唐書巻二百六
列伝第一百三十一
外戚
独孤懐恩 武士彠 士稜 士逸 承嗣 三思 懿宗 攸曁 韋温 王仁皎 守一 楊国忠 李翛 鄭光
おしなべて外戚の成功・失敗をみるのは、主の徳から見てみるのはどうであろうか。主が賢人ならば繁栄を共にし、主がそうでなければ先ず禍を受けるのである。そのため
太宗は恩寵を調べ、賜い物をさばいたから、貞観年間(623-649)に内々にいたものは家を失脚させることはなかった。
高宗・
中宗の二帝は、権勢は好事に移り、朝廷を乱すことを生み、武氏・韋氏の諸族は、老いも幼きも首を血でぬらし、一日に同じく刑刃を汚すことになったのである。
玄宗が即位した当初、法は近親にも執行し、朝廷の中も表も謹慎して分を越えなかった。天宝年間(742-756)に英明さは奪われ、
楊貴妃の宗属に政務を委ね、宮中にえびす者の反乱者を呼び寄せたから、遂に天下を失った。楊氏が誅殺されると、一族郎党は残すことなく、思うに数十年の寵も、一日の悲惨時の償いにもならならず、第一級の邸宅や厚い賜い物は、同じ穴に陥った悲しみを救うことはないのだから、どうして悲しまないことがあろうか。
代宗・
徳宗の時代まで下ると、宦官がお気に入りの仲間入りし、後宮は多いとはいえ、赫々たる名だたる一門はおらず、また処刑によって大殺戮を受けることもなかった。そのため用いられて幸福の甚しい者は過酷な災いを受け、名声をわずかに取る者は責めを受けることは軽く、道理はもとよりこのようであるのだ。もしくは
長孫无忌の功績、
武平一の博識、
呉漵の忠義のように、縁によらず恩寵を得た者は、自ら別伝を見よ。
独孤懐恩は、
元貞皇后の弟の子である。父の独孤整は、隋に仕えて涿郡太守となった。独孤懐恩は幼くして、隋の
文帝・
献皇后は甥であるから宮中で養った。成長すると、しばらく儒学の書籍を学び、家の財産を計算することなく、豪傑・博徒と交友するのを喜んだ。鄠県令となったが、病のため免職となった。
高祖が京師を平定すると、長安県令を拝命したが、非常に厳粛かつ公正で、職にあっては名声を得た。
帝が禅譲を受けて即位すると、工部尚書に抜擢された。それより以前、虞州刺史の
韋義節が
堯君素を蒲州で攻撃したが、勝てず、帝は独孤懐恩を派遣して代将とした。性格は貪欲で、計略が少なく、しばしば戦ったが功績がなく、兵士は失われて阻まれ、詔書で譴責され、独孤懐恩は次第に怨みを抱いた。帝はかつて戯れに「姑の子(
煬帝・高祖)はみな天子となったから、次はお前かな」と言ったから、独孤懐恩は内心喜び、天命であると思った。その後いながらにして呆然として、舌打ちして、「我家はどうして女子だけが富貴であるのか」と言い、そこで反乱を企てた。
この当時、虞郷の南山で多くの盗賊が留まって、
劉武周が
宋金剛に澮州を攻略させ、
帝は関中軍を発して
秦王に隷属させ、柏壁に駐屯した。これによって独孤懐恩は麾下の元君宝・解県令の栄静とともに謀って
王行本の軍を引き入れて劉武周とともに連合し、河東を割いて彼に与え、群賊を引き入れて永豊倉を奪取し、秦王の両道を絶ち、三輔(長安近郊の地)に長駆しようとした。ちょうどその時
堯君素が死に、王行本は堯君素の兵を収容したから、それぞれ割拠の謀が定まった。そして夏人の
呂崇茂が県令を殺して劉武周に呼応した。帝は独孤懐恩と永安王
李孝基・陝州総管の
于筠・内史侍郎の
唐倹に勅して夏県を討伐したが、宋金剛のために襲撃され、諸将は皆賊の手に落ちた。元君宝は開府の
劉譲とともに密かに独孤懐恩を侮って、「大事を挙行するにはもはや遅くなってしまった。こうなってしまってはかえって恥をかくだけだ」と言い、そのため謀を次第に暴露した。秦王が劉武周を美良川で破ると、独孤懐恩は逃げ帰ったが、帝は命じて軍を率いて蒲州を攻撃させた。元君宝はこれを聞いて「王は死ななかった。やはりそうなった」と言ったから、唐倹は事実を知った。ちょうどその時、劉武周は劉譲を帰還させて戦闘の中止を求め、これによって独孤懐恩らの奸計が白日に晒された。この時、王行本は蒲州をあげて降伏し、独孤懐恩は兵を集めて入城し、帝は河を渡ろうとすると劉譲がやって来て、詳細に謀反の事実証拠を得た。帝は独孤懐恩を召還したが、独孤懐恩は発覚を知らなかったから、単独舟でやって来て、即ちに捕縛され、その与党も捕縛尋問し、獄中で絞殺し、首を華陰県の市で晒し、その家を没籍した。
武士彠は、字は信で、代々商売を行い、人々と交流したり結びついたりするのを好んだ。
高祖がかつて汾州・晋州に駐屯すると、武士彠の家で泊まり、そのため目をかけられた。後に高祖が太原留守となると、引き上げられて行軍司鎧参軍となった。募兵して兵が集まると、
劉弘基・
長孫順徳が統率した。
王威・
高君雅は密かに武士彠に向かって、「劉弘基らは遠征から逃げ出した人間だ。その罪は死刑に相当するのに、どうして兵を授けたのか。弾劾して逮捕せねばならん」と言うと、武士彠は、「彼らは二人とも
唐公の客です。もしもそんなことをすれば、必ず大騒動になりますぞ」と言ったから、王威らは疑っても告発しなかった。ちょうどその解き、司兵参軍の田徳平が王威に勧めて募兵した事案についてを弾劾しようとしたが、武士彠は脅して、「討伐の兵はすべて唐公に属しており、王威・高君雅は与しておらず、ただの居候だ。何ができるというのか」と言ったから、田徳平もまた弾劾を止めた。高祖は挙兵したが、武士彠は謀に預からなかった。大将軍府鎧曹参軍として京師の平定に従事し、光禄大夫・義原郡公となった。自らかつて
帝が騎上して天に登った夢をみたと言ったが、帝は「お前はもともと王威の与党だったではないか。劉弘基を逮捕させることを罷めさせたりしたから、そのことを覚えていて、それに私に礼をつくしたから、だからお前に官位で報いたではないか。今さらどうしてそんな性もない妄言をして私に媚びるのか」と笑って言った。工部尚書に累進し、応国公に進封し、利州・荊州の二州の都督を歴任した。卒すると、礼部尚書を追贈され、諡を定という。
高宗の永徽年間(650-655)、武士彠の
次女が皇后となり、そのため崇んで并州都督・司徒・周国公を追贈した。咸亨年間(670-674)、太尉兼太子太師・太原郡王を加贈し、高祖の廟廷に配享し、功臣の上に列した。
武后が監朝となると、尊んで忠孝太皇とし、
崇先府を建立し、官属を置き、五世の祖を王に追贈した。武后が革命すると、改めて東都に
武氏七廟を建立し、追冊して帝とし、諸夫人をすべて帝にしたがって皇后と号した。先天年間(712-713)、詔して武士彠の偽号を削り、太原王とし、廟は遂に廃止された。
