×××××&×××××――「あ」から始まる愛コトバ ◆xR8DbSLW.w



「……」
「……」

沈黙。
勿論、喋る必要もなければ、車を出さない理由もない。
されど双識は車を動かす気配を見せない(まあ七花にはこの鉄の機械がどのように動くか存じてもないが)のを、何と思ったか、問うた。

「……どうしたんだ?」
「ああいや、もしかしたら安心院ちゃんの美しい長髪にモフモフ出来るかと思っていたのだがね。
 ああ見えて意外と彼女は恥ずかしがり屋かな。
 いやあ、彼女の進言通りきみとタッグを組んだというのにご褒美一つないなんてがっかりだよ」

それは半分ぐらい彼の人となりを加味すれば本当なのだろうが、もう半分は違う。
――果たしてこのままでいいのだろうか。
心の中に、ふとした疑問が浮かんでいた。当然の疑問とも言えるが。
――あのまま安心院なじみの言うことに従順してしまっていいのか。
誰かの思い通りになる。という経験自体はないわけではない。竹取山の件なんかがいい例だ。
しかし誰かの計画通りに動くとして、零崎として、復讐行為を達成することが出来るのか。

まあ。
そんな感じにシリアスに考え巡らせていたのだが、とりあえず次の一言で全て吹き飛んだ。

「……髪に埋まる程度がご褒美なのか?」

彼としては昔を懐かしむわけでもなく、ただ昔にあった事実を言ったまでなのだが、
どうだろう、隣に佇む彼が途端こちらを凝視したのは何故だろう。
半端じゃないほどの羨望と嫉妬を含んだその視線の意味を、彼は計りかねる。

「……程度? それが程度だって?」

瞠った目が不気味だ。
確かに今まで言うところの変態、動物学的性的両方の変態を見てきた彼であったが、しかしここまで強烈な変態は初めてかもしれない。
彼は刀。
人間に対しての分別もまだ確かなものにはなっていないが、将来彼はこの男の事を忘れることはないだろう。
いや、忘れるかもしれないが。

「おいおいおいおい! 冗談はよしたまえ。強がりはいけないね。
 さあ、私が納得するようにその出来事について語りたまえ! 遠慮はいらない!」
「え……あ、ああ。別にいいが」

そう言って、如月よりはじめた『とがめと言う人間を認識するための鍛錬』についてよくわからないまま語る。
美しき白髪を首に巻いて噛むのは駄目だが舐めたりもして。
思い返せば大分前になる話を、良く覚えていたな、と珍しく自らの記憶力を褒める。
尤もそれだけ彼にとっては大変な修行だったということかもしれないが。

「……まあ、そんな感じだ」

褒めつつも軽く大雑把に説明を加えた後。
説明を唆した当の本人はと言うと、両手で頭を抱え、何だか嫉妬の念に駆られていた。

「……そんな……まさか……世の中そんなうまい話が……」

ぶつぶつと零す。
妹を欲す(とはいいつつ実はいるらしいが)双識にとっては中々に信じがたい話である。
しかもその姿なりが、蝙蝠の変身していたあの姿だという――これは興奮するなと言う方が、男性として土台無理な相談なのでは。
この時の双識は割合真剣にそう感じていた。

「……でももう、関係ないよ。とがめは死んだんだから」

一人盛り上がる中。
七花は冷水でもかけるかのようにぶっきらぼうに言い放つ。
効き目はそれなりにあったのか、これを境目に双識は静かになる。

「……そうだったね」

七花は双識の言葉が濁った事に対して多少気にかかったが、まあいい、と切り捨てる。
僅かな沈黙が車内を支配し、僅かな逡巡の後双識は口を開いた。

「人が死ぬときには――何らかの『悪』、もしくは類するものが必然だと、私はそのように思うんだ」

彼の弟曰く。
彼はこの言葉を口癖のように唱えるという。
そしてこの場、軽トラックの車内で長身な男二人が肩を並べるというなかなかシュールな状態の中、彼は隣の男に唱えた。
状況的な関連も今回あまりなかったが、会話に詰まったからには何か会話を切りださなければ。
別段会話をしなきゃいけないわけでもない。しかし男二人が肩を並べて静かにドライブと洒落こむのはあまりにわびしい。

「へえ、どうだっていいが」

ボサボサ髪の男は、投げ捨てるように返す。
双識の計らいも、七花には通じなかったらしい。
言った方とて、真面目な返答は期待していなかったのか、気にせず話を進める。

「どうだい、きみの中でとがめさんをはじめ、先ほど映像で見た『死』は『悪』いものだったかい?」

先ほどの映像、とは玖渚友が発信した参加者の死に様を撮った動画のことだ。
その説明の時点で、およそ露『悪』的で、『悪』趣味極まる「最『悪』」と断言できるであろう問いに対して

「別に。殺し合うんだから、当然とまでは言わずともしょうがないんじゃないか」
「そうか、きみはそう言う人間か」

興味のなさそうに答えるのを見て、何回か頷いた。
分かりきっていたことだが、七花は『普通』じゃない。
拾った時はただの間抜けだと感じたがとんでもない。
『当たり前』じゃなく、『幸せ』でない、はみ出し者。
そしてそんな自分を『当然』としている――まるで弟のような、そんな、人間。或いは、人間から外れた、人外。

「まあ――いい。ところできみの名は鑢七花でよかったかな」
「ああ、言ってなかったか?」
「安心院ちゃんが言っていたきりできみから直接聞いたことはなかったな。私は零崎双識だ。以後お見知りおきを」
「そうか、覚えれるよう尽力はするが」
「しかし七花、か。……ふーむ、ぱっと思い浮かぶ由来が寡聞にして存じ上げないが、立派な由来をもっているのだろうな」
「名前なんてなんだっていいだろ」
「いやいや。名前とは親から授かる大切なものだ。大事になさい。親は子供を愛しているのだから」
「ふーん」

それまでの興味なさげなものとは、僅かに声の調子が変わる。
なんというか、含みを感じる声だ。
家族内で諸事情が生じるのはしょうがないものだとして、こんな場所。
――殺し合いに参加させられて、なおも家族を恋しく思わないどころか、含みを見せるとならば下手につっつつかない方がいいだろう。
そこまでいくと、他者が何か言ったところで、逆鱗に触れるだろうことは容易に想像ついた。
現状協調的な姿勢は見せている人間の気を、わざわざ『悪』くすることもないだろう。しかもこいつは――かなり強い。
プレイヤーとしての直感が、告げている。
最強を目指す双識は人一倍その感覚が優れているからというのも勿論あるだろう。

