛を棄てたことで、臣が国に忠ならざる、罪の二つめです。二人の娘を遠く嫁がせ、国のために和親し、合従して脅威を除きましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の三つめです。また子の瑒とともに身をもって戦陣に赴き、国家を安んじることを志しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の四つめです。河北に新たに設けた諸鎮は、皆精兵を掌握していますが、臣がこれを安定させ、叛けば平定しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の五つめです。回紇と和睦し、勝って中原を定め、玄宗・粛宗の二朝にわたった国土回復は、陛下をして忠と孝をつとめて二つとも全うされましたが、これは臣が国に忠ならざる罪の六つめです」と述べた。また、「来瑱を誅殺されましたが、その罪を暴かないことは、天下が疑いをなしています。四方の奏請は、陛下は皆驃騎(程元振)と協議したといっていますが、可否は宰相から出ませんでした」と述べた。詞にはおごり很みがあり、帝は一度ならずともあきたりず、かつその後悔を欲し、そのため心を人に託して待った。宰相の裴遵慶に詔して本人に詔旨を説諭し、よってその去就を察することとした。

  裴遵慶がやってくると、懐恩はその足に抱き着いて、泣いて訴えた。裴遵慶は帝が疑っていないからと言い、そこで入朝を勧めた。懐恩は許諾したが、副将の范志誠は諫めて、「互いに信じあえないようになってしまったのに、どうして何が起こるかわからない朝廷に行こうとするのですか。閣下だけ来瑱李光弼を見ていないのですか?二臣は功が高かったのに賞されず、来瑱はすでに誅殺されてしまいました」と言った。懐恩はそこで止めとした。一子をして宿衛させようとしたが、范志誠は固く止めた。御史大夫の王翊は回紇に懐恩を戻させようとしたが、懐恩は回紇と通交しているのが漏れることを恐れて、よって留って遣さなかった。そこで僕固瑒に辛雲京を攻めさせ、辛雲京は敗れ、次に楡次を攻めた。

  それより以前、帝が陝州に行幸したが、顔真卿は詔を奉って懐恩を召喚することを請うた。ここに至って、帝は往かせようとしたが、辞退して、「臣は前に行くことを請うたのは、その時であったからで、今では無意味でしょう!」と言った。帝はその理由を聞くと、「最近、陛下は狄(吐蕃)を陝州に退避されましたが、臣が懐恩を見ますに、戦い方の善悪を責めて、職務の責を問うて走らさなければ、そのために懐恩は来朝して、賊を討つのを助け、その言葉は恭順であったでしょう。今陛下は、長安を都とし、懐恩は進んで勤王せず、退いて衆にも説かず、その言葉をねじ曲げているのですから、絶対に来ないでしょう!」と答えた。「それならどうするか?」と聞くと、「今、懐恩が叛いていると言っている者は、ただ辛雲京・李抱玉・駱奉先・魚朝恩の四人だけで、ほかは盛んにそのゆがめられた真実を言っているだけです。しかし懐恩の将士は、皆郭子儀のもと部下で、陛下がもし郭子儀に代わらせれば、たとえ叛こうが従おうが、必ず互いに率いて帰ってきます」と言ったから、これに従った。

  郭子儀が河中に至ると、僕固瑒は楡次を攻めたが、陥すことができないでいるうちに、兵を祁州に追撃し、その緩慢さを責めて鞭うったから衆は怒った。この夕方、副将の焦暉・白玉らが僕固瑒の首を斬り、朝廷に献上した。懐恩は聞いて母に告げると、母は、「私はお前に背いてはならないと戒めてきましたが、国家の酬いはお前には浅くはないのに、今衆は謀叛し、禍はまた私に及んでいますが、どうしてなのか?」と言ったが、懐恩は再拝して出て言ったから、母は刀を引っ提げて追って、「私は国のためにこの賊を殺し、その心を取って軍中に謝せん」と言ったから懐恩は逃げて、そこで部下三百人とともに北は黄河を渡り、霊武(寧夏省寧夏県南)に逃げた。次第に亡命してきて軍は復興した。帝はその勲功を思って、罪を加えず、詔してその母を輦車に載せて京師に帰らせ、厚く賜物をし、長生きして死んだ。また詔を下して懐恩に太保兼中書令・大寧郡王に任じたが、その他の官位は罷免した。