始め、武士彠は相里氏を娶って、子の
武元慶・
武元爽を生んだ。また
楊氏を娶って、三女を生んだ。最初の
娘は
賀蘭氏の妻となったが、早くに寡婦となった。季娘は郭氏の妻となったが、名があらわれなかった。武士彠が卒した後、子どもたちの楊氏に仕えるようすは礼が尽くされておらず、粗略に扱った。
武后が皇后になると、楊氏を代国夫人に封じ、さらに進封して
栄国夫人とし、武后の姉を
韓国夫人とした。この当時、
武元慶はすでに宗正少卿に、
武元爽は少府少監に、兄の子の
武惟良は衛尉少卿となっていた。楊氏は武后にほのめかして上疏して武元慶らを外部に出させ、外戚は退いて謙譲の意を示すものとした。これによって武元慶は龍州に、武元爽は濠州に、武惟良は始州に流された。武元慶が死ぬと、武元爽は振州に流された。乾封年間(666-668)、武惟良および弟で淄州刺史の
武懐運は諸侯とともに泰山の下に集まっていた。この当時、韓国夫人の
娘が宮中にあって、
帝は最も寵愛していた。武后はあわせて殺そうと思い、そこで帝を導いて母栄国夫人のところに行幸し、武惟良らが食事の手配をしたが、武后は毒を仕込み、
賀蘭氏が食べると突然死した。武后は罪を武惟良らに着せて誅殺し、役人にほのめかして「蝮氏」に改姓し、属籍を絶った。武元爽は連座して死に、一族は嶺外に流された。
武后は
賀蘭敏之を武士彠の後嗣とし、武氏を賜い、襲封させ、左侍極・蘭台太史令に抜擢し、名儒の
李嗣真らとともに編纂事業に参与させた。賀蘭敏之は眉目秀麗なのを自ら喜び、
栄国夫人と密通し、寵愛をたのんで、軽薄傲慢で失敗が多かった。栄国夫人が卒すると、武后は財貨を出して仏寺を建立して冥福を祈らせようとしたが、賀蘭敏之は横領して自分の物にしてしまった。司衛少卿の
楊思倹の娘が選ばれて太子妃となることになり、結婚の時期が報告されると、賀蘭敏之はその美しさを聞いて、無理やり自分の物とした。楊氏が死んで喪があけていないのに、音楽を奏でた。
太平公主が外の家と往来しており、宮女が従者となっていたが、賀蘭敏之は宮女の全員に迫って乱倫した。武后は度重なることに怒り、ここにいたってその悪行を暴き、雷州に流し、上表してもとの姓に復し、道中に自ら縊死した。そこで武元爽の子の
武承嗣を戻して武士彠の後嗣にし、宗属はすべて元通りとした。
武士稜は、字は彦威で、若くして温和で質朴であり、田業に力をつくした。官は司農少卿、宣城県公となり、常に畜産・農事を司った。卒すると、潭州都督を追贈され、献陵に陪葬された。
武士逸は、字は逖で、戦功があり、斉王府戸曹参軍、六安県公となった。
斉王に従って太原を守り、
劉武周に捕らえられたが、人を派遣して賊を破る計略を陳述した。賊が平定されると、益州行台左丞を授けられ、しばしば当時の政治の得失を申し上げたから、
高祖はお褒めの言葉を賜った。韶州刺史で終わった。
武承嗣が帰還すると、尚輦奉御に任じられ、周国公を襲封し、秘書監・礼部尚書に遷った。にわかに太常卿同中書門下三品(宰相)となったが、しばらくもしないうちに位を辞した。垂拱年間(685-688)初頭、春官尚書によって同鳳閣鸞台平章事(宰相)となり、納言に改め、
蘇良嗣に代わって文昌左相となった。性格は横暴軽薄かつ残忍で、左司郎中の
喬知之の婢の窈娘なる者が美しく、また歌をよくするのを聞いて、彼女を奪い取り、喬知之は「緑珠篇」をつくってそのことを詠い、婢は詩を読んで恨んで死んだ。武承嗣は怒り、酷吏に告発して殺害し、その家を皆殺しにした。
それより以前、
武后は政権を掌握し、
中宗は幽閉されて追われ、武承嗣は国を武后に伝えれば自身にも及ぶと思い、武氏に天下をもたらすべく、そこで武后に革命をほのめかし、唐の家の子孫を排除し、大臣で従わない者を誅殺し、武氏で前世代の者を王に追贈し、宗廟を建立するよう提案した。また
武元慶を梁王とし、諡を憲とした。
武元爽を魏王とし、諡を徳とした。武后の従父の
武士譲を楚王とし、諡を僖とした。
武士逸を蜀王とし、諡を節とした。また兄の子の
武承業を陳王に贈冊した。武承嗣を魏王とし、武元慶の子の
武三思を梁王とし、武士譲の孫の
武攸寧を建昌王に、
武攸帰を九江王に、
武攸望を会稽王とし、武士逸の孫の
武懿宗を河内王に、
武嗣宗を臨川王に、
武仁範を河間王に、武仁範の子の
武載徳を潁川王に、
武士稜の孫の
武攸曁を千乗王に、
武惟良の子の
武攸宜を建安王に、
武攸緒を安平王に、従子の
武攸止を恒安王とし、
武重規を高平王とし、武承嗣の子の
武延基を南陽王とし、
武延秀を淮陽王とし、武三思の子の
武崇訓を高陽王とし、
武崇烈を新安王とし、
武承業の子の
武延暉を嗣陳王とし、
武延祚を咸安王とした。武承嗣は実封千戸となり、監修国史となった。密かに武后の党の鳳閣舎人の
張嘉福を諭して、洛州の人に上書させて自分を立てて皇太子としようとさせ、これによって武后の意向を観察した。武后は
岑長倩・
格輔元に尋ねたが、二人ともよくないとの返答であった。武承嗣はやむをえず、奏請して張嘉福らを責めたが、罪とはならなかった。岑長倩らを恨み、二人とも罪によって誅殺した。それによって特進となって辞職した。しばらくもしないうちに再び鳳閣鸞台三品(宰相)となった。武承嗣は左相となり、武攸寧は納言となったが、二人共罷免された。また武三思とともに同三品となったが、一月もしないうちに二人とも罷免され、再び特進を拝命した。武后は
太子に政権を返そうと決意した。しばらくして太子太保に遷り、思い通りにならず、怏々として憤死し、太尉・并州牧を追贈され、諡を宣という。
武延基が襲爵すると、武后はその父の名を退け、改めて継魏王となった。長安年間(701-705)初頭、妻の
永泰郡主および
邵王と共に密かに
張易之兄弟の事について語り、後に腹を立てて争い、そのことを聞いて
武后は怒り、自殺させ、
武延義を代わりの王とした。
中宗が復位すると、侍中の
敬暉らが諸武氏は王とすべきではないと申し上げ、群臣とともに奏上し、「政治には二つの大なるものはありません。武家の諸王はすべてやめるべきです」と述べ、帝は優柔不断であり、またもとより
太后を恐れ、また喜ばせて安心させたいと思っており、さらに
武攸曁・
武三思は二人とも
張易之・
張昌之二兄弟を除くのに功績があったと言って、敬暉らの要求を退け、わずかに一級降封した。武三思は徳静郡公に、武攸曁は寿春公に、
武懿宗は耿国公とし、
武攸寧を江国公に、
武攸望は葉国公に、
武嗣宗は管国公に、
武攸宜は息国公に、
武重規は鄶国公に、
武延義は魏国公に、
