ゆっくりスの翼 ――妖立宇宙軍――
妖立宇宙軍、それは妖怪による宇宙軍。
設立者はいわずと知れた蓬莱人、Dr.八意永琳である。目的は月の奪取。宇宙開発が進み、人間による開拓か始まろうとしている月面を、蓬莱人の手に取り戻すのが、彼女の狙いだった。
彼女は蓬莱人として長年の間に築き上げた人脈と、妖怪ならではの超科学を駆使して、今ここにNASAやグラフコスモスのそれをも越える、優秀な月面輸送システムを築き上げたのであった。
これは、その輝かしき第一歩の記録である。
「Tマイナス600、射場閉鎖」
「外部電源より機内電源へ移行。ロケットは自律制御を開始します――」
幻想郷に何重にもエコーした声が響き渡る。アリス邸を改造して作られたブロックハウス(打ち上げ指揮所)に詰めている管制兎たちのアナウンスだ。
紅魔館の館内で建造された、八意永琳謹製の妖怪月ロケットであるモウソウチク5型、略してM5ロケットは、数千項目ものプリフライトチェックを終えて、間もなく打ち上げられようとしていた。
ロケットの先端、ノーズフェアリング内に収められたルナー・ボートでは、ただひとりの搭乗者であるゆっくりかぐやが、人々から挨拶を受けていた。
「元気でね」
「頑張って」
「向こうへ着いてもゆっくりしてね!」「ゆっくりするんだぜ!」「ちゅるんだよ!」
親しい妖怪たちとともに、見送りに来たれいむやまりさたちが声をかける。
彼女らの挨拶が終わると、最後にボート内に顔を突き出して、永琳本人が言った。
「これは私が考えた、私の実験よ。おまえのものじゃない。今ならまだ、引き返せる……本当に行く?」
「ゆぅ~」
ポリカーボネイトの透明なゆっくり用宇宙ボールに入ったゆぐやが、いつもの眠そうな目で、うなずいた。
「これはかぐやのおしごとなのよ~。かぐやのおかあさんからうけついだのよ~。だからかぐやは、ぜったいおつきさまにいくのよ~」
知らない人間が見れば、本番前だというのに何をのんびりしているのかと思うような口調だが、普段はしゃべるどころか、だらだらごろごろしてばかりで、決して自分から何かしようとは思わないのがゆぐやである。このゆぐやが目一杯本気になっているのが、永琳にはわかった。
ゆぐやの母は、60年代のアポロ計画の一環として、宇宙へ行った。ただ一頭、地球大気圏の外へ出たゆっくりだった。
だがしょせんゆっくり、悲しいかな、黄金のトロフィーに等しいと言われる月着陸ミッションを与えられることはなく、地球の上で朽ちてしまったのだ。
しかし彼女は恋をし、娘を残した。それがこのゆぐやだ。
ゆっくりかぐや種はめったに動かない代わり、寿命が長い。ずっと待っていた彼女に、ようやくチャンスが巡って来たというわけだった。
「いいわ。頑張ってちょうだい。――ゆっくりしていってね」
「ゆっくりするのよ~」
ゆぐやがゆらゆらと体を揺らしてうなずいた。永琳はサムアップサインをしてボートを出た。
作業兎たちが、頑丈なレンチでハッチを閉めた。
「整備塔クリアー! カウントダウン続行!」
「整備塔、オープンします!」
湖の中洲にたつ紅魔館の時計台が、ポーンポーンポーンと規則的なアラームの音を立てながら左右に開いていく。M5型の緑色の姿が、夕刻の幻想郷に姿を現し、真東に向かって首をもたげた。
「まったく、何で私たちの館をこんなことのために……」
「ま、いいんじゃないの。面白そうだし」
紅魔館メンバーは、全員霧の湖の外まで退避させられている。咲夜メイド長の愚痴に、館の主であるレミリアが、にやにや笑いながら答えた。
「あの気違い女科学者がどれほどのものを作ったのか、とっくり見せてもらおうじゃない?」
「お嬢様……館の後始末は私の仕事なんですよ?」
昨夜が悲しそうに首を振った。
永遠邸では、ロケット及びペイロードの総合管制指揮所として、システムの集約的な管理が行われていた。
