李嶠 りきょう
645-714
初唐の宮廷詩人・宰相(在任698-700、703-704、706-710)。趙州・賛皇の人。字は巨山。隋の内史侍郎李元操の従曾孫。664(麟徳元)年、20才で進士に及第。監察御史給事中に累官ののち、
武則天に重用されて同鳳閣鷲台平章事となったが、
玄宗の初め、罪によって廬州別駕に左遷されて没した。初めは
王勃・
楊炯らと交わり、中ころは
蘇味道・
崔融・
杜審言と名をひとしくして「文章の四友」と並称された。その間、武后の命を受けて『三教珠英』編集の総裁をつとめ、
中宗の景龍年間(707-10)年間には修文館大学士となり、文壇の元老として尊ばれた。その詩の大部分は、応制(天子の命により詩文を作ること)もしくは詠物詩であり、なかでも『李嶠雑詠』とよばれる120首の詠物詩が名高いが、中国では早くからほろんで日本に伝わった。嵯峨天皇にこれを書かれた宸筆がある。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2024年12月08日 22:47