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「忘恩の坂」

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匿名ユーザー

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「忘恩の坂」




「…これこれ四畳半怜角、あの看板に書いてある『べるぎいわっふる』とは何じゃ?」

「…千丈髪怜角です。ワッフルというのは…まあ洋菓子の一種です。」

怜角は騒がしい子供が苦手だ。それにわがままな年寄りもあまり好きではない。しかし今、彼女が背負っている重い輿にはその二つの見事な複合体がどっかりと鎮座している。
『藤ノ大姐』こと花蔵院藤角。怜角は師である蒼灯鬼聡角のさらに師にあたるというこの子供のような女鬼を背中に担ぎ、かれこれもう半日、賑わう週末の地獄中心街を歩き回っていた。

「ふむ…試しに食してみようかの…」

怜角の災難が始まったのは早朝だった。外宮警護の交代でいそいそと獄卒詰め所に戻った彼女は、上司でもある蒼灯鬼聡角の呼び出しを受けた。夜勤明けの召集はたいてい碌な用件ではない。
久しぶりに早く退庁して休日を恋人と過ごす予定だった怜角の不吉な予感は的中し、ひょっこり自領から出てきたこの童女じみた鬼のお供という、迷惑極まりない延長勤務を言いつけられたのだった。

「…いやいや、やはり昼食は蕎麦がよいな。どこか旨い蕎麦屋はなかったかの…」

彼女…大師匠とでも呼べばいいのだろうか、とにかく藤角自体はそれほど重くはない。だいたい昔から大師匠などというものはチビと相場が決まっている。
しかし怜角がその両肩に担ぎ、藤角が居心地よく座っている大層な輿が途方もなく重い。ふんだんに頑丈な黒壇を使い、金箔で花蔵院の家紋などあしらったむやみに豪華な輿の裏には『寄進 閻魔庁獄卒隊有志一同』と書いてあった。
遥かな昔、藤角が獄卒隊を除隊したときに贈られたものらしいが、もし有志の連中に会う機会があれば嫌味のひとつでも言ってやろうと怜角は決心していた。

(…だいたい最近聡角さまはひどいよ…私にばっかりこんな雑用言いつけて…)

黙々と指示通り歩く怜角の憂鬱などどこ吹く風、この年経たおてんば少女は閻魔庁周辺の知人友人のもとを底知れぬタフさで廻り続けている。隠居した老鬼や弥生、縄文級の大亡者たち。その度繰り返す果てしない昔話に、怜角は地獄近代史にかなり詳しくなったほどだ。

「…昔は朱天楼の最上階に『針山』というそれは旨い蕎麦屋があったのじゃが…」

「…火事で焼けちゃったんですよね。今より百万倍立派だった『昔』の朱天楼。」

「その通りじゃ!! なんじゃ今のあの下品な建物は!? 昔の朱天楼はもっとこう、優雅で…」

輿の上で藤角がぴょんぴょん騒ぐたび肩に食い込む革紐が痛い。これだけ元気溌剌なら歩けば良いと思うのだが、都合のいいときだけ年寄りになるのも憎たらしい。

「…いかんいかん、年を取ると愚痴っぽくなる。環状線怜角よ、とりあえず次は酒呑の爺いにでも会いにいこうかの…昼飯くらい出るかもしれぬ。」

「…扉が、閉まりまぁーす…」

もはや名前を訂正する気力もなく、怜角はまたとぼとぼと雑踏のなかを歩きだした。


「…ふう…思うたより味は落ちておらなんだの…」

ちゃんと新築の朱天楼でも営業していた『針山』で大江山酒呑一族の総帥酒呑老と歓談し、蕎麦をご馳走になった二人の鬼は再び地獄の街を歩いていた。
機嫌よく喋りながら怜角の背に揺られていた藤角は、やがて満腹と『針山』で出された酒のせいか、うつらうつら居眠りを始めている。
そっと振り返って彼女を眺めた怜角に、その愛らしい寝顔は無邪気な少女にしか見えなかった。滑らかな頬に長い睫毛。健やかな香りまでがほんのりと甘い子供のものだ。

どっさりと買い込んだ土産物に埋もれ、気持ち良さそうな寝息をたてる年齢不詳の大師匠。ようやくとりとめのないお喋りから解放された怜角は肩をすくめ、よいしょと輿を担ぎ直した。

(…寝てりゃあ可愛いんだけどね…)

我ながら少し僻みっぽいな、と反省しながらも、気がつくとこのところの激務に溜め息が出る。やはり同じ新人獄卒でも胡蝶角や半角のような名門の鬼には、いかに公正な聡角とはいえこんな雑用は命じにくいのだろうか…

