Who the Inside?
※作者:ID:FdmPpj67
※タイトル命名:◆wHsYL8cZCc
※タイトル命名:◆wHsYL8cZCc
「…………?」
中学校での休み時間、トイレに向かっていた足がふらついた。
立ち眩みにしてはかなり強烈である。しかし身体も精神も至って健康であるという自覚はあ
った。最近までダイエットで断食を行ったりもしていたが、望んでない箇所ばかりボリューム
が減っていることに気付いたので、それも先日止めた。
平衡感覚を失いかけ、壁に手を置く。変調そのものより、その原因が気になった。
視線を周りに漂わせた。自分と同じ公立中学の制服を着た学生たちが、そこかしこを歩いて
いる。その中の一人を見て、彼方は眼球の動きを止める。
明らかに妙なモノを纏った男子がいた。
――あの人は。
顔は良く覚えている。去年同じクラスだった男子だ。『オワタ』だの『ワロス』などと日常的
にネットスラングを使っている、分厚い眼鏡を掛けたひょろ長い痩身。名前は何だったか。似
たような人種以外のクラスメイトは彼の存在をほぼ無視していたので、彼方の記憶からも消去
されてしまった。とにかくその男子の身体の周りには、黒い霧のようなものが渦巻いている。
それを目撃した途端、彼方の脳内で一つの仮説が構築された。
『寄生』?
自信が持てない。実物を見た経験が一度もないからだ。私があちこち出歩いて退治している、
と姉が自慢げに語っていたが……。とりあえず、自分の不調の原因があの男子――というかあ
の霧であるということは、彼方は直感で理解できた。
自分以外の誰にも、彼の放っている黒い霧は見えていないのだろう。皆、平然と男子の横を
通過していく。
しかし彼方にはできそうになかった。くるりとターンして、逃げるようにして教室に戻る。
結果次の数学の授業の間ずっと、彼女は尿意との戦いに専念する羽目になった。
中学校での休み時間、トイレに向かっていた足がふらついた。
立ち眩みにしてはかなり強烈である。しかし身体も精神も至って健康であるという自覚はあ
った。最近までダイエットで断食を行ったりもしていたが、望んでない箇所ばかりボリューム
が減っていることに気付いたので、それも先日止めた。
平衡感覚を失いかけ、壁に手を置く。変調そのものより、その原因が気になった。
視線を周りに漂わせた。自分と同じ公立中学の制服を着た学生たちが、そこかしこを歩いて
いる。その中の一人を見て、彼方は眼球の動きを止める。
明らかに妙なモノを纏った男子がいた。
――あの人は。
顔は良く覚えている。去年同じクラスだった男子だ。『オワタ』だの『ワロス』などと日常的
にネットスラングを使っている、分厚い眼鏡を掛けたひょろ長い痩身。名前は何だったか。似
たような人種以外のクラスメイトは彼の存在をほぼ無視していたので、彼方の記憶からも消去
されてしまった。とにかくその男子の身体の周りには、黒い霧のようなものが渦巻いている。
それを目撃した途端、彼方の脳内で一つの仮説が構築された。
『寄生』?