「……あー」

と。
言葉を返さなかったのを自分の言葉不足としたのか、相槌から言葉を継ぐ。

「そりゃあ、ちゃんと育ててはくれたけどよ。
 あいつは少なくとも姉ちゃんを愛してなかったんだ。だからおれはそんなの言われたって分かんねえよ」
「子供を愛さない親――か。それは、正真正銘『不合格』だね」
「……?」
「ああいや、独り言だと思ってくれて構わないよ」

大袈裟に肩をすくめながら、彼は踏もうとしたアクセルを踏まず。
身体を前に向けたままに、七花に問うた。

「それで、きみは、親をどうしたのかな」
「殺したが、なんだ」

あまりの即答。
応えるのに迷いなど一欠片も匂わせない。
事実を伝えることは、決して間違っているとは言わないがしかしこの一言は――。

「……」
「……」

再度沈黙。
この二人――とにかく肌が合わないのだろう。
さもありなん、本来であれば仲間に慣れるような間柄ではなかった。
一つの異分子が介入さえしなければ、恐らくは自然と戦闘へと展化していただろう。
とある狐面はこう唱える。時間収斂(バックノズル)と。
過程はどうあれ、最終的には全てが同じ結末に収束していく理論だ。

「なら悪いが、即刻車から降りるか、私に殺されるか。――好きな方を選んだほうがいい」

この場合。
その理論が成立したと言っても過言ではないだろう。
結果的に、間もない間で二人の間に亀裂が生じた。致命的な穴である。
七花は不思議そうに首を傾げるも、双識の態度は一向に変わらない。

「私は家族と言うのを何よりも重んじていてね。家族を殺すような人間と行動するってのはどうにも気が進まない。
 ……どころか腸煮え繰り返って思わずバッサリと殺してしまいそうだ」

言われたならば七花とて付き合う理由もないだろう。
情報交換も既に済んでいるし、姿なりの印象で命令を素直に聞いたはいいが、第一安心院なじみはとがめではない。
彼の所有者ではないのだ。
あれこれ指図される義理も、元々ないのである。

「あ……そっ。なら降りてくよ。別にあの――なんだったかに従う必要なんてないしな」

言うが早いや、ドアを蹴破り、のろりと外へ出る。
そこに躊躇いはない。逆に彼に躊躇いを持てというのが酷な話なのかもしれないが。
と、そこで。

「ああ、そうだ」

そして、彼は何かを思い出したように振り返ると――拳を溜め。
車のアクセルが踏まれるよりも前に、拳を放つ。
それは、虚刀流四の奥義「柳緑花紅」。鎧や防具を通じてでさえ攻撃を届かす奥義の一つ。
ならば、車を――同じ金属の壁と見做せば車越しに攻撃するのもわけはない。
斬撃は車を無視し、運転席へと流れ着く。

「どうせ生きてるんだろうが、鳳凰との同盟も守らなきゃいけない。恨みを売った覚えもないが死んでもらう」
「……お前」

切り裂かれた男は、しかしそれでも生きている。
血飛沫を撒き散らしながら、ゆったりと車から降りて体勢を整えた。
車のガラス越しに彼の姿が見える。その目は、まるで命がないかのように――金属の様に冷たく、刃の様に鋭かった。
安心院なじみの目的は今でも計りかねないが、それでも彼との交渉の決裂がものの十分も満たない間に終わりを迎えたことは、
なるほど、『物語』を無理矢理にでも整理する、とはその通り。
どうあってもきっと彼と彼は相容れなかったのだろう。
だからこそ、鎖でしならせた竹が僅かな衝撃で元に戻ってしまうように、わずかな出来事で安心院の行為は無駄と化すに至ったのだ。
尤も、この結末さえも安心院なじみの想定の範囲内だったとしたら、ゾッとする話である。

「お前は何を目的としている……」
「さあな。おれは好きなように生きて朽ちるだけさ」
「そうか……」

なら――と。
ディバックから七七七(アンラッキーセブン)を取り出す。
つまりは戦闘態勢。
まもなく、『虚刀流』と『二十人目の地獄』の対決が、幕をあげようとしている。
安心院なじみの手配とはまったく異なる現実へと、姿を変えようとしていた。

「きみはいずれ家族の敵となるだろう。――だから手間のかかる弟のためにもこの長兄が一肌脱ごうじゃないか」

しゃきん、とシュレッダー鋏を鳴らす。
もう片方の手で眼鏡の位置を正しながら、いつものように宣戦布告。
これが零崎だと言わんばかりに。
さあ――――

「――それでは零崎を始めよう」

うふふ、と車を飛び越し、上空から鋏を突き出す。狙いは、喉元。
流れはまさしく一流のそれ。どこにも無駄のない華麗な動きは、零崎三天王の名に相応しい。
零崎きっての切り込み隊長の一撃に対し、彼は――

「……ただしその頃にはあんたは八つ裂きになっているだろうけどな」

決め台詞を気だるそうに呟いて、鋭き一撃をいなしながら、彼は『刀』で迎えうつ。


「虚刀流――『雛罌粟』から『珍丁花』まで、打撃技混成接続」


お決まりの様に。
そして、宣言通り、相手は八つ裂きと化した。



 ◆◇◆◇



零崎双識は敗走していた。
戦闘を仕掛けたはいいが、思わぬほど手痛いしっぺ返しを食らっていた。
全身は切り傷だらけで、『普通』の象徴であった特製スーツから着替え、
これまで一緒に戦った箱庭学園のジャージも無残な姿に先ほどまでなっていた。
とはいっても、替えは(何故だかたくさん)用意しているので、見た目に困ることこそなかったが――。

敗因としてはいくつか挙げられる。
一つに、虚刀流相手に曲がりなりにも『刃物』で立ち向かったことだろう。
二つに、ただでさえ『自殺志願』の時点で弱体化するというのに、より扱いに難がある『七七七』で立ち向かったこと。
三つに、悪刀『鐚』の効用を過信していたこと――よもや相手が既にその刀を完膚までなきまでに叩き折った相手とも知らず。
勿論のこと油断などせず全力で挑んでいったが、幾らか分が悪かったようである。
まだしも徒手空拳で挑んだ方がよかったのかもしれないが、しかしそれも後の祭り。

「……ふむ」

とはいいつつ。
結果彼はまだ生きている。
殺しきらなかった――いや、七花からしてみれば殺せなかったというのが適切だろう。

彼との戦闘の締めは、ずばり手榴弾。
彼は手持ちの手榴弾を相手に向かい投げた。
爆発、そして爆風を致命傷になるほど喰らったわけではなさそうだが、目晦まし程度にはなる。
曰く『不愉快爆弾』と称されるように、邪魔たらしい爆風であり、しかもその熱風も並々ならぬ殺傷力を秘めている。
その隙を狙って、逃げ出した。
軽トラックも惜しいが、つべこべ言ってはいられない。
それこそ悪刀『鐚』があるのだから体力に困ることはなかろうし。

