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匿名ユーザー

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月下の魔剣~獣~


 「なんかさ、校舎の屋上に行くと校庭に向かって叫びたくなるよな」

 校舎の屋上へと出た陽太と荵は、星空が一つも出ていない夜を悲しむ間もなく、まだ出会わぬ白い魔犬・ホワイティストとの
戦いに備えていた。もっとも、荵の方は消極的なのだが、陽太より年上なのを気にしてか、顔には簡単に表さない。

 陽太は意気揚々と屋上の柵に駆け寄って、真っ暗な校庭を見下ろした。学園は丘の上に建てられて、校門から延びる下り坂は
眼下に広がる市街地へと続く。元の街の賑わいはこの世界には及ぶことはなく、まだまだ眠るには早い時間だというのに
しんと静まり返っている。陽太は目を輝かせながら、生憎の曇天の元でポーズを決めてみせた。

 「おれは、おれの名は岬月下! 神に、この世の理に叛く男! 今日おれがここで死ぬことが、神の定めた理ならば!
  叛いてやるさ! その理にも!」

「白い魔犬を追ってここまでやって来たのだ。なのにアイツは姿を現さない。陽太の後を追う荵も、多少は不安にかられていた。
空は月や星を覆うように雲が広がって、陽太はそれを不吉な兆しと忌み嫌った。それを払拭するかのように声を高らかにあげていた。
 陽太の気が済むならそれでいいと、荵はそっと背後で見守る。まるで、手のかかる弟の姉のように。

 「ねえ。月下」
 「……」
 「ここには、その……ホワイティスト?は、いないと思うよ」
 「何故」
 「多分」
 「何故」
 「分からない」

 荵は魔犬を傷付けずにいられる方法がないか、果たして陽太に付いて行って正解だったのかと、自問自答をくりかえしていた。
しかし、何の解決にもならないことを荵をさらに苦しめた。出来ることなら、誰もが納得する方法で、大好きな友人や尊敬する先輩の
元へ帰りたい。しかし、誰かを犠牲にしなければ得る物はないという、世の理を否定するには、荵はまだま小さ過ぎる人間だった。

 「月下。わたし、下の階に行ってくるね」
 「おう。出来ることなら、白い魔犬をおびき出してくれよな」

 やめてよ。願い下げだよ。
 荵はぷいとそっぽを向くと、屋上に繋がる扉を開き階段を音を鳴らして下りていった。

 (やっぱり、ヒカルくんとこ……行こう、かな?)

 荵は屋上に戻ってくるつもりはさらさらなかった。他に方法はある、はず。

 一方、屋上に残った陽太はどっかとあぐらをかいて白い魔犬のお出ましを待った。来る当てのない待ち合わせほどつらいものはない。
しかし、闘いに臨む勇猛果敢なつわものには、その時間が長ければ長いほど闘志が燃えるという。
 次第に雲が厚くなり、コンクリートから湿気た匂いが立ち込めてくるのが分かる。

 ぽつり。

 一滴のしずくが陽太の頬に。また、ぽつり。
 しずくが当たる間隔が狭まってくる。


 「雨か」

 陽太が掌を広げて空を仰ぎ見た瞬間、有刺鉄線に囲まれた屋上のタンクの上に異質な獣を発見した。四本足を踏みしめ、
たわわな尻尾を揺らし、そして切り裂くことだけしかしらない牙をむき出しにして、眼下の陽太を見下ろしていた。

 神に叛いた男・陽太。

 白い魔犬・ホワイティスト。

 「来たな、待ってたぜ……。叛神罰当(ゴッド・リベリオン)!いでよ、魔剣!レイディッシュ!!!」

 剣先……大根の先が、きらりと光った。ように見えた。

 陽太の意思が伝わったかのように、ホワイティストはタンクを踏みしめて有刺鉄線を大きく跳躍し、陽太の前に飛び降りてきた。
魔犬は尻尾を振りながら体勢を低くして屈み、陽太のレイディッシュを宣戦布告として受け取った。

