深淵にて
眼下でうごめく幾つもの手のひら。ひときわ高く伸びた力強い手が私を乱暴に掴む。
木塀からふわと足が離れたかと思えば、すぐさま地面へ押さえつけられ、私は悪意を持つ
無数のうねりに身体を包まれた。
木塀からふわと足が離れたかと思えば、すぐさま地面へ押さえつけられ、私は悪意を持つ
無数のうねりに身体を包まれた。
本来人間にとって畏怖の対象たるべきこの私が、今や性欲のはけ口にされようとしている。
いかに私が妖魔の端くれとはいえ、このような大勢の人間に取り押さえられてはどうする
こともできない。
もうダメだ、例えこの場から生還できたとしても、私は一族の名に、いや蛇の目家の名を
も傷つけてしまうことだろう。
いかに私が妖魔の端くれとはいえ、このような大勢の人間に取り押さえられてはどうする
こともできない。
もうダメだ、例えこの場から生還できたとしても、私は一族の名に、いや蛇の目家の名を
も傷つけてしまうことだろう。
「やわらかーい」
「ふかふかだね!」
「ふかふかだね!」
嘲笑に混じり、卑猥な言葉が私を罵る。朦朧とする意識の中、頭や首、背や腰へと、時に
激しく、時に優しく、今までに体験したことのない波濤が身体を襲った。
きちんと毛づくろいしてきた自慢の毛並み、時間をかけて整えたひげ。今まで積み重ねて
きた私の全てが、人間ごときに踏みにじられ、穢されていく。
屈辱、陵辱、淫辱、あらゆる恥辱がそこにあり、しかし最も恥ずべきは私の身体がそれら
の愛撫を徐々に受け入れ始めたことだった。
激しく、時に優しく、今までに体験したことのない波濤が身体を襲った。
きちんと毛づくろいしてきた自慢の毛並み、時間をかけて整えたひげ。今まで積み重ねて
きた私の全てが、人間ごときに踏みにじられ、穢されていく。
屈辱、陵辱、淫辱、あらゆる恥辱がそこにあり、しかし最も恥ずべきは私の身体がそれら
の愛撫を徐々に受け入れ始めたことだった。
――や、やめ……
「ごろごろ言ってる!」
「喜んでるんだよ」
「喜んでるんだよ」
――ないで……
堕ちる、堕ちていく。
渦巻く欲望の撹絆が、深く暗い淫欲の果てへと私を引きずり込む。例えその先に死が待ち
受けていようとも、もはや快楽を止める枷には成り得ない。
私は自分がまだ幼いと自覚していた。幼いが故、淫らな気持ちとは無縁だと思っていた。
ところがそれは大きな間違いだったのだ。
渦巻く欲望の撹絆が、深く暗い淫欲の果てへと私を引きずり込む。例えその先に死が待ち
受けていようとも、もはや快楽を止める枷には成り得ない。
私は自分がまだ幼いと自覚していた。幼いが故、淫らな気持ちとは無縁だと思っていた。
ところがそれは大きな間違いだったのだ。
もはや自分がどのような格好をしているのかも分からない中、エリカ様から頂いたリボン
が、はらりと落ちる。
が、はらりと落ちる。
ああそうか。私は汚されているのではない、求められているのだ。
そんな答えに達した時、ふと諦めにも似た笑みがこぼれる。
全てを失い、全てから開放された瞬間、私は闇と溶け、ひとつとなった――
全てを失い、全てから開放された瞬間、私は闇と溶け、ひとつとなった――
† † †
見上げることしか叶わない深き闇の果て。私は遥か上で揺らぐ光の漏洩をじっと見ていた。
やがて光はゆっくりと降り広がり、どこか懐かしい香りとともに私を包む。
やがて光はゆっくりと降り広がり、どこか懐かしい香りとともに私を包む。
「タバサ……」
光の彼方から、エリカ様の声が。エリカ様の温もりが。
「……もう大丈夫だよ」
私を闇の底から、掬い上げる。
焦げ付くようにくすぶっていた陰鬱な気持ちを、置き去りにして。
焦げ付くようにくすぶっていた陰鬱な気持ちを、置き去りにして。
† † †
突然視界が白く染まり、眩さに細めた目の先が色を取り戻す。
そこはどこかの質素な和室のようで、陽を浴びた藺草の柔らかい香りで満たされていた。
目の前には昨晩の青年が、何故か顔を腫らして仏頂面をしており、その側には見たこと
のない妖狐の少女がこれまた仏頂面で正座をしている。
そこはどこかの質素な和室のようで、陽を浴びた藺草の柔らかい香りで満たされていた。
目の前には昨晩の青年が、何故か顔を腫らして仏頂面をしており、その側には見たこと
のない妖狐の少女がこれまた仏頂面で正座をしている。
はて、これは一体どういうことなのか何も思い出せない。記憶の糸を手繰り寄せるも、
それは途中で綻ぶように途切れていた。
それは途中で綻ぶように途切れていた。
「あ、起きたみたい」
聞き覚えのある声と背中を撫でつける感触に目を上げる、と私は自分がエリカ様の膝の上
で寝かされていることに、ようやく気がついた。
きょろきょろと周りを見回す私を見て、青年はため息混じりに何かを言いかけたが、それ
を制して口火を切ったのは妖狐の少女だった。