  懐恩はもとより憎んで改めることができず、ついに吐蕃を誘って十万で辺塞に侵入し、豊州の守将は戦死した。進んで涇州・邠州を攻略し、来瑱の墓を祭った。涇水を渡り、邠寧節度使の白孝徳はこれを防いだが、その軍は潰滅し、懐恩は、「さきに皆我が子となったが、叛いたから他人のために私が死においやってしまった」と泣いた。奉天に侵入すると、郭子儀が防衛したから撤退した。永泰元年(765)、帝は天下の兵の集めて防御させた。懐恩は諸蕃を誘い合せて二十万を号して入寇し、吐蕃は北道より醴泉に迫り、奉天を動揺させた。任敷鄭廷郝徳は東道より奉先に入寇し、同州を窺った。羌・渾・奴剌は西道より進んで盩厔を攻略し、鳳翔に行った。京師は震撼した。詔して郭子儀を涇陽に駐屯させ、渾日進白元光を奉天に駐屯させ、李光進を雲陽に駐屯させ、馬璘郝廷玉を便橋に駐屯させ、董秦を東渭橋に駐屯させ、駱奉先李日越を盩厔に駐屯させ、李抱玉を鳳翔に駐屯させ、周智光を同州に駐屯させ、杜冕を坊州に駐屯させ、帝は六軍を御して苑中に駐屯し、詔を下して親征した。懐恩は鳴沙に至ると、病が甚しくなり、帰還して霊武で死に、部下はその遺体を火葬した。部将の張韶徐璜玉はその軍を定めることができず、皆前立って死んだ。范志誠は衆を統率して涇陽に侵入した。その時、諸駐屯地では防壁を固くし、大雨が降り、谷は流れて潰え、賊は進むことができなかった。吐蕃は既に持久戦となり、また回紇と序列を争い、さらに互いに疑い、先に進むことがかなわず、そのため家々を焼いて、男女数万を駆けて去った。周智光は澄城で迎撃してこれを破り、馬牛や軍の資材を収容すること万を数えた。回紇はそこで郭子儀に詣でて降伏し、吐蕃を攻撃して自分ら捧げることを願い出た。郭子儀は兵を分けてこれに従い、その衆を涇州で破った。任敷は敗走し、羌・渾は李抱玉に詣でて降伏した。

  それより以前、懐恩が功績を立てた時、一族の内で王事に死んだ者は四十六人。命を拒むに及んで、兵士は甲冑を緩めなかったことはおよそ三年であった。帝は心に忍び、しばしば詔を下して、未だに懐恩が叛いたとは言わなかった。死んでから彼のために落胆して、「懐恩は叛いたのではない。左右のために誤っただけなのだ!」と言った。にわかに懐恩の従子の僕固名臣が千騎とともに降伏した。大暦四年(769)、懐恩の幼女を冊して崇徽公主とし、回紇に嫁がせたといわれる。


  周智光は、幼い頃は卑賎の身で、その先祖・系譜は失われており、騎射をもって従軍し、兵卒より副将となった。 魚朝恩が陝州を鎮とすると、互いに昵懇となり、しばしば称えて推薦したから、累進して同州・華州の二州節度使となった。

  永泰元年(765)、吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌の衆十万あまりが奉天を入寇したが、智光は澄城で迎撃して破り、駱駝・馬を得て軍費を贖うこと万を数え、北に追撃して鄜州に至った。もとより杜冕と仇敵で、当時、杜冕は坊州に駐屯していたが、家は鄜州、智光は侵入して刺史の張麟を殺し、杜冕の宗属八十人を殺害し、民家三千軒に放火して去った。朝廷は召喚したが、恐れて赴かなかった。さらに杜冕に詔して梁州に使させて仇を避けさせ、来るよう願ったが、のけぞりかえっていて命令を聴かず、不逞の徒数万を集めて、ほしいままに略奪してその欲を甘やかし、結んで固守した。陝州監軍の張志斌および前虢州刺史の龐充を殺した。それより以前、張志斌は陝州より入奏したが、智光は傲慢にも礼をなさず、張志斌はこれを責めたから、怒って、「僕固懐恩はどうして叛いたのか?皆つまらない輩が力で押さえつけようと弄んだのが禍となったのだ。私はもとより叛いていないが、今はお前のために叛こう!」と言って、ついに叱って張志斌を斬り、その肉を帳下で饗宴した。当時、崔円が淮南より方物百万を納めたが、その半ばを掠奪した。天下の奉献物や船舶で輸送した糧食は、奪って自身のもとに留めた。士で調を貢納するために西に行かなければならない者はどう責められるのかを恐れたが、間道から同州を逃げる者は、部将を派遣して捕らえて斬った。代宗はいまだその罪が暴かれていないときに、中使の余元仙に命じて詔をもって尚書左僕射に任命した。詔を受けると怒って、「私には大功があるが、お上は平章事を与えられず、かつ同州・華州の地は狭く、支えとするには足りない。もし陝州・虢州・商州・鄜州・坊州の五州を加えられれば相応だろう」と語り、よって、「私の子どもたちはみな二百斤の弓をひき、万人の敵たる者である。天子を挟んで諸侯に命令するのに、智光でなければ誰がふさわしいというのか?」といい、そこで大臣を謗って罪を並べ立てたから、余元仙は震汗した。おもむろに絹百匹を贈って遣わした。自ら生祠を立て、その部下に祈祷させた。

  大暦二年(767)、帝は郭子儀に詔して密かに謀った。同州・華州の路は閉鎖され、詔書は通ることができなかったから、そこで郭子儀の婿の趙縦を召して口詔を授け、書帛を蜜壺の中に隠し、家僕を遣わして間道を走って詔を伝えた。郭子儀は詔を得ると、討伐を宣言したが、実行される前に、その衆は大いに離反し、部将の李漢恵は同州より郭子儀に降伏した。そこで智光を澧州刺史に貶し、百人を随身させることを許したが、将吏の罪は一切不問とした。ついで部下に斬首され、また子の周元耀・周元幹も斬って来献してきた。詔して首を皇城の南街にさらした。判官の邵賁・別将の蒋羅漢もともに誅殺された。勅して役人に詳細に太清宮・太廟・七陵に告げさせた。

