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ゴミ箱の中の子供達 第21話

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konta

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ゴミ箱の中の子供達 第21話




 気になるブラウスを見つけてモニカはハンガーに吊るされて並ぶ服の列に手を伸ばした。目当ての服のハンガーを
持ち上げ、列から抜き取ると、モニカは自分の体に重ねながら背後を振り返る。

「お兄ちゃん、これどうかな?」

 黄色い半袖のチュニック。アンダーバストから裾までに三段並んだ白いフリルのラインが可愛い。お兄ちゃんには
どう見えるかな。
 モニカの期待に満ちた眼差しの向こうで、兄ゲオルグは能面のように無表情を維持したまま口を開いた。

「まあ、いいんじゃないか」
「ホント! エヘヘ」

 兄の見立てによると、いいらしい。嬉しくなったモニカは軽やかにターンを決めて鏡に向かった。鏡の中で微笑む自分に
チュニックの黄色はぴったり当てはまってるように思える。とたんに沸き起こるタグを見たいという欲求。値段の確認から
始まり、代金の支払いに終わる商品購入の入り口。この服を所有したいという物欲の影。心の奥底から現れるその欲求を
ぐっと堪えて、モニカはチュニックを元の場所に戻した。

「別のところに行こうか」
「そうか」

 突然のモニカの提案にゲオルグもゲオルグで驚くほどの素直さで従った。ウィンドウショッピングも5軒目。始めの方では
呟いていた、買わんのか、という小言も既に諦めたようだった。



 若者の街ベロス。廃民街から地下鉄と環状線を乗り継いで40分のこの街は、所狭しとファッションデパートやブティックが
立ち並び、服飾文化の発信地として流行に敏感な若者達を引き寄せている。
 平日にもかかわらず若者で賑わう街を進むモニカの心持は幸福だった。なにせ憧れの兄とのデートなのだからだ。
浮ついた気分そのままの跳ねるような足取りでモニカはゲオルグの手を引いていく。そんなモニカの意中の人であるゲオルグは、
この街の廃民街とは異なる明るい活気に始めこそ物珍しそうに辺りを見ていたが、ウィンドウショッピング5軒目となった今では
普段通りの無愛想を見せていた。普段からこのような顔だったからか、ゲオルグのこの不機嫌そうにも見える表情をモニカは
気にも留めていなかった。
 兄の手を引いてモニカは気の向くままに路地や交差点を曲がる。そういえばこの通りを真っ直ぐ行くと大人向けのブティックが
あったはずだ。キャリアウーマン向けで、店頭のマネキンは白と灰のツートンカラーでフォーマルかつスタイリッシュに飾られていた。
普段マリアン達と来る時は学生ということもあり敬遠していたが、兄と一緒なら中に入れそうな気がする。バリバリ仕事をこなす自分。
クールで知的な自分。洗練された自分。そんな自分もあっていいのではないか。かっこいい大人の世界を夢想して、モニカは歩に
力をこめる。
 そんなモニカの妄想を小麦が焼ける甘い香りが打ち砕いた。唾液を誘う甘美な芳香に一瞬で現実に帰ったモニカは前方に
ピンク色のワゴン車を見つける。ワゴン車は後ろが屋台になっているタイプだ。あれはクレープ屋台だ。途端に想起される食欲。
昼食は済ませた後だが、甘いものは別腹と言う。先ほどまで空想していたスマートな自分像を忘れてモニカはクレープに心を
奪われていた。
 もっとも、どんなにクレープに魅了されていようとも、モニカは兄のことを忘れたわけではなかった。片手でゲオルグの手を引き、
もう片手で屋台を指差したモニカはゲオルグを見上げて言った。