 挑発するように陽太はレイディッシュをホワイティストの目の前で丸く剣先を回す。
 唸り声を上げながら、ホワイティストは首をレイディッシュの先に合わせるように動かしている。
 相手の誘いに乗ってはいけない。心理戦を征する者が、闘いを征する。 果して、両者がそんなことを考えいるかは分からないが、
無駄に体力を消耗するだけの行き当たりは避けたい。陽太がずずと摺り足で、徐々に後退していくと、ホワイティストも一歩一歩、
牙を陽太に見せ付けながらにじり寄ってきていた。

 「とあっ!」

 大きく振りかぶってホワイティストの眉間を狙い、渾身なるレイディッシュの一撃を与えようと、陽太は一歩手前に飛び込んだ。
しかし、振りかぶった分ホワイティストに隙を見せてしまい、逃がすチャンスを余計に与えてしまった。身を低く屈み込み、
陽太の脇をすり抜けて行くホワイティスト。陽太が踵を反したときには、禍々しい猛獣の毒牙が陽太の脚をかみ砕こうとしていた。
そうはさせじと、右足を軸に一瞬の隙をついてコンパスのごとく回転した陽太は足を力一杯上げて、ホワイティストの顎を蹴り飛ばす。
残虐なる猛獣と言えども、顎は急所だ。頭蓋骨を伝わって脳を大きく揺さぶらされた魔犬は足をぐらつかせる。
 のけ反りながらホワイティストは自らの体をコンクリートの床に打ち付けた。勝算を見出だした陽太は、足の感触にわなわなと
武者震いを隠しきれなかった。獣の慟哭が夜に響き渡る。その声に怯えたのか、月は消え去り不穏な雲で学園を包み込んでいた。
 コンクリートの匂いが両者の鼻をつく。

 「お前、大したことねーな!尻尾を丸めて地獄に堕ちるさまが似合っているぜ」

 屈辱の極みを味わったホワイティストにとっては、陽太のセリフは新たなる一撃のための源となる。
 陽太の言葉を魔犬が理解しているかは分からない。
 魔犬の動向を察知したかは分からないが、陽太は左手を高く上げ叫ぶ。


 「サイレント・シールド!」

 陽太の手に現れたのは、顔ほどある甲殻類。

 蟹だ。

 固い殻に包まれた蟹は、陽太を守る頼もしい盾となった。

 蟹だ。

 だが、頼もしい盾だ。

 蟹。だ。

 体勢を立て直したホワイティストは陽太の喉元を狙い飛び掛かるが、サイレント・シールドに阻まれて返り討ちに遭う。
固く、そして細かい刺を持つサイレント・シールドは、ホワイティストの鼻先を傷付けて鮮血で滲ませていた。
白く気高い毛並みが赤く染まる。また一度ホワイティストは陽太への執拗な攻撃を試みるが、海の幸を味方に付けた
陽太の守りに傷付き、山の幸の攻めで無駄に体力を削ぎ落とされてゆくだけだった。

 陽太は頬にひやりと冷たい一滴を感じ続けていた。
 一滴が二滴、三滴と続き、束となって両者に降り注ぐ。
 激しくコンクリートの屋上に打ち付けられる雨音が、ホワイティストの気配を洗い流してしまった。

   #

 廊下でたたずんでいた荵は、窓に打ち付けられる雨に驚いた。
 あまりにも急で、激しかったからだ。

 「嫌な予感……」

 野性的な第六感が荵を苦しめる。

   #

 読めない。
 相手の動きが読めない。

 音。

 姿。

 気配。

 全てを雨が流してしまった。
 陽太が『神に叛く男』を名乗るなら、神は『彼に叛く』存在なのであろう。


 陽太の体力を奪い続ける雨は、ますます激しさを重ね、足元を狂わせている。
 ぴたると衣類が体に纏わり付くのも、陽太を苦しめる要因となり、戦局を悪化させていく。

 「ぐはぁ!!」

 予想だにしない脚への一撃。ホワイティストの爪がかすり、陽太のズボンに一筋の亀裂を走らせる。
 同時に陽太の脚から滲み出る血が若き剣士を動揺させた。

 相手は戦いのイニシアチブを奪い取ったと感じたのか、降りしきる雨の中なのにも関わらず、陽太の脚を鋭い爪で襲い続けた。
シールドで脚を守ろうと屈み込むと、無防備な頭部をさらしてしまう。ここに忌まわしき猛獣の爪が食い込むと、命の保証はないだろう。
やがて脚への攻撃に耐え兼ねた陽太は膝を折り、前のめりに崩れ落ちる体勢に成り果てていた。
 うなじに突き刺さる雨が、陽太の剣士たる誇りをずたずたに切り裂いていった。

