楊玉環
719-756
盛唐の妃嬪。
玄宗の妃。蒲州・永楽(山東省芮城県)の人。幼名玉環。父
楊玄琰が蜀州(四川省崇慶県)の司戸であったとき生まれた。早く父に死別して叔父の河南府士曹参軍楊玄墩の長女として、735年玄宗の皇子寿王
李瑁の妃となった。玄宗の寵妃である
武恵妃の死後、その代わりとして、740年寿王邸より出て女冠となり、太真の名を与えられた。ついで744(天宝3)年、宮中に召され、翌年には貴妃の称号を得た。歌と舞とに巧みなうえ聡明で、玄宗の意を迎えたからだという。これより他の女官は帝のかたわらから退けられ、娘子とよばれ、皇后に等しい待遇を受け、一族みな高官・高爵を得た。なかでも3人の姉は
韓国夫人・
虢国夫人・
秦国夫人の称号を受け、族兄の楊釗は
楊国忠の名を賜わり、財政方面の職につけられた。皇族さえもこれをはばかり、中央地方の官吏はみな貴妃の意を迎えるため奔走した。毎年冬にはかならず玄宗に侍して
華清宮の温泉におもむいたほか、帝の遊幸には乗馬してしたがい、その馬の手綱は宦官の
高力士がとった。楊国忠は剣南節度使に任じられたあと、752年
李林甫が死ぬと、代わって宰相に任ぜられた。これよりさき、楊氏一族は
安禄山と、帝の命により親戚の約をしていたが、こののち不和となり、755年安禄山の反乱には、楊氏一族を殺すことが理由にあげられた。安禄山の軍が長安に迫り、玄宗が
太子に譲位しようとすると、貴妃は楊氏一族の意にしたがって、死を請うてこれを阻止した。こうして長安より四川への玄宗の逃亡にしたがったが、馬嵬坡でまず楊国忠が殺された。そのあと軍隊の騒ぎはまだおさまらず、玄宗が高力士をして理由を問わせると、「禍の本はまだあり」という答えで、玄宗はやむを得ず、楊貴妃を縊死させて、進発した。貴妃は時に38才であった。長安を奪還したあと、玄宗は馬嵬坡に埋められた死体を棺に入れ、改葬させるとき、取り出した香嚢を見て涙を流し、貴妃の肖像を描かして別殿に掛け、朝夕そこに行って泣いた。楊貴妃の美麗高慢の様は、同時代の
李白や
杜甫の詩にもうたわれているが、
白居易の「長恨歌」は、玄宗の寵愛をしるし、民衆に愛好された。小説『楊太真外伝』のほか、『開元天宝遺事』『明皇雑録』等の随筆、『雍熙楽府』中の諸曲、戯曲「梧桐雨」「
長生殿」などは、白居易にならって作られた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻五十一 列伝第一 后妃上 玄宗楊貴妃
『新唐書』
巻七十六 列伝第一 后妃上 玄宗貴妃楊氏
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2024年12月22日 00:23