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狸よ躍れ 第4話

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第三話『ところで地獄に野生の狸は棲んでおるのでござろうか』




「花蔵院に咲く美しく麗しい藤の方 嗚呼なにとず……な・に・と・ぞ! この身の愚かさをお赦し……
かあぁーっもう! なんでござるかこのうすら寒い文言は! こんなのを諳んじるなぞ無理でござる!
拙者思ってもおらぬことは口に出せない素直で真っ直ぐな侍でござる!」

 たらふく朝飯を食べた後、迅九郎は自室として宛がわれた和室にあぐらをかいて、藤ノ大姐から渡
された解呪の祝詞を暗記しようとしていた。していたのだが、もう諦めかけている。

 迅九郎にとって藤ノ大姐はあくまで槐角の母という認識であり、その事実はそのままそれ相応の年齢
の女性だという帰結を導いている。その外見については、彼の中では一切意識の外なのだ。これは一面
には底抜けに愚かに見えるかもしれないが、一方で相手の本質のみを見ているということでもある、と
言えなくもない。

「外見がどれだけかわいらしい童女であろうが、中身はおババ様でござってあぁあぁぁやっちゃっ――」
 ドロン、という古風な音がして、迅九郎の身が一瞬で縮んでいく。後には小さな狸が残されるのみだ。

(やってしまった……。「おババ様」でも駄目なんでござるか。じゃあなんて呼んだらいいんでござる?)
 小奇麗な和室の畳の上で、一匹の子狸が小さくなってしょぼくれている。目の前にある祝詞を心の中
で唱えればすぐに迅九郎に戻れるのだが、そうする気配もなく、ただしょぼくれている。

(そもそも拙者、なんでこの家に召されたのでござろう。槐角殿は早速姿が見えぬし、おババは何も語っ
てくれぬし。わけもわからずいきなり狸にされただけではないか)
 子狸は心中でそのように、ぽつぽつと愚痴った。ぼんやりと視線を巡らせる。何を見ているわけでも
ないようなその目はしかし、ある一点でぴたりと止まった。

 彼が普段腰に佩いている愛刀。本来ただの亡者にすぎないこの侍が、特例で携帯することを許された
もの。慣れない四足歩行で、ひょこひょことその刀に近づいていく。

(我が剣、童子切よ。お主の主は狸になってしまったぞ。なんとも情けないことでござろう?)
 そう語りかけて、しんみりとする子狸。祝詞を読み上げて人間に戻ればいい話ではあるのだが、やは
りあの寒気のする祝詞を上げるのは抵抗があるらしい。

 子狸がどれほどの間そうやってたそがれていたのか。いずれにせよその湿っぽい静寂は、不意の大音
声で破られることになった。

「旦那様! 旦那様ァ! 大変ですニャ! 鬼婆ですニャ! 鬼婆が出ましたニャ! 旦那様ァ!」
 聞いたことのない声、そして喋り方だった。まあ迅九郎の地獄歴からしてそれは当然なのだが、それ
は実に甲高くよく通る質で、特徴的な喋り方だった。

 兎にも角にも、ただ事ではなさそうだ。そう感じた迅九郎は、素早く部屋を飛び出していた。無論、
子狸の姿のままで。

「今日は槐角は閻魔庁へ出向しておるでの。仔細はわしが聞こう」
 勢いよく飛び出してみたものの、声の発信源がどこだかわからないので適当に走っていると、藤ノ大
姐の声が聞こえた。速度を緩めて、とととっと小走りで近づく。

「ん? おやおや、かわいらしい狸がおるわ。しかしおかしいのう、この屋敷で狸など飼うてはおらな
んだはずじゃが」
 寄ってくる子狸に気付いた藤ノ大姐は、くすりと愛らしくも意地の悪い笑顔を口の端に浮かべて白々
しく言った。

 迅九郎は迅九郎で、もしかしてこのおババは呆けておるのかなどと、見当外れで不遜な感慨を抱いて
いた。
 藤ノ大姐の言葉を受けて、そこにいた第三の人物がその口を開く。
「ホントだニャ! 野良狸ですかニャ? まったく厚かましくて図々しい奴ですニャ!」

 甲高い声と特徴的な口調。そしてその口調にぴったり一致する姿。正確には「人物」ではなかった。
(にゃにゃにゃんと! 猫が喋っておる! 化け猫の類か? しかしいずれ失礼な化け猫でござるな)
 なぜか口調に感染しつつ、軽く立腹した迅九郎は、狸の姿のままで怒ってみることにする。その感情
は体毛を逆立て、フーッという唸りを上げるという形で体現された。