 「まだ、この命、くれてやるもんか!」

 陽太の叫びと共に猛獣が上から被さり襲いかかる。サイレント・シールドで守りを固めるも、強大な力で割られてしぶきと化し、
恐るべき獣の力をまざまざと見せ付けられてしまった。水びだしのコンクリートへ大の字になって仰向ける陽太に危機が襲う。
 一刀の元にホワイティストを斬り捨てようと、レイディッシュを渾身の力で振り上げる。いけない。腕で振りかざそうとしている。
刀は腰で振るもの。腕だけの力ではどんな名刀だって、鈍らな無銘な刀に成り下がってしまう。それがレイディッシュでさえでも。
 雨に濡れた獣の生暖かい匂いが陽太を狂わせていた。

 哀れな魔剣は魔犬の腕で跳ね飛ばされて、振りしきる雨の中、冷たいしずくとともに校舎の下へと落ちてゆく。

 万事休す。矢尽き、刀折れる。
 全ての神が、岬陽太を見放したと言うのか。
 それとも全ての悪魔の契約が、岬陽太の血を肉を求める内容だと言うのか。

 「こ、これ以上……レイディッシュを召還すると、おれのHPが……」

 神に叛く陽太でさえ質量保存、自然の摂理には歯向かえない。今度、レイディッシュを召還すれば二の足で
大地を踏みしめることさえままならぬことは、陽太には分かりきっていた。しかし……神をも恐れぬ男。それが岬陽太。

 ありったけの力で魔犬の腹を蹴り上げると、苦渋の顔面を魔犬は見せていた。いまこそ、チャンス。道は切り開かれた。
小さな体で四つの脚をリスのようにすり抜けると、膝をついて脚を振るわせながら立ち上がり、前のめりのまま叫んだ。
もはや、闘うためだけの本能が陽太を動かしていたと言っても過言ではない。雨もまた陽太の力を奪い続ける。

 「叛神罰当(ゴッド・リベリオン)。い……いでよ、魔剣!レ、レイディッ……シュ」

 陽太の手には再びレイディッシュは現れたが、もはや陽太の力はそれまでだった。
 薄れゆく意識の中、陽太は魔犬を目の前にして水溜りの中へと崩れ落ちた。

   #

 雨がやむ気配はない。ガラス窓に手を当てて、雨が吸い付く様子を見ているだけ。
 荵の頭に屋上に残した陽太のことが過ぎった。こんな雨の中、来るはずのない魔物を待ち続けているバカモノなど居るはずがない。
きっと校舎の何処かに戻っているのだろう。ひんやりと体の体温が奪われ、雨も見飽きた頃。雨粒と一緒に空から立派な大根が一本
降ってくるのを荵は目撃した。
 光景は異様であるが、白い大根が闇を舞う姿は妙に美しかった。

 「げ、月下のばかー?」

 荵は雨に濡れる覚悟を決めた。

   #


 息を切らせた荵が屋上に着いたときには、あんなに激しかった雨は収まりかけていた。荵の目に飛び込んだのは、
大根を握ったまま冷たいコンクリートに伏していた若き戦士の姿だ。そして、その目前には両足をそろえて、まるで主人の帰りを待つ
忠犬のような、ホワイティストの姿があった。血に飢えた猛獣の印象さえない。滲んだ鼻の傷はすでに癒えていた。

 荵は陽太のレイディッシュを奪い、愛すべき魔犬・ホワイティストと対峙した。

 争いたくはない。
 傷つけたくはない。
 でも。帰りたい。

 揺れ動く荵の気持ちを抑えてくれたのは、魔犬の傷だった。
 尻尾が傷ついている。深い。鋭利な何かで切られたような傷跡。赤い血がぽたぽたと流れる姿は、荵には耐え難い。
しかし一方、陽太がレイディッシュで与えた傷ではないものだと確信した。陽太はまだ、魔犬に手をかけていない、と。
 流れた血の筋を辿ると屋上のタンクの方へと繋がっていた。魔犬がタンクから飛び降りるとき、尻尾を有刺鉄線に引っ掛けたらしい。
荵は全てを理解し、戦う意思を放棄する意味で、大根を冷たいコンクリートへ投げ捨てた。