  それより以前、淮西の李忠臣が入朝して、潼関に行ったとき、智光が叛いたのを聞いて、兵を率いてこれを討った。智光が敗れると、李忠臣は華州に入って大掠奪を行い、赤水より潼関にいたるまでの畜産・財物はすべて尽きてしまい、官吏は衣服や紙を自弁し、連日食べられない事態となった。


  梁崇義は、京兆長安の人である。枡で計るのを市で生業としていたが、力が強く鉄鉤を真っすぐにできた。後に羽林射生となり、来瑱に仕えた。寡言であった。来瑱が襄陽より京師に入朝すると、諸将を分けて福昌・南陽を守らせた。来瑱が誅殺されると、守兵は潰えたが、崇義は南陽より衆をまとめて襄州に帰還した。李昭と薛南陽は互いに長となるのを譲っていたが、軍衆は、「梁卿でなければ駄目だ」と言ったから、ついにその軍を統率し、李昭と薛南陽を殺し、脅して軍衆の心を制した。代宗はよって節度使に任命した。七州の兵二万を挙げて、田承嗣李正己薛嵩李宝臣と互いに助け合い、首尾結託した。しかし崇義のみ地は狭く兵が少なかったため、法令は最も遵守し、時々士にあっては自ら振舞い、襄・漢の間の人は教義を知った。朝廷はしばしばあつく入朝を勧めたが、「来公(来瑱)は大功がありましたが、宦官の讒言を恐れ、逡巡してお召しを辞退しました。代宗が即位されますと、駕を待たずに入朝しましたが、そこで殺されました。私の罪は大罪ですが、どうしてお上に謁見したいと思うのでしょうか?」と返答した。

  建中元年(780)、李希烈は討伐を願い、崇義は恐れて、部隊を整理した。郭昔なる者が変事を上奏したが、徳宗は示すのには信頼をもってすることとし、郭昔を遠方に流刑とし、金部員外郎の李舟に詔して諭旨させた。それより以前、劉文喜が叛くと、李舟は詔を奉って涇州に入ったが、にわかに劉文喜の部下が劉文喜を斬って奏上した。それを周囲は李舟が軍を全滅させて将を殺したと言ったため、叛いた側にいた者たちが皆これを憎んだ。李舟がやってくると、入朝を崇義に勧めたが、崇義は喜ばなかった。翌年、遣使して諸道を慰撫したが、李舟もまた崇義の所に行ったものの、ついに内に入れることをよしとせず、他の使者に代えるよう願った。さらに給事中の盧翰に命じて往かせたが、崇義はますます不安となり、跋扈すること甚しく、諫める者は多く死んだ。朝廷は疑っていないことを天下に示すため、そこで同中書門下平章事に任命し、妻と子にことごとく賞を与え、鉄券を賜い、その将の藺杲を抜擢して鄧州刺史とし、御史の張著を遣わして手詔をもって崇義を召喚した。崇義は兵士たちに弓矢をいっぱいに引き絞り、そこで命を受けた。藺杲は詔を奉ったが敢えて赴かず、崇義に詣でて自ら報告した。崇義は対面すると泣いて見せたから、遂に詔を拒んだ。

  帝は李希烈に命じて諸道の兵を率いて討伐させた。崇義は先んじて江陵を攻め、黔州・嶺州と通じようとしたが、四望で敗れて帰還した。途中、李希烈が臨漢に駐屯させた兵千人あまりを殺害すると、李希烈は怒り、兵を率いて漢によって上った。崇義は翟崇暉杜少誠に蛮水で戦わせ、敗れて北は涑口に至ったが、ここでも大敗し、二将は降伏し、李希烈はこれを厚遇したから、部下の降伏した兵に襄陽を従わせると、百姓を安堵させた。崇義は壁を閉ざしたが、守る者は関を斬って逃亡したから止めることができず、そこで妻と井戸に行って死に、首は京師に伝送された。李希烈はその親族および軍で臨漢の役に従った者三千人を誅殺した。

  崇義の孫の梁叔明は、李納に養われ、後に劉悟に従って昭義将となったが、劉従諫が死ぬと、使節として派遣されたが、詔によって誅殺された。


  李懐光は、渤海靺鞨の人であり、本姓は茹氏である。父の茹常は幽州に移って、朔方節度使の部将となり、多くの戦いに参加して李姓を賜り、さらに名を嘉慶とした。

  懐光は軍にあって、功労を積んで開府儀同三司に至り、都虞候となった。勇猛で敢えて誅殺をし、親族であっても法を犯せば、誅殺を避けることはなかった。節度使の郭子儀は仁に厚く、軍法には親しまなかったから、綱紀を懐光に委ねたから、軍中は懐光を畏れた。たまたま母の喪となり、復帰すると邠州・寧州・慶州の都将を兼任した。徳宗が郭子儀を副元帥から罷免すると、部下の兵を諸将に分割し、そのため懐光は検校刑部尚書となり、寧州・慶州・晋州・絳州・慈州・隰州などの州節度使となった。衆を率いて長武を城とし、原州(甘粛省平涼県東四十里)によって根拠地とし、涇水に臨み、吐蕃を抑えて道を空しくし、これより敢えて南侵することはなかった。建中年間(780-783)初頭、楊炎は原州を城としたいと思い、懐光をして涇原の帥を兼任させ、その功を遂げた。原州の宿将の史抗温儒雅らは、郭子儀の麾下であったから、かつては懐光の右にあり、その下にいると、心は鬱々としたから、懐光は罪によってこれを誅殺し、ここによって涇軍は畏れた。劉文喜は衆が懐光を恐れているため、遂に叛した。詔して朱泚とともに討伐して平定し、検校太子少師を加えられた。翌年、朔方節度使に移り、実封戸四百となり、よって邠寧を領した。