武攸緒は巣国公に、
武崇訓は酆国公に、
武延禄は咸安郡公とした。直臣の
宋務光・
蘇安恒は上書して、「武氏たちの王を封ずることに、人心は満足しません」と述べたが、
帝は悟らなかった。
武載徳は湖州刺史で終わり、諡を武烈という。
武攸帰は司属少卿を経て斉州刺史に到り、母に仕えて孝で、姉が死んだ時、五辛を食さず、語るとたちまち涙を流した。
武攸止は絳州刺史となった。三人は
太后の時に死んだから、削封されるに及ばなかった。
武攸宜は同州刺史をへて、万歳通天年間初頭(696)、清辺道行軍大総管となり、契丹を討伐することとなり、
武后は自ら
白馬寺で餞したが、軍は武功がなく撤退し、左羽林大将軍を拝命した。景龍年間(707-710)、右羽林に遷り、卒した。禁兵を統率すること前後十年にわたった。
武嗣宗は司衛卿で終わった。
武重規は汴州・鄭州の二州の刺史となり、まだ到着する前に、役人が営繕を行ったから、
武后は怒り、廬州刺史に貶した。これより下令して、諸王が州刺史となったときは、勝手に営造を行ってはならないとした。突厥が叛くと、武重規を天兵中道大総管とし、
沙吒忠義・
張仁亶とともに軍三十万を率いて討伐した。左羽林大将軍の
閻敬容を西道後軍とし、兵十五万で後援させた。帰還すると左金吾衛大将軍となり、衛尉卿で終わった。
武延秀の母は、もと帯方の人で、その家が罪とされて奚官局に没入されていたが、眉目秀麗であったため、武承嗣に賜い、武延秀を生んだ。突厥の黙啜可汗は娘との婚姻によって和親をすすめようとし、
武后は武延秀を納れようとし、詔して右豹韜大将軍の
閻知微・右武衛郎将の
楊鸞荘は金幣をもって突厥に到着した。閻知微らは密かに黙啜と約束して、武延秀を捕らえ、媯州・檀州に侵攻したから、そのため武延秀は帰ることができなかった。神龍年間(707-710)初頭、黙啜は講和を願い、そのため武延秀は送還され、柏国公に封ぜられ、左衛中郎将となった。宗族の兄の
武崇訓は
安楽公主を娶っていたが、しばしば宴で昵懇となり、非常に突厥の言葉に通じており、虜に習って舞を踊り、姿形は艶やかであったから、安楽公主を魅了した。ちょうどその時武崇訓が死ぬと、遂に安楽公主に密通して侍り、後に娶った。太常卿によって右衛将軍を兼任し、恒国公に封ぜられた。
武三思が死ぬと、
韋后はまた武延秀と密通し、そのため武延秀はますます自分勝手になった。主府倉曹参軍の何鳳が「今天下は心を武家にかけ、再興を待ち望んています。また讖に「黒衣の神孫、天裳を被る」とあり、神孫は公でなければ一体誰なのでしょか」と説き、そこで黒衣を着て衆を惑わすことを勧めた。韋后が失脚すると、公主とともに禁中にいたが、同じく
粛章門で斬られた。
武攸望は太府卿によって貶されて春州で死んだ。諸武氏は武延秀に連座して誅殺されるか流されるかしてほぼ淘汰され、ただ
武載徳の子の
武平一のみは文章で有名であり、
武攸緒とともに常に万座を避けていたから、そのため免れた。自ら
伝がある。
武攸寧は、天授年間(690-692)に納言に抜擢された。翌年、左羽林衛大将軍となって納言を罷免されたが、にわかに納言に復帰した。しばらくして罷免されて冬官尚書となった。聖暦年間(698-700)初頭、同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった。
武承嗣・
武三思が宰相を罷免されて、一年して
武攸寧・
武三思がまた宰相となり、勾使を置き、民の財産を奪い取り、一族を破滅させた者はおよそ十七・ないしは十八で、天に自らの冤罪を叫んだ。大きな倉庫、百以上の建物を建築して得た財を集めたが、しばらくして火災となり、一銭も残らなかった。冬官尚書によって宰相を罷免された。神龍年間(707-710)初頭、岐州刺史で終わり、尚書右僕射を追贈された。
武三思は
太后の時、夏官・春官尚書、監修国史に累進し、爵位は王となった。契丹が営州を陥落させると、楡関道安撫大使となって辺境に駐屯した。帰還すると、同鳳閣鸞台三品(宰相)となったが、翌月に宰相を辞職した。また検校内史となったが、罷免されて太子少保となり、太子賓客に遷って、監国史となった。
武三思の性格は権力に媚びへつらい、よく主の意に迎合し、隠された微かな意向も探し取り、そのため
武后は非常に信任し、しばしばその邸宅に行幸があり、賞与は非常に多かった。
薛懐義・
張易之・
張昌之二兄弟が寵愛を得ると、武三思は膝を屈して、薛懐義のために馬を御し、張昌宗が王子晋の生まれ変わりだと提言し、公卿を率いて、淫らで汚らわしい歌を詠い、厚かましく人のように恥じることはなかった。武后が年老いると、宮中にいることを嫌い、武三思はこれによって権力を弄ぼうと思い、不肖の者どもを脅し誘い、そこで
三陽宮を嵩山に、
興泰宮を万寿山に建造し、太后の毎年の臨幸を願い、自分が張易之・張昌之二兄弟とともに騎馬で武后に従い、密かに権力と福徳を自らのものにしたという。造営の徭役は巨万であり、百姓は愁い歎いた。
武崇訓が
公主を娶ると、武三思は宰相となり、
中宗は東宮にあって、恩寵を願ってその下にあり、そこで丁寧に自ら礼して迎えた。宰相の
李嶠・
蘇味道ら、および
沈佺期・
宋之問の有名の士たちは、文章をつくり、軽薄でひけらかし、再び礼法を加えることはなかった。中宗が復位すると、武崇訓を駙馬都尉・太常卿・兼左衛将軍に抜擢した。武三思の位は司空・同中書門下三品に進み、実封戸五百を加えられた。固辞すると、開府儀同三司に進んだ。ちょうどその時降封となり、実封戸を削減された。にわかに
太后の遺詔によって削減したものを返還して、武崇訓を鎬国公に封じた。
それより以前、
桓彦範らが
張易之・
張昌之二兄弟を誅殺し終わると、
薛季昶・
劉幽求があわせて武三思らを誅殺するよう勧めたが、従わなかった。翌日、武三思は
韋后によって宮中に潜入し、国政を蒸し返し、数日にして桓彦範らは全員失脚し、排斥された者は全員帰還した。群臣に詔して
太后の法を復活させた。武三思は建言して、「
大帝は泰山に封じ、
則天皇后は
明堂を建立して、嵩山に封じ、二聖の善行は廃するべきではありません」と述べ、
帝はその発言に同意し、遂に五県の名を改めて乾封・合宮・永昌・登封・告成とした。翌年春、大旱魃となり、帝は武三思・
武攸曁を派遣して乾陵に祈ると雨が降り、帝は喜んだ。武三思はそこで安楽公主によって
崇恩廟、昊陵・順陵の二陵を復活して、すべてに令・丞を置くことを願った。その党派の