 「大丈夫。わたしがついているから」

 言葉を理解せぬホワイティスト。荵が何を語っても、通じぬだろう。
 だが、荵はホワイティストと会話が出来る気がした。何故なら……荵はこう語るからだ。

 「地上で生きる全てのイヌは、もっと幸せになるべきだと思うんだ」

 ホワイティストはまるで荵の言葉が分かっているかのように、黙って耳を傾けていた。
荵がホワイティストに近寄っても、荵を攻めることは一切なかった。まるで、昔からの親友のように大切な鼻の先を荵に差し出す。
傷ついていた鼻だ。それでも無防備にホワイティストは荵に鼻を委ねた。そっと触れると、湿った毛並みが荵の手を濡らしていた。

 「だから……。もっと生きて。もっと幸せになって」

 尻尾の傷がうずきく。

 「たいせつな、ともだち」

 真っ白な毛並みに顔を埋めた荵。涙こぼしても、毛並みで濡れたからといい訳しても構わないだろう。

 「逃げて。お願い」

 果たして、通じたのだろうか。それは分からない。

 「……」

 長い沈黙が続く。雨はとっくに止んでいるのに、雨音が消えたことさえ荵は気付かなかった。いきなり荵の頬から、
ホワイティストの冷たい感触が消える。大きな後姿、引きずる尻尾、流れる血潮。荵はその姿をじっと見守った。
 荵が誘うままに白い魔犬は、屋上から空を征するように飛び降り、地上に舞い降りると校門へと走り、彼方へと姿を消してしまった。

 「さよなら。白い魔犬」

 魔犬が消えたあとをいつまでもいつまでも荵は見つめていた。

 そうだ。岬陽太はどうなった。荵はいまだ伏したままの少年の元に駆けつけて呟いた。

 「あ。雨……止んでる」

    #

 彼女を知っている者が見れば明らかに普段のリオとは違うと伺える。
 窓ガラスを叩く雨音に驚いて、ベッドから転げ落ちる姿は見せないはずだ。冷静さを失った風紀委員長など、
この世に必要ない。リオはそれでもなりふり構わず乱れて、身を縮こまらせていた。ヒカルはどうしていいか分からなかった。

 「あいつらが来る!」

 リオはそれしか叫ばない。枕をいきなり持ち上げて、ヒカル……ではなく、ヒカルとは反対側の窓ガラスに向けて投げつけた。
窓ガラス軽くあしらうように、枕を床に跳ね飛ばす。

 「だから、犬上!逃げて!」

 窓ガラスが割れた。爆発するような音とともに。小規模ながら、床に散らばるガラスの破片が衝撃を物語っていた。
リオはスカートを翻し、ニーソックスの脚を露にしながらベッドの上を転がった。部屋の中でも雨音が大きく聞こえてくる。


    #

 「もう。月下はホント世話の焼ける!」

 陽太はずぶ濡れのコンクリートに伏したまま、動くことがなかったもの息はある。ちょっと気を失っているだけだった。
頬も赤くはれ上がった陽太の顔は精悍に見えるのが非常に悔しい。荵はそっと陽太の髪を撫でた。

 「月下のバカー」  

 荵は気を失って倒れている陽太に魔剣を握らせて、自分も陽太のように、何者かに打ちのめされたかのごとく、
自らの体をコンクリートの床に伏せた。制服が濡れる。冷たい。しばらくすると、陽太が息を吹き返す。

 「ネギ……、居たのか?」
 「うーん。痛かったよおお」

 荵は陽太の声を聞くとおもむろに立ち上がり、わざとらしく打ってもいない頭を抱えてみせた。
 濡れたスカートを叩いて、瞬きをしながら荵は周りを見回すと、起き上がった陽太を見つけ(たふりをし)た。
芝居を打って駆け寄る。

