翌日――次の『×』到来まであと7日(予想)。
天照研究所はあと始末のためにいろいろと大変、とのことだったので私は今日は普通の大学生らしくすごすことにした。
1週間ぶりに友達たちと会い、談笑していると、もとの生活に戻ってきたのだなぁという実感がしみじみとして、
私は大あくびが出た。
「みんな心配してたんだよ」
昼休みになってグループに合流した岡本結衣が私の顔を覗き込んで言った。
私はつとめて明るく笑いながら、感謝の言葉を添えて謝罪をする。
「体はもう平気なの?」
問いかけに私は頷いた。
「よかったね、治って。結局なんだったの? 病気? ケガ? 」
返答に窮し、適当にごまかす。
「へぇー、そうだったんだ。治ってよかったね。」
岡本はにっこり笑った。
「ところでさ、みんな3限空いてる? ご飯食べいこうよ!」
いいね、と私は返し、周りの仲間も賛成する。
すると岡本はカバンからスマートフォンを取り出した。そのイヤホンジャックには例の小さな魔学機械がついている。
第3の『×』に対してバリアを展開させたものだ。私は眉をひそめた。
岡本はスマートフォンを口元によせて話しかける。
「『お昼ごはんを検索して。ここにいる皆が満足できるやつ』」
私はぎょっとした。
彼女のスマートフォンはものの数秒で検索を完了して結果を画面に表示させ、岡本はそれを皆に見せていたのだ。
そして画面をのぞき込んだ彼女たちは全員がきゃあきゃあと楽しげに検索結果に頷いていた。
そんな、ありえない。私は思った。
音声だけで検索等を行うシステムはすでにiPhoneなどにもあるが、なんだあれは。
あんな曖昧で漠然とした、しかも周囲の状況まで織り込んだ検索条件で正確な結果が出せるわけがない。
でも彼女たちの様子はまさに求めていたものをずばり提供されたときの反応だ。私は岡本に、私にも見せて、
と言った。
彼女が差し出した画面にはまさに私の空腹具合にマッチしそうなパスタ専門店が表示されていた。
しかもどうやらこの検索結果は、今から出発し、食事を終えて、次の授業に間に合うための所要時間までも
自動的に考慮したもののようだった。
私は少し寒けがした。
「ねぇ……これ、アプリ?」
私が訊くと、岡本は頷く。
「このあいだね、変な怪物が大学に出たときにバリアみたいなのを出したこの小さな機械のことが気になって、
もらったとこへ訊きに行ったの」
岡本はイヤホンジャックに刺さったままの銀色の機械を指した。それはたしか病院で配られていたんだっけ、
と彼女が語っていたことを私は思い出す。
「でも、天照研究所が開発元だからそこに問い合わせてくださいって言われて……で電話したんだ。そしたら」
「そしたら?」
「そこで研究してる新しい技術について教えてくれてさ、
それを使った新しいアプリのモニターになってってお願いされたんだ。それがこの『状況検索アプリ』」
「そんな……」
私は愕然としていた。だって、そんなの……おかしい。
だってこれって――
「『魔学』って言うんだって」
私は絶句した。
天照研究所は魔学を隠し通そうとしているんじゃなかったのか。
怪物を生み出す危険な技術を、無知な素人に使わせるなんて、危険すぎる。
バリアならまだわかるけど、こんなの、必要ないじゃないか!
「……その、結衣、その人、どんな人だった……?」
「え、どの人?」
「問い合わせにこたえてくれた人」
すると彼女は少し困った表情をした。
「それが電話だったからさ。どんな人かは分からないんだよ」
「それでも、男か女かくらいは……」
「んー、どっちかと言えば、女の人……いや男の人にも聞こえたような……」
私は歯噛みした。
こんな質問には意味が無いんだ。もし電話に出た人が天照研究所の方針に逆らっているのなら、
容易に特定されてしまうようなヘタを打つはずがない。
私はそれから、直接その人に電話が繋がったのかと訊いたが、岡本からは受付から担当者に回された、
と言われた。その受付は機械音声だったとも。
それに魔学を使えば、他人のスマートフォンに自動でアプリをダウンロードさせることも不可能ではないはずだ。
……高天原さんあたりに、直接会って訊くしかないのだろうか。
私はもやもやした気持ちを抱えたまま、彼女たちとその料理店に行かざるを得なかった。
1週間ぶりに友達たちと会い、談笑していると、もとの生活に戻ってきたのだなぁという実感がしみじみとして、
私は大あくびが出た。
「みんな心配してたんだよ」
昼休みになってグループに合流した岡本結衣が私の顔を覗き込んで言った。
私はつとめて明るく笑いながら、感謝の言葉を添えて謝罪をする。
「体はもう平気なの?」
問いかけに私は頷いた。
「よかったね、治って。結局なんだったの? 病気? ケガ? 」
返答に窮し、適当にごまかす。
「へぇー、そうだったんだ。治ってよかったね。」
岡本はにっこり笑った。
「ところでさ、みんな3限空いてる? ご飯食べいこうよ!」
いいね、と私は返し、周りの仲間も賛成する。