  当時、馬燧李抱真田悦を討伐したが勝てず、懐光に詔して朔方の兵一万五千をもって力を合わせた。懐光は魏城に至ると、いまだ軍営がいたる前に、朱滔らとともに連篋山で戦い、賊のために敗れ、田悦は水を決壊させて軍に浴びせ、馬燧らは退いて魏県に駐屯した。ついで同中書門下平章事に昇進し、戸二百を増やした。朱滔らと互いに持久戦となり、しばらく戦わなかった。

  帝が奉天に巡狩すると、懐光は軍を率いて命に奔走し、まさに雨降って泥濘になると、軍士を励ましてますます道を進み、蒲津より河を越えて、朱泚の軍を醴泉で破った。まさに奉天に至ろうとするとき、先に副将の張韶を遣わし蝋で上表文を隠し、賊に従って城を攻め、城塁を叩いて「私は朔方の使だ!」と呼び、縄にしがみついて登り、身に数十本の矢が当たった。その時帝は囲まれること急であり、これを聞いて喜び、そこで張韶を城の上で叫ばせ、人心は安堵した。また賊を魯店で破り、朱泚は包囲を解いて撤退した。累進して副元帥・中書令を加えられた。

  懐光は人となりは荒く片意地を張っており、唱えて、「宰相(盧𣏌)は謀議して背き違っており、度支(趙賛)は重税を課し、京兆尹(王翃)は軍食に刻薄で、天下の乱は皆これによるのである。私はお上に謁見して、かつこれを誅殺することを願う」と述べた。ある者が王翃に告げ、王翃らは謀って、「李懐光に大功があり、お上はかつ訪ねて得失によってその言を入れられれば、なんと危険なことではないか!」と述べ、ついに盧𣏌に告げ、盧𣏌はそこで帝に説いて、「李懐光の兵威はすでに振っており、逆賊は肝を冷やしており、勝利に乗じて一挙に賊を滅ぼすべきです。今入朝させれば、必ず宴で労って留まらせてしまうことになり、すると賊は残党を集結させることができ、ついには何もできなくなってしまいます」と述べた。帝はその実情がわからず、よってその通りにしてしまった。そこで懐光に勅して便橋に駐屯させ、諸将を督戦して討伐に出発させた。懐光は自ら千里をめぐって艱難に赴き、姦臣のために排斥疎外されて入朝することができず、すこぶる怒って恨み、去って咸陽に駐屯した。翌日、李晟と陳涛斜で合流したが、壁累の防備が出来ていないのに、賊が大挙して押し寄せた。李晟は懐光に説いて、「賊は宮苑(長安)を保っており、これを攻撃するのは本当に難しい。今あえて窟穴(駐屯地)を離れて、公とともに肉薄して戦えば、これは天が賊を公のために賜っているようなものになるでしょう」と言ったが、懐光は、「我が軍の馬はまだ秣にありつけてなく、兵士は食事もないのに、速やかに戦うべきなのか?しばらく我が勇を養ってこれを待とう」と言ったから、李晟はやむを得ず壁を閉ざして出撃しなかった。懐光はしばしば盧𣏌らの罪を暴き、帝はそこで盧𣏌と趙賛白志貞を左遷した。また宦官の翟文秀を弾劾奏上し、帝はまたこれを殺して懐光を慰撫した。しかしますます自ら疑い、壁を固守すること八旬(八十日)、出て戦わず、しばしば詔して進軍させようとしたが、機会を伺って解とし、密かに朱泚と連絡した。

  それより以前、崔漢衡を派遣して吐蕃に援軍を求めたが、尚結賛(シャンギェルツェン)は、「我が法では、進軍するのに大臣が兵を率いるのを信としている。今、制書には李懐光の署名がないから、先に進むことはできない」と述べた。帝はそこで翰林学士の陸贄に命じて懐光のもとに赴かせて協議したが、懐光は三つの不可を述べて、「吐蕃の舎人の馬重英は長安を陥落させたが、賛普は焼き払わなかったことを責めていた。今来れば、必ず宿志をほしいままにするだろう。これが一つめの不可である。彼らは兵五万を率いると言っているが、すでにその人を用いれば、それは漢士と同じであり、もし我を迎えて賞を厚くするとすれば、どうやってこれをするというのか?二つめの不可である。虜人(吐蕃)が来たからといって、義はまず用いず、兵を収めて自ら固守することとなる。成功と失敗を見るならば、王師が勝てば功績は分かつことになり、敗ければ変乱を謀られ、狡猾で偽りが多いから信じてはならない。三つめの不可である」と言って、ついに署名するのをよしとしなかった。また陸贄を罵って「お前はどうして良いと思っていたのか?」と言った。