ざっと数えて二百回ほど死んだ後、彼はようやく殺せないことを理解した。
殺すには状況が悪すぎた。
こいつを殺すには、もっと、もっと、軋識の『愚神礼賛(シームレスバイアス)』のようなより暴力的な手段か、
或いは呪い名一同や曲識の『音』のような近接戦をまったくと言っていいほど行わなくてよい戦法が必要だ。
奇しくも双識にはそのような技能などなく、零崎三天王の中では一番組み合わせの悪い相手だったと言えよう。

名誉ある戦略的撤退とはいえ、この敗走は本来あってはならない。
彼はきっと、人識であろうとも容赦なくその『刃』を剥けるだろう。
だが人識は――ナイフを専門とする人識ではきっと、いや確実に分が悪い。
それでも彼にはそうするしか他なかった。
彼が意識的にか無意識的にか、保持している『敵前逃亡をしない』という『誇り』をかなぐり捨てるまでに、その強さは――随一だった。
恐怖の度合いで言ったら、人類最強の彼女とも引けを取らないかもしれない。
だが彼は、『まだ』死ぬわけにはいかない。現状、死んだら彼の代わりは存在しえないのだから。
人識はそんな奴ではないし、伊織に至っては彼からしては、面識さえもない。――故に死ぬわけにはいかない。

「……まったく、あの赤い化物といい、七花くんといい――手間がかかる」

ぼやくは聞いている者は誰もいない。
誰かに聞いてほしくて彼もぼやいたわけではないのだが。

と。
歩を緩める。
というより、止まってしまったという方が適切だ。
歩みが止まって、思考が止まった。

「腐っ……!?」

前方一帯が、ぐじゅりと腐敗していた。
丁度今双識がいる辺りを境目にして、明らかに景色が違う。
街中がさながらゾンビ映画の様に退廃し、見るも無残に変わり果てている。

そしてここで一番異端なのは、『そのこと』自体では、ない。
無論のこと、この光景を単体として見せられても同じように驚愕の念に駆られるだろうが、だがしかし。
この腐敗的にして退廃的景色のなかに、ぽつんと一人――佇んでいるのは気味が悪い。


「……見ぃつぅけたぁ……」


その顔は、口が半分裂け、左目が辺りの肉諸共喪失している。
この光景をゾンビ映画と称したが――どうだろう、ホラー映画でも通用するな。
双識はふと、そんなことに思いを巡らせた。


 ◆◇◆◇


「愛を忘れてはならない、と私は思う」

双識は目の前の妖怪のような少女に説いた。
大袈裟に手振り羽振り加えて心底楽しそうに、少女・江迎に接近する。
江迎は驚愕の表情を浮かべて、臨戦態勢をとった。
針金細工のような男が場にそぐわない笑顔で接近してきたら女性としては誰だって警戒するだろうが、
この場合、江迎の警戒の意味は少し事情が違う。

「生きている限り人間は誰かを愛する。私は生きることは愛することだと考えているのだよ。
 その辺りきみはどうだろう。まだまだ未熟な可愛い弟なんかには否定されてしまうそうだけどね」

愛情のこもったその瞳が江迎にとって――拒絶の対象だった。
『愛』と無縁の彼女にとって、
そして信頼できると思った球磨川にさえ裏切られた彼女にとって、有体に言えば嫉妬の対象である。
めらり、と。
燃えるような、やきもち。
ぐじゅり、と。
心が腐っていくような――嫉妬。
負の感情がふつふつと煮えたぎり、燃えあがる。

「愛なくしては人間は語れない。うふふ、そうだね。
 きみは『週刊少年ジャンプ』を知ってるかな。あれが掲げるのは『友情・努力・勝利』の三本柱だ。
 そしてその三本とも――愛を起源に、愛を養分として少しずつ進歩していく」

双識は茜色の空をバックに悠長に歩く。
七七七は先の虚刀流との一戦において損失してしまったが、確かに彼は武器となりうるものを所有している。
だが、逆に言うなれば、それは『ただ武器を持っているだけ』という事実に過ぎない。
この異様な――目の前に映る下半分が腐敗物である光景を前に、
余裕綽々と構えていられるほど、彼はそれらしい凶器を持ち合わせていない。

「いやなに、安心したまえ。私は信頼と言う言葉の美しさをつい先ほど思い知ってね。
 如何にしてこの美しさを伝えようか、悩んで四苦八苦しているのさ」

ふむ、と零す。
構えている彼女――臨戦態勢、といっても肉弾戦も得意でない江迎にとってはただの心の準備の問題だが。
まあそれはさておき、そんな彼女を頭から爪の先まで凝視して、観察して、診察する。

江迎からしたら立場がない。
今更――いや最初から不思議としていたが、これほどまでに時間が経過して、改めて疑問へ昇華する。
何故こいつは、零崎双識は、腐りきらない!
そんな江迎の戸惑いの瞳を意に介さず、むしろ相反するように目を輝かせ――。

「さあ! ポツンと突っ立っているきみ! 自己紹介をしあおうじゃないか!
 私と愛をはぐくみあい、今生きていることを、主催陣どもに見せつけようじゃないか!」

江迎の警戒を無為に返すかのように、
何時の間にやら零崎双識は、江迎の間合いへと這入り込んでいる!
「――――っ!! ――『荒廃した』<ラフライフ――!>」

江迎はそれを排すように、わずかに遅れて過負荷の少女は意識を高め、
己の周囲にそれまで自制していた腐のテリトリーを展開し、『退化』させた。
つまり、ツナギと対峙した時と同レベルの負/腐がそこに顕現している。

「『過腐花』<ラフレシア>――!」

だが。

「ラフレシアか――。ふむ、ラフレシアと愛は少しばかり結びつかないが。
 この世で一番大きい花と言う。それほどまでに成長できる寵愛を、きっとまわりの自然から受けていたんだろう。
 成程、きみの観察眼は中々どうして侮れない。
 私も何度かラフレシアは拝見させてもらっているのだが、若い者の発想は捨てたものじゃない」

だが。
この男はどうしたことか。
まるで腐りきる気配が窺えない。
厳密に言うと、身体の表面はさながら石鹸で洗われたようにぬめりがある。
つまり、身体の表面にはしっかりと江迎の手から空気を媒介に『感染』して、腐ってはいるのだろう。
腐らせることは可能であれ、『感染』が身体の底にまで到達するに至っていないのだ。
『「魔法」使い』をも腐らせたその『過負荷』は確かなもののはずなのに!