自信が持てない。実物を見た経験が一度もないからだ。私があちこち出歩いて退治している、
と姉が自慢げに語っていたが……。とりあえず、自分の不調の原因があの男子――というかあ
の霧であるということは、彼方は直感で理解できた。
自分以外の誰にも、彼の放っている黒い霧は見えていないのだろう。皆、平然と男子の横を
通過していく。
しかし彼方にはできそうになかった。くるりとターンして、逃げるようにして教室に戻る。
結果次の数学の授業の間ずっと、彼女は尿意との戦いに専念する羽目になった。
その後何事もなく一戸建ての自宅に帰った彼方は、洗面台に手を置き、がっくりとうなだれ
ている姉と遭遇した。普段はパジャマなのに、今日は黒いセーターにベージュのスラックス姿
だ。外出したのだろう。
「ただいま」
「あぁ……彼方……お帰り…………」
ぎこちない動きで振り向いた姉、桃花の目には、仄暗い光が宿っていた。普段はどこかぼん
やりした目つきの彼女にしては珍しい。
「二日酔い?」
「そんなわけないでしょ……あんたじゃあるまいし……」
自分が隠れて飲酒していることを、この姉は勘づいているらしい。
「じゃあどうしてそんなブルーに」
「見てよ、これ」
ている姉と遭遇した。普段はパジャマなのに、今日は黒いセーターにベージュのスラックス姿
だ。外出したのだろう。
「ただいま」
「あぁ……彼方……お帰り…………」
ぎこちない動きで振り向いた姉、桃花の目には、仄暗い光が宿っていた。普段はどこかぼん
やりした目つきの彼女にしては珍しい。
「二日酔い?」
「そんなわけないでしょ……あんたじゃあるまいし……」
自分が隠れて飲酒していることを、この姉は勘づいているらしい。
「じゃあどうしてそんなブルーに」
「見てよ、これ」
身体をこちらに向けた桃花は、右手で肩に辺りまで切られた髪を触った。昨日までは、ポニ
ーテールをほどくと腰に届くほどの長さがあったのだが。
「あの美容院のチャラ男……私が寝てる間に、髪を……髪を……」
声のトーンが沈みきったところで、うふふ、と姉が気味の悪い笑顔を作った。
「二度と行ってやるもんですか……今日あの店は、大事なお客様を一人失ったのよ、いい気味」
「どういう風に頼んだの?」
「とりあえず動きやすい感じに、って。その後すぐ睡魔に襲われたわ。こっちで逐一指示を出
すつもりだったのに」
「自業自得でしょ……」
鏡に向き直った姉が、ヘアゴムを使ってポニーテールを作ろうとしたが、まるで長さが足り
ないので、単なる一本結びに近い。
二階の自室で着替えを済ませた後、しばらくベットの上に寝そべって携帯電話をいじる。今
年クラスの離れた友人から、またしてもメールが来ていた。鬱陶しい、などとは口が裂けても
言えないが、毎日変わった事件が起きるわけでもないので、結局いつか打ったことのあるよう
な返信メールになってしまうのが苦痛だった。生産性がない、無意味な反復行動をしている気
分になってくる。一応今日は珍しいものを見たが――と、そこで彼方はふと思い出した。
隣の姉の部屋に行ったが無人だったので、階下に足を運ぶ。
「姉さん」
「ん? 何?」
リビングのソファにどっかり座っていた桃花は、再放送のテレビドラマを見ながら、すぐそ
ばの木製テーブルの上に乗ったドーナツ屋の紙箱に手を伸ばしていた。高校に行かず定職にも
就いていない姉だが、金遣いは荒い。時折遠方に出掛けて悪霊払いまがいの胡散臭い仕事をし
ては、得体の知れない『組合』なるものから賃金を受け取っているらしい。
「食べていい?」
フローリングの床の上に直接腰を下ろしながら尋ねた。
「どーぞ」
ストロベリーソースのかかったのを一個貰う。小腹が空いていたので、彼方は自分が何をし
に来たのか一瞬忘れかけてしまった。
「そうそう姉さん。『寄生』って見た目どんな感じなの」
「どうしたのよ突然。いつもホラ話だって決めつけてる癖に」
「今日それっぽいのを見かけたの」
「どこで」
「某オタク男子の周りに」