すると岡本はカバンからスマートフォンを取り出した。そのイヤホンジャックには例の小さな魔学機械がついている。
第3の『×』に対してバリアを展開させたものだ。私は眉をひそめた。
岡本はスマートフォンを口元によせて話しかける。
「『お昼ごはんを検索して。ここにいる皆が満足できるやつ』」
私はぎょっとした。
彼女のスマートフォンはものの数秒で検索を完了して結果を画面に表示させ、岡本はそれを皆に見せていたのだ。
そして画面をのぞき込んだ彼女たちは全員がきゃあきゃあと楽しげに検索結果に頷いていた。
そんな、ありえない。私は思った。
音声だけで検索等を行うシステムはすでにiPhoneなどにもあるが、なんだあれは。
あんな曖昧で漠然とした、しかも周囲の状況まで織り込んだ検索条件で正確な結果が出せるわけがない。
でも彼女たちの様子はまさに求めていたものをずばり提供されたときの反応だ。私は岡本に、私にも見せて、
と言った。
彼女が差し出した画面にはまさに私の空腹具合にマッチしそうなパスタ専門店が表示されていた。
しかもどうやらこの検索結果は、今から出発し、食事を終えて、次の授業に間に合うための所要時間までも
自動的に考慮したもののようだった。
私は少し寒けがした。
「ねぇ……これ、アプリ?」
私が訊くと、岡本は頷く。
「このあいだね、変な怪物が大学に出たときにバリアみたいなのを出したこの小さな機械のことが気になって、
もらったとこへ訊きに行ったの」
岡本はイヤホンジャックに刺さったままの銀色の機械を指した。それはたしか病院で配られていたんだっけ、
と彼女が語っていたことを私は思い出す。
「でも、天照研究所が開発元だからそこに問い合わせてくださいって言われて……で電話したんだ。そしたら」
「そしたら?」
「そこで研究してる新しい技術について教えてくれてさ、
それを使った新しいアプリのモニターになってってお願いされたんだ。それがこの『状況検索アプリ』」
「そんな……」
私は愕然としていた。だって、そんなの……おかしい。
だってこれって――
「『魔学』って言うんだって」
私は絶句した。
天照研究所は魔学を隠し通そうとしているんじゃなかったのか。
怪物を生み出す危険な技術を、無知な素人に使わせるなんて、危険すぎる。
バリアならまだわかるけど、こんなの、必要ないじゃないか!
「……その、結衣、その人、どんな人だった……?」
「え、どの人?」
「問い合わせにこたえてくれた人」
すると彼女は少し困った表情をした。
「それが電話だったからさ。どんな人かは分からないんだよ」
「それでも、男か女かくらいは……」
「んー、どっちかと言えば、女の人……いや男の人にも聞こえたような……」
私は歯噛みした。
こんな質問には意味が無いんだ。もし電話に出た人が天照研究所の方針に逆らっているのなら、
容易に特定されてしまうようなヘタを打つはずがない。
私はそれから、直接その人に電話が繋がったのかと訊いたが、岡本からは受付から担当者に回された、
と言われた。その受付は機械音声だったとも。
それに魔学を使えば、他人のスマートフォンに自動でアプリをダウンロードさせることも不可能ではないはずだ。
……高天原さんあたりに、直接会って訊くしかないのだろうか。
私はもやもやした気持ちを抱えたまま、彼女たちとその料理店に行かざるを得なかった。
その日全ての授業が終わって、私は友達のカラオケへの誘いも断り、まっすぐに天照研究所へ向かった。
が、研究所前までやってきた私はなんだかいつもと様子が違うことに気づく。
正門前に報道機関の車や記者が張り込んでいるのはいつもどおりなのだが、それに加えてある種異質な緊張感が
研究所全体から漂っていたのだ。おそらく事後処理のために忙殺されているためだろう。
研究所前の道路を挟んだ反対側からなんとなく様子を伺ってみる。時刻はすでに6時過ぎだが、
まだ明るいために正門の隙間から見える向こうまでもなんとか見渡せた。
少しの間私は研究所内に入ろうか入らまいか迷っていた。するとそのとき玄関から身長の低い人間がひとり出てきて、
正門に向かって歩いてくる。正門周りの記者たちが待ってましたと言わんばかりにカメラやボイスレコーダーの準備を
始めるが、その人物が正門をくぐると、目の前に相手がいるにもかかわらず彼らはその人物を見失ったようで、
急に辺りをキョロキョロしはじめた。
出てきた人物は因幡命で、手に持った魔学スマートフォンをいじっていた。
おそらく記者たちが彼女を見失ったのも魔学によるものだろう。つくづく便利な技術だ。私は声をかけようとしたが、
それよりも早く彼女のほうが私に気づいた。
因幡は左右確認もせずに道路をだらだらと横断し、私の前に立つ。
「何してんの? 研究所に用?」
そう言った彼女の顔には隠しきれない疲労の色が見てとれた。
「寝不足ですか?」
私が訊くと、彼女は頷き、それから大あくびをひとつする。
「昨日徹夜。後処理とか……カオスマンの治療とかで」
「そういえば、カオスマンはあのあとどうなったんですか?」