「うふふ、しかしきみみたいな女の子から例えラフレシアであろうともお花を頂けるとは嬉しい限りだ。
 ラフレシアの花言葉は確か『夢現』だったかな……いや、ラフレシアは本来贈り物としては不適切だから決まっていなかったかな。
 ならばこの零崎双識。貰ったラフレシアから、きみからの気持ちをくみ取るのに努めるのも吝かじゃない!」

彼女、江迎怒江には知る由もない話だが、双識に差し込まれたくない――否、刀の名は悪刀『鐚』。
活性力に主眼を置いている四季崎記紀が作った完成形変態刀の一振り。
曰く十二本の中で最も凶悪とされるその刀は、刺した者を『活性化』させる。
効用として主に身体能力と治癒能力の向上。言い換えるならば、無理にでも刺した、差したものを生かし続けてしまう、まさに悪の刀!
この刀を差し込んでいる限り、双識の体は常に万全以上の身体に仕立て上げている!
ならば鑢七実の病魔をも抑え込んだように『感染』を打ち消したとておかしい話ではない!
現在双識の身体は腐敗と再生を幾度も繰り返しているのだ。
江迎の全身全霊はものの見事に打ち崩されたのである。

「――なんっ――っで」

苦悶の表情を浮かべ、唸る。
当然だ、絶対ものものと信じたそれが呆気なくも無力化されてしまった。
これほどまでに屈辱的で、敗北的で、絶望的ではないだろう。
過負荷の彼女にとっては、お似合いすぎる。その事実がまた江迎の精神を甚振る。
『貝木と幸せに暮らしたい』――ただ一心で生きて、傷ついて、それでも愛し続けて地面を這いつくばってでも命を紡いできたのに。
またしても邪魔が!
邪魔が! 障害が! 遮蔽が! 何故彼女の前に立ちはだかるのか!
あまりに理不尽なような気がしてならなくて、思わず涙ぐんでしまった。


そんな彼女の手を、双識は握り締めた。


「――えっ」
「私はきみが何故泣くのか、詳しい事情は生憎存じないが、それでもおおよそ察しれるよ。
 きみは愛されることを知らない――。だからきみの愛だって歪んでいる。愛の偉大さを、感じたことがないんだね?」

こうしている間にも、双識の掌は、腐敗と再生を繰り返す。
再生すると言っても痛みは感じるであろうが、それを素面で受け流し、彼は語りはじめる。

「確かに私は『鬼』だがね。きみみたいな『愛されてなかった子』を見ると昔の自分を見ているようでね。
 ついついおせっかいと、老婆心とわかっていながらつい言葉をかけてしまう。
 それもそれが女の子だとしたら声をかけない理由が逆にないね!」
「……っ!」

思い返せば。
双識の記憶は檻の中から始まる。
それ以前のことを彼も覚えていなかったし、周りも当てにならなかった。 そんな時に彼はこう思ったとのことだ。
――俺は孤独だ。――俺はどうしようもなく独りなのだと。
世界は自分だけのものだと錯覚した。この世に生きているのは自分だけ。
彼は『それまで』愛を知らずに育ってきた。
だからこそ彼は家族を大事にし、重んじ過ぎるのだが、それも無理のない話。

そんな彼が、愛を知らない江迎に同情――否、家族ではなかれ、仲間意識を多少なかれ抱くのもまたおかしな話でない。
彼は愛がないことの哀しさを知っている。故に、彼は江迎を放っておく真似はしなかった。

「もう一度自己紹介をさせていただこう。私の名前は零崎双識。――きみは?」
「……江迎、怒江……」

半分裂けたその口から、空気が漏れたように細々とした声が漏れた。
聞いて、双識は「わーい」と大人にあるまじきようなとぼけた声をあげ喜んだ。
女の子から名前を聞けたことがそんなに嬉しいことなのか、江迎にはわからないが、何故だかそれが『愛』であるような気がして。
江迎は欠けた口で、笑みを作った。
――こんな私でも生きていていいんだ。
――幸せになれるんだ。幸せにさせてあげられるんだ。
彼女の人生はやっとこれより始まった様な気がして、先ほどまでとは違う輝きを宿した涙が、右目から零れた。
双識はそんな彼女の髪をそっと撫でる。
江迎はただそれだけの行為でも、凄くうれしかった。
――泥舟さんにもこうしてもらいたいな。
僅かな温もりが、その身に宿り……彼女の過負荷は急激な弱体化を迎えたのだ。

「『愛に生きる過腐花』<ラブライブラフレシア>だったかな……うん、今のきみにはぴったしだ」

撫でながら、双識はそう呟いた。
無論のこと彼女の過負荷名は『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>なのだが、
しかし彼女は訂正を加えない。
そうなったらいいのにな、『幸せ』を願う彼女は極々普通に、そう願う。



 ◆◇◆◇



愛されている。
彼女は紛うことなく感じていた。
実際彼女は手を握られながら、座り込んだ双識にもたれる形で抱きしめられて、人肌に温められている。
双識は江迎の髪に頭をうずませ、何かを懸命に吟味していた。これが彼なりの愛し方なのだろうか?
それは今まで誰にも行われなかった行為だ。
人吉善吉も。
球磨川禊も。
貝木泥舟でさえも。
まるで父親から寵愛を受けているような、懸命な愛を訴えられて彼女はその愛に酔う。
初めての経験で、だけども不思議と安心できて。
愛を知らなかった彼女からしてみれば、至上の愛し方だったとも言えよう。
彼女は確かに貝木に忠誠を誓ったし、彼もまた(それが嘘であることを彼女は知らないが)誓っている。
二人は結ばれるべき運命なんだと、彼女は確信している。――妄信している。
だからこそ、仮に私が子供を産んだら、双識みたいなお兄ちゃんが欲しい。いや、そんな風に育てたい。
上の姉と下の妹に挟まれながら愛を説いているミニチュア双識を思い浮かべると、それはそれは和やかな一日だ。
夢見る景色は夢のままで、しかし彼と私なら不可能じゃないはずだと、江迎は抱かれながらに思う。

この温かさを是非とも子供に伝えたかった。
愛そうと思っても、触れたら腐ってしまう彼女だから、今まで碌に誰かを愛せなかった。愛してもらえなかった。
だけどそれは辛いことだから。
今の自分の心のぽかぽかさを知ってしまったから。
自分みたいな惨めな思いを子供にさせたくないな、と思うのはとても普遍的な思考回路。
誰かを愛して、報われることは彼女からしてみればとても難しいこと。なにせ彼女らは『過負荷(マイナス)』である故に。

でも。
でも、だ。
――そんなの諦めたく、ない!