「ねえねえお兄ちゃん、クレープ食べない?」

 モニカの問いかけにゲオルグは屋台を眺めて、む、という呻き声を漏らす。

「並んでるな」

 続いて口から出るゲオルグの呟き。確かに、屋台の前には人の列が形成されていた。もっともその数は5~6組ほど。クレープの
製作時間を考えればすぐにはける人数だ。決して唸り声を上げるような数ではない。難色を見せる兄の態度が理解できず
モニカは小首をかしげた。

「別にクレープだし、そんなに待たないよ」
「ああ、それもそうなんだが……」

 モニカの言葉にゲオルグは言葉尻を濁すと、モニカの背後に視線を移した。そのままゲオルグはモニカの頭越しにぐるりと
辺りを見渡して、ため息に似た吐息を吐く。
 ゲオルグのこの動作を不思議に思いじっと見つめていたモニカはあることに気づいた。兄の眉間に刻まれた皺が深くなっている……
そんな気がする。しかしいったい何が兄をこんなに思い悩ませているのだろうか。兄の苦悩の原因を探るモニカは先ほどの兄の
動作を思い返す。自分から背後の景色に視線を移すとぐるり、辺りを見渡す。明らかに周囲を気にしている。しかしなぜ気にする必要が
あるのか。
 思索を一歩前進させたところでモニカの頭に天啓のような閃きが走った。尾行されているのだ。モニカとて何かとマフィアの繋がりが
噂されている孤児院の人間だ。マフィアに降った兄達の後ろ暗い話は嫌でも耳にする。きっと闇世界の殺し屋か何かが兄を狙っているのだ。
 現れる黒いスーツにサングラスの男。手には拳銃が握られている。ぐへへ死ねーゲオルグ。突如訪れる兄の危機。それを救うのは
妹の愛だった。お兄ちゃん危ない。身を挺して兄をかばう美少女モニカ。銃声。悪漢が放った弾丸はモニカに命中する。地面に崩れ落ちる
モニカ。妹の捨て身の行為により助かったゲオルグは腰に隠していた銃を素早く抜いて悪漢を退治すると倒れていたモニカを抱き起こした。
大声で妹の名を叫ぶゲオルグ。兄の呼びかけにモニカはゆっくり目を開けると呟く。ずっと好きだったの。震える喉で思いを告白したモニカは
そこで満足そうに笑う。兄に最高の笑顔を見せたところで妹は力尽きる。妹の最後の言葉でゲオルグは己の中の妹への想いに気づく。だが、
その想いをぶつけるべき人を失った彼は妹の体を抱きしめて叫ぶしかなかった。



 モニカの脳内で繰り広げられる一大悲劇。自分がヒロインであることにモニカは思わずほくそ笑んでいた。自分が死ぬという点は決して問題にならない。
この手の物語において銃弾というものはペンダントだか何かに当たって致命傷を負わせないものだ。奇跡の力でヒロインは助かり想い人と結ばれる
ハッピーエンドが最後には待っているのだ。
 さて、最終的に助かると決まった以上問題は、どうやって兄の前に戻るか、だ。病院で――というのは論外にしても、慟哭に打ちひしがれながら
妹の体をひしと抱きしめたら鼓動を感じて――というのは三文過ぎる。死亡という名目でしばらく身を離すのが王道だが、そうなるとその間に
兄は女を作ると相場が決まっている。その女との三角関係を描いた愛憎劇というのは、観客としてみれば申し分ないが、当事者になれと言われると
話は別だ。やはり意中の人が他の女に奪われるのは許せないのだ。
 それではどうしたものか、とモニカが妄想の展開について悩んでいたところで不意にゲオルグが口を開いた。

「話がある」

 来た。素早く現実に戻ったモニカは己の妄想に確信を抱き、兄にそっと寄り添った。

「大丈夫よ。お兄ちゃんはあたしが守るから」

 殺し屋よかかってこい。どんな手で来ても、お兄ちゃんは絶対に守って見せるんだから。
 兄をかばうようにすがりながら、モニカはさり気なく背後の通りを警戒する。人の往来が多い歩道。暗殺者の姿は――分からない。それでも
モニカは袖を握る手に力をこめた。
 そんな妹の行動にゲオルグは当惑の表情を浮かべた。戸惑うように空白をあけてから彼は言葉を続ける。