  興元元年(784)、詔して太尉を加え、鉄券を賜ったが、懐光はかっとなって怒って、「だいたい人臣が叛くのを疑っているときは鉄券を賜っている。今懐光に授けるのは、これは叛かせたいということなのか!」と言い、地面に叩きつけた。当時、部将の韓游瓌の将兵が奉天を守っており、懐光は韓游瓌に反乱を約束し、韓游瓌はこれを上奏密告した。数日して、また密書を送ったが、門番がこれを捕らえた。また将の趙升鸞が奉天に間諜し、趙升鸞は渾瑊に密告して、「懐光は達奚承俊を遣わして乾陵に放火し、我をして内応させて、乗輿(徳宗)を脅かそうとしている」と伝えた。渾瑊はその姦計を暴き、帝に梁州への行幸が決定することを願った。帝は渾瑊に戒厳させ、未だ終わる前に、帝は西門より出て、詔して戴休顔に奉天を守らせようとした。懐光は将軍の孟廷宝・恵静寿・孫福を遣わして軽騎兵を率いて南山に走り、糧料使の張増と遭遇した。三人は謀って、「我々は属しているのは反乱側となっていると聞いているから、軍を緩めるのに越したことはない。彼が怒れば、ただ我が将ではなかったというのに過ぎないだけだ」と言い、張増をして軍をあざむかせて、「これより東は、我は糧食があるから食するべきだ」と言って、孟廷宝らは引き上げて東に行き、兵士をほしいままにさせて大いに掠奪したから、百官は遂に駱谷に入った。帝を追跡するまでには及ばなかったから、帰還して懐光に報告すると、懐光は怒って、ことごとくその兵を罷免した。懐光はそこで李建徽陽恵元らの軍を奪い、好畤に駐屯したが、その配下はだんだん背いていった。朱泚は始めこれを憚っていたが、ここに至りついに懐光を臣下扱いしたいと思った。懐光は怒り、絶交を告げ、ますます不安となり、そこで兵を率いて涇陽・三原・富平を掠奪し、遂に河中に行き、張昕を留めて咸陽を守らせた。しかし孟渉・段威勇は兵を擁して李晟に降伏し、韓游瓌は張昕を殺して、邠州に帰還した。戴休顔は奉天より軍に「懐光が反く」と号令し、そこで城を守った。

  詔があって懐光を太子太保とし、その麾下で功績が高い者一人を選んでその兵を統率させることを許した。しかし懐光は詔を奉らなかった。懐光は河中に至り、同州・絳州の二州を取り、駐屯して軍を展開させた。京師が平定されると、給事中の孔巣父・宦官の啖守盈に命じて懐光を召喚しようとしたが、皆懐光の軍中で殺害され、ここにおいて武器を修理して守りを厳しくした。帝はそこで渾瑊を派遣して討伐させた。度支はその軍への扶持米の年間給付を止めることを願ったが、帝は、「朔方軍はしばしば功がある。どうして李懐光が命を拒むからといって、軍衆が恩を被らないことがあっていいのだろうか?」と言い、役人に詔して別に貯えていた絹や銭を、事態が平定されてから給付することとした。渾瑊は同州を破り、軍を駐屯させたが進むことができず、しばしば懐光のために敗北を喫した。帝は河東節度使の馬燧を威名が明らかであるから、そこで副元帥に任命し、渾瑊および鎮国の駱元光・邠寧の韓游瓌・鄜坊の唐朝臣に兵を合流させて討伐に進発させた。馬燧は絳州を陥落させ、諸軍は遂に河中を包囲した。

  貞元元年(785)八月、朔方の部将の牛名俊が懐光を斬って、首を伝送して献上した。年五十七であった。帝はその功績を思い、詔して一子に継承を許し、荘園・邸宅一区を賜い、葬礼するのを聴(ゆる)し、妻の王氏は澧州に移した。それより以前、懐光が死ぬと、その子の李琟はその弟を皆殺しにして死に、そのため懐光には後嗣がいなかった。貞元五年(789)、詔して、「昔の功績を思うことは、仁の大いなることである。興亡や継承断絶は、義の至ることである。昔、蔡叔度が周王室を乱したが、周はその子を封じている。韓信は違反したが、漢はその妻子に爵位を与えた。侯君集は従わなかったが、太宗はその祭祀を存続させた。先王の道、烈祖の教えを考えるに、皆刑罰で徳をたすけ、人をして向かうべきところに向かわせた。先に盗臣が密かにおこり、朕は近郊に巡狩し、懐光は早くから千里を駆け、君命に従って行在に奔走し、雷鳴の威を仮り、虎狼の衆を破った。守節のまま終わることなく、密かに禍根を構えた。死罪を加えるところで、自ら災禍を招き、孤魂は帰るところがなく、これを思えば落ち込み呆然とするのだ。外孫の燕に姓李氏を賜い、名を承緒とし、左衛率府冑曹参軍として懐光の後を継がせなさい」と述べた。よって銭百万を賜い、田を墓の側に置き、祭祀の備えとした。妻の王氏を帰還させ、養わせたという。