で寝かされていることに、ようやく気がついた。
きょろきょろと周りを見回す私を見て、青年はため息混じりに何かを言いかけたが、それ
を制して口火を切ったのは妖狐の少女だった。
「とにかく破損した道場の門と、穴ぼこだらけになった敷地は直してもらいますから」
そっと湯のみを置いて目を閉じる少女を前に、しゅんとするエリカ様。
事情は分からないが穏やかでないことだけは確かなようで、よくよく鼻を効かせてみると
どうも何か焦げ臭い。元を辿って目をやると、開けられた襖から覗く広場はところどころ
で焦げた穴が煙を上げており、その向こうに小さく見える門はそれこそ戦でもあったかの
ように崩れ落ちている。
事情は分からないが穏やかでないことだけは確かなようで、よくよく鼻を効かせてみると
どうも何か焦げ臭い。元を辿って目をやると、開けられた襖から覗く広場はところどころ
で焦げた穴が煙を上げており、その向こうに小さく見える門はそれこそ戦でもあったかの
ように崩れ落ちている。
「門を壊したのは確かに私だけど、道場はクズハさんがやったんじゃない」
不服そうに口を尖らせるエリカ様に対し、クズハと呼ばれた少女は黙ってずずと茶を含み、
鋭く冷たい視線を向けた。その姿はどことなくあのキッコ様を彷彿とさせるものがあって、
私は首を傾げるばかりである。
鋭く冷たい視線を向けた。その姿はどことなくあのキッコ様を彷彿とさせるものがあって、
私は首を傾げるばかりである。
それからしばらくクズハさんとエリカ様の諍いは続き、青年も途中で何度か口を挟もうと
していたようだが、それも面倒になったのか外へ出て、私を呼ぶように口を鳴らした。
していたようだが、それも面倒になったのか外へ出て、私を呼ぶように口を鳴らした。
その時、ほころび途切れていた記憶の端をようやく捕まえることができた。
そうだ、私はエリカ様の恋を遂げさせるべく、この青年の居場所を探しにここへ来たのだ。
でもそれは私の単独行動であったはずで、すると今度はどうしてエリカ様がここにいるの
かが分からない。
そうだ、私はエリカ様の恋を遂げさせるべく、この青年の居場所を探しにここへ来たのだ。
でもそれは私の単独行動であったはずで、すると今度はどうしてエリカ様がここにいるの
かが分からない。
「いいご主人様をもって幸せだな、お前は」
青年がぽつりとつぶやく。
言う通り、確かにエリカ様は従者をないがしろにするような悪い主人ではない。が、なぜ
私がお前にそのようなことを改められなければならないのか、と顔をしかめると、それを
察したのか私の身体をひょいと持ち上げ、室内へと向き直らせた。
言う通り、確かにエリカ様は従者をないがしろにするような悪い主人ではない。が、なぜ
私がお前にそのようなことを改められなければならないのか、と顔をしかめると、それを
察したのか私の身体をひょいと持ち上げ、室内へと向き直らせた。
「大体おかしいじゃないですか、用があるなら普通に入ってくればいいのに」
「それは……だから。そのつもりだったけど、タバサが手籠めにされてたから……私」
「それは……だから。そのつもりだったけど、タバサが手籠めにされてたから……私」
よくよく見れば二人の衣服はところどころ破れ、そこから覗いた擦り傷からはうっすらと
血まで滲んでいる。この状況のみを切り取ってみれば、二人の間に衝突があったのだろう
ことは想像に易い。ひょっとすると青年の両頬についたモミジ型の腫れ跡も関係があるの
かもしれない。
血まで滲んでいる。この状況のみを切り取ってみれば、二人の間に衝突があったのだろう
ことは想像に易い。ひょっとすると青年の両頬についたモミジ型の腫れ跡も関係があるの
かもしれない。
「なんですか、手籠めって。門下生に撫でられてただけですよ」
「よ、よくもそんな! それを手篭めって……強姦って言うんじゃない!」
「言いません」
「よ、よくもそんな! それを手篭めって……強姦って言うんじゃない!」
「言いません」
そこまで聞いて振り返ると、青年はうつむいたまま「くく」と笑いをこらえていた。
「いいご主人様だが、少々抜けてる。というかバカなのかもしれん。まあ、お前はここで
何が起きたか覚えてないだろうから簡単に説明してはやるが、愛想つかさないようにして
くれよな、あんなのが野放しになったらまた討伐せにゃならん」
何が起きたか覚えてないだろうから簡単に説明してはやるが、愛想つかさないようにして
くれよな、あんなのが野放しになったらまた討伐せにゃならん」
どことなく呆れた笑いを含んだその言葉に、どうやら私とエリカ様は浮いているというか、
何かずれてしまっているような、そんな空気が漂っているような気がしてならない。
何かずれてしまっているような、そんな空気が漂っているような気がしてならない。
私は乾いた瞳をぱちぱちと潤してから青年を見上げ、その言葉の続きを待った。