「実は、トイレに行きたいんだ」
「へ?」

 意外な台詞に思わず声を漏らしたモニカは目を丸くして兄を見上げた。件の兄は恥ずかしげに目尻を掻いた。

「さっきの店で済ませればよかったんだがな。とにかくそろそろ限界なんだ。悪いんだがトイレを探してくるから、俺の分のクレープは適当に
 選んで待っててくれ」

 そう言うやゲオルグはモニカから素早く体を離し、片手を上げて身を翻らせた。そのまま兄は早足で消えていく。雑踏に埋もれていく兄の
背中をモニカは唖然として見送っていた。
 行列を気にしていたのは待てそうになかったから。苦悶の呻きは限界に近かったから。やたら辺りを気にしていたのはトイレを探していたから。
判明した兄の不可思議な態度の訳はモニカ脳内の感動巨編を否定する。身を沈めていた妄想を破壊されたモニカはただ呆然とするしかなかった。
 兄が消えた往来に視線を向けた状態で停止していたモニカの思考は幾許かの時間を経て再起動する。サスペンスもロマンスも奪われて
打ちひしがれている事をようやく認識した彼女はがっくりと肩を落として振り返る。クレープを選ぼう。兄から託された使命を拠り所に、モニカは
屋台に向かった。
 屋台の脇にはメニューをかねた看板が置かれていた。トボトボと看板に近づいた彼女は状態を屈めてメニューを覗き込む。白を貴重に明るく
デザインされたメニューにはイチゴやバナナなどはみ出させたクレープが並んでいる。その画像情報とすぐ側の屋台から漂う甘い香りがモニカの
萎れた心に潤いをもたらした。美味しそうだなあ。甘味の誘惑にモニカの沈んでいた表情はいつの間にか緩んでいた。
 兄は何がいいだろうか。失意から立ち直ったモニカはメニューを睨んで考え込む。兄も男だ。甘さは控えめのほうがいいだろう。だとすれば
ホイップクリームがどぎついフルーツのクレープは止めた方がいいかもしれない。そうなればチョコレートソースのクレープがいいだろうか。
トッピングはチョコレートだけだからそれほどくどくない筈だ。これにしようか――いいや、その右下のクレープもいいかもしれない。クリームチーズと
ブルーベリージャムのクレープだ。クリームチーズが爽やかそうで甘いものが苦手な人でも問題なさそうに見える。いっそのことコーヒークリームの
クレープもいいかもしれない。ホイップクリームがコーヒー風味だから兄も気に入るはずだ。一つに絞れない。自分が食べるのなら失敗しても
失敗したの一言で済むが、人のものとなるとそうはいかないのだ。



 モニカがメニューに向かって悩みこんでいると不意に背後から声をかけられた。

「ねえねえ君一人?クレープ欲しい?」

 モニカが屈めていた状態を戻して背後を振り返ると、金髪の男が待っていたとでも言うように笑いかけてきた。ナンパだ。

「君可愛いじゃん。今日はどうしたの?」

 上体を軽く屈めて、モニカの視線と同じ高さに顔を下げた金髪の男は、自分がかっこいいと信じるナルシズムを抱いた男特有の、整いはすれど
粗製乱造された顔立ちだ。日焼けサロンに通いつめているのだろうか、肌は丁寧に焼かれた褐色。シャギーの効いた金髪に艶はなくパサパサだ。
安っぽそうな黒いスーツはボタンを留めずに前を広げ、開放されたシャツも第二ボタンまで外している。見せ付けている胸元には金色のネックレスが
泥色の肌の上であくどく自己主張していた。嫌らしい笑顔から覗く歯は黄色に染まって不健康そうだ。
 目の前の男の観察をすればするほど、言葉を聞けば聞くほど、モニカの中で軽薄さが重ねられていく。この男は女を口説き落とすしか……いや
その後のホテルでの出来事にしか興味がないのかもしれない。確信を帯びる推論にただいかがわしさだけが募った。
 この受け入れ難い男から少しでも離れようとモニカは足を下げる。だが、その踵が屋台の看板にぶつかって、ごとりと音を立てた。