  陳少游は、博州博平の人である。幼い頃より老子・荘子の書を習い、崇玄館の学生となり、諸儒の推薦で都講となった。妬む者があって大衆に答えさせ、熱心に質問して、それで少游を屈させようとした。少游が講座に上ると、音は清弁に語り、典拠には広く通じ、問者は窮まったが、少游の答えは余裕があり、大学士の陳希烈はその才能を高く評価した。進士に及第し、南平令に補され、治世に名声があった。累進して侍御史・回紇糧料使に遷り、検校職方員外郎充使を加えられ、検校郎官は少游のときより始まった。僕固懐恩が奏上して河北副元帥判官となり、晋州・鄭州の二州刺史に遷った。

  少游は臨機応変にたけ、いたるところはすべて仕事が出来、権勢や寵愛の者に賄賂を贈り、このためしばしば昇進した。李抱玉が上表して沢潞節度副使となり、陳鄭節度留後となった。永泰年間(765-766)、復奏して隴右行軍司馬となり、桂管観察使に抜擢された。少游は遠く去ることを楽しまず、近くの鎮に移ろうと窺った。当時、宦官の董秀に寵があり、枢密の事を司っており、少游はそこでその郷里に宿泊し、休暇に侍って入謁し、世間話のついでに諂って董秀に、「七郎の親族はどのくらいいますか?月にどれほど費していますか?」というと、董秀は謝して、「一族は甚だ多く、年間に常に百万以上を使っています」と言った。少游は、「本当にこのようでしたら、俸給が入ってきたとしても数日の費用としても不足で、ただちに外から入ってくる分からしばしば充当しなければなりません。私は不才の身でありますが、私一人の歳入が銭五千万あります。今その半分を充て、まずここに入れさせてください」と言った。董秀は大いに喜び、少游とあつくよしみを結んだ。少游はそこで泣いて、「嶺南は猖獗の地で、生還できずお顔を拝見できなくなることを恐れています」と言った。董秀はにわかに、「公の美才は、当然遠くに出すべきではありません。少し待ってください」と言い、当時、少游はすでに賄賂を元載の子の元仲武に納め、ここにおいて内外からはさらに推薦され、宣歙池観察使に改められた。大暦五年(770)、浙東に移り、潁川県子に封じられ、淮南節度使に移った。

  謀略を喜び、小さな恵みを与え、群吏を職に任じた。三度藩鎮を統率しているが、すべて天下の富裕のところであり、そのため貿易を要求して日を空しくすることはなく、財宝を積むこと億万の巨額となった。それより以前、元載と結んで、金帛を毎年だいたい十万緡を賄賂で贈った。また宦官の駱奉先劉清潭呉承倩および董秀に仕え、そのためよくその信任を得ることが久しかった。後に元載が過度の専横から疑われるのを見て、少游もまた疎んじた。元載の子の元伯和は揚州に流謫されたが、少游は表向きでは親しくし、陰ではその罪を奏上したから、代宗はこれを忠とした。建中年間(780-783)初頭、朝廷は経費が充当できず、始めて本道の税銭千に二百を増やし、塩一斗に税百銭を加えることを願い、度支はよって諸道も同様に増税することを願った。李納は命を拒み、少游は出兵して徐州・海州などの州を収めたが、にわかに放棄して撤退して盱眙に駐屯した。検校尚書左僕射に累進し、封戸三百を賜り、同中書門下平章事を加えられた。当時の宰相関播盧𣏌と少游は旧友であったから、そのためにわかに高官を兼任したのである。

  徳宗が奉天に行幸すると、度支汴東両税使の包佶は揚州にいて、儲えるところの財賦八百万緡をまさに京師に運ぼうとしていたが、少游の意は朱泚の勢が盛んになることであり、すみやかに平定されることではなかったから、その財を脅し取ろうと思い、判官の崔䪻をして包佶のところに就いて帳簿を求めて、二百万緡を借りようとしたが、包佶は勅命ではないから拒否した。崔䪻は怒って、「君はよく、劉長卿となることができるか、そうでなければ、崔衆となるか!」と言った。劉長卿はかつて租庸使に任じられ、呉仲孺のために囚えられた。崔衆は李光弼を侮って殺されたから、そのため崔䪻はそう言ったのである。包佶は少游に謁して、諫止しようと思ったが、語ることができず、そこで遣わし去り、ここにおいて財用はことごとく少游のために掠奪された。包佶は白沙に逃げ、少游は幕中の房孺復を遣わして包佶を召喚したが、包佶は驚いて逃げて長江を渡り、妻子を公文書の中に伏せて隠したから免れた。包佶には防御の兵三千人があり、高越・元甫をして将としていたが、少游はこれを奪った。よく包佶に随う者は、上元に至ると、また韓滉のために留められた。包佶ただ諸史を率いて江州・鄂州に行き、上表文を蝋壺の中に隠して上聞した。たまたま少游の使が至り、帝はその事を詰問すると、辞して知らないと言った。当時、禍いは激しくなって終結が難しく、帝は制することができなかったから、そこで、「少游は、国の守臣で、包佶の財を取って、他の盗みを防いだだけで、どうして傷つけられようか!」と言った。遠近の者はこれを聞いて、みな帝はその要を得たと言った。少游はこれを聞いて、はたして満足して疑わなかった。

