不死鳥(腐屍鳥) ◆wUZst.K6uE



 地面を蹴る。
 地面を蹴る。
 地面を蹴る。
 エリアG-8。地図における東端に程近いその場所で、真庭鳳凰はさらに東へと向かい、地面を蹴る。
 ひたすらに、がむしゃらに。
 さながら発条仕掛けの玩具のように、片足を曲げては蹴り、曲げては蹴りを延々と繰り返す。
 それ以外にすることがないというくらい、一心不乱に地面を蹴る――実際、今の鳳凰にとってそれ以外にやることはなかったし、それ以外にできることはなかった。
 四肢のうち三肢を奪われ、移動するのにも左足一本しか使用できない今の鳳凰にとっては。

 「はっ……はっ……」

 ざっ、ざっ、ざっ、と。
 鳳凰が地面を蹴るたび、身体と地面が擦れる音が不気味に響く。
 何百と地面に擦りつけられたであろう彼のしのび装束は、すでに襤褸切れ同然の状態だった。
 土にまみれ、泥にまみれ、彼自身の血にまみれ、汚れに汚れきったその装束にもはや頭領としての風格はない。
 這う這うの体、と言うにしてもあまりに凄惨な姿。
 最初のころは歯を軋ませ、悪罵混じりの雑言を独り吐き散らしていた鳳凰だったが、今は声を発する気力すら費えたのか、切れ切れに呼吸を漏らすのみである。
 当然といえば当然だろう。申し訳程度の止血を施されているとはいえ、両腕片足を切断された状態で長距離間を身体ひとつで移動するなど、狂気の沙汰以外の何物でもない。
 たとえ真庭忍軍の者だったとしても、他のしのびであれば確実に道中で力果てていたに違いない。
 真庭鳳凰だからこそ。
 こうして息も絶え絶えながら、動き続けることが可能なのだった。

 ――じゃり。

 顔が地面に擦れる際、土が口の中に入る。
 血混じりの唾液とともに、それを飲み下す。
 鉄の味と土の味を同時に噛みしめながら、ただ黙々と地面を蹴る。

 なぜ今、自分がこんな目に遭っているのか。
 鳳凰には、その一点がどうしても理解できなかった――決して油断をしていたわけでも、余裕を見せていたわけでもないはずなのに。
 なぜ自分があんな、手練でもなんでもない、人の殺し方すら知らぬようなただの子供に不覚を取ってしまったのか。
 不意討ちとはいえ、あの奇妙な『矢』による攻撃をみすみす喰らってしまったことも、鳳凰からすれば信じられないことだった。
 軌道が自分から外れていたことを見抜いていたにせよ、ああも堂々と放たれた武器に何か仕掛けがあるやもしれぬと、自分なら思い至ってしかるべしだったのに。
 ほんの少し、身体を半身にずらしていただけで、あの不可解な武器を回避できていたかもしれないというのに。
 不覚も不覚、一生の不覚である。

 ただ逆に考えれば、そんな一生の不覚を取ってなお九死に一生を得ることができたというのは、ある意味幸運だった。
 もしあの時、櫃内様刻が殺人者としての記録を残されることに頓着しなかったら、確実に鳳凰の命はあの場で終わりを迎えていたはずである。
 おそらく手足を切断すればいくらなんでも再起不能だと踏んでいたのだろうが、そこは様刻の見立てが甘かったと言うべきかもしれない。
 鳳凰の生命力と戦闘能力を正確に理解していたら、殺人者になるリスクを負ってでもあの場で止めを刺したほうがよいと、様刻なら判断しただろう。鳳凰が危険人物であることは、彼の所持するDVDを使えば容易に証明できるのだから。
 幸運といえばもうひとつ。手足以外の部位――たとえば両目や鼓膜といった主要な感覚器官を潰されなかったことも僥倖と言えた。
 片足と視覚が無事だからこそ、こうして無様ながらも這いずることができている。
 命あっての物種。
 しかし、だからといって、それを幸運と捉えられるほどに鳳凰は楽天家ではない。
 怨嗟、憤怒、悔恨、憎悪。
 さまざまな負の感情が、頭の中を目まぐるしく駆け巡る。

 いったい、自分に何が足りなかったというのか。
 あるいは、まだ何か余計なものを持ちすぎているとでもいうのだろうか。
 迷いはとうに捨てた。呪いも振り払ったし、この身を地に陥とす決意もした。
 いったいこれ以上、何を捨てればよいというのだろう?