「私……幸せになりたかったの」

一人、語り。
愛を知る双識には、何故だろう。
自分の身の内を話すのも悪くない気がした。
彼はとても真摯に――紳士に彼女の言葉を傾聴する。

「でもね、今まで色々な障害が合って、どれも失敗しちゃった」

彼の言う愛は簡単だった。
支え合うこと。ただそれだけ。
誰かが困っていたら、自分が助け。
自分が困っていたら、誰かに助けてもらい。
それだけにして、彼女には今の今までできなかったこと。
貝木泥舟のために彼女は尽力を果たしたつもりであったが――どれも空回りばかり。邪魔ばかり。

だけど、今は隣に双識がいる。
手を握ってくれて、抱きしめてくれた。
できるのだ。
彼女を助けることは、こうも容易くできるのだ。
双識は腐らない理由を「これが愛の成す業だ!」なんだの吠えていたが、しかしそんなの嘘だと分かっている。
どうみたって、彼女の傍で双識に突き刺さっているくないが原因であろう。
でも、いいのだ。
隣に居てくれる、手を握ってくれる――彼女にとって、こんなにぽかぽかなものはない。

「だけど……私、諦めたくない」

心からの叫び。
元より彼女は、過負荷にして、それでも幸せを願っていた少女であった。
球磨川禊とも、蝶ヶ崎蛾々丸とも、志布志飛沫、不知火半袖とも異なる過負荷。
それが彼女の生きる理由。
唯一にして至上の、絶対の! 彼女がいまここに、満身創痍の状態でも立ち続ける理由なのだから!
自分だけが不幸せだなんて――認めない!
それぐらいなら、周りをみんな陥れる。
それでも、彼女でも幸せになれるというのなら――我儘かもしれないが


「私は確かに『過負荷』だけど――幸せに! 貝木さんと幸せになりたい!」


幸せになりたかったのだ!


「そうだね……」

双識は頷く。
立派な目標だと思う。
家族から貰った命を大事にして、幸せを追い続ける姿は間違いなく『合格』だ。


「きみはきっと幸せになれるさ」
「……零崎……さん」


彼は断言する。
彼女の未来に幸せはある、と。
彼女の姿は実に好感が持てる。
拾われる前は――全てに諦めていた自分とは対照的に、彼女は独りでも、前を向く。
いや、彼女の言い分からして彼女は独りではないかもしれないが、しかし婚約を約束した女を捨てて立ち去るなど、『不合格』もいいところだ。


「私も手伝おう。――きみが幸せになれるのを」


双識は、決意する。


「きみを見ていると、私の奥底に眠る気持ちが疼いてしょうがない」
「……零崎……さんっ!」


江迎は、涙をほろほろと流し双識の腹の辺りを抱きしめるように縋る。
力強く、離さないように、もう二度とこんな素敵な人を手放さないように。
貝木泥舟との恋仲を初めて応援してくれた初めての人――




「だからそのまま、零崎一賊の為に死ね」

 ◆◇◆◇


首を絞める。
その針金細工のような腕で。
同じくか細い江迎の華奢な首を。

まったく金属製の首輪と言うのは邪魔くさい。
絞首と言う、殺害方法としては至極真っ当な行為だってやり辛い。
双識は独りごちながら、しかし逃さぬようにしっかりと、握りしめる。

「……っゔ、……あ゙、あ゙、……な゙、なんで……っ!」

元々出血多量の為か青白いかった江迎の顔が、より白へと染まりつつあった。
舞妓のような気品さは感じさせない、ただ死人のような顔へと。
首を絞める双識の腕を離そうと、腕を握り、力を込めるが、その腕は腐りもしないし離せもしない。
肝心な時に、使えない能力である。――改めて自分の人生を思い起こせば、ずっとそんな調子の人生だった。

「なんでもなにも、端から私はきみを殺そうとしていた。出遭った時から思ってたんだ。
 きみは――『負完全』球磨川禊と同じ存在だとね。尤も、今思えばきみの場合『奇野師団』だとも感じてきたが……。
 まあどちらにしたって、私たち零崎とこの場に居る以上対立するのは目に見えてるんだ。――抹殺をするのに、それ以上の理由はない」

いやあ、戦わないきみたちの領分に合わせるのも一苦労だ、と。
冷徹に、切り捨てる。
否、もとより繋がった覚えも、彼からしたらなかったかもしれない。
確かに彼は生粋の変態だが――最優先事項として家族に仇なすものには容赦をかけるつもりはない。
老若男女容赦なし、だ。
察しの通り、箱庭学園を巡る一件で球磨川禊をはじめとする『負』は、間違えなく家族の敵と見做されている

「―――――。―――――。―――――。」

対し江迎は、江迎怒江の心情は。
ただならぬ憎悪を、並々ならぬ憤怒を抱えて、行き場のなくなった感情を全力で吠える。


「ゔゔゔあ゙あ゙あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


辺り一帯が、先ほどよりも広範囲で腐敗が始まった。
腐る。腐る。腐る。腐る。腐る。腐る。腐る。腐る。腐る――――。
根こそぎに、根絶やしに、根も葉も残さず、地面だって形を保てないぐらいに、強制的に腐らせる。
それが、今の彼女の『負/腐』のパロメータ。
一旦心を許した分だけ突きつけられる、真っ黒に染まり上がる、絶望感。
――少しでも、心を預けることさえ、私には許されないのか!!
吠える。吠えて、吠えて、もう何が何だか分からなくなる内に、殺意が芽吹く。

――あいつは殺さなきゃ、殺すんだ、殺さなきゃいけない。殺す。殺してやる。殺して解して並べて揃えて腐らせて、踏みにじってやる。レッツキリング☆

そうしている内に、双識は腐る地面に足元を取られて江迎の首から手を離す。
しかし手を離したことに気を取られている場合でもなかった。
さながら地面が底なし沼の様に、柔らかくなる。足掻けば足掻くほど、身体が沈んでしまう。
地面に膝まで埋まる。このままでは不味いのは自明の理。

――ならば。下手な反抗は止め、固くなった泥を粉砕するほど力押しでいけばいい。
悪刀『鐚』の力を借り、彼は足を地面から脱出させて、江迎から距離を取り直し、体勢を整える。
気を抜けば、またも地面に足を取られてしまう。一瞬たりとも気は抜けない。

「――なんで、足掻くの。……大人しく死んでよ」
「やれやれ、全く一筋縄にはいかない連中ばかりでおっさんとしては肩身が狭い」

とぼけながら。
しかし、確実に、今度こそはと、首を狙いに行っている。
目が、そう訴えていた。
江迎は双識の瞳を拒絶するように、自らの過負荷を、今まで一緒に歩んできた過負荷の名前を、叫ぶ。

「っ――『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>――――!!」

茜色に染まる空の下。
しかし世界は黒に染まっている。
取返しがつかないほどドロドロに腐り果てた箱庭の中。
それでも歯止めを知らない『感染』の波は広がっていた。

「うふふ、そういや先ほどきみは『幸せになりたい』と言っていたね」

江迎の呻きに反するように、双識は腐りきる様子など一向に見せずに、足を飲まれないように江迎へ近づく。
楽しそうな口調の半面、実に耽々としたその歩調は、人のそれではなく、『鬼』の歩調だった。