  李希烈は汴州を陥落させ、江淮を襲うと宣言したから、少游は恐れ、参謀の温述を遣わして送款して、「豪州・寿州・舒州・廬州はすでに刃をかくして鎧を巻いていて、これは君命である」と言った。また巡官の趙詵をして鄆州に行かせ、厚く李納と結んだ。李希烈は帝号を僭称し、将の楊豊を遣わして偽赦をもたらして少游に送らせた。寿州刺史の張建封は警備してこれを得て、楊豊を斬り、偽赦を行在に送った。たまたま包佶が入朝しており、具さに少游が財賦を脅したことを申し上げた。少游は恥じ、上表して取るところは軍費に充てたと言い、賠償を願った。しかし州府は敗れてしまい、賠償することができず、そこで腹心の官吏とともに重税の法を設けたから、民は皆苦んだ。劉洽が汴州を取ると、希烈の偽起居注を得て、「某月日、陳少游が上表して帰順した」と書かれていた。少游は聞いて、恥じ入りのあまり病死した。年六十一、太尉を贈られた。


  賛にいわく、僕固懐恩は賊と百戦し、一族で唐のために死んだものは四十六人にもいたり、遂に燕・趙を一双して埃すらあますことなく、功績は高く、威光は重くなった。患いを防ぐことができず、誤った考えを心に根差し、その所を得ることなくたやすく発して、はたしてお上を犯した。惜しいことだ!その母は刀を抜いて賊を追っており、烈婦というべき人である。李懐光は一万人もの軍を率い、天子の難を救ったが、ただ讒言する人のために阻まれ、腹を立てて道理に背いては自ら帰ることなく、身と首は断ち切られ、しかも讒人もまた憎まれたのだから、所謂「四国交乱す(四方の国々さえも乱す)」(詩経)という者である。


  李錡は、淄川王孝同の五世の孫である。父李国貞の蔭位のため鳳翔府参軍となる。貞元年間(785-805)初頭、遷って宗正少卿となった。かつて宗正卿の李幹と争い、錡は直言のため座らず、徳宗は双方留め置いた。雅王傅より出て杭州・湖州の二州刺史となった。またに李斉運に仕え、錡は賄賂でよしみを結び、居ること三年、潤州刺史・浙西観察・諸道塩鉄転運使に遷った。多くの奇宝を積み、毎年献上して、徳宗と昵懇になった。錡はそのため恩を恃んで驕り横柄となり、天下の輸送は特権を得てこれを専らにした。そのため朝廷に仕える者に錡は利を以て交わり、ほかは皆密かによしみを通じる幸運を求め、国の財政は日々損耗していった。浙西布衣の崔善貞は徳宗に上書してその罪を暴いたが、帝は崔善貞を拘束して錡に賜い、錡はあらかじめ大穴を掘って、崔善貞が来ると縛ったまま穴の中に生き埋めにしたから、聞く者は極めて憤慨した。

  錡は志を得て憚るところなく、久しく安住の計略をはかり、そこでますます兵を募って、弓のうまい者を選んで一屯とし、「挽硬随身」と号し、胡・奚の雑類で大髭の者を一将とし、「蕃落健児」と号し、皆錡の腹心で、給料は十倍で、錡を号して「仮父」といい、そのため喜んでその用をなした。帝はここにおいて鎮海軍を復活し、錡を節度使とし、城鉄転運の担当から罷免した。錡は節度使となることを喜んで、その特権が失われたことを忘れていたが、にわかに驕ること日々甚だしくなり、属吏は死んでも恩賞は軍を越えることはなく、また迫って良家を汚すことになるから、幕僚は力の限り諫めたが聞かず、にわかに逃げ去った。

  憲宗が即位すると、方鎮に遠慮しなかったから、頑固な者もだんだん入朝してきた。錡は不安となり、また再三入朝を願った。詔があって尚書左僕射を拝し、御史大夫の李元素がこれに代った。中使が駅路から労問し、兼ねてその軍を慰撫した。錡は判官の王澹を推薦して留後とした。しかし錡に入朝の意思はなく、病と称して引き延ばしにして行かなかった。王澹と中使がしばしば赴いたが、錡は喜ばず、王澹が政務の引継ぎ処理するのに乗じて、親兵をそそのかして王澹殺害をはかった。よって冬服を給付する日に錡は幄中に座し、挽硬随身兵・蕃落健児兵に自らを守らせ、王澹と中使が入謁すると、既に出ており、衆は刃を持って罵り、王澹を殺して食べた。監軍使遣牙将の趙琦が説諭にきたが、これもまた食べた。兵に中使の首を繋がせたが、錡は表向き驚き、つきそって縛めを解いて、そこで別館に拘禁した。蕃落健児兵は薛頡が司った。挽硬随身兵は李鈞が司った。また公孫玠・韓運が分割してほかの軍を統率した。室に五剣あって、管内の鎮将に授けて、五州の刺史を殺させようとした。別将の庾伯良に兵三千人を属させ石頭城を築城し、謀って長江の左岸に拠った。

  常州刺史の顔防はその客の李雲の謀を用い、詔を偽って招討副使と称し、鎮将の李深を殺し、檄文を蘇州・杭州・湖州・睦州の四州に伝えて同じく錡を討伐させた。湖州の辛秘もまた鎮将の趙惟忠を殺した。蘇州の李素は鎮将の姚志安のために拘束され、舷上に釘打ち、錡に献上しようとしたが、錡は敗れたため免れた。