「あらやだ。人間に憑いちゃってるの」
とても十代後半の女性とは思えないおばさん口調で、彼方の姉は言った。新しいドーナツを
齧りながら彼女は続ける。
ーテールをほどくと腰に届くほどの長さがあったのだが。
「あの美容院のチャラ男……私が寝てる間に、髪を……髪を……」
声のトーンが沈みきったところで、うふふ、と姉が気味の悪い笑顔を作った。
「二度と行ってやるもんですか……今日あの店は、大事なお客様を一人失ったのよ、いい気味」
「どういう風に頼んだの?」
「とりあえず動きやすい感じに、って。その後すぐ睡魔に襲われたわ。こっちで逐一指示を出
すつもりだったのに」
「自業自得でしょ……」
鏡に向き直った姉が、ヘアゴムを使ってポニーテールを作ろうとしたが、まるで長さが足り
ないので、単なる一本結びに近い。
二階の自室で着替えを済ませた後、しばらくベットの上に寝そべって携帯電話をいじる。今
年クラスの離れた友人から、またしてもメールが来ていた。鬱陶しい、などとは口が裂けても
言えないが、毎日変わった事件が起きるわけでもないので、結局いつか打ったことのあるよう
な返信メールになってしまうのが苦痛だった。生産性がない、無意味な反復行動をしている気
分になってくる。一応今日は珍しいものを見たが――と、そこで彼方はふと思い出した。
隣の姉の部屋に行ったが無人だったので、階下に足を運ぶ。
「姉さん」
「ん? 何?」
リビングのソファにどっかり座っていた桃花は、再放送のテレビドラマを見ながら、すぐそ
ばの木製テーブルの上に乗ったドーナツ屋の紙箱に手を伸ばしていた。高校に行かず定職にも
就いていない姉だが、金遣いは荒い。時折遠方に出掛けて悪霊払いまがいの胡散臭い仕事をし
ては、得体の知れない『組合』なるものから賃金を受け取っているらしい。
「食べていい?」
フローリングの床の上に直接腰を下ろしながら尋ねた。
「どーぞ」
ストロベリーソースのかかったのを一個貰う。小腹が空いていたので、彼方は自分が何をし
に来たのか一瞬忘れかけてしまった。
「そうそう姉さん。『寄生』って見た目どんな感じなの」
「どうしたのよ突然。いつもホラ話だって決めつけてる癖に」
「今日それっぽいのを見かけたの」
「どこで」
「某オタク男子の周りに」
「あらやだ。人間に憑いちゃってるの」
とても十代後半の女性とは思えないおばさん口調で、彼方の姉は言った。新しいドーナツを
齧りながら彼女は続ける。
「あんまり近づかない方がいいわよ。いつ暴れ出すか判ったもんじゃない」
「暴れ出す……? っていうか、ぱっと見はどうなのよ」
「モノによりけりね。いかにも正統派っぽい鬼とか天狗みたいなのもいれば、レスラーパンツ
被った変態男みたいなのもいたし――」
誰も見ていないところでパンツ男と取っ組み合いをしてたのか、この姉は。
「勿論、黒い霧みたいなのがいても不思議じゃない」
「じゃあ――」
「錯覚じゃなければ、あんたが見たのは寄生なんじゃないの? この私の妹なんだから、その
くらい見えたって罰は当たらないわよ」
彼方は気が重くなった。物心ついた時から母方の祖父に聞かされ続けていた存在が、突然身
近に現れるとは。
「暴れ出すってさっき言ってたけど、具体的には……」
「刃物を持って人ごみに突撃したり、駅のホームで電車が入ってくるのを見計らって、前に立
ってる人を線路に突き落としたり、たまに宿主の精神を喰らって直接現出してきたり」
最後のは謎だが――
「要するにストレス?」
「まあそういう解釈でもいいんじゃない。寄生の正体からして全く解明されてないから、その
辺はお好きなように」
「ふーん。でさ、私が見た男子は最終的にどうなるのよ?」
彼方の興味の焦点はそこだけだった。
「まあろくなことにはならないと思うけど。どうせ世間一般の基準で理想とされている青春か
らはかけ離れた学生生活送ってるんでしょ。そういう人を寄生も選んでるわけだし。自分の目
の前で彼がキレ出さないことを祈ってなさい」