(…子守りなら私より胡蝶角の方が向いてるのに…)

先日殿下直々に抜擢された外宮警護班でも怜角は事実上守りの要だ。いくつかの事例で立証された広範囲で正確な彼女の防御力は、外宮に住む閻魔殿下とその従者を完全に守り抜く。
新編成での警護訓練と通常の研修業務。それだけでも同期の倍近い労働量なのに、僅かな余暇にまでこんな子守まがいの雑用とは…
正直なところ外宮警護班には足手まといな古参隊員も多い。いっそデートがふいになるなら彼らにこのお気楽珍道中を任せ、最新情勢に基づいた実戦演習でも行うほうがどれほど有意義か知れない。

(…私の試案通りなら一分、いや四十秒で全ての侵入者を殲滅出来る…)

気が付くと地獄市街を一周した怜角は閻魔庁に続く大通りに佇んでいた。丁度よいタイミングでむにゃむにゃと目覚めた藤ノ大姐が呟く。

「…そろそろ閻魔庁に戻ろうかの…」

「は、はい。承知しました。」

眠たげな藤角の声に怜角はほっと微笑んだ。やっと任務は終了、今ならまだ高瀬中尉と浴衣選びに衣料街を廻り、『いすぱにあ』での夕食という予定に間に合う時間だ。

「…千丈髪怜角よ。こちらが近道じゃ。」

藤角の厳かな声に、颯爽と大通りを急ぐ怜角の脚がピタリと止まった。確かに藤角の指し示す先、寂しく薄暗い路地は閻魔庁へと至る坂道だった。

(…忘恩の…坂…)


この雑多な建造物に挟まれた狭い登り坂が、まっすぐ閻魔庁東門に続いていることは怜角も知っている。しかし彼女は地獄に暮らし始めてからずっとこの有名なこの坂を避けてきた。
現世でその恩を返せなかった相手、もう詫びることも、感謝の言葉を伝えることも出来ない遠い者たちの面影が、行き交う人々の姿を借りて現れるという『忘恩の坂』。
人界で幾多の過ちを犯し、親しい者に別れも告げられぬまま地獄へ導かれた魂のひとりとして、出来れば避けて通りたい坂道だった。

「…はい、藤ノ大姐さま…」

また微睡んでいるのだろうか、それっきり輿の上から藤角の言葉はない。ゴクリと唾を呑んだ怜角はやがて、しかたなくその脚を路地の方角へと向けた。


黙ったままの藤角を乗せた輿が坂の石畳に長い影を落とす。怜角はなるべく行き交う人の顔を見ないよう眼を伏せて歩いたが、何故か路傍の小石すら後ろめたい感情、胸の疼く古い記憶を呼び覚ました。
それは長い贖罪の日々と鬼としての過酷な修練を経ても変わらぬ人間、真樹村怜の記憶。久しく忘れていた物悲しい感覚に彼女は思わず視線を上へと向ける。
だがこんなとき、魂の揺るぎない礎として怜角を力付けてくれる閻魔庁の姿は坂の頂きに隠れて見えず、ただ虚しく彷徨う彼女の視界には狭く長い坂道と、ひんやりと暗い路地に坐る一人の老婆だけが映った。

(あの時の…お婆ちゃん?)

にわかに蘇る瞼の痛みは生前、初めてデモに参加した時の記憶だ。握りしめた角材の硬い感触。世界を変えようと立ち上がった真樹村怜の初陣はあの夜、一発の催涙弾であっけなく終わったのだった。

『…大丈夫かい!? お嬢さん!?』


機動隊の恐ろしい咆哮に追われ、狩られる獣のような恐怖のまま逃げ込んだ見知らぬ民家に老婆はいた。何ひとつ問わず、ただ灼けるように痛む眼を洗い、冷やしてくれた彼女。
曲がった腰と丸く結った白髪頭は間違いなくあの夜、見ず知らずの物騒な女学生を一晩匿ってくれた親切な老婆だった。背中の輿のことすら一瞬忘れ、怜角は老婆が腰掛ける縁台に走り寄った。

「お婆ちゃん!! 私…」

しかし顔を上げ、首を傾げる老婆は全くの別人だった。怜角が確かに見た恩人の面影は微塵もない。ようやく眼の痛みが収まった夜明け、感謝の言葉も告げずこっそり逃げ去った忘恩を償えることはもう無いのだ。