「妖怪の山から気象情報入電! 風力4、雲量0。気象GOです!」
「飛行哨戒中の博麗霊夢および霧雨魔理沙より入電、周辺空域に障害となる飛行物なし――」
「Tマイナス300、永琳博士、最終判断を」
「GO? NO-GO?」
「もちろん、GOよ」
紅魔館から飛び離れる途中の空中で、永琳が不敵に答えた。
「M5ロケット、最終打ち上げ段階に入ります」
幻想郷の多くの人々とゆっくりが見守る前で、最後のカウントダウンが進んでいく。
「10、9、8、7――」
ロケットの側面から黒い煙が噴き出す。発電用サイドモータ点火。
「6、5、4――」
紅魔館の湖に近い側で、盛大な放水が沸き起こる。噴射衝撃波を緩和するウォーターカーテンの展開。
「3、2、1――」
人々が拳を握る。ゆっくりたちが叫ぶ。
ゆぐやが唇をかみ締める。
「ゼロ。Lift-off!!」
閃光とともに、凄まじい白煙が湖上に吹き渡った。二秒もかけずに湖畔に届き、湖面を覆う。
M5が上昇を始める。鋭い機首を天空へ向ける。突き刺さるように昇っていく。
遅れて、湖畔の人々に、五体を揺さぶるとどろきがバリバリと届いた。
レミリアが、フランドールが、パチュリーが目を見張る。他の人々も。それは確かに、何百年もの時を生きた幻想郷住人にさえ、いまだ目撃されたことのない、壮大なスペクタクルだった。
ただひとり、咲夜メイド長だけが滂沱の涙を流していた。
「あああああ、館がこっぱみじんにいいいいいい……」
「Tプラス10、11、12、13……」
アリス邸ブロックハウスでは、打ち上げ後ロケットの管制が続いている。
「T75、一段燃焼終了! 一段分離!」
「二段点火確認!」
「100、101、102……」
「間もなく妖怪の山管制圏を出ます」
「妖怪の山、ロスト!」
「管制中継を妖怪の山からチェイサーにハンドオーバ!」
「チェイサー、了解ーい!」
高速で上昇し飛行していくロケットは、あっという間に地平線の向こうへ消える。人間たちの場合、ロケットの行程にそって地上追跡局や追跡船を設置しておくのが常道である。
幻想郷に外部の追跡局はない。代わりに永琳が選んだのは、最速を誇る妖怪にロケットを可能な限り追尾させる方式だった。
「清く正しい、射命丸でーーーーーーーーーーーーーーっす!!!」
マスコミ天狗の射命丸文が、翼を羽ばたき大気を切り裂き、すばらしい高速でM5を追っていく。
「145、146、147、148……」
「二段燃焼終了!」
「天狗より地上、竹の二段目がおっこちましたぁー!」
モウソウチク5型は、永琳がDNA改造した巨大な竹のロケットである。その中にはBPシリーズと呼ばれる高分子ブタジエン系固体燃料がぎっしり詰まっている。これが燃える端から、下の段を節目のところで切り離していくのだ。
「182、183、184、185、フェアリングオープン!」
「天狗より地上、竹の先っぽが剥けました! ゆぐやちゃんのボートが出てきてます! っていうか、そろそろつらいでーす!」
この時点ですでにロケットと文の水平分速はマッハ10を越えている。鉛直高度は150Km。アメリカ空軍の定める宇宙高度(80.5Km)のはるか上だ。
空は暗く、星が瞬く。いかに妖怪といえども、宇宙空間の環境はつらい。
「ひきが れきまへーーーーーーーーーーん!」
「地上管制より天狗、あと100秒こらえなさい」
「ひ、ひほごろひー!」
永琳の冷酷な指令に、息を止めて顔を真っ赤にした文が細い悲鳴を上げた。
そんな彼女の頭上で、M5は再び閃光を放ち、加速を始める。
「三段点火! 206、207、208、209」
「へーん、もうやけらー!」
ぶっちゃけ妖怪に酸素は必要ない。根性据えた文がさらに大きく羽ばたいて、ないに等しい高空大気を蹴りつけた。
三段に点火したロケットはますます速度を上げる。空気抵抗が極小なためその速度は天井知らずにあがっていく。時速一万二千キロから、一万三千、一万四千。マッハ17、マッハ18、マッハ19。