鄭愔は「聖感頌」を奉り、帝は石碑に刻ませた。補闕の張景源が建言して、「母子の間で業を受けるのを、中興と申すべきではありません。制書を下されたものはすべて除くべきです」と述べ、ここに天下の名祠は唐興・龍興と改めたという。補闕の
権若訥がまた「制詔は貞観の故事の通りです。また太后の遺訓は、母の儀です。
太宗の旧章は、祖父の徳です。因習するなら自らに近いところから始めるべきです」と建言し、帝はお褒めの言葉を賜った。この時、毬場を苑中につくり、文武三品に詔して組を分けて抜河(綱引き)を行い、帝は
皇后とともに臨幸して観覧した。武崇訓は駙馬都尉の
楊慎交とともに油を注いで場をつくり、それによって潤わせて有利にし、これをつくるのに費やした費用のことは考えず、人々は苦しんだ。
武三思は
韋后と密通し、また
上官昭容とも乱倫し、
節愍太子に憎まれ、そこで
公主とともに謀って太子を廃そうとした。太子は恐れ、そのため羽林兵を発して武三思の邸宅を包囲し、
武崇訓と共に斬り、その与党十人以上を殺した。
当時、武三思が奸計して国家を奪おうとするのを憎まれることは、司馬懿に比べられた。正しい人に阻まれることを嫌うことは特に甚だしく、かつて「私はどのような人が善人というのかは知らない。ただ私とともにする者がそうなのだ」と言い、
宗楚客兄弟・
紀処訥・
崔湜・甘元柬はそれぞれ煽動し、
王同皎・
周憬・
張仲之らは憤りに堪えられず、武三思を殺そうと謀ったが、
冉祖雍・
宋之愻・
李悛に告発され、全員が罪となって死んだ。事件は五王(
崔玄暐・
張柬之・
敬暉・
桓彦範・
袁恕己)に及び、崔湜は
周利貞に殺させ、そのため冉祖雍は御史の
姚紹之ら五人とともに、「三思五狗」と称された。司農少卿の
趙履温・中書舎人の
鄭愔・長安令の馬構・司勲郎中の
崔日用・監察御史の李𢘽は、その権力に託して、勢いは内外を凌ぎ、最も政治に干渉した者で、天下は「
崔・
冉・
鄭は時政を乱す」と語り、爵位や褒賞を自分やお互いで立てあい、概ね大獄を構えては、善良な者の名誉を汚し、その一族を破滅させ、天下に思うがままにふるまった。始め
韋月将・
高軫は上疏して、厳しく武三思の悪事を申し上げたが、役人は韋月将を殺し、高軫を悪地に追いやった。黄門侍郎の
宋璟がこれにゆいて奏上したが、にわかに排斥された。その権力は大抵このようであった。
武三思が死ぬと、
帝は挙哀し、廃朝すること五日で、太尉を追贈し、また梁王に封じて、諡を宣という。
武崇訓を追封して魯王とし、諡を忠という。
安楽公主は
太子の首を武三思の柩に祭った。
睿宗が即位すると、父子の二人ともが節に背いたから、棺を壊して死体を晒し、その墓は暴かれた。
武懿宗は司農卿となって爵位は郡王となり、懐州・洛州の二州の刺史を歴任した。神功元年(697)、契丹の孫万栄が
王孝傑の兵を破ると、武懿宗に詔して神兵道大総管となって討伐させて、
婁師徳・
沙吒忠義を二人とも総管とし、兵はおよそ二十万、趙州に行った。武懿宗は賊がまたやって来たと聞いて、恐れてどうすればよいかわからず、軍を棄てて逃げようと思ったが、ある者が「賊は数が多いとはいえ、輜重がないので、掠奪によって命をつなごうとしています。もし兵で老いた者をここに留め、その帰りを攻撃すれば、大功となるでしょう」と勧めたが、武懿宗は考える暇もなく、退却して相州を保持し、賊は遂に進撃して趙州を落として皆殺しにした。後に孫万栄が死ぬと、武懿宗は再び婁師徳とともに河北を慰撫し、人々で自ら賊中にあって帰した者は、全員が死罪に相当したから、まず胆を剥ぎ取ってから殺し、血飛沫の前でも、挙動はいつもの通りであった。それより以前、孫万栄が入寇してくると、別帥の何阿小が冀州を陥落させ、殺人して生存者がおらず、武懿宗の残忍さもこれに似たから、そのため「両何」といい、「ただこの両何がだけが、殺人が最も多い」と語り合った。
それより以前、武懿宗は天授年間(690-692)に詔を受けて大獄をとりしきり、大臣・王公を誅殺したが、皆巧みに引き込まれ、内面から埋められ、逃れられる者はいなかった。その険悪かつ残酷なことは
周興・
来俊臣らであっても追従することはできなかった。神龍年間(707-710)初頭、太子詹事に遷り、懐州刺史で終わった。
武攸曁は右衛中郎将より
太平公主を娶り、駙馬都尉となり、右衛大将軍に遷った。天授年間(690-692)、千乗郡王から定王に進封し、実封戸は六百となった。麟台監司祀卿に遷った。長安年間(701-705)、寿春王に降封したが、特進を加えられた。
中宗の時、司徒を拝命し、再び定王となり、千戸を加えられた。固辞して開府儀同三司となった。
武延秀が誅殺されると、楚国公に降封された。武攸曁は沈着かつ謹慎な人物で、温和であり、当時の時勢に頼ることなく、専ら自分の目上の人を養うだけであった。景龍年間(707-710)に卒し、太尉・并州大都督を追贈され、定王に戻り、諡を忠簡といった。太平公主の大逆に連座して、その墓は暴かれた。
韋温は、
中宗の
廃后庶人の従父兄である。
韋皇后の父の
韋玄貞は、普州参軍事に任じられ、娘が皇太子妃となったから、そのため豫州刺史に任じられた。
帝が廬陵に幽閉されると、韋玄貞は流されて欽州で死に、妻の崔氏は蛮の首領の寧承に殺され、四人の子の
韋洵・韋浩・韋洞・韋泚も同じく容州で死に、韋后の二人の妹が逃れて京師に帰還した。帝が復位すると、この日詔して韋玄貞に上洛郡王・太師・雍州牧・益州大都督を、韋温の父の韋玄儼は魯国公・特進・并州大都督を追贈された。使者を派遣して韋玄貞の葬列を迎え、広州都督の
周仁軌に詔して寧承を討伐し、その首を斬って崔氏の柩に祭り、周仁軌を左羽林大将軍、汝南郡公とした。柩が到着すると、帝は皇后とともに長楽宮に登って望んで哭泣し、酆王を追贈し、諡を文献といい、廟を褒徳廟となづけ、陵を栄先陵といい、令・丞を置き、百戸を給して掃除させた。韋洵に吏部尚書・汝南郡王を、韋浩に太常卿・武陵郡を、韋洞に衛尉卿・淮陽郡を、韋泚に太僕卿・上蔡郡を追贈し、あわせて京師に葬った。
韋温は当初官吏の試験を受けたが、収賄を罪とされて排斥された。神龍年間(707-710)初頭、宗正卿に任じられ、礼部尚書に遷り、魯国公に封ぜられた。弟の
韋湑は、洛州戸曹参軍事から連なって左羽林大将軍、曹国公となった。
韋后のすぐ下の妹は
陸頌に嫁いで、国子祭酒となった。真ん中の妹は嗣虢王
李邕に嫁いだ。韋湑の子の
韋捷は
成安公主を娶り、韋温の従弟の
韋濯は