「君も酷い人だね。これから病院に彼の様子を見に行くけど、来る?」
そういうことになった。
が、研究所前までやってきた私はなんだかいつもと様子が違うことに気づく。
正門前に報道機関の車や記者が張り込んでいるのはいつもどおりなのだが、それに加えてある種異質な緊張感が
研究所全体から漂っていたのだ。おそらく事後処理のために忙殺されているためだろう。
研究所前の道路を挟んだ反対側からなんとなく様子を伺ってみる。時刻はすでに6時過ぎだが、
まだ明るいために正門の隙間から見える向こうまでもなんとか見渡せた。
少しの間私は研究所内に入ろうか入らまいか迷っていた。するとそのとき玄関から身長の低い人間がひとり出てきて、
正門に向かって歩いてくる。正門周りの記者たちが待ってましたと言わんばかりにカメラやボイスレコーダーの準備を
始めるが、その人物が正門をくぐると、目の前に相手がいるにもかかわらず彼らはその人物を見失ったようで、
急に辺りをキョロキョロしはじめた。
出てきた人物は因幡命で、手に持った魔学スマートフォンをいじっていた。
おそらく記者たちが彼女を見失ったのも魔学によるものだろう。つくづく便利な技術だ。私は声をかけようとしたが、
それよりも早く彼女のほうが私に気づいた。
因幡は左右確認もせずに道路をだらだらと横断し、私の前に立つ。
「何してんの? 研究所に用?」
そう言った彼女の顔には隠しきれない疲労の色が見てとれた。
「寝不足ですか?」
私が訊くと、彼女は頷き、それから大あくびをひとつする。
「昨日徹夜。後処理とか……カオスマンの治療とかで」
「そういえば、カオスマンはあのあとどうなったんですか?」
「君も酷い人だね。これから病院に彼の様子を見に行くけど、来る?」
そういうことになった。
天照病院の地下は相変わらず薄暗く、ヒヤリとした空気が満ちていた。
おそらくここの職員もあまり地階には足を踏み入れないのだろう。なんとなくそんな気がした。
硬質な足音を響かせながら廊下をしばらく歩くと、曲がり角の向こうでチン、とエレベーターの到着する音がして、
そのすぐ後にストレッチャーを押した看護師が現れた。彼女の押す台の上には黒く長い大きな袋があって、
その中身が気になった私は、彼女とすれ違ったあとに前を歩く因幡に訊いてみた。
「え? いま誰かとすれ違った?」
きょとんとした顔でそう返した因幡に、私は背中に冷たいものが走る感覚を覚えたが、
直後に彼女はいかにもおかしそうに笑った。
「うそうそ、冗談だよ」
私はほっと胸をなでおろす。
「冗談に思えませんよ。病院の地下で、しかもオカルト関係は……」
「ここの除霊は徹底してるから安心して」
「はぁ……それで、今すれ違った人が運んでたアレは何です?」
「ご遺体だね。あの先の安置室で一時保存するんだと思うよ」
訊かなきゃよかった。
おそらくここの職員もあまり地階には足を踏み入れないのだろう。なんとなくそんな気がした。
硬質な足音を響かせながら廊下をしばらく歩くと、曲がり角の向こうでチン、とエレベーターの到着する音がして、
そのすぐ後にストレッチャーを押した看護師が現れた。彼女の押す台の上には黒く長い大きな袋があって、
その中身が気になった私は、彼女とすれ違ったあとに前を歩く因幡に訊いてみた。
「え? いま誰かとすれ違った?」
きょとんとした顔でそう返した因幡に、私は背中に冷たいものが走る感覚を覚えたが、
直後に彼女はいかにもおかしそうに笑った。
「うそうそ、冗談だよ」
私はほっと胸をなでおろす。
「冗談に思えませんよ。病院の地下で、しかもオカルト関係は……」
「ここの除霊は徹底してるから安心して」
「はぁ……それで、今すれ違った人が運んでたアレは何です?」
「ご遺体だね。あの先の安置室で一時保存するんだと思うよ」
訊かなきゃよかった。
地下の最奥にある広々とした部屋の電灯が点けられると、目の前の光景に私はひどく驚いた。
『特別集中治療室』の表札がかかったドアの先、部屋の中ほどにはエメラルドグリーンの液体が満たされた巨大な
円筒形の水槽があって、その中に裸の男性がまるで理科室の蛙の標本のようにぷかぷかと浮かんでいたのだ。
水槽から延びるケーブルは周囲に並べられたパソコンや医療機器、魔学の機械に繋がっていて、
それぞれ唸りをあげたり、何かの波形を液晶画面に絶え間なくモニターしていたり、
虹色の蒸気を噴き出したりしている。
男性の咽頭や肉付きのいい身体の動脈が走る部分には幾本ものチューブが繋がれていた。
皮膚はところどころ重度の火傷に見られるようなむごい状態になっているようだったが、
それらのほとんどは盛り上がった新しい肉に覆われて傷が塞がれていた。
この男の人はカオスマンだ。
彼の裸体を眺めながら、きっと私が治療されていたときもこんな感じだったのだろう、と想像する。
しかし私が最も驚いたのはそれではなく(もちろんそれ自体にも驚いたが)、その水槽の横に並んだ、
もうひとつの円筒形の水槽に目をやったときだった。