「ねえねえ、ちょっと俺と遊ばない?クレープも奢るぜ」

 後退に失敗したモニカに男は図々しく顔を寄せる。隔てている空間が更に失ったところで異臭が鼻を刺した。
 一言で言い表せないこの異臭は複数の臭いが混ざり合って構築されているらしい。その外殻は過剰に振りかけられた香水だということは
すぐに分かった。他にはタバコのつんとする臭いに制汗剤の化学的な臭い。それと……なんだろう。男の発する臭いの芯に存在するものは
どうも口に表すことができない。それでも言葉にするならば、男の臭いだろうか。孤児院の男子の部屋特有の臭いがかなり近い。だが、
そのベクトルは不快方向に振り切れている。もう胸のむかつきしか呼び起こさない。
 もうたくさんだ。外見の軽薄さと言葉の馴れ馴れしさは何とか我慢できる。だが、この臭いに生起された嫌悪感は我慢できない。幸い
このご時勢、モバイル端末を使えば兄とはいくらでも連絡ができる。こんな嫌悪感しか呼び起こさない男に絡まれたと知れば勝手に
場所を離れても兄は許してくれるはずだ。一刻も早くここから立ち去ろう。
 結構です、と喉から搾り出したモニカは、横を向いて男の左脇を通り抜けようとする。だが、そのモニカの行く手を影が塞いだ。
視界に広がる黒いタンクトップの胸板。見上げると赤く染め上げた髪の毛を炎のように逆立てた男がモニカを見下ろしている。
サングラスで遮られているためその目を読むことはできないが、いやらしく釣り上がった口元を見れば何を考えているのか容易く
理解できる。

「いいじゃねえかよぉ」

 やけに粘つく声色で赤髪の男が言う。どうやら男の仲間らしい。進路を塞がれたモニカは素早く踵を返し、逆側へ逃れようとする。
だがそれも新しい影が行く手を塞いだ。

「逃げなくてもいいじゃん」

 そう言うは新しく現れた比較的小柄な男。白いボアつきの革ジャンに身を包んだその男はいくらか子供っぽい顔立ちをしている。
髪の毛は灰色で、オールバックにした上で長く伸ばして波打たせていた。手入れさえ良ければライオンのように見えたかもしれないが、
金髪の男と同じくパサついたこの髪質では亡者のようにしか見えなかった。
 逃げ場を失い立ちすくんだモニカは一縷の望みをこめて男達の背後に視線を移す。眉をひそめて囁き合いながら傍観している屋台の
行列だ。その中に、彼女連れと思しき男性を見つけた。助けて――モニカが助けを求めようとしたところで、男は白々しく視線をそらした。
助けてくれない。目をそらした男の意図を理解し絶望するモニカの視界を金髪の男が覆った。

「無視すんなよ」

 黄色い歯を浮かべて、金髪の男はモニカの目を覗き込む。臓腑が腐りきったかのようなすえた臭いの吐息が顔にかかり、モニカの背に
怖気が走った。

「ほら」

 金髪の男がモニカに手を伸ばす。ハンドバックを唯一の頼りとばかりに胸元へ抱いたモニカは少しでも逃れようと体を引くが、男の手は
関係なく伸びてくる。このままでは捕まる。目前の危機にモニカはただただ身を強張らせた。
 いよいよ男の手がモニカの腕をつかむ、ちょうどその時大きな影が接触を遮断するように現れた。視界全体に広がる糊の利いた白シャツに
茶色いチョッキのこの背中は――