定安公主を娶り、二人とも駙馬都尉となり、韋捷は右羽林将軍となった。景龍三年(709) 、韋温は太子少保によって同中書門下三品(宰相)となり、揚州大都督を遥任した。韋温はすでに天下の事は手中にあり、利殖によって権力を固めようと思い、友党を引き立てて用いるのに一定しなかったから、公卿は恐れ伏したとはいえ、しかし韋温は無能であったから、武氏の凶事のように盛んにはならなかった。
韋湑は当初修学館大学士を兼任したが、その時、熒惑(火星)が長らく羽林に留まったから、
韋后はこれを憎んで、韋湑が温泉に行くのに従うと、韋后は韋湑を毒殺して変事を防ぎ、司徒・并州大都督を追贈した。韋湑の兄弟は文章が非常に優れたことによって昇進し、
帝は盛んに文章を侍従に選ばせ、ともに詩を賦して一緒に楽しんだ。韋湑は学士ではあったとはいえ、常に北軍にいたから、詩をつくることはなかった。
富商がいて罪に相当すると、万年県令の李令質が取り調べした。
韋濯は救おうと駆け回ったが、李令質は従わなかったが、
帝に破棄された。帝は李令質を呼び寄せて到着すると、左右の者に恐れられた。李令質は従容として、「韋濯は賊とは親しくないので、ただ金を積んで頼まれたのでしょう。韋濯の勢力は強いとはいえ、陛下の法を守るにこしたことがありません。死んでも恨みません」と言ったから、帝は許して責めなかった。
帝が崩ずると、
韋后は専制し、変事があることを恐れ、韋温に勅してすべての内外の兵を統率し、省中を守らせた。また従子の韋播・
韋捷、従弟の韋璿・高嵩に左右羽林軍を分領させた。韋温は
宗楚客・
武延秀らとともに韋后を説いて図讖を託し、韋氏が天命を受けるべきとし、
少帝を謀殺しようとしたが、心の中で
相王・
太平公主といった尊属をはばかり、こちらを先に除こうと思い、その後にその謀を行おうとした。しかし
玄宗が夜に挙兵し、将軍の
葛福順が
玄武門を攻撃して羽林に入り、韋播・韋璿・高嵩を斬って、首を晒し、軍中は相継いで呼応し、あえて遅れる者はいなかった。韋后が死ぬと、明け方に韋温を斬り、韋氏の子弟たちを捕らえ、年少者と老人でなければ全員斬殺した。
周仁軌は京兆万年県の人である。韋后の母の一族であったため、并州長史となった。残酷な性格で人を殺戮することを好んだ。ある日、堂の下に断ち切られた腕があるのを発見し、これを嫌って野に持ち去らせたが、数日するとまたその腕が同じようにみえた。この月、
韋后が失脚し、使者が周仁軌を誅殺した。処刑人が刀をあげると、周仁軌は腕をあげて防いだため、腕が切り落とされて地に落ち、そこで理由がわかったのである。
睿宗は
韋玄貞・
韋洵の墳墓を暴き、民が宝玉を盗み取ってほど何もなくなってしまった。天宝九載(751)、再び詔して発掘し、長安県の尉の
薛栄先が行って見ると、墳墓の銘に記載された葬られた日月が、発掘された日月とまさに同じであって、陵(栄先陵)と発掘した尉の名も合致していたという。
王仁皎は、字は鳴鶴で、
玄宗の
廃后の父である。景龍年間(707-710)、将帥によって推挙され、甘泉府果毅を授けられ、左衛中郎将に遷った。
帝が即位すると、皇后の縁故によって、将作大匠に抜擢され、開府儀同三司に昇進し、祁国公に封ぜられ、食戸は三百となった。王仁皎は職を避けて業務を行わず、名誉から遠ざけて、奉養をあつくし、ただ媵や妾に財貨を残すだけであった。卒した時、年六十九歳で、太尉・益州大都督を追贈され、昭宣と諡された。官で葬儀を行い、柩を載せた葬列が出発すると、帝は
望春亭に御して葬列を見送った。
張説に詔して碑文をつくらせ、帝が石に題した。
子の
王守一は、
皇后と双子で、帝が即位以前からの常に友人で、後に詔によって
清陽公主を娶った。
太平公主の討伐に従って功績があり、尚乗奉御から殿中少監・晋国公に遷り、太子少保となって、父の爵位を襲封し、非常にあつい待遇を受けた。皇后が廃されると、柳州別駕に貶され、藍田県に到達したところで、死を賜った。王守一は貪欲かつ無思慮で、巨万の財産を蓄えたが、すべて官に没収された。
楊国忠は、
太真妃の従祖兄で、
張易之の縁戚の出である。飲酒・賭博を好み、しばしば人に借金をたのみ、行いには節操がなく、一族からまともな扱いをされなかった。三十歳のときに蜀軍に従い、陣営が優れていたから推薦されて転任しようとしている時に、節度使の
張宥が楊国忠の人となりを憎んで、笞打って屈辱をあわせたが、ついに優れた成績によって新都県の尉となった。官を辞職すると、ますます困窮したが、蜀の富豪の
鮮于仲通が非常に援助を行った。従父の
楊玄琰が蜀州で死ぬと、楊国忠はその家を見守り、そこで妹と密通した。これが所謂
虢国夫人である。その家の財貨を集め、成都の賭博場にやって来て、一日で使い果たしてしまったから、逃げ去った。しばらくして扶風県の尉に任命されたが、思い通りにならなかった。再び蜀に入って、剣南節度使の
章仇兼瓊が宰相の
李林甫と対立し、
楊氏が新たに寵愛を得たことを聞いて、結びついて後宮の助けを得たいと思い、鮮于仲通を長安に行かせようとしたが、鮮于仲通は辞退し、楊国忠と会わせると、体格は長身で、弁舌に秀でていたから、章仇兼瓊は喜び、上表して官に推薦し、長安への春の貢納を統率させた。出発しようとするとき、「郫県に一日分の食料がある。君がやってきたなら、取ってもよろしい」と言われたから、楊国忠がやってくると、そこには蜀の財貨百万があったから、大いに喜んだ。京師にやってくると、妹たちに面会し、贈り物をした。その時、虢国夫人は寡婦となったばかりで、楊国忠は多く贈り物を分けて、大っぴらに淫らなことをして止むことはなかった。楊氏は日々、章仇兼瓊のために褒め称え、楊国忠が博打を得意とすると申し上げたから、
玄宗は引見すると、金吾兵曹参軍・閑厩判官に抜擢した。章仇兼瓊は京師に入って戸部尚書兼御史大夫となり、楊国忠を用いた。楊国忠はしばらく供奉に入り、常に後になって出た。専ら帳簿を司り、計算は少したりとも間違いがなく、帝は喜んで、「度支郎の才能がある」と言い、監察御史に遷った。
李林甫は
韋堅らに対する獄をおこし、
太子に危害を加えようとしたが、自分が獄事で非難されることを恐れ、楊国忠が寵愛によっているから、捕縛に用いようと、これによって弾劾・審判させた。楊国忠はそこで法を援用して人を罪に陥れて誹謗し、連年にわたって逮捕し、事実を捏造して誅殺された者は百族以上となり、たびたび太子に危害を加えようとしたが、李林甫の意向に先んじて陥れたのは、すべて自分の心の中でもそう思っていたからであった。李林甫は権力を保持しようとし、密かに矛先を向けたが、そのため楊国忠はその悪事に乗じて、好き勝手にしてはばかることなかった。
虢国夫人が宮中に留まっていたから、