「そんな無責任な。何とかしてよ姉さん。そんな危なっかしい人と同じ校舎の同じ階で授業を
受けるなんて耐えられない」
「えー」
桃花がいかにも不服そうな声を上げる。
「だったらその人を連れてきてよ。さすがに中学校まで出向いたりするのは面倒くさいから」
「連れてくるって、別にあの人と接点なんてないしなあ」
「手紙でも書いて呼び出せば」
「手紙って……」
今の時代、手紙で連絡を取り合う若者などいるのだろうか。何かしらの用件を伝えるにして
も愛の告白をするにしても、ほぼメールである。裏を返せば、アドレスも知らない相手とは基
本的にコミュニケーションなど取らない。それは何も自分に限った話ではないだろう、と彼方
は思う。しかしあんな奴がいつまでもうろついていたら、ゆっくりトイレにいくこともできない。
「暴れ出す……? っていうか、ぱっと見はどうなのよ」
「モノによりけりね。いかにも正統派っぽい鬼とか天狗みたいなのもいれば、レスラーパンツ
被った変態男みたいなのもいたし――」
誰も見ていないところでパンツ男と取っ組み合いをしてたのか、この姉は。
「勿論、黒い霧みたいなのがいても不思議じゃない」
「じゃあ――」
「錯覚じゃなければ、あんたが見たのは寄生なんじゃないの? この私の妹なんだから、その
くらい見えたって罰は当たらないわよ」
彼方は気が重くなった。物心ついた時から母方の祖父に聞かされ続けていた存在が、突然身
近に現れるとは。
「暴れ出すってさっき言ってたけど、具体的には……」
「刃物を持って人ごみに突撃したり、駅のホームで電車が入ってくるのを見計らって、前に立
ってる人を線路に突き落としたり、たまに宿主の精神を喰らって直接現出してきたり」
最後のは謎だが――
「要するにストレス?」
「まあそういう解釈でもいいんじゃない。寄生の正体からして全く解明されてないから、その
辺はお好きなように」
「ふーん。でさ、私が見た男子は最終的にどうなるのよ?」
彼方の興味の焦点はそこだけだった。
「まあろくなことにはならないと思うけど。どうせ世間一般の基準で理想とされている青春か
らはかけ離れた学生生活送ってるんでしょ。そういう人を寄生も選んでるわけだし。自分の目
の前で彼がキレ出さないことを祈ってなさい」
「そんな無責任な。何とかしてよ姉さん。そんな危なっかしい人と同じ校舎の同じ階で授業を
受けるなんて耐えられない」
「えー」
桃花がいかにも不服そうな声を上げる。
「だったらその人を連れてきてよ。さすがに中学校まで出向いたりするのは面倒くさいから」
「連れてくるって、別にあの人と接点なんてないしなあ」
「手紙でも書いて呼び出せば」
「手紙って……」
今の時代、手紙で連絡を取り合う若者などいるのだろうか。何かしらの用件を伝えるにして
も愛の告白をするにしても、ほぼメールである。裏を返せば、アドレスも知らない相手とは基
本的にコミュニケーションなど取らない。それは何も自分に限った話ではないだろう、と彼方
は思う。しかしあんな奴がいつまでもうろついていたら、ゆっくりトイレにいくこともできない。
「……何を書けばいいのかしら」
「『重要なお話がありますので、今夜何時に、ほにゃららまでお越し下さい(はあと)』みたいな?」
実にふざけたアドバイスを、気のない調子で桃花が口にした。
「『重要なお話がありますので、今夜何時に、ほにゃららまでお越し下さい(はあと)』みたいな?」
実にふざけたアドバイスを、気のない調子で桃花が口にした。
翌日。
学校で例の男子の下駄箱を探り当て、無事に呼び出し状を投函した彼方は、最近買った白い
トレンチコートのポケットから携帯電話を取り出した。約束の六時まで、あと五分。
「ふう……」
来てほしいような、ほしくないような。なるべく人気のない場所で、と姉に言われたので、
考えた末に、学校近くにある寺の裏手の墓地を指定してしまった。雑木林に囲まれているので
人目につく恐れもほとんどない。そこかしこに立っている卒塔婆がひどく不気味だが、そこは