 「ネギ、生きているか?無事か……?あれ、アイツは?姿を現せよ、白い魔犬!!」

 荵の演技が始まる。
 演劇部仕込みの、粗引きながらの訴えるもののある演技。

 「魔犬は……消えたの」 
 「消えた?だと……」
 「どうしてわたしたちは闘わなきゃいけないの?どうしてわたしたちは斃れなきゃいけないの?ねえ!月下!答えてよ!
  月下は……、月下はわたしの盾になって、あの忌まわしき血に飢えた魔犬の犠牲になったの……」 
 「……」
 「わたしが屋上に戻ってきたとき、魔犬の牙がわたしに向かってきた。無意識にとった行動なのか、月下は『畜生め!』って
  叫んでいた。獣が乗り移ってきたように、月下は野生の本能をむき出しにして魔獣に一撃を与えようとしていたの」
 「おれがヤツを倒した……のか」
 「そう。全身全霊の力で月下は魔剣で猛獣の急所を捉えたの。同時に猛獣の魔の手がわたしと月下にかかった。
  わたしは跳ね飛ばされた。でも、月下は力の限り大地を踏み締めているのが、薄れゆく意識の中に見えたんだよ。
  最期のときを迎えた巨大な獣は何者かに連れ去られたようにか消え去って、月下はこの地に倒れた。わたし、見たの」

 涙ながら陽太の体を揺すると、荵に持たされた大根を手にしたまま陽太は膝付いて立ち上がった。
 瞬きをして、手にした大根を確かめると自分にまだ息があることの喜びを陽太は噛み締めていた。顔がほころぶ。
陽太が振り返ると、陽太の上着の裾を小さな年上の少女がそっと掴んでいるのを見た。年上の少女は頬を陽太のこめかみに寄せる。

 「月下ー!月下のバカー!!死んじゃったかと思ったよ!」

 少女独特の甘い香りを陽太に振りまくと、たじろぐ陽太は隙を見せることを拒んだ。
 彼は、誇り高き『魔剣遣い』。神をも恐れぬ反逆の勇士。

 「ネギ、心配するな。あのとき神が、おれの耳元で『死ね』って囁いたのさ」

 堰を切ったように泣き出した荵は陽太の胸を拳でぽんぽんっと叩いた。
 そして、荵は

 (ホント、世話の焼けるヤツだっ)

 と、陽太のわき腹をつねった。


 雨に濡れた屋上に取り残されたのは、陽太、荵、そして魔犬が残した血溜まりだった。いや、血溜まりではない……。
赤く染まった血生臭い汚れた海ではなく、透明に透き通った山奥に守られた神秘の泉のよう。
 陽太が不思議に思い覗き込むと、部屋のような景色が見えた。後ろから荵がこっそり伺うと、見覚えのある景色だとすぐに分かった。
イヌのぬいぐるみ、イヌの布団カバー、イヌのカレンダーにイヌのリュック。

 「わたしの部屋だ」
 「やったな、ネギ!魔犬はおれたちに素晴らしい贈り物を残してくれたぞ」
 「え?」
 「この空間を使え。ここから、ネギの世界に帰るんだ」

 一筋の希望の光とともに、雨を降らせていた曇が途切れ、月の光が差してきた。
 帰るなら、これを逃す以外はない。荵は迷う。みなを残して一人だけ、ここから消えてしまっていいのか。
 世の人は『裏切り者』と言い放ち、蔑みの対象へとおとしめるのではないのか。荵に表情を見せぬよう、陽太はくるりと踵を返した。

 「おれはネギの泣くところなんか見たくねえからな」
 「泣かないよっ」
 「じゃあ、素直に帰れ」

 後ろ姿の陽太の表情すら伺えないが、荵は陽太の気持ちがびしびしと伝わってくる気がした。
 小さな拳を握り締め、小さな肩を揺らし、涙越えて行かねばならぬ。荵は演劇部員だ。どんな役でも演じてみせる自信は
素人ながら誰よりもある。ならば、オーダーだ。監督、脚本家さん。わたしの役柄を教えてくださいな。