その水槽にも同じようにエメラルドグリーンの液体が満たされていて、中に人間が――人間らしきものが――浮かんでいた。
その人物には四肢が無く、切断面近くの皮膚は剥がれて鮮やかなピンク色の肉が丸見えになっていた。
その光景だけでもかなりショッキングだが、四肢の断面を盛り上がった肉が覆い、
その真ん中から赤ん坊のような小さい手と足が新たに形成されているのが見てとれて、私は浮き上がった血管や、
構成途中の筋肉のグロテスクさに言葉を失った。まるでトカゲの尻尾のように新たに腕や足が生えようとしているのだ。
胴体の状態もとても正視に耐えうるものではなく、ひどい部分の状態はとても筆舌に尽くせるものではない。
だが私は見た。その人物の胸は一定の間隔で膨らんだりしぼんだりし、その隙間の奥から僅かに覗くある臓器は
短い間隔をあけた緊張による収縮をたしかに繰り返していたのだ。
呼吸をしていた。生きていた。
私は思わず後ずさった。その人物の顔が視界に入った。小さく悲鳴が出た。間違いない、
半分ほどが盛り上がった肉に埋もれているが、あれは、あの白い肌と整った顔立ちは――
「――天照、さん……!? 」
理解した瞬間、動悸がさらに激しくなった。冷や汗がだらだらと全身から吹き出た。
入院しているとは聞いていたけれど、まさかここまで酷いなんて。
愕然としながら水槽を眺めている私に気づき、因幡が声をかけてくる。
「これでもかなり回復したんだ。大丈夫、安定してるよ」
そう言われても、この姿を見て安心しろというほうが難しいだろう。私は目をそらしかけ、思いとどまった。
「……完治、するんですか、これは」
「うん」
因幡は部屋のすみから何かの道具を準備しつつ答える。
「魔学医療にかかれば、四肢の欠損や皮膚の再生なんてたやすいよ」
「よくわからないですけれど、これはiPS細胞とか使ってるんですか? 」
「いいや、完全な自己治癒力による治療。詳しく説明しようか? 」
私は「じゃあ、軽く」とお願いした。
「まず前提として、魔学では『生物』は『肉体』『魂』『精神』の3つの要素のうち2つを備えたもの、
と定義しているんだ」
彼女は私に向きなおって、そう説明を始めた。
たしか似たようなことを八意さんも言っていた気がする。
「『肉体』は物理的な身体。これは解るでしょ?
『魂』はいわゆる霊魂で、生物に活力を与える『エネルギー源』と理解して。
最後に『精神』は、これは少し説明が難しいんだけど、『理性』や『自身が自身に対して抱くイメージ』
のような理解が一番近いと思う。『自分はこういった形の肉体を持つ、こういった振る舞いをするものというイメージ』
ここまではいい? 」
私は頷いた。
「魔学医療の基本はこの3要素をいじくることなんだ。たとえばそこの天照所長、彼女には今魂が無い」
私は驚いた。
「それって、死んでる、ってことですか? 」
因幡は首を振った。
「魔学の定義では生物は『ふたつ以上』の要素を備えたものだから、魔学的には死んでないよ。
医学的には脳死に近い状態かな。
それはそうと、今彼女に施している治療は『精神のかたちに肉体を合わせる』というものなのさ。
だから手足も生えるし、皮膚も再生する。精神のかたち――つまり『完全な肉体』のイメージ――に合わせて肉体は
治癒する法則があるから。
魂を切り離したのは、魂と精神は複雑に絡み合っていて、魂が衰弱すると精神もつられて衰弱し、
それに合わせて肉体も弱るからなんだ。ほら『病は気から』って言葉があるでしょ? 」
私は曖昧に頷いた。
「その、切り離した魂は、戻せるんですか? 」
「うん。魂は今、専用の容器に入れて保管してあるよ。おいそれと人に見せることはできないけど……」
因幡は小さな机のようなものを引っ張り出し、床に置く。
「その、さっき因幡さんは、『2つ以上の要素を持つものが生物』だって言いましたけど、それはつまり、
『肉体』や『魂』の無い生き物もいるってことですか? 」
私の質問に彼女は頷いた。
「『肉体』の欠けた『魂・精神』のみの生物が『精神体』……幽霊や神魔、『×』がそう。
『魂』の欠けた『肉体・精神』のみの生き物は、エネルギーが無いから、
生きてはいても自ら何かをすることは無い状態に陥るんだ。放心状態がずっと続いている……といえばわかりやすいかな。
命令に従うことはできるけど、自発性や創造力が欠如してしまう。
『精神』の欠けた生物は、もう野生動物や赤ん坊。自身の振る舞いが設定できないから、
本能丸出しな行動をしてしまう。狂っている、という状態が一番近いね」
彼女の淡々とした説明を全て理解することはできなかったが、私は少しだけ魔学のことをわかった気になった。
私はまた天照の身体を見上げる。
ふと私の胸中にひとつの疑問が湧き上がった。
これだけの技術があれば、どれだけ多くの人々が救うことができることだろうか。
しかし天照研究所は魔学を秘密の技術のままにしようとしている。
それは本当に正しいことなのだろうか。
魔学が危険な技術であるのは理解しているつもりだが、その危険は、