  憲宗は淮南節度使の王鍔を諸道行営兵馬招討処置使とし、中官の薛尚衍を都監招討宣慰使とし、宣武・武寧・武昌・淮南・宣歙・江西・浙東の兵を発して、宣州・杭州・信州の三州より進撃、討伐した。それより以前、錡は宣州が富裕であったから、四院随身兵馬使の張子良李奉仙・田少卿を遣わして兵三千人を領して宣州・歙州・池州に分けて下ったが、錡の甥の裴行立は謀に預かっていたとはいえ、帰順したいと思い、そのため互いに兵を撤退することを約束して錡を捕らえることとし、裴行立はまさに内応しようとした。張子良らはすでに行軍していたが、その薄暮、軍中を諭して、「僕射(李錡)が叛いた。官軍の精兵が四方から迫り、常州・湖州の鎮将は首を街路に晒され、勢いは衰えてまさに敗れて、我らはいたずらに死のうとしている。禍転じて福を願うにこしたことがない」と述べ、部衆は大いに喜び、遂に軍を返して城に向かった。裴行立は火を挙げると内外は混乱し、裴行立は牙門を攻めた。錡は大いに驚き、左右の者が「城外に兵馬が来ました」と言うと、錡は「誰なのか?」といい、「張中丞(張子良)です」と答えた。錡は怒ること甚しく、「門外の兵は誰なのか?」というと、「裴侍御(裴行立)です」といった。錡は嘆いて「裴行立もまた私に叛いたのか!」と言い、裸足で女楼の下に逃げた。李鈞は兵三百を率いて庭院に走り出て白兵戦となり、裴行立の兵もその中に突出して、李鈞を斬って、首を城下に運んだ。錡はこれ聞いて一族をあげて慟哭した。張子良は監軍の命によって日暮れに城中に道理にそむくことと従うことの良し悪しを諭し、かつ錡の身を拘束して朝廷に帰順することを呼びかけたから、左右の者は錡を捕らえて幕で包み、すがって城から出した。錡は尚書左僕射として召喚されていたが、数日して叛いたとの報告が来ると、詔を下して官爵を削り、翌日敗れて京師に送られた。神策兵は長楽駅より護衛して闕下に至り、帝は興安門に御して罪を問うたが、答えて「張子良が臣を唆して叛いたので、臣の思いではありません」と言ったが、帝は、「お前は宗室だから節度使となったのに、張子良を斬ってその後に入朝できなかったのか?」と言うと錡は答えられなかった。その日、子の李師回とともに城の西南で腰斬された。年六十七。死体は数日して、帝は黄衣を二襲出して、庶人の礼によって葬った。

  張子良を抜擢して検校工部尚書・左金吾将軍とし、南陽郡王に封じ、名を奉国と賜った。田少卿を検校左散騎常侍・左羽林将軍とし、代国公に封じた。李奉仙を検校右常侍・右羽林将軍とし、邠国公に封じた。裴行立を泌州刺史とした。王澹に給事中を、趙琦に和州刺史を、崔善貞に睦州司馬を贈位した。錡の属籍を削って、従弟の宋州刺史の李銛、通事舎人の李銑、従子の李師偃を嶺南に流刑とした。


  賛にいわく、『論語』に「出納の吝(やぶさ)かなる、これを有司と謂う(どうせ与えねばならぬのに、出し惜しみをするのが吝である。そしてそれが官僚というものである)」とあるが、これは賎しんでいうのである。徳宗は朱泚を平定したが、京師の府蔵は消耗して尽きてしまい、諸道は始めて経費を助け奉ることがあったので、詔書もまた往々として天下にお示しになったのである。人主が細々と理財すると、下でも有司がそれと行う事となり、天下は無事となったにもかかわらず、賦税を徴収することはなお休まざるがごとしであった。剣南の韋皋・江西の李兼は「日進」・「月進」と称し、杜亜劉蕡王緯および李錡が毎年進奉し、その寵愛を固め、号して「賦外の羨余」と称した。また帝の意に托して庫物を盗んだ。しかしそのうち献上したのはわずかに十のうち二や三ほどで、ほかは皆横領したのである。江南・淮南は、物力は大いにつき、人々は衰弱して生を忘れるほどであった。貞元年間(785-805)以後、宦官は物を都下で市場とし、これを「宮市」といい、符牒を持たず、口に詔命を含んで、勝手に縑を取り、紅布を嫌ってこれを紫布と交換し、その売価が倍であったら、勝手に裂いて値段に見合わせた。市の良貨は皆逃げ去って出さず、市場で商店を並べられるものは、ただ粗雑・粗悪品のみであった。また辺境より馳せて来て禁中に入る者は、つきて車輦するところで、売る者が不平をいえば、よって共に殴って笞うった。兵卒や女奴、名馬や工車、びくびくとして常に捕らえられることを恐れた。しかし徳宗は前後左右を佞臣に蔽われていたから実態を知ることがなかった。そのため崔善貞は李錡の不正を論じたものの、徳宗はついに李錡が塩鉄の利益を独占しているのを知らず、李錡は兵を養って謀叛をはかり、かつて徴税吏の吝嗇に及ばないことはるかに超えていたのだ。


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最終更新:2023年11月20日 23:59
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