 「――――畜生が」

 久方ぶりに発された言葉は、およそ鳳凰らしくもない、そんな意味のない罵言のみだった。
 その後はまた、一言も発しないままに同じ動作の繰り返し。
 坦々と、粛々と、目的の場所へと向けて。
 地面を蹴る。
 地面を蹴る。



   ◇     ◇



 鳳凰が地面を這いずり始めてから、およそ二時間。
 その間、一時たりとも休むことなく足を動かし続けた鳳凰はようやく無事に――と言えるほど満足な状態ではないが――目的地であるレストランにたどり着いた。
 暗澹とした雰囲気の建物は、陽が落ちて辺りが薄暗くなった今、より陰鬱な印象をかもしだしている。
 中も灯りは点いていないようで、窓からわずかに見える屋内もまた薄暗い。

 「はっ……はっ……はっ…………!」

 息を荒げてというより、呼吸する力すらもはや限界に達しているといった様子だった。
 それでも足の動きだけは、別の動力を使っているのかと思うくらいに一定の調子で動き続ける。
 機械か、あるいは人形のごとく。
 中に誰かが潜んでいるかもしれないと警戒することもなく、扉を蹴破るようにして開ける。涼しげな空気が外へと漏れ、頬をかすかに撫でた。
 建物内に入り、床の上をまっすぐに目的のものへと向けて這いよる。

 果たして、それは鳳凰が殺したときと同じ状態でそこに鎮座していた。
 鮮血に染まった豪華絢爛な衣装。
 テーブルの上に置かれた、穏やかな表情をした金髪の首。
 無惨に首を切り落とされた、否定姫の死体。
 それがあることを確認するや否や、鳳凰はそれを椅子ごと乱暴に蹴倒し、床の上へと転がす。
 自ら綺麗に整えたはずの遺体を、今度は不要物でも扱うかのように。

 「今だけは、おぬしが無抵抗で殺されたことに感謝するぞ――否定姫よ」

 心無い口調でそう言って。
 床に転がした死体のそばににじり寄ると、身にまとっている着物を口と足で無理矢理に剥ぎ取る。
 そして腹這いから仰向けの姿勢に転化し、残された左足を高々と振り上げ、
 否定姫の右腕、その肩口辺りに狙いを定め、踵から足を思いきり振り下ろす。

 ぶつん。

 あまり綺麗とは言えない音を立て、右腕が胴体から切り離される。
 続いて、左腕。
 同様に、右足と。
 順番に、否定姫の身体から腕と足をそれぞれ取り外していく。
 彼女に対する弔意など、微塵も感じさせない所作で。
 そして前置きも息つく間もなく、鳳凰は己の忍法を発動させた。



 「忍法、命結び――!」



 真庭忍法命結び。
 もはや説明は不要かもしれないが、他人の身体の部位と、そこに付随する能力を自らの身体に接合することができる技術。
 どれだけ肉体を失おうとも、命ある限りはいくらでも代用が効くという脅威の忍法。
 否定姫の身体から切り落とされた三つの手足は、瞬く間に鳳凰の身体へと「結合」される。
 糸で縫い合わせたかのように――否、それ以上にぴったりと、最初からそこに繋がっていたかのように。
 手足を失ってから、まだ三時間足らず。
 そのわずかな時間の間に鳳凰は、恐るべきことに己の力のみで、新たな手足を獲得してみせたのだった。

 しかし。

 目的を達成し、再び五体満足に立ち返れたはずの鳳凰の表情は、未だ晴れない。
 どころかようやく手に入れたはずのその四肢で立ち上がることすらせず、床の上に突っ伏したままの状態でいる。