魔学解禁による多大なメリットを切り捨ててまで防ぐべきものなのだろうか。
誰かを救うとかいったスケールの大きい話でなくとも、たとえば昼休みに見た岡本のアプリのように、
魔学の普及は私たちの生活を今までとは比べ物にならないほどに便利にしてくれるに違いない。
「因幡さんは――」
そのことについて意見を聞いてみようと彼女を振り向くと、そこには意外な光景があった。
部屋の中央に据えられた例の水槽の前の床に文机のような背の低い長方形のテーブルが置かれていて、
因幡はその前に正座していた。机の上にはどういうわけか平たい碗に盛られた白米と、
同じような小さな皿に注がれた水、頭がついたままの魚の干物に、さらに高級そうな飾りつけがされた酒瓶ともある。
そばにはなんだか分からないが葉がついたままの植物の枝があって、因幡はその枝をうやうやしく両手で持ち上げていた。
「……何してるんですか?」
私が訊ねると、彼女は無視した。その横顔は真剣そのもので、集中しているらしい。
彼女は枝を机に置くと、少しだけ下がり、深く丁寧な礼をした。その所作は美しく、私はその礼に込められた何者かへの
尊敬の念に思わず息を呑んだ。
彼女はスマートフォンを取り出し、画面をいじり何かのアプリを起動して、それを机の真ん中に置く。
それからもう一度礼をして、2回拍手をし、なにやら呪文のような日本語のような言葉を独特の抑揚をつけながら大きく
唱えた。その妙ちきりんな言葉をどこかで聞いたことがある気がして、私はいつかの正月に家族で初詣に行った際の神社
の神主を思い出し、それから因幡命がとなえているのが祝詞だと理解した。
祝詞をとなえ終えると彼女はまた一礼し、スマートフォンの電源を切る。それから静かに立ち上がり、
こちらを向いてふぅ、と息を吐いた。
「終わりましたか? 」
私がそう訊くと、因幡は少し疲れたように笑った。
「うん、終わり。どーもこれは何度やっても疲れちゃうね」
「今のは何です? 」
「魔学を運用するに欠かせない過程だよ」
そう言って彼女は肩をすくめる。
「私たちを手助けしてくださる精神体……神様に、日ごろの感謝を申し上げるの」
「なんだか意外です。魔学ってそういうこともするんですか」
「魔学は精神体の力をお借りする技術だから。
ちゃんと普段から心から感謝してればこんなふうに供物を用意したりする必要も無いんだけどねー。
ほら、私ってあんまり信心深くないから」
「感謝ですか」
「そう、感謝。それを怠るといつか手痛いしっぺ返し――バチが当たるんだ」
そんなまさか、と言いたくなったが魔学のことだ、きっと本当なんだろう。
そのとき、私はひらめいた。
「あ、じゃあもしかして……」
「なに? 」
「あの名前が分からないんですけど、こう、黒いスライムみたいやヤツとか、
『×』も、その『バチ』なんですか? 」
「それに近いものではあるよ」
「……じゃあ逆に言えば、『感謝』さえ忘れなければ、魔学は安全に使えるってことですか?」
「そうだよ。でも、そんなことできると思う?」
因幡はそう言って、少し切なげに目を細めた。
「君は携帯電話に感謝してる? パソコンには? 電灯には?
信号が無ければ表は危険すぎるし、車だって安全装置がしっかりしてるから乗れるんだ。
でもそんなことにいちいち感謝してる人なんてほとんどいない。
魔学を開発・研究する立場である私たちですら、定期的にこういった儀式の場を設けないと忘れてしまう
……人は傲慢なんだよ。身の回りにあるものは『あって当然』だと思っている」
私は沈黙した。
彼女の言うとおり、私は身の回りのあらゆるテクノロジーに対して、あまりにも敬意を払わず、感謝もしていない。
その意味の恐ろしさが因幡の言葉の端々から伝わって、私は身震いした。
「君もたまにはそのスマフォのメンテナンスをしてあげたら? 感謝は本来、そうして示されるものだよ」
片づけを終えた因幡はぱちぱちと手をはたいた。
私はなんだかひどく申し訳ないような気分になって視線を落とす。
「ところで――」
因幡が明るい口調で言った。
私のために話題を変えようとしているのだと察知して、顔を上げる。
「――君は、彼の顔に見覚えは無い? 」
『彼』?
彼とは誰のことだろう。
この部屋にいる男といったら……。
私は因幡から視線を外し、最初の水槽を見た。その中には全裸のカオスマンが浮かんでいる。
そういえば私は彼の素顔を見たことがないんだった。カオスマンはいつも仮面をしていたから。
私は水槽に近づき、足元の踏み台に乗って水槽をすこし上から見下す。カオスマンの顔がそこからよく見えた。
カオスマンの顔にはほとんど傷は無かった。顔つきは健康なスポーツマンによく見られるような、
精悍さを感じさせるもので、男らしい太めの眉がいっそうそれを際立たせていた。
目は閉じられているのでよくわからないが、おそらくつり目気味だろう。鼻筋はまっすぐで、肌も綺麗だし、
実はかなりの美丈夫なんじゃないか。
それにどことなく懐かしい感じがする顔でもある。どこかで会ったことがあるのかもしれない……?