「ちょ…………こえ…………まぢ、むぃ……………………」
顔を赤くしたり青くしたり、おぼれた人間みたいにバタバタもがいていた文が、はるか頭上の点のように離れたロケットに目を止め、気づいた。
「てんうよい、ちひょー。ろへっほ、ちぎえ……は……」
Tプラス347秒。加速を終了したM5三段が分離した。
秒速七千九百メートル、軌道速度達成。ゆぐやは人工衛星となった。
力尽きた文が、目をペケにしてへろへろと落ちていく。
透明な宇宙ボールの中。強烈な打ち上げGのせいでぺったんこに潰れていた饅頭が、もぞもぞと動き出した。じきに、ぽむっ! と音を立てて球形に戻る。
「ゆふー…………ちょっぴり、おもかったのよぉ……」
ゆっくりかぐやは一息ついた。ゆっくりは骨がないので、外側さえしっかりボールで支えられていれば、意外とGには強いのだ。
「ゆっくりする、のよぉ……」
ゆむゆむと体を回して、ルナー・ボートの窓のほうを見た。
そして、息を呑んだ。
「ゆぅ……」
そこは天空。
純白の太陽の輝く、暗黒の宇宙。眼下には青い大気と、渦巻く雲。
一望のもと数千キロ四方が収まっている。地球のいかなる王も皇帝も見たことのない、生命の王国。
「おかあさん……ゆぐやは……ゆぐやは……やっとおいついたのよぉ……」
ぽろり、と流した涙は、落下せずに宙に浮く。きらきらと輝いて漂い始める。
「とっても……ゆっくりできるのよぉ……♪」
あとからあとから流れる涙に、きらきらと周りを取り囲まれて、ゆぐやはふわふわとゆっくりする。
幻想郷に外部地上局はない。
このことは、幻想郷とボートとの通信が、一日のうち限られた時間にしかできないということを意味した。永琳は当然、ボートと通信できる時間に月遷移軌道へのトランスファを行うことにしていた。その通信可能範囲と、軌道離脱タイミングが一致するまで、数日かかった。
「今ロケットを噴射しても、月に向いていない。しかし月に向くまで待っていると、電波が届かなくなる。両方が一致するまで待つのよ、かぐや」
「ゆぅ~ん、ゆっくりしているから、だいじょうぶなのよぉ~」
数日の待機など、ゆぐやには屁でもない。ふわふわふわふわとゆっくりして過ごした。
五日後、タイミングが一致した。永遠亭の追跡管制局で、永琳は命じる。
「いち、にい、さんでボタンを押すのよ。いい?」
「ゆぅ~」
「いち、にぃ、さん!」
「……」
「かぐや? かぐや、どうしたの!」
「……すやすや……すやすや……」
ゆぐやは寝ていた。
打ち上げの時はやる気満々だったが、五日も待たされてはやる気が失せるのは当然だった。永琳の必死の呼びかけもむなしく、ゆぐやは起きなかった。持ち時間を使いきり、軌道離脱ウインドウは閉じた。
次のウインドウは八日後だった。
八日後、ゆぐやは聞き返した。
「あかいぼたんだったぁ? あおいぼたんだったぁ~?」
「赤 い ボ タ ン よ ッ」
永琳が握り締めたマイクが、バキャッと音を立てて折れた。
このウインドウも閉じてしまった。次のウインドウは四日後だった。
そして、ロケットのバッテリーが持つのは、その日までだった。
「私は何か、とんでもない間違いをしたんじゃ……」
永琳が人選について真剣に悩み始めたとき、声をかける者たちがいた。
「れいむたちに――」
「まりさたちに――」
「ま か せ て ね !」
現れたのは、ゆぐやの親友だった
森のゆっくりたち!
「あなたたち……!」
永琳は、しゃがみこみ、一縷の望みを託して彼女らの頬に触れた。
「たのむわ……同じゆっくりとして!」
「ゆっ、れいむがはげますよ!」
「まりさがげんきづけてやるんだぜ!」
何の根拠もなく自信満々に言い張るゆっくりたちの姿に、永琳は強く思った。
――ダメかもしんない。
「か・ぐ・や! か・ぐ・や!」
「ゆーえす! ゆーえす! ゆーえす!