我慢することにした。無数にある墓石の裏に、姉は潜んでいるらしい。
メールをチェックしている最中、背中が粟立つような感覚を覚えて彼方は顔を上げた。
焦げ茶色のダウンベストを羽織った男が、こちらに向かってくる。黒い瘴気のようなものも、
彼の周りに充満している。
「……名前も知らない男に、何の話があるのかな。無限彼方さん」
しくじったと思った。名前は今日調べて知っている。ただ、手紙の封筒に名前を書き足すの
を失念していた。
「確か去年は同じクラスだったね? 変わった名前だから、良く憶えてる」
「あ、あの」
何を話せばいいのだろう。そうだ、それも姉に訊いておくべきだったのだ。今更そんなこと
に気付く自分に彼方は怒りを覚えた。
「最近、体調が優れないなんてことは……ありませんか」
「? いや、全然」
足を止め、薄笑いをしながら彼はかぶりを振った。そして言い足す。
「むしろ穏やかだよ。心身ともに」
嘘だろう、と指摘することはできなかった。彼の背後で蠢いていた黒い霧が、徐々に濃くな
っている。
「なら、いいんですけど」
「もしかして話って、それだけ?」
「え、ええ……」
ゆるゆると首を動かし、彼は墓地を見渡した。
「何かの罰ゲームなのかな、これは」
「いえ、そういうわけでは――」
「本当かな。まあ、どうでもいいけど」
学校で例の男子の下駄箱を探り当て、無事に呼び出し状を投函した彼方は、最近買った白い
トレンチコートのポケットから携帯電話を取り出した。約束の六時まで、あと五分。
「ふう……」
来てほしいような、ほしくないような。なるべく人気のない場所で、と姉に言われたので、
考えた末に、学校近くにある寺の裏手の墓地を指定してしまった。雑木林に囲まれているので
人目につく恐れもほとんどない。そこかしこに立っている卒塔婆がひどく不気味だが、そこは
我慢することにした。無数にある墓石の裏に、姉は潜んでいるらしい。
メールをチェックしている最中、背中が粟立つような感覚を覚えて彼方は顔を上げた。
焦げ茶色のダウンベストを羽織った男が、こちらに向かってくる。黒い瘴気のようなものも、
彼の周りに充満している。
「……名前も知らない男に、何の話があるのかな。無限彼方さん」
しくじったと思った。名前は今日調べて知っている。ただ、手紙の封筒に名前を書き足すの
を失念していた。
「確か去年は同じクラスだったね? 変わった名前だから、良く憶えてる」
「あ、あの」
何を話せばいいのだろう。そうだ、それも姉に訊いておくべきだったのだ。今更そんなこと
に気付く自分に彼方は怒りを覚えた。
「最近、体調が優れないなんてことは……ありませんか」
「? いや、全然」
足を止め、薄笑いをしながら彼はかぶりを振った。そして言い足す。
「むしろ穏やかだよ。心身ともに」
嘘だろう、と指摘することはできなかった。彼の背後で蠢いていた黒い霧が、徐々に濃くな
っている。
「なら、いいんですけど」
「もしかして話って、それだけ?」
「え、ええ……」
ゆるゆると首を動かし、彼は墓地を見渡した。
「何かの罰ゲームなのかな、これは」
「いえ、そういうわけでは――」
「本当かな。まあ、どうでもいいけど」
そう言い終えた彼の左手に、黒い霧が収束していくのが見えた。
「やっぱり刀がいいな」
その独り言に、彼方は囁いた。
「刀……?」
「何か一つ武器を選ぶなら」
彼の左手に纏わりついていた霧が凝縮し、それは一振りの抜き身の刀に姿を変えていた。
「妖刀村正か」
左手の刀を地面と水平に構えて目の高さまで掲げた彼は、夕陽を受けて橙色に輝く刀身を満
足げに見つめた。そしてすたすたとこちらに向かって歩いてくる。
「君らが俺のことを蔑んでいたように、俺も君たちみたいなタイプの人種のことを、心底嫌っ
ていたよ」
膝が震えている。今すぐ背を向けて逃げなければならないというのに、身体は全く言うこと
を聞かなくなっていた。何をすればいいのだろう。弁解でもすれば、許してもらえるだろうか?