「おお、こわいこわい。子狸が怒っておるわ。険呑じゃアカトラ、逃げた方がよいかもしれんのう」
「ニャハ! ですニャですニャ! ニャー、狸さんこわいニャー、ニャんてニャんて」
 どうやらまるで小馬鹿にされただけで終わったらしい。慣れない姿での全力疾走もあり、迅九郎はな
んだか疲れてきていた。こてんとその場に小さくうずくまる。その様子に、藤ノ大姐はふうと小さな息をついた。


「まったく大したたわけ者じゃの、そなたは。今回は急ぎじゃ。特別に許してやろうぞ」
 優しく言って、藤ノ大姐は子狸の額に軽く指を添えた。ふっと息を吹きかける。昨日迅九郎に行った
のと同じこと。しかし今回ばかりは、その効果は逆になった。

「ニャ!? に、人間!?」
 アカトラと呼ばれていた化け猫が大いに驚いている。そしてまた。

「た、大姐様? 戻してくださったのでござるか?」
 迅九郎も驚いていた。
「今回だけじゃ。急ぎがあるからの。その代わり後でちゃーんと祝詞を読み上げさせるから、そのつもり
でおれ。わしの目を見ながら心を込めて音読するのじゃ。よいな?」

 迅九郎は絶句した。頼みもしないのに人間に戻されたかと思えば、あのうすら寒い祝詞を音読。成程、
確かにここは地獄でござるなと、そこはかとなくずれた実感を抱いた。

「い、今はそれは置いておきましょう。それよりも、一体何事が起こったのでござるか」
「そうそれニャ! 大姐様、鬼婆が出たんですニャ!」
「何、鬼ばむぐぐう」

 鬼ババ、と言おうとした迅九郎の口は、藤ノ大姐の小さな手に塞がれた。
「そなたはいっそ喋らんほうがよさそうじゃ。黙っておれたわけ者。ふむ、鬼婆か。やはりあの手合い
の執念は凄まじいということかのう」

 顎に指を添え、藤ノ大姐は思案する。しばらくそうしていたが、ひとつ露骨なため息をついて言う。
「まったく面倒じゃのう。本来なら槐角か蓮角あたりがやるべきことじゃというに……。ま、仕方がないの。
どれ、アカトラよ。ちと鬼婆の出現地に案内するのじゃ」
「た、大姐様が出向かれるんですかニャ?」


 困惑するアカトラの言葉を受け、藤ノ大姐はちらりと迅九郎に視線を送った。
「本来ならこやつ一人で行かせたいところじゃ。しかしこやつにはまだ何の説明もできておらんでな、
そんな者を一人で向かわせるのは流石に酷というもの。ま、わしは単なる付き添いじゃ」
「……あ! もしかしてこの狸野郎が噂の侍なんですかニャ? なるほど合点わかりましたニャ!」

 一人で勝手に納得しきって、化け猫アカトラは屋敷の玄関と思しき方向へ一目散に駆けていった。
それを見送った後、藤ノ大姐はこくんと小さく頷いて。

「聞いておったのう、狸侍よ。さ、すぐに支度をするのじゃ。そなたは稀代の妖怪退治屋じゃったそう
じゃが、流石に刀も持たずに死合はできぬじゃろう?」

 そっけなく言って、迅九郎に背を向ける。
 迅九郎はと言えば、正直まったくと言っていいほど状況を飲み込めていなかった。美味い朝飯をたら
ふく腹に収めて寛いでいたかと思えば、突如現れた口を利く化け猫。その化け猫が語るに、鬼婆が出た
とか。そして今、刀を持て、支度をせよと鬼ババに言われているところ。

 なんとかそこまで整理したところで、背中越しの鬼ババの声。
「そなたは疑問に思っておるのじゃろう? 己はなぜここにいるのか、己はここで何を為せばよいのか」
「……仰る通りにござる。狸にされるためにここにいるのかと真剣に悩みかけておりました」
 それは本心だった。真剣に悩みかけていたことも含めて本心だった。

「ふむ、ならばもう一度言うぞ。支度をするのじゃ、今すぐに。そなたの胸につかえる疑問、わしに
ついてくれば必ず晴れるからの」
 振り向きながらそう言った藤ノ大姐の声音は、あくまで年恰好相応ながら、有無を言わせない威厳
も備えていて。

 ああ、これが年季を重ねた鬼ババの迫力か、などと恐れ知らずな感慨を抱きながら、迅九郎は刀を
取りに自室へと駆けるのだった。


 第三話『ところで地獄に野生の狸は棲んでおるのでござろうか』終



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