 「ぐ…………くそ…………っ!」

 荒く息をつき、目を虚ろに泳がせる。その身体からは、血の気がほとんど感じられなかった。
 命結びがうまく効果を発揮しなかったのだろうか?
 それとも時間が経過したことで死体の劣化が進行し、手足としての機能を果たせなくなっていたのだろうか?
 あるいは鳳凰の傷口自体が、ここまで来るうちに感染症か何かに冒されていたのか?
 否、どれも違う。
 実際の問題はもっと単純明快で、しかし深刻と言えるものだった。

 空腹、である。
 極度の空腹が、鳳凰の身体の動きを阻害していたのだった。立ち上がることすら困難なほどに。
 ここへ来て最初、鑢七花と同盟を結んだ際に食料をすべて譲り渡したことからも分かるとおり、鳳凰にとって空腹はそれほど頻繁に訪れる危機ではない。
 二、三日は何も口にせずとも動ける程度の体力は、しのびとして当然に備わっている。
 しかしこのレストランにたどり着くまでに、さすがの鳳凰とて全身全霊を費やさなくてはならなかった。
 片足だけの匍匐前進という荒行に加え、傷口からの出血も少ないとは言えない。この数時間で、いったいどれほどのエネルギーが消費されたことだろう。
 空腹と言うよりは、燃料切れと言ったほうが正しいかもしれない。
 そもそも、生きてここまでたどり着いたこと自体が人間としてすでに無茶苦茶なのだ。いくら修行を積んだしのびとはいえ、身体が生物のそれである以上、燃料が尽きれば動けなくなるのは当然の道理である。
 奇しくも最初にこの場所を訪れたもうひとりの男、時宮時刻と同様の問題を、鳳凰は今抱えているのだった。
 もっとも時宮時刻が失っていたのは片腕だけだったし、疲労も出血の量も今の鳳凰とは比べ物にならなかっただろうが。

 「我は……死なぬ」

 生気の失せた身体で、鳳凰はそれでも生き残るために気力を絞る。
 何か――何か食べるものはないのか。
 以前に訪れた際、ここの貯蔵庫は調べてある。食料の備蓄はあったが、どれも凍りついていてすぐに食べられるようなものではなかった。
 このままでは、失血で意識を失うのも時間の問題かもしれない。
 せめて、失った血を元に戻さねば。
 この体に、血を補給できるようなものを何か。
 何でもいい、血肉にさえなれば。
 血肉になるようなものが、何かあれば――――


 血?

 肉?


 血肉。


 「――――ああ」




 ――あるではないか、目の前に。




 一刹那ほどの躊躇もなく。
 鳳凰は目の前に横たわる否定姫の亡骸に飛び付き、それに齧り付く。
 歯で皮膚を食い破り、その下の肉を貪るように啜り上げ。
 骨も臓物も一緒くたに咀嚼し、飲み下す。
 その姿はさながら、死肉を啄む禿鷹のようで。
 神の鳥、鳳凰の名にふさわしい振る舞いなど一切なく。
 ただ生きるために。
 喰らい尽くす。



   ◇     ◇



 「前に来たときには、わざわざ武器を調達する必要などないと思っていたのだがな――」

 『食事』を終えた鳳凰は、レストランの中で使えそうなものを探しながら思案する。
 思案の中身は、主催者による定時放送について。
 人心地つき冷静さを幾分取り戻したことで、移動の途中で聞いた放送の内容を反芻するだけの余裕を得ていた。
 移動中は放送に思いを巡らす余裕もなかったが、内容だけはしっかりと記憶している。
 当然、彼の知り合いである左右田右衛門左衛門の死についても認識している。

 「…………死んだか」

 短く感想を漏らす。余計な言葉は不要とでもいうかのように。
 実際、それ以外に何を思えばいいのかわからなかった。
 鳳凰にとって右衛門左衛門は、否定姫の腹心という点では危険視してはいたが、仇敵というわけではない。向こうにとってもそれは同じだろう。
 鑢七花やとがめがかつて刀を奪い合った間柄でしかないように、右衛門左衛門も、かつて親友だったというだけのこと。
 それ以外の何物でもない。
 ただ、誰があの男を殺したかのかは若干気になるところではある。
 知ったところで何をするというわけでもないし、何かをする理由もないのだが。