「私は――」
言葉を継ごうとした時、彼方は男の後ろで跳躍している姉の姿に気付いた。
振り向いた男と桃花の間で刃が交差し、火花と鋭い金属音が生まれる。
「♪」
楽しげに口笛を吹いたのは、黒いマフラーとロングコートに身を包んだ桃花である。それま
でコートの下にでも隠していたのか、彼女もまた、日本刀を手に提げていた。
男が刀を一閃し、姉を後退させる。
「初撃で手首を落とすつもりだったんだけど……中々活きがいいわね。お姉さん嬉しいわ」
その場で刀を軽く振った男が、舌打ちを漏らす。
「ったく……誰だか知らないけど空気読めよ。これから派手に暴れようと思ってたのに」
「それより私の遊び相手になってよ。あなただって、虫けらばかり苛めても面白くないでしょ」
「最近まで虫けらだった身としては、しばらく雑魚を狩って遊びたかったんだけどね――」
喉元目がけて放たれた突きを横に跳んで桃花が避けたが、男は間髪入れず追撃していく。
「しっかし奇遇ね。あなたも同じ村正なんて」
紙一重で通り過ぎていく銀色の軌跡を目で追いながら、桃花がさらに言う。
「これも何かの縁だから、どっちが業物か試してみましょうか」
先ほどよりも重い金属音が、連続で墓地に響いた。双方足を止め、高速の斬撃の応酬を繰り
広げている。
「くっ、はは!」
突然、男が哄笑を撒き散らした。彼の持つ村正の刀身が、みるみる黒く変色していくのが、
彼方の目に映った。そしてそれに呼応するように、彼方の姉が持つ剣の刀身も、深紅の輝き
を帯びていく。一瞬だけ、彼女のサディスティックな笑みが見えた。
男の大上段の構えから放たれた一撃と、地面近くから掬い上げるようにして繰り出された姉
の斬撃が衝突した瞬間、彼方の視界は赤と黒の閃光に埋め尽くされた。
「やっぱり刀がいいな」
その独り言に、彼方は囁いた。
「刀……?」
「何か一つ武器を選ぶなら」
彼の左手に纏わりついていた霧が凝縮し、それは一振りの抜き身の刀に姿を変えていた。
「妖刀村正か」
左手の刀を地面と水平に構えて目の高さまで掲げた彼は、夕陽を受けて橙色に輝く刀身を満
足げに見つめた。そしてすたすたとこちらに向かって歩いてくる。
「君らが俺のことを蔑んでいたように、俺も君たちみたいなタイプの人種のことを、心底嫌っ
ていたよ」
膝が震えている。今すぐ背を向けて逃げなければならないというのに、身体は全く言うこと
を聞かなくなっていた。何をすればいいのだろう。弁解でもすれば、許してもらえるだろうか?