「きみは宇野浩二の愛読者では――なさそうだね。
 見たところ本に触れたこともなさそうだが、彼の小説を見てみると、『幸せ』の在り方なんて簡単に見つかるものさ」

言っている間に、双識は江迎の間合いに這入り込んでいた。
江迎はだからといって成す術がない。武器は持っていない……持っていたとしても腐ってしまう。
肉弾戦で勝てるか……勝機は限りなく薄い。ならば、どうするべきなのか。

「『幸せ』とはね、『普通』なことだ。きみは確かに女の子だったが――如何せんその『過負荷(マイナス)』は障害他ならない」

再び、手を伸ばす。
首に向かって、絞め殺すために。

「きみが『幸せ』を願うのは、『普通』が少々役不足だね」

やはり彼女には、もう、どうすることもできないのか。


「いやだ!」


彼女はその手を払いのけ、残った右目で双識を睨む。
少しばかり驚いた様子で、双識は目を瞬かせる。
江迎の鬼よりも鬼気迫る気迫に幾許か圧されてしまったのは、不甲斐ないが事実であった。

「認めない……私はそんなの認めないっ! 『過負荷』だって『幸せ』を『掴む』ことはできるんだっ!!」
「できないから、今があるんだろう?」
「違う、違う、違う、違う、違う、違う!!」

ただ認めたくないだけ。
だけど、それが今までの生きる目的だったから。
否定されたく、なかった。
一瞬でも肯定してくれた人になら、尚更否定されたく、なかったのだ。
江迎の必死の叫びの後、しばしの沈黙を置いて、双識は口を開く。

「……我儘は言うものじゃない。私だって、『幸せ』には憧れるさ。
 だからこそ、私が死んで『零崎』が駆けつけてきてくれない、そんな愛のない死が私は嫌なんだ。
 そう、どうせ死ぬなら、自分の死を悲しんでほしい、私を殺した相手を恨んでほしい。そう思うのは、『普通』なことだろう?」

生憎、人識は敵討に彷徨う鬼じゃない。
胸の内にそっと言葉を閉じ込めて、未だ見ぬ妹に思いを馳せる。
存在の真偽はともかく近くに零崎特有の気配は匂わない。前々から思ってはいたが、どうも気配の読み取りがいつにもまして不明瞭だ。
仮にここで、江迎怒江に殺されたとして、駆けつけてくれる零崎はいない。寂しいこと、この上ない。
誰も零崎双識の遺志を継ぐことなく、命を尽くすなど――彼としては、あってはならない。

「お互い様さ。こんな場所に引き連れられた時点で、誰しも『不幸』なのさ。自分だけが『不幸』だなんて、思わない方がいい」

そこまで言葉を紡いで。
いよいよ彼は殺しにかかる。
何だかんだ言いつつも、七花の言う髪に埋まる行為を堪能させてもらった相手だ。
情が湧かないわけではない。
だが、零崎は殺すことが生き甲斐だ。
瑣末な情で殺さないことなど、あり得ないのである。

だから、彼は、江迎の首に手を掛けて。
握りつぶそうと、もうこの際悪刀『鐚』の力任せで握りつぶしてやろう――。


そこまで考えていた時。
ある音が、鳴った。



ぱきん



初めは何の音かと思った。
だけど直ぐに理解した。
砕けた。
双識の胸に差し込まれた刀が。
完成形変態刀が一振り。『活性化』に主眼を置いた悪刀『鐚』が。
双識の胸にぽっかりと一滴の血も流れず――そこは空洞になっていた。
まるで虚無のような。
まるで、暗黒のような。
理解した時、『ソレ』は始まっていた。
身が爛れるような苦痛。
身が捩れるような苦悶。
『感染』だった。
『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>
広がる。
広がる。
広がる。
あらん限りの負を詰め込んだ腐が。
江迎怒江が、裏切られた衝撃で放たれた禍々しき波が。
染める。
染める。
染める。
急速な勢いで、その身は腐っていった。
どうしようもなく、後戻りもできず、成す術がないままに、いつのまにか両手がポトリと落ちた。


「……あ、」


何を言おうとしたかは分からない。
何を伝えようとしたかは分からない。
だけどもう遅かった。
何もかもが遅かった。
服が。
肉が。
骨が。
皮が。
細胞の残滓に至るまで塵も残さず。
されどその身に巻いた首輪と背負った鞄だけを残して。
余韻もなく、彼は死んだ。
そこには何もない。
愛どころか、何もない。
江迎とて理解していなかった、呆気ない襲撃だった。
双識とて予期していなかった、束の間の終劇だった。


死んだ。
そして、死んだ。
二十人目の地獄は、二十一人目を待たずして、この世を去った。



【零崎双識@人間シリーズ 死亡】



 ◆◇◆◇



「はーはっはっはっ! ざまぁみろ! ざまぁみろ!!」


結局のところ、それは残量切れ。
悪刀『鐚』が刀内に保有した雷をすべて使い果たし、ただの搾り滓となって、役目を終えたのだ。
やはり悪刀『鐚』の役目がそうそうに終えてしまったのは、鑢七花の猛攻によるものだろう。
彼にざっと数えて二百回ほど殺された。
家鳴将軍家御側人十一人衆がひとり、胡乱が悪刀『鐚』を差し込んだ状態では、二百七十二回の攻撃でその役目を終えた。
忘れがちだが、この十一人衆。本来将軍の御守に就かされるほどの、異常とも言えるほどの力量を有している。
多少見積もったとして零崎双識が死ねる回数としては、三百五十回あたりがいいところだろう。

「裏切るから! ……裏切るから……っ!!」

止めに、江迎怒江の『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>。
あんなものに常時あたっていたら、本来であれば一分に一回は死んでいる。
残りの百五十回の死を経験するのも、造作もないことであった。
確かに悪刀『鐚』――『感染』の被害を最小限にとどめ、腐りきることはさせなかったが、彼の身体は常に再生を繰り返していた。
それだけでも、十分に電力を消費させてしまう。
零崎双識の此度の敗因は、純粋に悪刀『鐚』の知識不足にある。
もともとこれは彼の弟、零崎人識からあくまで譲れ受けたもの。
――彼自身が説明書を見てこの刀を使用したわけではない。
先ほどの鑢七花との凌ぎ合いのときもそうであったが、この事実は『悪』いように作用した。
仮に双識の死に対し、何が悪かったのかを論ずるとするならば、準備が『悪』かった。
言うまでもなく、虚刀流・鑢七花と過負荷・江迎怒江に出会ってしまった運も、『悪』かった。
もしかすると、零崎一賊の切り込み隊長、自殺志願・零崎双識は悪刀『鐚』と巡りあっていた時点で、
針金細工のようなその身体に、『悪』が必然的に付き添っていたのかもしれない。――悪刀だけに。