『特別集中治療室』の表札がかかったドアの先、部屋の中ほどにはエメラルドグリーンの液体が満たされた巨大な
円筒形の水槽があって、その中に裸の男性がまるで理科室の蛙の標本のようにぷかぷかと浮かんでいたのだ。
水槽から延びるケーブルは周囲に並べられたパソコンや医療機器、魔学の機械に繋がっていて、
それぞれ唸りをあげたり、何かの波形を液晶画面に絶え間なくモニターしていたり、
虹色の蒸気を噴き出したりしている。
男性の咽頭や肉付きのいい身体の動脈が走る部分には幾本ものチューブが繋がれていた。
皮膚はところどころ重度の火傷に見られるようなむごい状態になっているようだったが、
それらのほとんどは盛り上がった新しい肉に覆われて傷が塞がれていた。
この男の人はカオスマンだ。
彼の裸体を眺めながら、きっと私が治療されていたときもこんな感じだったのだろう、と想像する。
しかし私が最も驚いたのはそれではなく(もちろんそれ自体にも驚いたが)、その水槽の横に並んだ、
もうひとつの円筒形の水槽に目をやったときだった。
その水槽にも同じようにエメラルドグリーンの液体が満たされていて、中に人間が――人間らしきものが――浮かんでいた。
その人物には四肢が無く、切断面近くの皮膚は剥がれて鮮やかなピンク色の肉が丸見えになっていた。
その光景だけでもかなりショッキングだが、四肢の断面を盛り上がった肉が覆い、
その真ん中から赤ん坊のような小さい手と足が新たに形成されているのが見てとれて、私は浮き上がった血管や、
構成途中の筋肉のグロテスクさに言葉を失った。まるでトカゲの尻尾のように新たに腕や足が生えようとしているのだ。
胴体の状態もとても正視に耐えうるものではなく、ひどい部分の状態はとても筆舌に尽くせるものではない。
だが私は見た。その人物の胸は一定の間隔で膨らんだりしぼんだりし、その隙間の奥から僅かに覗くある臓器は
短い間隔をあけた緊張による収縮をたしかに繰り返していたのだ。
呼吸をしていた。生きていた。
私は思わず後ずさった。その人物の顔が視界に入った。小さく悲鳴が出た。間違いない、
半分ほどが盛り上がった肉に埋もれているが、あれは、あの白い肌と整った顔立ちは――
「――天照、さん……!? 」
理解した瞬間、動悸がさらに激しくなった。冷や汗がだらだらと全身から吹き出た。
入院しているとは聞いていたけれど、まさかここまで酷いなんて。
愕然としながら水槽を眺めている私に気づき、因幡が声をかけてくる。
「これでもかなり回復したんだ。大丈夫、安定してるよ」
そう言われても、この姿を見て安心しろというほうが難しいだろう。私は目をそらしかけ、思いとどまった。
「……完治、するんですか、これは」
「うん」
因幡は部屋のすみから何かの道具を準備しつつ答える。
「魔学医療にかかれば、四肢の欠損や皮膚の再生なんてたやすいよ」
「よくわからないですけれど、これはiPS細胞とか使ってるんですか? 」
「いいや、完全な自己治癒力による治療。詳しく説明しようか? 」
私は「じゃあ、軽く」とお願いした。
「まず前提として、魔学では『生物』は『肉体』『魂』『精神』の3つの要素のうち2つを備えたもの、
と定義しているんだ」
彼女は私に向きなおって、そう説明を始めた。
たしか似たようなことを八意さんも言っていた気がする。
「『肉体』は物理的な身体。これは解るでしょ?
『魂』はいわゆる霊魂で、生物に活力を与える『エネルギー源』と理解して。
最後に『精神』は、これは少し説明が難しいんだけど、『理性』や『自身が自身に対して抱くイメージ』
のような理解が一番近いと思う。『自分はこういった形の肉体を持つ、こういった振る舞いをするものというイメージ』
ここまではいい? 」
私は頷いた。
「魔学医療の基本はこの3要素をいじくることなんだ。たとえばそこの天照所長、彼女には今魂が無い」
私は驚いた。
「それって、死んでる、ってことですか? 」
因幡は首を振った。
「魔学の定義では生物は『ふたつ以上』の要素を備えたものだから、魔学的には死んでないよ。
医学的には脳死に近い状態かな。
それはそうと、今彼女に施している治療は『精神のかたちに肉体を合わせる』というものなのさ。
だから手足も生えるし、皮膚も再生する。精神のかたち――つまり『完全な肉体』のイメージ――に合わせて肉体は
治癒する法則があるから。
魂を切り離したのは、魂と精神は複雑に絡み合っていて、魂が衰弱すると精神もつられて衰弱し、
それに合わせて肉体も弱るからなんだ。ほら『病は気から』って言葉があるでしょ? 」
私は曖昧に頷いた。
「その、切り離した魂は、戻せるんですか? 」
「うん。魂は今、専用の容器に入れて保管してあるよ。おいそれと人に見せることはできないけど……」
因幡は小さな机のようなものを引っ張り出し、床に置く。
「その、さっき因幡さんは、『2つ以上の要素を持つものが生物』だって言いましたけど、それはつまり、
『肉体』や『魂』の無い生き物もいるってことですか? 」
私の質問に彼女は頷いた。
「『肉体』の欠けた『魂・精神』のみの生物が『精神体』……幽霊や神魔、『×』がそう。