帝の好き嫌いとするところを、楊国忠は必ずその兆しを知り、帝は優れた人物だと思い、兼度支員外郎に抜擢した。遷ってからしばらくもしないうちに、十五もの使職を兼任したから、李林甫は始めて憎んだ。
天宝七載(748)、給事中・兼御史中丞、専判度支に抜擢された。ちょうどその時、三人の妹が国夫人に封ぜられ、兄の
楊銛が鴻臚卿に抜擢され、楊国忠とともに全員が門に儀礼用の鉾を並べるほどに高貴な身分となって、邸宅は驕りを極め、ますます都に広がった。当時、国内は豊穣をきわめ、州県の粟帛は巨万となっていたから、楊国忠はそこで上奏して、「昔は二十七年耕し、残る九年で食べたといいますが、今天下は太平で、在所から山積みになっている物を出し、携行食料に変え、京師を富ませてください」と言った。また全国の義倉および丁租・地課をすべて布帛に替え、これによって天子の禁蔵を満たした。翌年、
帝は百官に詔して倉庫の物を視察すると、積み上がる様子は丘や山のようであり、群臣に賜い物することは序列によった。楊国忠に紫衣・金魚を賜い、知太府卿事とした。
それより以前、
楊慎矜は
王鉷を引き入れて御史中丞としたが、その後関係が悪化した。王鉷は楊国忠を抱き入れて一緒に楊慎矜を弾劾し、罪は不道により誅殺に相当した。これより権力は内外を傾けた。
吉温は楊国忠のために謀って
李林甫の政務を奪おうとし、楊国忠はそこで京兆尹の
蕭炅・御史中丞の
宋渾を誣告・奏上して追放したが、二人とも李林甫と非常に親しい者たちであったものの、李林甫は救うことができず、遂に恨みを抱いた。王鉷の寵遇はあつく、権勢は楊国忠と並んだから、楊国忠は嫌い、そこで
邢縡の事件によせて、王鉷を拘束して誅殺し、自身を代わって京兆尹とし、ことごとく使職を兼任した。そこで支党を弾劾し、李林甫の引き合いで王鉷と密かに結託していると言い、その仲間を拘束し、しばしば上奏したから、
帝は始めて李林甫を嫌うようになり、疎んじて冷遇するようになった。
これより以前、南詔の人質であった
閤羅鳳が逃げ去ったから、
帝は討伐したいと思った。楊国忠は
鮮于仲通を推薦して蜀郡長史とし、兵六万を率いて討伐させた。瀘川で戦ったが、全軍が潰滅し、一人鮮于仲通が逃れただけであった。当時、楊国忠は兵部侍郎を兼任し、もとより鮮于仲通には恩義があったから、彼のためにその敗北を隠蔽し、改めて戦功があったと報告し、白衣領職とした。そこで自ら剣南節度使を兼任することを願い、詔して剣南節度・支度・営田副大使、知節度事を拝命した。にわかに本道兼山南西道採訪処置使を加えられ、幕府を開き、
竇華・
張漸・
宋昱・
鄭昂・
魏仲犀らを引き入れて自分の補佐とし、京師に留まった。帝は再び左蔵庫に行幸し、百官に賜い物をした。出納判官の魏仲犀が、「鳳が
通訓門に集まった」と報告し、門内には西左蔵庫があり、詔があって鳳皇門と改められ、魏仲犀は殿中侍御史となり、属吏は「鳳凰優」の曲をつくった。にわかに楊国忠は御史大夫を拝命し、そこで鮮于仲通を引き立てて京兆尹とし、自身は吏部を兼領した。
楊国忠は雲南で功績をあげられなかったことを恥じたが、
李林甫に指摘されると、自ら
帝に弁明した。その時麾下に、楊国忠がやってくると、辺境を抑えることができたと上奏され、これによって
お上の意向に適ったが、内実は建議の機会を塞ぐこととなったから、
李林甫はやはり楊国忠を派遣するよう奏上した。出発のための挨拶の際に、泣いて李林甫に中傷されたことを訴え、
妃もまたとりなしたから、そのため帝はますます楊国忠に親しみを覚え、しばらくしたら呼び戻すだろうと述べた。しかし楊国忠は出発し、びくびくして自らを安心させることができなかった。帝は
華清宮にいて、駅伝で楊国忠を追いかけて帰還させた。李林甫の病はすでに重病で、見舞いに行くと寝床におり、李林甫は、「死んだら、公が宰相となるだろう。後事は公に任せたぞ」と言ったが、楊国忠は偽りではないかと恐れ、答えることができず、汗が流れて顔をつたった。李林甫がやはり死ぬと、遂に右相・兼文部尚書・
集賢院大学士・監修国史・崇賢館大学士・
太清太微宮使を拝命したが、節度使・採訪等使・判度支は解任されなかった。楊国忠は思い通りとなると、そこで李林甫の悪事を糾弾して、その家を破滅させた。帝は功績があると思い、魏国公に封じたが、魏国を固辞して、衛国公に移封された。
楊国忠はすでに宰相となって任命権を得て、始めて
長名榜を廃止し、
銓選の日にただちに留任か「放(資格なし)」かを決定するよう建議した。故事では、毎年
南院に掲げて選式としていたが、選ばれた者は合格していたとしても、一文句たりとも定式の通りでなければ、たちまち任命されず、そのため十年たっても任官されなかった。楊国忠は慣例を廃し、賢者でなかったり不肖の者であったとしても、年功によって先に官に任命し、牒文に誤りがあっても再度合格としたから、衆議は集まって素晴らしいこととみなした。先天年間(712-713)以前、諸司官で政事を司る者は、昼時になると、本司に戻って政務を見ていたが、兵部・吏部の尚書・侍郎が分けて注擬(官僚人事を行うこと)を考課していた。開元年間(713-741)末、宰相の人数が減少し、任命された者はますます尊く、二度と本司で政務をとることはなくなった。吏部の
銓選は、昔は常に三たび不服を申し立てることができたが、その期間は春から夏までであった。しかし楊国忠は密かに吏に邸宅まで赴かせ、あらかじめその数を定めておき、百官を尚書省に集めて申し立てを行い、一日で終わらせ、これによって英明さを誇り、天下の耳目を驚かせた。これより資格は混乱し、再び秩序を取り戻すことはなかった。
虢国夫人は
宣陽坊の東に住んでいて、楊国忠の邸宅はその南にあり、役所や宮中から帰って来ると、虢国夫人の邸宅に赴き、郎官・御史で申し上げることがある者は皆従ってやって来た。同じ邸宅に住み、出発するときは並んで騎乗し、互いにふざけ合って笑い、のろのろと禽獣のようにしていたが、これを恥じる様子はなく、道行く者は驚いた。翌年の大選は、そのため邸宅で任命や異議申し立てが行われたが、帷の向こうで虢国夫人ら妹たちがこれを観ていたから、士で醜く足を引きずり背中が曲がった者がその名を呼ばれると、たちまち堂内で笑い声がおこり、声は外まで聞こえたから、士大夫はこれを恥じた。これより以前、役人がすでに官僚の資質を定め終わると、中書門下に送り、侍中・給事中が審査して、不可なることがあれば、却下とすることになっていた。楊国忠が左相の