「ゆっ、ゆっくりしないでね! いまだけがんばってね!」
当日、永琳の心配をよそに、ゆっくりたちは必死の声援を送った。
「ゆうぅぅ~、うるさくてねれないのよぉ……あ、これ?」
ぽちっとな。
寝ぼけまなこのゆぐやが押したボタンで、M5の四段ブースターが点火、軌道離脱噴射が行われた。
加速後に四段は分離され、ルナー・ボートは月へ向かう。
月は遠いが、地球から遠ざかれば遠ざかるほど、可視時間が長くなっていく。
地球軌道を離れて五日後、幻想郷とボートは、ほぼ一日の半分の時間、交信できるようになっていた。
だが、交信の内容はほとんど永琳の悲鳴で占められていた。
「起きて、ねぇ起きて! お願いだからちゃんと起きて、動いて! おまえを救うのはお前しかいないのよ! サボってたら命にかかわるのよ! 動いてってば! 今だけ、あと二日だけでいいから! それさえ済んだら好きなだけゆっくり出来るから! ねぇ聞いてる? 頼むからいう事を聞いてちょうだい! 聞けっていってるでしょ! 動けこのくそニートが!」
「えーりん、うるさいんだけどぉ……」
「うわわわごめんなさい姫様」
あまりしつこく怒鳴るので本物の輝夜まで起きてきてしまい、あわてて謝る永琳だった。
問題は電力だった。
地球軌道で、ルナー・ボートはバッテリーの電力を使い尽くした。ボートに太陽電池パドルはついていない。船内の温度は自転によるバーベキューロールで保っているから、凍りついたり蒸し焼きになったりすることはないが、通信機やコンピューターは電気を使っている。
電気がなければ、着陸できない。
こんなこともあろうかと、ルナー・ボートには手回し式の発電機が取り付けられていた。バッテリーが底を突いても、残っている最後の力――人力で、最低限の電力を確保するためだ。
だが、その人力ならぬ、ゆっくり力が、予想を超えて頼りないのが問題だった。
「ゆぅ……ゆぅ……」
「寝てないで起きなさーい!」
「だって……ねむいのよぉ……」
今日もニート明日もニート。ゆぐやのさぼり能力は尋常ではなかった。
「こうなったら仕方がないわ……鈴仙! てゐ!」
「はぁぁい……」「なんだウサー」
ものすごいやる気ない顔でやってきた二人に、永琳は次々に命令を出した。プリズムリバー三姉妹を呼んで来い、できれば小野塚小町も、それに八雲紫と連絡をつけろ、等など。
二人の兎は、一応頑張った。だが、小町と紫の返事はそっけないものだった。
「そりゃ、あたしは距離を操れますけど、さんじうまんキロも離れてるものをなんとかしろってーのは、さすがに無理ですねえ」
「隙間はどこにでも出せるわけじゃないのよ」
等など。
頼みの綱の三姉妹が、地上通信士用のマイクの前でじゃかじゃかと躁になるロックをかき鳴らしたが、五分もしないうちに輝夜が現れてマジ怒りされてしまった。
残存電力はいよいよ残り少なく、通信の維持すら難しくなってきた。
「ああもう一体、どうしたら……!」
八意永琳、万事休す。
そのとき――である。
彼女は、ある男のことを思い出した。
それは、幻想郷の住人ではない。日本人ですらない。
あのNASAで、人を月に送るために働いていたという。
今でもいるのかどうかは、わからない。そもそも生きているのかどうか。アポロが終わったのは40年近く昔だ。
それでも永琳は、てゐを呼んだ。
「御用ウサー?」
「ええ、そうよ」
「はいはい、今度はどんな無理難題ウサ」
「アメリカへ行ってちょうだい」
「……」
悪戯ウサギ、さすがに無言。
永琳は腕組みしながら横目で彼女を見つめ、きっぱりと言った。
「アメリカへ行ってちょうだい」
「……いやだと言ったら?」
「M6の乗員になりたい?」
「ふぁーい」
この人相手ではどこまでも貧乏くじを引く、てゐだった。
……というより、だからこそ悪戯に走るのかもしれない。
『かぐや、かぐや』
「……ゆ……?」