(…あのとき、愚かにも私は『人民の為に闘う者を暇な年寄りが助けるのは当然』なんて思った…)

険しい眉を上げた怜角の脳裏に、黙々と地道な職務に就く仲間の姿が映る。日夜慈仙洞で幼児の世話に励み、必要とされれば危険な任務にも臆さず身を投じる胡蝶角。
同期の彼女が茨木の家柄を鼻にかけ、勤めを選り好みしたことがあっただろうか。後輩である怜角に警護指揮を委ね、その補佐に尽力する外宮警護隊の鬼たちが、そのことに不平を漏らしたことがあっただろうか。

(…私は…また同じ道を歩こうとしていた…)

ここは忘恩の坂。慄然と立ち竦む怜角の傍らを次々と懐かしい顔が通り過ぎてゆく。過激な政治活動に傾倒してゆく彼女に最後まで忠告を続けてくれた恩師や友人、親類たち。
大義と信じた闘争が若さゆえの熱病めいた幻想だったと気付いても、真樹村怜は二度と彼らの元へ帰らなかった。革命の夢から程遠い場所で哀れな骸と成り果ててもなお、自らを滅ぼした傲慢を改めようとはしなかった。

(…常に最も弱き者の下僕として生きよ。)

澱んだ怨念の底から真樹村怜の正しき魂の欠片を懸命に掬い集め、千丈髪怜角として再び光射す道を歩ませてくれた師の言葉だ。


華々しい戦功や名誉とは無縁の場所にあるその道は、全てから学び、惜しみなく施す者だけが歩める道。そのことを忘れた鬼は偏狭な正義を振り回す、愚かで危険な魔物に過ぎない。

(…先生…みんな…叔父さんたち…)

仄暗い坂道を、怜角の改悛を拒絶するように行き交う人々は、かつて同じ教えを真樹村怜に説いたのではなかったか。ずっと昔、もうどんな謝罪も届かない遠い遠い過去に…

(…もう遅すぎるけど…有難うございました。この身が無に還るまで、決してあなたたちの教えは忘れません…)

いつの間にか怜角の震える肩には小さな掌がそっと置かれていた。もう届かない彼女の悔悟を聞き届け、全てに代わって赦しを告げる藤ノ大姐の優しい掌。
そして怜角には解っていた。この忘恩の坂で最後に自分が見なければならないもの、決して涙を流すことない鬼の眼にしっかりと焼き付けておかねばならないもの。
ここは忘恩の坂。ゆっくりと振り返った真樹村怜が遥かな坂の下に見たもの、それは丸めた体をしっかりと寄せ合い、遠ざかってゆく両親の寂しげな背中だった。

「…それでよい。我が孫弟子よ…」


「…怜角!? こんな所にいたのか!!」

不意に馴染み深い声が眩しい坂の頂きから響いた。やっと長く急な路地は終わり、すぐそこに見慣れた閻魔庁の巨大な東門が見える。

「聡角さま!?」

駆け寄ってきた声の主、蒼灯鬼聡角の姿は穴が開くほど眺めてもずっと聡角のままだった。ようやく坂の幻から我に返った怜角は深い安堵のため息を洩らす。


「…休日に済まなかった、ことのほか評議が遅くなってな。代わろう。」

聡角は藤ノ大姐を乗せたままの輿を怜角から受け取り、馴れた手つきで軽々と背負った。いったい何人の鬼が、この輿に小さな師を乗せ様々な道を歩んできたのだろうか。その長く誇り高い系譜に連なった者として、怜角は改めて己の傲りを恥じた。

「…御一緒できて光栄でした。藤ノ大姐さま…」

「おお、大儀であったの。しばし待つがよい…」

ガチャガチャと輿の中を引っ掻き回して墨と筆を捜し出し、半紙に文字をしたためた藤ノ大姐は勿体ぶってそれを怜角の前に広げた。流麗な書体だったが…なにやら達筆過ぎて読みにくい。

「…『チオ髭蕪ノ冷魚』、でしょうか?」

「馬鹿者。『千丈髪藤ノ怜角』じゃ。藤角の名はまだまだ譲れぬ故、まあ今はこれで我慢するがよい。」

「…あ、有難うございます…」

輿が小さく揺れているのは、二人のやり取りを聞いた聡角が珍しく笑っているからだろうか。
悦に入る藤ノ大姐の顔と思いがけず与えられた『藤』の一字を代わる代わる見つめる怜角は、まるで祖母と妹が同時にできたようなむずがゆい嬉しさに戸惑い続けた。


おわり



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