陳希烈を呼び寄せて隅に座らせ、給事中はその側にあって、そこで注擬(官僚人事を行うこと)を考課したが、「もう門下には送った」と言っていた。陳希烈はおかしいと思ったが、あえて異を唱えなかった。侍郎の
韋見素・
張倚が本曹郎と一緒になって堂の中で書類を抱えて走っていると、楊国忠は妹たちに向かって、「紫の衣を着ているお二方は何をしているのかな」と言ったから、皆が大笑いした。
鮮于仲通が選された官吏の鄭怤に仄めかして、頌徳碑を尚書省の戸下に建てることを願い、鮮于仲通に詔があって頌をつくり、
帝は易数字をつくった。そのため黄金によってその場所に識した。
帝は毎年十月に
華清宮に行幸し、春に帰還していて、楊氏たちの湯沐館は宮の東垣にあり、連なって華麗であり、帝が臨幸されるときは、必ず五家に均等にされ、賞賜物は数えられず、賜い物を出されるときは「餞路」といい、返礼には「軟脚」と言った。あちこちからの贈り物に閹稚(幼年の宦官)・歌児・犬・馬・金・螺鈿があり、相継いでその門にやって来た。
楊国忠が御史から宰相になると、およそ四十以上の使職を兼任したが、度支・吏部の事で自身は多忙で、一字の署名も全て行うことができず、そのため役人は重要度をはかって、表立って賄賂を贈ることを憚ることなくなった。楊国忠の性格は軽薄かつ敏捷で、政務の裁決は度量が狭く、自信を持って疑わず、意気盛んで傲慢かつ固執し、官僚たちはあえて異論を述べようとせず、役人はことごとく責め立てては奪ったから互いに憎み合った。また口上手で、もっぱら
帝の嗜好にしたがい、全国の動向を顧みなかった。帝は常に辺境を意識しており、そのため自ら兵の兵糧を調べたが、帳簿を取り寄せるのに悪い役人に任せ、軍も探し求めるべきところを、その手になることを喜んだから、また顧みることができなかった。それより以前、
李林甫は帝に天下は無事であると偽り、巳刻に帰って休むことを願い、許された。文書は充満し、家に座して裁決した。裁決が終わると、役人に命じて起草文書を持てさせて左相の
陳希烈のところに赴かせて連署させ、左相はあえて詰め寄ることもなく、ただ恭しく署名するだけであった。楊国忠の時代になると、
韋見素が陳希烈に代わり、従うようすは以前の通りであった。ある年、大雨で作物が損なわれ、帝は心配したが、楊国忠はよい穀穂を選んで奉り、「雨は災いとはなっていません」と述べたが、扶風太守の
房琯が扶風郡の災害を上奏したから、楊国忠は怒り、御史を派遣して取り調べさせた。そのため後にあえて水害や旱魃を上聞する者はいなくなり、全員が前もって楊国忠の意向を窺ってから申し上げるようになった。子の
楊暄は明経科に貢挙したが、合格せず、礼部侍郎の
達奚珣が子の
達奚撫を派遣して楊国忠に報告させると、楊国忠はちょうど参内するところで達奚撫を見て喜んだ。あとで楊暄が落第したことを聞いて、「うちの子は富貴ではないというのか。どうして一人の鼠野郎のために売られなければならんのか」と詰った。達奚珣は大いに驚き、そこで楊暄を優秀な成績で及第させた。にわかに達奚珣と同列となったにも関わらず、それでも官が昇進しないことを叱られた。
楊国忠は宰相であったとはいえ、常に剣南召募使を兼任し、瀘南県を守らせたが、糧道は険難で、推挙した者で帰還した者はいなかった。もとは勲功のある家は徴兵を免除されていたが、戦功をたのんだのが理由であった。楊国忠は徴兵すべき者をまず勲功のある家から取り上げたさせたから、そのため兵士に戦意がなかった。だいたい募法では、戦いたいと願う者を募兵していた。楊国忠は毎年
宋昱・
鄭昂・
韋儇を派遣し、御史に催促させたが、郡県の吏はどうしようもなくなって応じることができず、そのため偽って食料を配ると言って貧困者を呼び、密かに縛って部屋の中に入れ、拘束具を着せ、械で屯営に送り、死んだ者は役人を送って代わりとしたから、人々は反乱をおこそうとした。ついで剣南留後の
李宓を派遣して兵十万以上を率いて
閤羅鳳を攻撃させるも、西洱河で敗死してしまったから、楊国忠は偽って戦勝報告を書いて上聞した。自ら再び軍をおこし、中国の勇兵二十万を注ぎ込んでおきながら、本当に死ぬべき者は派遣されなかったから、天下はこれを恨んだ。
安禄山には寵遇があり、大軍を統率して辺境にあり、驕り高ぶって法を守らなかったが、
帝が擁護したから、部下はあえて申し上げる者はいなかった。楊国忠は安禄山が自分の下につくことがないことを知っていたから、また宮廷内の応援をたのんで、一人安禄山が謀反を企んでいると告発したが、帝は互いに嫉妬しあっていると疑っていたから、告発を信じなかった。安禄山は謀反を企んでから長らくたっていたとはいえ、帝に厚遇されていたから、自重し、帝が晏駕(崩御)した日を窺って挙兵しようとした。帝が楊国忠を寵遇しているのを見て、自分に利さないことを非常に恐れ、そのため謀反の決行日を急いだ。にわかに安禄山に尚書右僕射を授けたが、帝は楊国忠が不快となるのを恐れて、そのため司空を拝命した。安禄山は幽州に戻ると、楊国忠が自分を陥れようとしているのを悟り、謀反を遂に決心した。楊国忠は客人の
何盈・
蹇昂に安禄山が謀反を企てているとの告発を行わせ、京兆尹の
李峴を仄めかして安禄山の邸宅を包囲させ、安禄山と親しくしている李超・
安岱・
李方来・王岷を殺し、その支党の
吉温を合浦に左遷した。安禄山は上書して自ら弁明し、そして楊国忠の大罪二十箇条を掲げたから、帝が長安に戻って来ると李峴をやり過ぎだとし、零陵太守に貶し、これによって安禄山の思いを慰めた。楊国忠は一人謀して落ち着きがなく、安禄山が決起したところで心配するほどでもないと言い、そこで安禄山を激怒させれば必ず背くと思い、これによって帝の信頼を取り上げようとしたから、帝は遂に悟らなかった。そこで建言して、「安禄山を平章事とし、追って宰相として長安に入らせ、
賈循を范陽節度使とし、
呂知誨を平盧節度使とし、
楊光翽を河東節度使としてください」と述べ、詔の草案ができあがると、帝は謁者の
輔璆琳に安禄山の様子を窺わせたが、まだ帰還しなかったから、帝は側にやってくるよう詔を出した。しかし輔璆琳が賄賂を受け取って、頑なに謀反しないと言い張っていた。帝は楊国忠に、「安禄山に二心はない。前の詔は焼いてしまいなさい」と言ったが、安禄山が叛き、楊国忠を誅殺するのを反乱の名目とし、帝は自ら軍を率いて東に向かおうと思い、
皇太子に監国させ、側近に「私は一つの事に専念したい」と言った。楊国忠は帝が
太子に譲位しようとしていると推測し、帰って妹たちに「太子が監国となれば、我が一族が誅殺される」と言い、集まって泣き、宮中に入って