 『明るくこの場をさよならする久遠荵』。オーダーはこれだ。
 たった一人きりの観客は、魔剣遣い・岬月下。

 「さよなら!またね」

 荵は自分の部屋が写った水溜まりに単身飛び込む。荵が最後に見た陽太の顔は、戦いを終えたときのものだった。
それは精悍な勇者に相応しいものだった。

 岬陽太は別れの印に残された水溜りに魔剣・レイディッシュを投げ入れた。

   #

 温かな布団の中。愛らしいイヌのぬいぐるみに囲まれて、荵は目を開けた。

 「大根?」


 すべて夢ではなかった。口を閉ざしたままの大根は、雄弁に荵へと語る。荵は自分の部屋で布団に潜り込んでいた。
枕元にいたのは、岬陽太でもなく、犬上ヒカルでもなく、同じ演劇部の少女だった。名は黒咲あかね、荵と同じ制服に身を包む。
 あの世界とは、なんら関係もないごく普通の毎日。真っ白な巨大なイヌも、ここには姿さえない。

 「久遠。あまり大した風邪じゃなくてよかった……と、迫先輩に伝えとくね」
 「あかねちゃんだ。どうして」
 「迫先輩が行ってこいって……。そうそう。大根の薄切りを蜂蜜に浸して、染み出た液をお湯で割って飲むとのどにいいよね」

 荵は自分で迫には「風邪のため」と電話、そしてあかねには「イヌを追いかけていた」とメールをしていたことを思い出した。
心配していたあかねは荵の顔を見ると、ほっと一息ついてベッド脇に置いていたイヌのぬいぐるみの頭を撫でた。
 目から上だけを布団から覗かせる荵は、あかねをじっと見つめていた。確かに、荵が知っている黒咲あかねだ。

 「お芝居、素晴らしかったよ。迫先輩もこんな素敵なステージのチケットを手に入れてくれて感謝だね」

 あかねが立ち上がり、黒ストッキングのすらりとした脚が荵の目前に伸びる。あかねは両腕でコートを抱えたまま、
その日演劇部のみんなで観覧した演劇の一部を再現してみせた。荵へのお土産のように。

 「一人の王子、剣の達人であり、孤高の人。彼は何故、自分は戦わなければならないのかと、葛藤に苦しみながら
  戦乱の世を生きる。そして出会った、とある国の王女。初めての恋。止められない王女への想い。しかし……。
  王女は魔獣。王女として世を忍ぶ仮の姿の魔獣。王からの命令で魔獣を倒さなければならなくなったのね」

 荵の口からは言葉はない。
 あかねの話を興味津々と聞いているからではない。王子と誰かが重なって見えるからだ。
 土産話をあかねは続ける。

 「王の命令は絶対。謀反者は磔。魔獣死すべし。だが、魔獣は王子が初めて誰かを大切にしたくなった人。
  すごく良かったよ。迫先輩なんかお芝居が終わった後、たまらずに楽屋へ走ってたし。久遠に見せたかったなあ」 

 あかねは荵の部屋を舞台のように立ち振る舞い、華やかなライト輝く演劇を荵に見せているように見えた。

 「寒くなるからね。お互い気をつけようね、風邪には」

 再び荵の枕元に戻り腰掛けたあかねは、白い頬を紅くして、ふわりとみどりの黒髪を揺らしていた。

 「大したことなくて、よかった」
 「よくないよ!わおー!!」

 荵があかねに噛み付いたのは初めてのこと。

 「みんな……、みんなどこ行ったの!どこ行ったんだよお!」
 「演劇見に行くって言ってたじゃない。久遠は風邪だったし……」
 「違う、違うよ!月下にヒカルくんに……」

 あかねは荵の口から出る名前に聞き覚えはなかった。

 外からイヌの鳴き声が聞こえてきた。反射的に荵は布団から制服姿でローファーのまま、自分の部屋の窓に飛び付いて、
イヌの声の方へ振り向いた。イヌのぬいぐるみに寄り添うように、大根一本がベッドに。

 「月下!」

 また、会うことのない少年の名前を荵は叫ぶ。
 会うことのない……か、どうか。それは神にも分からない。
 ただ、神に叛く者が現れば、また別の話。

 外は降り落ちてきそうなぐらい美しい満天の星空だった。


   月下の魔剣~獣~   

    おしまい。



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