「私は――」
言葉を継ごうとした時、彼方は男の後ろで跳躍している姉の姿に気付いた。
振り向いた男と桃花の間で刃が交差し、火花と鋭い金属音が生まれる。
「♪」
楽しげに口笛を吹いたのは、黒いマフラーとロングコートに身を包んだ桃花である。それま
でコートの下にでも隠していたのか、彼女もまた、日本刀を手に提げていた。
男が刀を一閃し、姉を後退させる。
「初撃で手首を落とすつもりだったんだけど……中々活きがいいわね。お姉さん嬉しいわ」
その場で刀を軽く振った男が、舌打ちを漏らす。
「ったく……誰だか知らないけど空気読めよ。これから派手に暴れようと思ってたのに」
「それより私の遊び相手になってよ。あなただって、虫けらばかり苛めても面白くないでしょ」
「最近まで虫けらだった身としては、しばらく雑魚を狩って遊びたかったんだけどね――」
喉元目がけて放たれた突きを横に跳んで桃花が避けたが、男は間髪入れず追撃していく。
「しっかし奇遇ね。あなたも同じ村正なんて」
紙一重で通り過ぎていく銀色の軌跡を目で追いながら、桃花がさらに言う。
「これも何かの縁だから、どっちが業物か試してみましょうか」
先ほどよりも重い金属音が、連続で墓地に響いた。双方足を止め、高速の斬撃の応酬を繰り
広げている。
「くっ、はは!」
突然、男が哄笑を撒き散らした。彼の持つ村正の刀身が、みるみる黒く変色していくのが、
彼方の目に映った。そしてそれに呼応するように、彼方の姉が持つ剣の刀身も、深紅の輝き
を帯びていく。一瞬だけ、彼女のサディスティックな笑みが見えた。
男の大上段の構えから放たれた一撃と、地面近くから掬い上げるようにして繰り出された姉
の斬撃が衝突した瞬間、彼方の視界は赤と黒の閃光に埋め尽くされた。
思わず目をつぶる。
一瞬で通り過ぎた光の後に残っていたのは、村正を手に立ち尽くす姉と、その前で伏してい
る同級生だった。彼が持っていたはずの刀は、どこにも見当たらなかった。
「姉さん、その人……死んだの?」
「馬鹿言わないでよ。普通に生きてるわ。たまたまとはいえ、寄生が本体から離れて刀の形態
に姿を変えてくれたおかげで、殺さずに済んだ」
「そう、なの……」
それを聞いて、彼方は地面にへたりこんだ。それまで自分が立っていたことさえ忘れていた。
「その人、これからどうなるの」
コートの中から取り出した鞘に刀を納めながら、姉はつまらそうに答えた。
「別にどうも。自分が寄生されてた記憶は例外なく消えるから、彼にはこれまでと変わらない、
辛く苦しい毎日を送ってもらうだけよ」
桃花はどこか皮肉げにそう言った。
「でも……その人は運が良かったんだと思う」
彼方はそう信じたかった。でなければ、彼があまりにも救われない。
「まあ、どう考えるかはあんたの自由よ。――じゃあ、帰りましょうか。今日の晩御飯、何だ
ったかな……家を出る前に母さんに訊いたのに、忘れちゃった」
自分の記憶力を心配している姉の後ろを歩きながら、彼方は携帯電話で百十九番を掛け、匿
名で寺の墓地で男が倒れていることを告げるのだった。
一瞬で通り過ぎた光の後に残っていたのは、村正を手に立ち尽くす姉と、その前で伏してい
る同級生だった。彼が持っていたはずの刀は、どこにも見当たらなかった。
「姉さん、その人……死んだの?」
「馬鹿言わないでよ。普通に生きてるわ。たまたまとはいえ、寄生が本体から離れて刀の形態
に姿を変えてくれたおかげで、殺さずに済んだ」
「そう、なの……」
それを聞いて、彼方は地面にへたりこんだ。それまで自分が立っていたことさえ忘れていた。
「その人、これからどうなるの」
コートの中から取り出した鞘に刀を納めながら、姉はつまらそうに答えた。
「別にどうも。自分が寄生されてた記憶は例外なく消えるから、彼にはこれまでと変わらない、
辛く苦しい毎日を送ってもらうだけよ」
桃花はどこか皮肉げにそう言った。
「でも……その人は運が良かったんだと思う」
彼方はそう信じたかった。でなければ、彼があまりにも救われない。
「まあ、どう考えるかはあんたの自由よ。――じゃあ、帰りましょうか。今日の晩御飯、何だ
ったかな……家を出る前に母さんに訊いたのに、忘れちゃった」
自分の記憶力を心配している姉の後ろを歩きながら、彼方は携帯電話で百十九番を掛け、匿
名で寺の墓地で男が倒れていることを告げるのだった。
おわり