 ともあれ、今は感傷に浸っている場合でもない。
 考えるべきは、これから何を為すかだ。今後の動向について、鳳凰は思考を巡らせる。
 頭の中に地図を展開し、発表された禁止エリアの場所に印をつける。自分がさっきまでいたF-8は、すでに禁止エリアになっているのだろう。時間が少しずれていたら危ういところだった。
 それから、他の参加者にどう接していくかの問題。不本意ではあるが、これからはより慎重に、保身を優先して接触していく必要がある。

 まずひとつは、まだ生き残っている同胞のひとり、真庭蝙蝠を見つけ出して合流すること。
 単独行動を常とするのが真庭のしのびの特徴ではあるが、自分がここまで力を削がれてしまった以上、なりふり構ってはいられない。
 忍法記録辿りをもってしても、今までの道中で蝙蝠の痕跡すら発見できていない、杳として知れないのが現状ではあるが……
 逆に接触しないよう気を付けるべきは、右衛門左衛門亡き今では鑢七花が筆頭だろう。
 今は同盟を結んでいるが、それは互いの実力が拮抗していてこそ成り立っているようなものだ。鳳凰の現状が知れたら、同盟破棄はもとよりその場で斬り捨てられてもおかしくはない。
 頭の足りないように見える男だが、あの奇策士とおよそ一年間行動を共にした実績がある剣士。そのくらいの計算は働くはずだ。
 そして最後は言うまでもなく、あの少年の動向を捕捉すること。
 自分の両腕と片足を刈り取った、あの憎き少年。
 『櫃内様刻』――自ら名乗ってはいなかったが、図書館で首輪探知機に表示されていたあの名前が、おそらくあの少年の名前だろう。
 あの少年だけは、決して捨て置くことはできない。必ず見つけ出し、自分を生かしたまま去ったことを後悔させてやらねばならない。
 手足をもがれ、地を舐めさせられたこの屈辱は、万倍にして返してやらねばならない。
 自らの手をもってして、必ず。

 「……しかし、やはり弱いな」

 鳳凰は己の腕を動かしながら呟く。新しく取り付けた、その両腕を。
 もとから分かっていたことではあったが、否定姫から移し替えたこの手足はさほど身体能力に優れたものではない。
 というか、腕力も耐久力もはっきり言って凡百並だ。脆弱と言ってしまってもいい。
 ただ、腐敗などの死後損壊が思いのほか進行していないのは助かった。空調により店内が涼しく保たれていたのが幸いしたのだろうが、身体から血が抜けていたことも要因としてあるのかもしれない。
 そうは言ってもやはり、今までの両腕とは比べるべくもなく弱すぎる。
 岩をも砕く右腕と、忍法記録辿りを宿した左腕。今更ながらに、あの両腕を失ってしまったのは痛い。
 そう思うと、また怒りがふつふつと湧き上がってくる。
 冷静に考えねばならないということは、百も承知ではあるけれど。

 もちろん道行く途中で使えそうな身体が見つかればそちらに付け替えるつもりではいるが、そう都合よく死体が転がっている可能性を前提に動くなど愚行が過ぎる。
 もし今の身体で、あの少年と再び鉢合わせたとしたらどうする?
 無論、戦えないということはない。いくら手足が凡百の力しか持たないとはいえ、それを駆るのは真庭鳳凰。武器のひとつも持てば、相手が手練でもない限り十分に戦うことは可能。
 しかし一度不覚を取っている以上、どうしても余裕をもって挑むことができないのも事実。
 あの『矢』以外に、鳳凰にとって得体のしれない武器を所有している可能性も十分ありうるのだから。
 加えて、あの少年の仲間と思しき、もうひとりの少女。名前が確か無桐伊織と言ったか。
 警戒すべき対象というなら、あの少女こそ警戒すべき対象だった。両足をへし折っておいたから、すでに戦闘不能と考えるのが妥当なのだろうが――
 炎刀すら通用しないと思わせるあの反応、あの身のこなし。
 殺意に満ち溢れた――否、殺意そのものであるかのような、あの『鬼』の如き気迫。
 一度は撃退し、両足をへし折ってなお、警戒を解く気がしない。
 仮にあれともう一度戦う機会があったとして、自分は勝てるのだろうか?
 今の自分に、あの二人を正面から抹殺することなど可能なのだろうか?