『魂』の欠けた『肉体・精神』のみの生き物は、エネルギーが無いから、
生きてはいても自ら何かをすることは無い状態に陥るんだ。放心状態がずっと続いている……といえばわかりやすいかな。
命令に従うことはできるけど、自発性や創造力が欠如してしまう。
『精神』の欠けた生物は、もう野生動物や赤ん坊。自身の振る舞いが設定できないから、
本能丸出しな行動をしてしまう。狂っている、という状態が一番近いね」
彼女の淡々とした説明を全て理解することはできなかったが、私は少しだけ魔学のことをわかった気になった。
私はまた天照の身体を見上げる。
ふと私の胸中にひとつの疑問が湧き上がった。
これだけの技術があれば、どれだけ多くの人々が救うことができることだろうか。
しかし天照研究所は魔学を秘密の技術のままにしようとしている。
それは本当に正しいことなのだろうか。
魔学が危険な技術であるのは理解しているつもりだが、その危険は、
魔学解禁による多大なメリットを切り捨ててまで防ぐべきものなのだろうか。
誰かを救うとかいったスケールの大きい話でなくとも、たとえば昼休みに見た岡本のアプリのように、
魔学の普及は私たちの生活を今までとは比べ物にならないほどに便利にしてくれるに違いない。
「因幡さんは――」
そのことについて意見を聞いてみようと彼女を振り向くと、そこには意外な光景があった。
部屋の中央に据えられた例の水槽の前の床に文机のような背の低い長方形のテーブルが置かれていて、
因幡はその前に正座していた。机の上にはどういうわけか平たい碗に盛られた白米と、
同じような小さな皿に注がれた水、頭がついたままの魚の干物に、さらに高級そうな飾りつけがされた酒瓶ともある。
そばにはなんだか分からないが葉がついたままの植物の枝があって、因幡はその枝をうやうやしく両手で持ち上げていた。
「……何してるんですか?」
私が訊ねると、彼女は無視した。その横顔は真剣そのもので、集中しているらしい。
彼女は枝を机に置くと、少しだけ下がり、深く丁寧な礼をした。その所作は美しく、私はその礼に込められた何者かへの
尊敬の念に思わず息を呑んだ。
彼女はスマートフォンを取り出し、画面をいじり何かのアプリを起動して、それを机の真ん中に置く。
それからもう一度礼をして、2回拍手をし、なにやら呪文のような日本語のような言葉を独特の抑揚をつけながら大きく
唱えた。その妙ちきりんな言葉をどこかで聞いたことがある気がして、私はいつかの正月に家族で初詣に行った際の神社
の神主を思い出し、それから因幡命がとなえているのが祝詞だと理解した。
祝詞をとなえ終えると彼女はまた一礼し、スマートフォンの電源を切る。それから静かに立ち上がり、
こちらを向いてふぅ、と息を吐いた。
「終わりましたか? 」
私がそう訊くと、因幡は少し疲れたように笑った。
「うん、終わり。どーもこれは何度やっても疲れちゃうね」
「今のは何です? 」
「魔学を運用するに欠かせない過程だよ」
そう言って彼女は肩をすくめる。
「私たちを手助けしてくださる精神体……神様に、日ごろの感謝を申し上げるの」
「なんだか意外です。魔学ってそういうこともするんですか」
「魔学は精神体の力をお借りする技術だから。
ちゃんと普段から心から感謝してればこんなふうに供物を用意したりする必要も無いんだけどねー。
ほら、私ってあんまり信心深くないから」
「感謝ですか」
「そう、感謝。それを怠るといつか手痛いしっぺ返し――バチが当たるんだ」
そんなまさか、と言いたくなったが魔学のことだ、きっと本当なんだろう。
そのとき、私はひらめいた。
「あ、じゃあもしかして……」
「なに? 」
「あの名前が分からないんですけど、こう、黒いスライムみたいやヤツとか、
『×』も、その『バチ』なんですか? 」
「それに近いものではあるよ」
「……じゃあ逆に言えば、『感謝』さえ忘れなければ、魔学は安全に使えるってことですか?」
「そうだよ。でも、そんなことできると思う?」
因幡はそう言って、少し切なげに目を細めた。
「君は携帯電話に感謝してる? パソコンには? 電灯には?
信号が無ければ表は危険すぎるし、車だって安全装置がしっかりしてるから乗れるんだ。
でもそんなことにいちいち感謝してる人なんてほとんどいない。
魔学を開発・研究する立場である私たちですら、定期的にこういった儀式の場を設けないと忘れてしまう
……人は傲慢なんだよ。身の回りにあるものは『あって当然』だと思っている」
私は沈黙した。
彼女の言うとおり、私は身の回りのあらゆるテクノロジーに対して、あまりにも敬意を払わず、感謝もしていない。
その意味の恐ろしさが因幡の言葉の端々から伝わって、私は身震いした。
「君もたまにはそのスマフォのメンテナンスをしてあげたら? 感謝は本来、そうして示されるものだよ」
片づけを終えた因幡はぱちぱちと手をはたいた。
私はなんだかひどく申し訳ないような気分になって視線を落とす。
「ところで――」
因幡が明るい口調で言った。
私のために話題を変えようとしているのだと察知して、顔を上げる。
「――君は、彼の顔に見覚えは無い? 」
『彼』?