「…………ははっ! はははははは☆ ……ゴホッ」


残された彼女は、ただ笑い、嗤った。
それしかすることがないかのように、哄笑し、空を仰ぐ。
真っ赤な茜色。
終わりの刻。黄昏時というには丁度いい。
そういえば、本物の、花のラフレシアもあんな色をしている。
綺麗な、あるいは皮肉な偶然だと思う。
『自分の死に時』がまさかラフレシア色の空の下だなんて。

「…………はぁ、はぁ……」

江迎怒江は数歩進んで、小さく息を吸って大きく吐く。
尤も、口が半分以上避けている彼女にとって、それはそれで一苦労だった。
彼女の足は、また止まる。

「………………」

息が切れる。
理由としてはいくつか挙げられるが、一つに『空気の腐敗』が挙げられよう。
これまでだって、掌に触れてきた空気を腐らせてきたことはある。
しかしそれは、腐った空気は、あくまで風に流され彼女自身が吸うことなどまったくと言っていいほどなかった。
「なぜ彼女自身は腐敗の影響を受けないのか」という愚問に対する答が詰まる所「慣れ」や「限界へ到達した故」。
ならば慣れていない、限りなく無酸素に近い状態で活動を続けたならば。味わったこともない苦悶を噛みしめたならば。
明白である。
耐えられるわけがない。
顔が顔と呼べないほど心身共に崩落した彼女に、どこにそんな力があるのか。

彼女は新鮮な空気を吸えていない。
次から次へと、どれだけ多く吸ったところで『感染』した『空気』は彼女の周りに漂い続け、量産されていく。
考えるもの億劫になるほど、先が見通せない現状に、終に諦めるしかないのか――と命を投げ捨てた。
あれほどまでに死への拒絶。生を渇望していたにもかかわらず、諦観を帯びるのに時間はかからない。
彼女はそれほどまでに、精神を摩耗させている。

『荒廃する腐花』<ラフラフレシア>から『荒廃する過腐花』<ラフライフラフレシア>への退化は、結果的に本人にまで影響を及ぼした。
それも最悪の状態で。考え得る限り救いなどない状況へと。
強化でなく退化であるのならば、順当な結末とも言えよう。

彼女は納得する。
やはり私は過負荷だ――生きてちゃいけないんだ。
笑えないのに笑えてくる。少しでも幸せを追い求めた私が馬鹿だったんだと。
無意味で、無関係で、無価値で、何より無責任。それが元より彼女たちの教訓だった。

酸欠、及び流血による出血多量からともとれるが、現存する右目の視界さえも朧になっていく。
ピントが合っていない写真のような、そんな光景が目の前に広がる。
命の限界。
察するに難くない。
もっと言えば、顔の大部分が破損し、マトモな処置も受けていなかったのに生き続けた今までがおかしかったのかもしれない。
どちらであれ、彼女の限界は近い。
『感染』し腐ったゲル状の地面へ膝を付け、手をついた。
息をしても呼吸した感覚がない。してもしても解決へとは導かない。

「……あぁあ」

手をついたことで遠くの建物が『感染時』とは比較できないほど急速に成長し、瞬く間に腐る。
一気に開けた泥沼になった。
かっこうの的だが、しかし彼女へ攻撃を加えるのは難しいだろう。
例えそれが銃弾であったところで、排出された銃弾が彼女の元に届くころ、それでも銃弾が形を保てているかは定かでないからだ。
まあ。
仮定の正否はどうであれ、彼女がここから生き残ることさえも難しいのだから、或いは意味のない仮定なのかもしれない。

「…………幸せに、なりたか」

ぐじゅり、と。
とうとう彼女は身体を支えこむ力を喪い――そして飲み込まれるように地面に沈んでいく。
彼女に最期に触れた温かさは人肌とはまるで違う、無機質で、なんの愛もない。哀悼とはかけ離れた無残な死。
最期に球磨川禊、ならんで零崎双識に「このやろう」を。貝木泥舟に「ごめんなさい」を。
「ありがとう」とか、「あいしてる」とか、今まで散々口にした言葉も、もう口にすることはない。
夥しい怨恨も囁かな謝罪も、これ以上言葉にできないで、彼女は静かに息を引き取った。

安らかに、けれど誰よりも残酷に。
最期まで苦しみながら、悪に塗れ腐るように死んでいく。
その死体が腐るまでに、幾許の時間が必要なのだろうか。答えを知る者は誰もいない。


【江迎怒江@めだかボックス 死亡】




 ◆◇◆◇

「なんだか逃げられてばっかだな……」

七化はようやくその煙幕から視界を晴らし、辺りを見渡した。
そこには誰もいない。
零崎双識の姿は、置き去りにされた軽トラックの車内を見て回ってもどこにもない。
逃げたのだろう。
きっと罠を仕掛ける余裕もなく。
ただ、そんなことはどうでもいいし、考えるだけ無駄であり、面倒だ。
七花はつい先ほどまでものの数十分組んでいただけの相手を頭から切り捨てる。

「……家族……か」

言葉を洩らす。
先の会話からの影響か、ここのどこかにいよう姉の姿を思い浮かべる。
恐らく姉は、他の人間を何の興味もなく捻り潰しているのだろう。
七花が見てきたビデオの中には七実の犯行そのものは映されていなかったが、七花には弟としての感覚か、確信していた。
だとしたら、どうだ。
七花はまた姉を殺すのか。殺しきることができるのか。
確かに姉を探したい気持ちは高まっているが――それは。

「……いや」

首を振る。
考えても仕方がない。
考えたところで、しょうがないものはしょうがない。
悩むことは、苦手なのだ。
ならば『刀/人(おれ)』らしく――今を生きればいい。

「……」

言葉もなく、彼は進む。
さしあたって何処へ目指そうかなどは考慮していないが、なるようになるだろう。
それこそ安心院がまた出てきて何か指示さえすれば話は別だが――

「――あれ、そういやどうしてあいつと組んでたんだっけ?……あ、あ、じ……まあいいや。忘れた」

――とまあ安心院なじみのことは既に忘れ去っているようではあるが、
ここにはとがめのように指示する者もいなければ、作ろうとも思えない。
彼は好きなように生きるだけ。

「おれは好きなように生きるだけだ」

一先ず彼は、爆風によって被害を受けた火傷ばかりはどうしようもない、と。
とがめが死んだあとになってからは珍しく、まあ彼にとっては水でもぶっかけるか程度の考えしかないにしろ、一応は治療は施そう。
と、手持ちに水がないので目の前のクラッシュクラシックの扉を、開けて閉め、入室した。