楊貴妃に訴え、楊貴妃は死の覚悟によって帝を迎えたから、遂に沙汰止みとなった。安禄山はすでに范陽を出発し、嘆息して、「楊国忠の首が来るのがどうして遅いのか」と言った。
哥舒翰が潼関を守備し、兵を留めて険阻の地を守っていたが、楊国忠は自分に反しようとしていると聞き、哥舒翰を疑い、そこで出撃するよう督戦したから、哥舒翰はやむを得ず潼関から出撃したが、遂に大敗し、賊に降伏した。報告を聞いて、この日、
帝は
南内より
未央宮に出発し、楊国忠は百官に見え、嗚咽して自分ではどうすることもできなかった。監察御史の
高適が百官の子弟および募集した豪傑十万を率いて防衛することを願ったが、衆議は不可とした。それより以前、楊国忠は反乱が起こったことを聞いて、自ら身をもって剣南の軍帥となり、あらかじめ腹心を梁州・益州の間に置き、自分のために計画を完うした。ここに至って、帝は宰相を呼び寄せて計略を聞くと、楊国忠は「蜀に行幸するのがよいでしょう」と言い、帝はそうだと思った。翌日の夜明け、帝は
延秋門を出たが、群臣は知らず、なおも朝廷に参内しようすると、ただ三衛が騎乗して警備しているだけで、それでもなお漏刻の音が聞こえた。楊国忠は
韋見素・
高力士および
皇太子・諸王の数百人とともに帝を守った。右龍武大将軍の
陳玄礼は楊国忠を殺そうとしたが、うまくいかなかった。馬嵬に進むと、将兵は疲れ、食料は乏しく、陳玄礼は乱となるのを恐れ、諸将を呼び寄せて、「今天子は揺れ動き、社稷は守られず、行ける人の胆や脳が地に塗られるのは、どうして楊国忠のせいではないといえようか。楊国忠を誅殺して天下に謝したい。どうか」と聞くと、軍は「そうしたいとずっと思っていた。この事を実行すれば我が身は死ぬだろうが、それでも強く願うところだ」と答えた。ちょうどその時、吐蕃の使者が楊国忠に頼み事をしていたが、軍は大声で、「楊国忠は吐蕃と謀反しているぞ」と言い、護衛の騎兵と合戦となったが、楊国忠は突出してしまい、ある者に額を射抜かれて殺された。争ってその肉を喰らったから尽き果ててしまい、梟首して晒した。帝は驚いて「楊国忠は遂に背いたのか」と言い、その時に吐蕃の使者もまた皆殺しにされた。御史大夫の
魏方進は軍を責めて「どうして宰相を殺したのか」と言ったから、軍は怒り、また殺された。
四子があり、
楊暄・
楊昢・
楊暁・
楊晞である。楊暄は太常卿・戸部侍郎となり、乱を聞いて、馬を降りて転倒し、弩を射られ、身に百本の矢が貫き、そこで倒された。楊昢は
万春公主を娶り、鴻臚卿となったが、賊に捕らえられて殺された。楊暁は漢中に逃げたが、漢中王
李瑀に杖殺された。楊晞および楊国忠の妻の
裴柔は一緒に陳倉に逃げたが、追跡してきた兵に斬られた。裴柔は、もとは蜀の舞女であり、一緒の穴に埋められた。
その支党で翰林学士の
張漸・
竇華、中書舎人の
宋昱、吏部郎中の
鄭昂は、ともに山谷に逃げた。彼らは民間と財力を争い、その富は楊国忠に匹敵した。宋昱はその財産を惜しんで、密かに都に入ったが、乱兵に殺された。他は連座して誅殺された。
楊国忠の本名は楊釗で、図讖に「卯金刀」とあったから、御史中丞の時に、
帝が今の名に改めた。
李翛は、字も翛で、寒門卑賤より身をおこし、
荘憲太后の妹婿であったため昇進することができ、坊州・絳州の二州の刺史を歴任した。他に才学がなかったが、政務を行えば大体穏当であった。性格は細やかかつ巧みで、馬や車を飾り立て、宦官と結びつき、名誉を求めた。
憲宗は才能があると思って、司農卿に任じ、京兆尹に昇進し、専ら賦税を性急にとりたて、これによって恩寵を固め、しばしば近臣を謗って、当時の人に恐れられた。
太后が崩ずると、李翛に詔して橋道置頓使とし、官費を惜しんで、物を削減して喜んだ。葬列が灞橋に到着すると、葬列に従った官の多くは食事を得られなかった。改めて渭城の門を造ることが議論されたが、銭三万が経費としてかかることがわかり、李翛は無駄であると思ったから、許可せず、軌道を深く掘らせ、柱は危険であったが支えられておらず、葬列が通過しようとしている時に門が倒壊し、轀輬(霊柩車)への直撃はかろうじて免れ、門を撤去して進むことができた。李翛は妄りに車軸が折れたと奏じたから、山陵使の
李逢吉は李翛がお上を騙していると弾劾し、免官するよう願った。
帝は兵を起こそうとしており、李翛がしばしば献上していたから、罪とはしないこととし、わずかに詔して俸給を奪うだけであったが、李逢吉が厳しく述べ立てたから、そこで銀青一階を削った。翌日、加えて黄金を賜った。帝は浙西が豊かであるから、今まで実用化されてこなかった収益を納めたいと思い、そこで李翛を観察使とした。病にかかって京師に戻った。元和十四年(819)卒したが、士で互いに祝いあった者がいた。
鄭光は、
孝明皇太后の弟である。会昌年間(841-846)末、夢で鄭光は大きな車を御して日月を載せて街中を行き、光は輝いて広く連なって上も下もあちこちを照らしており、目覚めてこのことを占ってみた。占い師は「あなたは突然高貴となるでしょう」と言った。一か月もしないうちに、
宣宗が即位し、鄭光は平民の列から身をおこし、諸衛将軍を拝命し、累進して平盧軍節度使に遷り、さらに河中節度使・鳳翔節度使に遷り、また鄠県・雲陽県の二県の良田を賜った。大中四年(850)、詔してその賦税を免除したが、
宰相が「国家は賦税を常としており、困窮者や貧民であっても免除することはありません。どうして外戚だからといって法を廃するのでしょうか」と申し上げたから、
帝は悟って、格を出して前の詔を訂正した。にわかにその妾を封じて夫人としたが、鄭光は帝の思いがわかって、詔を返してあえて拝命しなかったから、帝はお褒めの言葉を賜った。大中七年(853)に来朝し、
延英殿で対面し、卑近のことを奏上したから、帝は失望して喜ばず、京師に留めて右羽林統軍兼太子太保とした。
太后がその家が窮乏していると言ったから、帝は厚く金や絹を賜ったが、ついに再び藩鎮を委ねることはなかった。卒すると、司徒を追贈し、詔して三日廃朝とし、群臣は慰めの言葉を奉った。御史大夫の
李景譲が「礼では、外祖父母・舅の服は小功(織り目の細かな麻布の喪服)でで五か月、伯叔父もしくは兄弟は斬衰(縁を縫っていない最も重い三年の時の喪服)で三年とするのは、外の血筋は疎遠でも身内は密だからです。王者は外戚に強されるべきではありません。王・公主の喪を調べてみますに三日を超えることはありませんから、鄭光の場合は少し降されるべきでしょう」と述べたから、詔して二日にとどめた。
最終更新:2025年01月06日 23:55