「妹に何の用だ」

 ようやく現れた兄は、呻るような低い声で言った。
 来てくれた。男達から守るように立ち塞がる兄の背に、モニカは感激を込めて抱きすがった。三人に囲まれても尚堂々屹立する兄の背が頼もしい。

「あ? アンタこのコのお兄さん?」

 手を遮ったゲオルグへの苛立ちを隠そうともせず金髪の男が詰め寄せる。男のトゲ付いた声色にゲオルグは眉一つ動かさなかった。

「妹さんは俺達と遊ぶことになったから、そこをどけよ」

 吐息はおろか鼻同士が擦れそうなほどに顔を寄せて金髪の男が言う。ゲオルグの胴体越しに見ていたモニカは、背をすがる手に力を込めた。
 個人の領域を挑発的な態度で侵犯する金髪の男に鉄面の如く表情を変えなかったゲオルグは突如振り返ってモニカの肩を抱くと、そのまま男達の
隊列の隙間に体をねじ込んだ。

「断る」

 ゲオルグが応えたときにはもうモニカを胸元に収めた兄は男たちの包囲を突き破っていた。

「おいテメェ、勝手ヌカしてんじゃねえぞ」

 背後からの追いすがる怒号にモニカは思わず振り返る。見ると金髪の男の手がゲオルグの肩を掴んでいた。ゲオルグは腕全体を動かして
男の手を振り払う。それと同時に首だけを回してゲオルグは背後を確認する。その顔に金髪の男がパンチを繰り出していた。
 肉同士がぶつかる鈍い音が響いた。



 背中越しに兄の上体が大きく揺れた。モニカが息を呑んだところで金髪の男が続けた。

「ナメたことしてんじゃねえぞ。ぶっ殺すぞ」

 金髪の男の怒声にモニカが体を硬くしていると、兄は突き放すかのようにそっと肩を押してきた。その力に従いモニカが離れると、兄はモニカに背を、
金髪の男に正面を向けた。戦うつもりだ。驚くモニカに兄は何も語らず腕を構えた。

「やるってのか? 上等ぉ。オラァッ」

 ゲオルグの態度に声を上げた金髪の男は、拳を振りかぶって踏み込んだ。
 男の右ストレートをゲオルグは右腕で弾き回避。攻撃を脇にそらしたゲオルグは前へ足を踏み出す。間合いをつめたゲオルグは、攻撃を弾いた右手を握って
裏拳を叩き込んだ。素人でも分かるほどのカウンターだった。鼻柱を砕く手の甲に金髪の男は上体を大きくのけぞらせると、そのまま地面に大の字に倒れた。

「よくもマクシムを」

 一瞬で倒された金髪の男を見て、赤髪の大男が叫んでゲオルグに殴りかかる。攻撃の気配を察知したのかゲオルグは身を翻らせると同時に状態を屈めて
拳の下へと回避した。そのまま懐に入ったゲオルグは大男の第二撃より先んじて掌打を鳩尾に打ち込んだ。胴体に沈み込んだ掌は肺の空気を吐き出させる。
潰れた蛙の様な呻き声を吐いた大男は崩れるように膝を突き、そして地面に転がった。

「ジャン……畜生ぶっ殺してやる」

 灰色の髪をした最後の一人がゲオルグに向かって拳を突き出した。ゲオルグは顔を腕でかばいながら一歩下がって回避する。だが、ゲオルグの腕を
掠めるはずだった男の拳の端が煌いた。布を裂く音が響き、鮮やかな赤が空を散る。ゲオルグの顔が僅かに歪んだ。男の胸元に引き戻された拳には
血が滴るナイフが握られていた。