ゆうゆうと無重力の心地よい惰眠をむさぼっていたゆぐやは、目を開ける。
「だれなのよぉ……?」
『僕だよ』
だれだろう? 聞いたことがあるような、ないような……。
眠くてだるい。面倒くさい。ゆぐやは再び寝ようとする。
『覚えてないかな。あれは半世紀近く前だしな。君はお母さんより、ずっと小さかった……』
「ゆっ? おかあさん?」
『そうだ。思い出せないかい? 僕は――君のお母さんを宇宙に送った』
年老いてしわがれた声。ゆぐやの味噌餡の脳みそに電撃が走る。
――そうよぉ……このこえには、たしかにききおぼえがあるのよぉ……。
「おにいさんは……じっけんおにいさん!?」
『……うん、まあ、そうだ』
若干の沈黙を経て、すぐに相手は言葉を続ける。
『四十年前、かぐやがいけなかったところに、いま娘の君が行こうとしているという。
僕は……僕は、なんと言っていいんだろう、かける言葉がない。
あのときかぐやには、月へ行けるとさんざん吹き込んだのに、結局行かせてやれなかった。そんな僕には、君に言葉をかける資格など……本当はないのかもしれない』
『ちょっとあんた、そんなヘコむようなこと言ってどうすんのさコラ!』
なにやらウサギの声がぎゃんぎゃんと聞こえるが、ゆぐやは気にならなかった。
母を宇宙へ行かせてくれた彼が、今また再び言葉をくれた――それだけで、何か、長い時間の谷間を経て、足りていないもの届けてもらったような気がした。
「ううん……
おにいさん
かぐや、げんきがでたのよぉ……」
そう言うと、かぐやはゆっくりボールからゆむゆむと這い出て、壁のハンドルに取り付いた。口でくわえて、いっしょうけんめいぐるぐると回す。
発電機が回り、ゆっくりと電力が貯まり始めた。通信機の音声が鮮明になる。テレメーターを監視している永琳の歓喜の声が聞こえた。
『やったじゃない、かぐや! その調子よ、なんとかあと二時間頑張って!』
「ゆっくり、がんばるのよぉ~」
ゆぐやは懸命にハンドルを回し、なんとか着陸に必要なだけの電力を貯めこんだ。
最後にアメリカから、力強い声が飛んできた。
『かぐや、君たちにはこれが一番だったな。――Take it EASY!』
「ゆっくりしていくよぉ~」
ゆぐやは返事をして、ルナー・ボートの窓に見入った。
そこにはいつの間にか、巨大な月の姿が見え始めていた。
月――白銀の盆、あるいは光と闇で形作られた鋭利なる鎌。
竹製の小型固体モータ二本をV字に広げて、うまく推力を加減し、モウソウチク五型は月周回軌道に乗った。
月の脱出速度は、わずか二・四キロ。つまり、かなり速度を落としても地面にぶつかってしまうことはない。
ゆぐやは、低速で流れていく月面の光景を、ゆっくりと眺めた。
灰色の明確な日向。黒色の冥界のような日陰。いや、かすかに日陰も見えている。日向面からの照り返しだろう。
それにしても中間のディテールはあまりにも少ない。白と黒だけ。砂と岩のみ。四季映姫が見れば、あるいは好みそうな景色だが、この風景を好む人は少ないだろう。
ゆぐやは――また、泣いていた。
彼女は知っていたのだ、この地にかつて、月人の壮大な都があったことを。
そしてまた――
彼女は知っているのだ。この地にいずれ、人間の壮大な都が築かれることを。
ただゆぐやは、母と同じように、今ここに来たかった。
月人も、人間もいない、今このときに――。
『月着陸噴射、開始するわ』
はるか遠くに離れた永琳の声とともに、ゆぐやの視界の中で、前方へとモータの炎が伸びた。スッと減速Gがかかる。
『噴射成功。着陸まで四百秒。かぐや、ボールに入って』
「……ゆっ」
ゆぐやはゆっくり宇宙ボールに入り、ワンタッチの蓋を閉じる。
そのまま、窓外の景色を見続けた。当分の間、見られなくなるはずだった。
やがて、地上の景色が近づいてきた。ゆぐやは目を閉じ、衝撃に備える。
窓の外を流れる砂の速度が極限まで高まり――衝撃!