 「…………」

 厨房からテーブルフロアへと戻り、調達した物をテーブルの上に並べる。
 ナイフ、フォーク、牛刀、出刃包丁、調理用のガスバーナーなど。
 他にも武器になりそうなものはあったが、デイパックを奪われてしまったため持ち運べる量には限りがある。ここからさらに厳選しなくてはならない。
 自らの身体を武器として使えない今、武装しなければいけないのは仕方のないことだが――この程度ではやはり、心許ない。
 何か、このありあわせの武装以外にひとつ。
 急場しのぎでも構わない。満足のいく身体を揃えられるまで、打っておける策は何かないものか――

 「……ん」

 こつん。

 足先に何かが当たり、床に視線を落とす。
 そこに転がっていたのは否定姫の首だった。おそらく死体を蹴倒した際、勢いでテーブルの上から転がり落ちたのだろう。
 相変わらず、綺麗な表情をしている。
 それだけを見れば、眠っているだけと見まごうような穏やかな死に顔。

 「顔――か」

 鳳凰は己の顔にそっと手をやる。
 この顔は、正確には鳳凰自身の顔ではない。彼のかつての親友であり否定姫の腹心、左右田右衛門左衛門から奪い取ったもの。
 その忍法と、人格を必要としたがゆえに。
 鳳凰は思う。
 この「顔」は、真庭忍軍の頭領としては必要なものだ――だが。
 今、この状況で必要とすべきは、この「顔」ではないのではないか?
 あの憎き少年にも、この顔はすでに割れている。あの二人にもしまだ仲間がいたとしたら、自分が危険人物であると他の参加者に広められている可能性がある。
 戦闘に向いた手足をほぼ失った今、この顔に固執するというのは利益よりも不利益のほうが多いのではないか?
 今必要なのは、この顔よりも。
 組織の長としての統率力、求心力を兼ね備えたこの人格よりも。
 周囲に蔑まれ貶められ孤立しようとも、すべてを踏み台にして何度でも這い上がる、そんな高慢で傲慢で狡猾で厚顔無恥な、不屈なる野心家の人格。
 たとえば。
 たとえばこの女のように。

 「……否定姫」

 尾張幕府に二人の鬼女あり。
 この否定姫が鬼女と呼ばれる所以を、鳳凰はよく知っている。
 奇策士とがめの下、この女を失墜させるのに一役買ったのも、そこからしぶとくも復権したことを奇策士に伝えたのも自分だった。
 潰しても潰しても這い上がって来よる――そんな言葉をあの奇策士に吐かせたというだけで、この女の質の悪さは知れようというものだ。
 自分がこの女を殺せたことも、実のところ偶然にすぎないと思っている。おそらく唐突にここへ連れてこられてから、協力者を得る間もなく自分に出会ってしまったのだろうが――
 逆にもし、この女を先に見つけていたのが左右田右衛門左衛門だったら。あるいは他の、この女に同調するような協力者を得ていたとしたら。
 その場合、この女がこの殺し合いにおいて何をしでかしていたか、想像するだに背筋が凍る。
 そう思えるくらい、この否定姫という女は底が知れない。

 この女のようになりたいなどとは、死んでも思わないが。
 もしそれが「必要」なのだとしたら。
 生き残り、目的を達するために、それが必要なことであるのなら。
 何を捨て、何を得るのか。
 この場で自分が捨てるべきものは、そして代わりに得るべきものは何か――