「へへっ、どうだ」

 ナイフを自慢げにかざして灰髪の男が口角を吊り上げる。ゲオルグは切り裂かれた左腕を微かに下げる。が、気を取り直したのかすぐさま持ち上げて
構えを戻した。流血は下肢を伝い、折り曲げた肘を赤く染める。未だ戦意を明らかにするゲオルグに灰髪の男は舌打ち一つ打ってナイフを握った拳を
振り上げる。前進しながら勢いとともに男はナイフを振り下ろした。ゲオルグは素早く体をずらしてナイフの切っ先から回避すると、振り下ろされる男の腕に
両手を添えた。男の力には逆らわず、ただゲオルグは前足を下げて体を返しながら男の腕をひねりつつ引き寄せる。ナイフは空を切り、男の肘は一杯に
開かれる。そこをひねられて肘が外を向かされたときには、肘の可動域の外側へと引っ張る力が加えられていた。その結果、男はゲオルグに腕を
引っ張られる姿勢となった。男は足を踏み出してバランスをとろうとするが、抜け目なく足払いがかけられる。たちまち男は手と膝を突いた。男が四つんばいの
姿勢になったところでひねり上げた腕にまだナイフが光っていることを確認したゲオルグは、腕を握ったまま男の手をついている側へ移動した。そして
ひねり上げた腕をもう片方の腕側に倒す。あたかも肩を外すかのような力に男は突いていた腕を崩して腹を見せた。男が仰向けになったところで、
ゲオルグは保持している腕をさらに捻る。腕を捻られる痛みに男は思わず腹を持ち上げた。その浮いた腹部に今度は靴底が叩き込まれる。ゲオルグの
追撃に男はようやくナイフを落とした。自分の股の下に落ちたナイフを蹴って男から引き離したゲオルグはやっと男の腕を放り出した。
 あっという間だった。三人の男をたちどころに、それも刃物を使われても構うことなく打ち倒した兄の姿にモニカはただ立ちすくむしかできなかった。
地面に転がる男達を悠然と見下ろしていたゲオルグは程なく顔を上げるとモニカに歩み寄った。行くぞ、そう呟いて無事な右手でモニカの肩を押す。

「血が……」

 それしか言葉が出なかった。いつの間にか下ろされていた左手には血が線を作り、地面に雫を落としている。

「大丈夫だ」

 いつもと変わらぬ平然とした口調でゲオルグは応える。普段通りの仏頂面に戻ったゲオルグに肩を抱かれたモニカはそのまま兄に押されるようにして
その場を離れた。



 モニカの口から語られるデート中の事件を聞いていたマリアンは思わず感嘆の息を漏らした。引き締まった肉体を持つ兄は強そうと思っていたが、
チンピラ三人をいとも簡単に蹴散らした話を聞くと想像以上だったと驚くばかりだ。
 しかしこの話はどう見ても武勇伝だ。兄を見直す話にはなれど、決してその好意に疑問を呈すような部類の話ではない。マリアンはモニカが
クッションを抱きしめて塞ぎこむ理由が分からず小首をかしげた。

「怖かった?」
「うん、怖かった。お兄ちゃんが強かったのもあるけど、戦ってるとき殆ど表情を変えなかったのが、まるでお兄ちゃんだけ違う世界の人に見えて……、
 お兄ちゃんがすごく遠い存在に見えて、だから怖かった」

 モニカ越しの伝聞なのでいまいち実感はわかないが、目の当たりにしたら畏怖せざるを得ないのは想像できる。だが、それがかつて兄について
一晩中語った彼女をここまで消沈させるものなのだろうか。未だマリアンが腑に落ちないでいると、モニカが、でも、と続けた。

「でも、それじゃない」
「それじゃない?」

 モニカの言葉にマリアンは聞き返す。マリアンの視線の先でモニカはクッションに顔を埋めたまま語った。

「その後でね、お兄ちゃんの傷の手当をするために喫茶店に入ったの。そしたらね――」

 どうやら話はまだ終わりじゃないらしい。核心はこれからの様だ。マリアンは息をついてからモニカの言葉に耳を傾けた。





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