見たところ、水と言う水は――あの緑色の瓶の液体か。
一般的に「ワイン」と呼ばれるそれを見つけ、物珍しそうにくるくると瓶を回す。
中に這入っているのは確かに液体だ。
なんとなく、周囲の香りからして水ではなく酒の類であることは理解できたが、如何せん嗅ぎ慣れない匂いであるため多少興味をそそられた。
あくまで興味がわいた程度で、特別酒を口に含みたい気分でもなかったために、躊躇いなく瓶の口を裂き、火傷を負った左手に直接かける。
尤も本来であれば冷水で冷やし続けるのが一番効率的だと世間一般的には言われているが、残念ながら、都合よく七花は蛇口の使い方を知った訳ではない。
そして部屋の片隅――人識が漁っていた冷蔵庫のことも、彼は知らない。
冷蔵庫を漁れば、もしかすると冷えた水の一つや二つ出てくるかもしれぬのに。
だが、それは彼が生きた時代が時代故に、仕方のないことであり、責めるべきことではない。
同時に口を挟んだところで、どうしようもないことである。

そんな時のことだった。

――ぐじゅり。

何かが溶けるような、音。
何処から――と七花は首を回し確認するが、厳密な場所が把握できない。
至る場所から、その音は聞こえてくるのだ。
まるで、建物が共鳴を起こしているかのように――――!!


「なっ……!!」


ようやく異変の正体に気付いた時。
『ソレ』は既に目に見える形で、顕現していた。
腐っている。
そんなまさか、とは思いはすれど、しかし確かにこのクラッシュクラシックは腐ろうとしている!
天井が崩れ落ち、半液状と化した天井が、七花の居る床へと降り注ぐ。
その泥の雨とも形容できなくないそれを、逃げ場の見当たらなかった七花は全身で浴びてしまう。
『感染』した、腐の飛礫。
それは、新たな腐の布石。
『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>の影響下に、クラッシュクラシックも侵されてしまった!
鑢七花は『不幸』にも――その『感染』の餌食、巻き添えとなってしまったのだ。

ただ、直ぐに腐るようなことはなかった。
強烈な腐敗臭の中、僅かな間に崩壊していくクラッシュクラシックの崩落の一部始終を目に収めることぐらいが出来るぐらいには、まだ七花は七花のままである。
しかし、どこにも心配していい要素などなかった。
以前のツナギがそうだったように、このような『感染』で、皮膚が、『感染』してしまっている。
皮膚が剥がされていくように、痛い。
同時に、胃が直接甚振られているかのように、吐き気を覚える
腐敗臭に晒されているから、だけでは到底理解できない――『何か』が前兆もなく襲来した。

クラッシュクラシックが崩れてしまったお陰と言っていいのか、今七花の視界は広い。だけどどこにも敵の姿は認知できない。
さもありなん、そもそも敵は今頃少し離れたところで裏切られた鬱憤を晴らしているに違いないのだから。
敵が近くに居ないと分かった以上、一度構えを解いて、素早くその場から避難した。
あそこにあのまま居続けるべきではないのは、馬鹿でも何でも、理解はできよう。

どうしたものかと考える。
火傷云々などと言っている場合ではなくなった。
これは非常に、不味い状態だ。
――唯一の幸運とも言うべきか、彼は直接過負荷の余波を受けたわけではない。
戸締りをきちんとしていたからだ。
風邪の防止策として、適度な換気さえしていれば、そもそも家から出ない方がいい、というものがあるように。
直接七花は、過負荷に触れたわけではない。クラッシュクラシックが崩れ、外気に触れた時には素早く移動を開始していた。
故に、即死級の『荒廃』を味わわずに凌ぎきることが可能となっている。

とはいえ、『感染』している事実に揺るぎはない。
ならばどうするべきが一番適切か――尤も、どうするもこうするも、現状彼には無視を決め込む以外に方法はないのだが。


「――――ああ、本当、面倒だ」


ここへ呼び出されてから、何度か口にしているその台詞だが、
その何れよりもこの言葉は苦々しく、辛さを惜しみなく前面に晒している。
感情に乏しい七花でさえも、そうせざるを得ないほどに、江迎怒江の残した置き土産は、傍迷惑(マイナス)なものであった。

一度思い切り、胃液を吐きだした。
口の中が酸いくなる。
黒神めだかと対峙した時に与えられた熱以上に、この『感染』は、彼の神経を貪りつくしていた。

しかし彼は休む暇もなく、再び走りだす。
後ろの方では、ゆっくりではあるが着実に確実に、市街地を浸食している。
彼は走る。
走って、走って、走って――――。


【一日目/夕方/C-3 クラッシュクラシック跡】
【鑢七花@刀語】
[状態]『感染』、疲労(中)、覚悟完了、全身に無数の細かい切り傷、
    刺し傷(致命傷にはなっていない)、血塗れ、左手火傷(荒療治済み)、吐き気
[装備]なし
[道具]なし
[思考]
基本:優勝し、願いを叶える
 1:放浪する。
 2:名簿の中で知っている相手を探す。それ以外は斬る。
 3:姉と戦うかどうかは、会ってみないと分からない。
 4:変体刀(特に日和号)は壊したい。
[備考]
 ※時系列は本編終了後です。
 ※りすかの血が服に付いています。
 ※りすかの血に魔力が残っているかは不明です。
 ※不幸になる血(真偽不明)を浴びました。今後どうなるかは不明です。
 ※掲示板の動画を確認しました。
 ※夢の内容は忘れました。次回以降この項は消していただいて構いません
 ※江迎怒江の『荒廃した過腐花』の影響を受けました。身体にどの程度感染していくかは後続の書き手にお任せします



【死亡者付近の状況】

[放置]

B-3

  • 江迎怒江の死体
  • 零崎双識の首輪
  • 零崎双識のディバック
支給品一式×3
食料二人分、更に食糧の弁当6個、携帯食半分
体操着他衣類多数
血の着いた着物
カッターの刃の一部
手榴弾@人間シリーズ
奇野既知の病毒@人間シリーズ
「病院で見つけたもの」

[施設]
クラッシュクラシックが腐り、跡形も残っていません。
また、範囲の都合上、西東診療所、喫茶店も腐っている可能性が十分にあります。

【江迎怒江の『荒廃した過腐花』】
死ぬ直前の江迎怒江の精神状態に依存して、独立して腐敗を『感染』を広げています。
『感染』が広がる範囲は後続の書き手にお任せしますが、現状B-3から周囲一マスは腐っている可能性が高いようです。
なお、既に死んだ遺体に関しても腐敗をしていく可能性もあります。

かいきバード 時系列順 零崎舞織の暴走
かいきバード 投下順 みそぎカオス
拍手喝采歌合 零崎双識 GAME OVER
拍手喝采歌合 鑢七花 君の知らない物語(前編)
rough rife(laugh life) 江迎怒江 GAME OVER

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最終更新:2013年11月06日 18:10