 「――――――――」

 おもむろに、鳳凰は否定姫の首を床から拾い上げ、さらにテーブルの上から牛刀を掴み取る。
 その切っ先を否定姫の首の顎下あたりにあてがうと、そのままずぶりと刃を皮膚の下に押し込み、輪郭をなぞるようにして顔の表面を切り取り始める。
 素早く、しかし丁寧に。
 顔面だけでなく、髪の毛も頭皮ごと剥ぎ取る。短く揃えられた金髪を一本も落とすことなく皮膚に残したまま、それをずるん、と頭部から引き剥がした。
 そして間を置かず、今度は牛刀を自分の顎下にあてがい、躊躇なくそれを自分の顔面に突き入れる。
 ずぶずぶと、ざくざくと。
 切り取った否定姫の顔と全く同じ形に、己の顔面と頭部の皮膚を、肉ごとえぐるように剥ぎ取っていく。
 最後は半ば力任せに、ぶちぶちと嫌な音を立てながら顔の表皮を引っぺがす。ぼたぼたと、むき出しの顔の表面から鮮血と肉片が滴り落ち、床に赤黒い染みを作る。

 その顔を――かつての親友から奪ったその顔を、その場に放って。
 代わりに否定姫の顔を、面でもかぶるかのように己の顔へと運ぶ。


 ――忍法命結び。


 穏やかながらも、まごう事なき「死者の顔」だったはずのそれは。
 今再びゆっくりと、「生者の顔」として目を見開いたのだった。



   ◇     ◇



 「ふむ……こうしてみると、意外になかなか悪くない」

 店内にあった鏡に自分の姿を映しながら、鳳凰は新たな手足や顔の感覚を確かめるように動かしてみせる。
 白く透き通った肢体、短く揃えられた金髪に、青い瞳。
 体幹の違いこそあるものの、それは紛れもなく否定姫の姿だった。

 「『変態』は蝙蝠の専門だが、『変装』程度であれば我でもこの通りよ。この女に変装する日が来ようなど、よもや夢にも思わなかったが――」

 そう言う声も、ほとんど否定姫の声そのものだった。命結びの効果というよりは、しのびとしての技術の一環であるらしい。
 ちなみに今、鳳凰が身にまとっているのはしのび装束でなく、きらびやかな女物の衣装である。言うまでもなく、否定姫から剥ぎ取った着物だった。
 鳳凰の体格で女物の着物を身につけるというのは少々難があったが、否定姫が女性としては長身だったこともあり、寸足らずになるということはなかった。
 どころかむしろ自然に、違和感なく着こなしている。
 帯の中や袖の下など、あちこちに仕込んであるナイフや出刃包丁の存在も気づかせないくらい、自然に。
 否定姫を知らない者が見たとしても、まず女性であると信じて疑わないだろう。
 血で汚れていることが難点といえば難点だったが、そこはまあどうとでも言いくるめられる。少なくとも、襤褸切れのようなしのび装束を着ているよりは幾分まとものはずだ。
 これなら右衛門左衛門を欺くことも可能だったか――などと今となっては無意味な思考が頭をよぎるも、さすがにその考えは即座に否定する。
 あの男相手では、欺くどころか声をかける前に看破されてしまうに違いない。蝙蝠の忍法でも騙し切れるかどうか。

 そもそもこの変装は、否定姫を装うことを目的としてはいない。
 自分が真庭鳳凰だと気づかせないこと。
 真庭鳳凰が危険人物だと知る者を欺くことこそ、この変装の目的。
 単純ではあるが、不意を打つのに「変装」は極めて有効な技術。特にあの少年――櫃内様刻に接触する際には存分に効果を発揮するだろう。
 言ってしまえば十全に戦える手足を得られるまでの苦肉の策ではあるのだが――しかし。

 「…………ふふふ」

 唐突に。
 冷徹な彼らしくもなく、愉快そうに鳳凰は笑いを漏らす。
 いや、それはもはや「彼らしく」と言ってしまっていいのかもしれない。元は他人のものであるとはいえ、その『顔』はすでに鳳凰のものとなっているのだから。
 否定姫の顔を――人格を手に入れた鳳凰は、どこか満足げな雰囲気をその表情に漂わせていた。
 この女のようになりたいとは思わないと、心の中では明言しておきながら。