「ゆぐぅっ、ゆぐぅぅぅ!」
球形のルナー・ボートは、レゴリスの砂漠にじかに突っ込んだ。硬着陸。だが停止せず、何度もバウンドする。浅い角度で入ったのが幸いした。それを狙った進入だった。
六分の一重力下で、ぽーん、ぽーんと跳ねたボールは、地上では考えられないほど長々と転がってから、ようやく動きを止めた。
巻き起こった砂塵が、きれいな放物線を描いて落下していき、やがて再び真空が澄んだ。
バシュッ、と音を立ててボートのハッチが開く。
そこから、透明なゆっくり宇宙ボールが顔を出した。
中に入っているゆぐやの歩行によって、ボールは転がり、空中に出て――
とさっ、と軽い音を立てて砂の上に降りた。
「ゆううう……!」
ゆっくりかぐや、月着陸。
幻想郷を出てから、実に二十五日後のことだった。
「ここが……おつきさまなのぉ~」
しみじみと、ゆぐやは月面を見回す。
静かだ。――風はなく、鳥もおらず、人や妖怪も一切いない。
広大な砂と、点在する岩だけの世界。
万年の無人。
億年の静寂。
その荒涼たる景色を見て、ゆぐやは――
「……ゆっくりできるのよぉ~~~~♪」
心から、歓喜した。
そう……それが、ゆぐやが選ばれた理由だった。
月でゆっくりできる、ということが。
ゆぐやは不死だ。体を粉々にされて燃やし尽くされない限り死なない。食料も水もいらず、酸素もいらない。
だからこそ、アポロ計画のサターン宇宙船よりはるかに小さなM5型で、月に来られたのだ。M5はパワーが弱く、月まで一ヵ月近くもかかった。普通の人間が乗ったら、酸素も食料も足りなくて、餓死するか窒息死していただろう。
そして、なんらかの奇跡に恵まれた月に到着したとしても、そこで絶望を味わったことだろう。
M5は、帰還用の宇宙船を載せていないのだから。
そう、これは片道飛行。帰らずの旅。
月に骨を埋める者でなければ、許されない旅。
ゆぐやこそは、その資格を持つ者だった。
「ゆっしょ、ゆっしょ……ゆふー……すずしいのよ♪」
ボートの日陰に入って、ゆぐやは息をつく。月の二十八日の自転に合わせて、多少は動かなければならないだろうが、たいしたことではない。
ここでは、誰も――人間だけでなく、同じゆっくりたちでさえもが――干渉してこないのだ。
絶対の孤独。――究極の放置。
母の夢見た、永遠の、ゆっくり。
いや、厳密にはそうではない、いずれここには誰かが来るだろうから。
だがそれも……ずっと先のことだ。二十年か、三十年か。あるいは千年か、二千年か。
でもその程度ならかまわない。
二十年に一度ぐらいなら……起きてやったって、いいではないか。
『かぐや、着いたの? 報告して!』
「ゆっくり、とうちゃくしたよぉ……」
小さな通信機にそうつぶやくと、ゆぐやはそれをひと呑みに飲み込んだ。
そして、目を閉じた。
「ゆっくり、ゆっくりするのよ~……」
月面、静かの海、アポロ11号着陸地点から二キロ。
白い太陽と青い地球だけが見守る砂漠で、小さなボールがゆっくりし続けている。
あの日からずうっと。
これからもずうっと。
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「ゆっくりと動物の人」さんの「
そらを夢見て」を見て、
発作的に月まで連れてってやりたくなりまして。
YT
- 最後のシーン、「猫の地球儀」という小説を思い出しました。
切ない終わり方ですがこういうの大好きです。あと宇宙開発モノも。ゆぐや可愛いよゆぐや。 -- 名無しさん (2008-10-09 03:21:28)
- 数年前「シューメイカー=レビー彗星」で再び脚光を浴びた
ユージン・シューメイカー博士は元宇宙飛行士候補でした。
彼は難病に冒され、宇宙への道を閉ざされてしまいます。
しかし彼は天文学者として宇宙開発にその一生を捧げ、
多くの飛行士を送り出す事に貢献しました。
今、シューメイカー博士は月に眠っています。
無人月面探査機に彼の遺灰が載せられ、
生前果たせなかった月面着陸を果たしたのです。
シューメイカー夫人は言います。
「夜空を見上げればいつでもあの人に会えるんです。なんて素晴らしい事でしょう!」 -- 私は饅頭 (2008-10-09 04:53:44)
- なんと荘厳な物語っっ そして作者の博識ぶりに脱帽 -- 名無しさん (2008-12-09 16:51:42)
- いいはなしだなーーーー -- ちぇんと(ry 飼いたい (2012-03-29 11:17:20)
最終更新:2012年03月29日 11:17