彼とは誰のことだろう。
この部屋にいる男といったら……。
私は因幡から視線を外し、最初の水槽を見た。その中には全裸のカオスマンが浮かんでいる。
そういえば私は彼の素顔を見たことがないんだった。カオスマンはいつも仮面をしていたから。
私は水槽に近づき、足元の踏み台に乗って水槽をすこし上から見下す。カオスマンの顔がそこからよく見えた。
カオスマンの顔にはほとんど傷は無かった。顔つきは健康なスポーツマンによく見られるような、
精悍さを感じさせるもので、男らしい太めの眉がいっそうそれを際立たせていた。
目は閉じられているのでよくわからないが、おそらくつり目気味だろう。鼻筋はまっすぐで、肌も綺麗だし、
実はかなりの美丈夫なんじゃないか。
それにどことなく懐かしい感じがする顔でもある。どこかで会ったことがあるのかもしれない……?
いや違う。
どこかで会ったかも、じゃない。
私は出会っている。
彼と出会っている。
私は彼を知っている。
頭痛がする。
額のあたりだ。ずきずきと痛む。
なんだこの感覚は。
思い出せない。
違う、思い出せないんじゃない。
これは空白だ。
記憶がそこだけすっぽりと抜けてしまっているんだ。
まるで誰かが私の頭に消しゴムをかけたようだ。
頭痛が激しくなる。
何かが私の中からこみ上げてくる。
それは頭の空白の叫びだ。
抑圧された言葉が私の口から飛び出す――
どこかで会ったかも、じゃない。
私は出会っている。
彼と出会っている。
私は彼を知っている。
頭痛がする。
額のあたりだ。ずきずきと痛む。
なんだこの感覚は。
思い出せない。
違う、思い出せないんじゃない。
これは空白だ。
記憶がそこだけすっぽりと抜けてしまっているんだ。
まるで誰かが私の頭に消しゴムをかけたようだ。
頭痛が激しくなる。
何かが私の中からこみ上げてくる。
それは頭の空白の叫びだ。
抑圧された言葉が私の口から飛び出す――
「――こうへい」
発声してから、私は今自分が何を口走ったのかを知った。
そばで別の作業をしていた因幡が手を止め、私を見る。
「ねぇ、今なんて言った? 」
彼女の言葉は聞こえていなかった。
それよりも私の心は目の前の青年にとらわれていた。
そう、この青年の名前は『こうへい』だ。
いつか『×』に襲われたときのビジョンに見た、織星山の展望台で、ふたりで写真を撮った青年だ。
しかしそれ以上は思い出せない。
私はなんだかとても恐ろしくなって台から飛び降り、因幡の制止も振り切って部屋を飛び出した。
頭の中がかき乱されて、まともな思考もできないまま、私はがむしゃらに走った。
発声してから、私は今自分が何を口走ったのかを知った。
そばで別の作業をしていた因幡が手を止め、私を見る。
「ねぇ、今なんて言った? 」
彼女の言葉は聞こえていなかった。
それよりも私の心は目の前の青年にとらわれていた。
そう、この青年の名前は『こうへい』だ。
いつか『×』に襲われたときのビジョンに見た、織星山の展望台で、ふたりで写真を撮った青年だ。
しかしそれ以上は思い出せない。
私はなんだかとても恐ろしくなって台から飛び降り、因幡の制止も振り切って部屋を飛び出した。
頭の中がかき乱されて、まともな思考もできないまま、私はがむしゃらに走った。
気がつくと私は天照病院の屋上に居た。
洗濯物のシーツが視界にいっぱいに並べられて、それらが青い空をバックして、そよ風になびいている。
私はそれらを払いのけて進み、やがて屋上を囲むフェンスにぶつかった。
金網に指をかけてその向こう側を眺めると、女木戸市中心街のビルの並びと、
道路を行き交う車と人々が見下ろせる。
彼らを見て私は血の気が引いた。
道を歩く人々は皆携帯電話やスマートフォンに目を落としている。彼らの目には液晶画面だけがあって、
自分が今どこを歩いているのかを本当に気にかけている人はいないのだ。
その様がまるで人間がテクノロジーという主人に首輪を付けられた犬が散歩させられているように見えて、
私は恐怖した。
耐えられず目を逸らして空を見上げる。
爽やかな青空は金網の向こうにあり、手を伸ばしても届かなかった。
洗濯物のシーツが視界にいっぱいに並べられて、それらが青い空をバックして、そよ風になびいている。
私はそれらを払いのけて進み、やがて屋上を囲むフェンスにぶつかった。
金網に指をかけてその向こう側を眺めると、女木戸市中心街のビルの並びと、
道路を行き交う車と人々が見下ろせる。
彼らを見て私は血の気が引いた。
道を歩く人々は皆携帯電話やスマートフォンに目を落としている。彼らの目には液晶画面だけがあって、
自分が今どこを歩いているのかを本当に気にかけている人はいないのだ。
その様がまるで人間がテクノロジーという主人に首輪を付けられた犬が散歩させられているように見えて、
私は恐怖した。
耐えられず目を逸らして空を見上げる。
爽やかな青空は金網の向こうにあり、手を伸ばしても届かなかった。