 「不思議なものだな……顔を捨てたばかりだというのに、今こそおぬしの心中が真に理解できる気がするぞ――右衛門左衛門」

 否定姫の顔で、鳳凰はそんなことを言う。
 この世で唯一、否定姫が己の腹心として傍に置くことを選び、それに忠実に仕え続けた男、左右田右衛門左衛門。
 その心中を、彼はどう理解したというのだろうか。
 死んでも誰かの下につくことなどない誇り高き男――かつての親友を、鳳凰はそんなふうに評していた。
 その親友が、生涯をかけて忠誠を誓った相手。
 その「顔」を手に入れたことで、何かを汲み取ったということなのか。



 ――あなたの夢を否定する。
 ――現実しかないと否定する。
 ――否定して否定して否定する。
 ――何も叶いやしないと否定する。
 ――ただ無意味なだけだと否定する。
 ――ご都合主義なんてないと否定する。
 ――今のあなたの思考すべてを否定する。
 ――否定して――否定して否定して――否定して否定するわ。



 「否定する」


 殺した女の、今際の際の言葉を思い出して、
 鏡に映った自分の顔に向かい、鳳凰はその言葉を否定する。



 「おぬしの言葉を否定する。
  現実にとらわれる必要などないと否定する。
  否定して否定して否定して、否定する。
  叶うものもなくはないと否定する。
  無意味なものなどないと否定する。
  ご都合主義も虚構ではないと否定する。
  おぬしの否定すべてを否定する。
  否定して――否定して否定して――否定して否定して否定しよう」



 鳳凰らしくなく、しかし彼らしく。
 あるいは「彼女らしく」。
 否定的な口調で、否定的な笑顔で、鳳凰はすべてを否定する。

 「いずれはこの顔も捨てることにはなるだろうが……それまではこの女の真似事をしつつ殺し合いに臨むというのも、面白くなくもない」

 二重否定の言葉でそう言って。
 一度は打ち捨てたはずの右衛門左衛門の顔を、袂の中にそっとしまい込む。
 そうするのが自然というかのように。
 かつての親友と、今の自分の顔。そのふたつが共にあるのが当然とでも言うかのように。

 「そろそろ移動するか。急ぎたい心地ではあるが、体力を無駄にできる身体でもない。慎重に、ゆるりと動かねばならぬな」

 鏡の前を離れ、鳳凰はゆっくりとした足取りで歩みだす。
 慎重という割にははっきりとした目的地すら決めていないが、そんな矛盾すらも否定するように。
 左右ちぐはぐな両足で、レストランを後にする。

 否定姫の顔、否定姫の人格。
 この上なく否定的な、この世のすべてを否定するためにあるかのような人格。
 その対象に例外はない。己の腹心も、自分自身ですらもその人格は否定する。
 それがもともとの人格である、真庭忍軍の頭領としての「真庭鳳凰」をも否定しかねないという危険をはらんでいることに、鳳凰はまだ気づいていない。



【1日目/夜/G-8 レストラン付近】

【真庭鳳凰@刀語】
[状態]身体的疲労(中)、精神的疲労(小)
[装備]矢@新本格魔法少女りすか、否定姫の着物、顔・両腕・右足(命結びにより)、真庭鳳凰の顔(着物の中に収納)、「牛刀@現実、出刃包丁@現実、ナイフ×5@現実、フォーク×5@現実、ガスバーナー@現実」
    (「」内は現地調達品です)
[思考]
基本:優勝し、真庭の里を復興する。
 1:真庭蝙蝠を捜し、合流する。
 2:櫃内様刻を見つけ出し、必ず復讐する。
 3:戦える身体が整うまでは鑢七花には接触しないよう注意する。
 4:否定する。
[備考]
 ※時系列は死亡後です。
 ※首輪のおおよその構造は分かりましたが、それ以外(外す方法やどうやって爆発するかなど)はまるで分かっていません。
 ※記録辿りによって貝木の行動の記録を間接的に読み取りました。が、すべてを詳細に読み取れたわけではありません。


 ※レストラン内の否定姫の死体はほぼ食い荒らされました。
 ※鳳凰のしのび装束はレストラン内に放置してあります。


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最終更新:2014年01月20日 16:18