……また、誰かが私を呼んでいた。
私は上も下も無いまったくの暗黒の大海にたゆたい、まどろんでいた。
心は平穏であり、思考は頭蓋の中で役目を終えていた。
暗黒は私を優しく包み、幼いころの母親のように寝かしつけようとしてくる。
やすらぎ、私は頬をゆるませた。
周囲にいっさいの音と感触は無く、光は遥か彼方からさす一筋のものがあるだけだ。
そこから誰かが私を呼んでいた。
だけど私は知っていた。
許されざるはその誰かだ。
誰かが私の名を呼ぶことはあってはならない。
それ以上私の名を呼んではいけない。
それ以上呼んでしまったら、それは『罪』だ。
私は上も下も無いまったくの暗黒の大海にたゆたい、まどろんでいた。
心は平穏であり、思考は頭蓋の中で役目を終えていた。
暗黒は私を優しく包み、幼いころの母親のように寝かしつけようとしてくる。
やすらぎ、私は頬をゆるませた。
周囲にいっさいの音と感触は無く、光は遥か彼方からさす一筋のものがあるだけだ。
そこから誰かが私を呼んでいた。
だけど私は知っていた。
許されざるはその誰かだ。
誰かが私の名を呼ぶことはあってはならない。
それ以上私の名を呼んではいけない。
それ以上呼んでしまったら、それは『罪』だ。
……静かに私は目を開けた。
自室の天井はカーテンの隙間から射し込んだ陽光に切りとられ、それで私は朝の到来を知った。
私はベッドから身を起こし、額をおさえる。
どうやら熱は落ちついたようだ。
4日前――天照邸で記憶を取り戻してから、ずっと私は高熱と激しい頭痛に苦しめられていた。
記憶を取り戻した反動か、または別の原因かはわからないがそのおかげで4日間も寝たきりになってしまい、
いよいよ明日に第5の『×』が襲来するというのに体調が回復しなければどうしようかと思っていたのだ。
しかしほぼ回復した。頭痛はまだかすかにあるが、バファリンでも飲めば平気だろう。
私はベッドから下りて着替えた。壁の時計はすでに午前11時を指しており、下の階が静かなことからも、
父と母はすでに仕事に出ていて、家には自分ひとりであるのだとわかった。
私は洗面所に下りて軽く頭と顔を洗う。シャワーを浴びる気分では無かった。
ドライヤーで髪を乾かしつつ1日の予定をチェックし、メイクをする。
それから腹をぽりぽり掻きながら大あくびして、大学へ行く準備をするために2階の自室に戻る。
それからだらだらと準備をしていると、ふいに玄関の重いドアが開いた音がした。
ああ、母でも帰ってきたのかな。そう思っていると、いつも聞き慣れている足音とは違うことに気がつく。
力強く重いこの足音は……母じゃない。
足音は階段を上ってくる。
母でないなら父だろうかとも思ったが、父が日中に帰ってくるなんてほとんど無いし、
そもそもこの足音は素足のものじゃない。
足音の主は革靴のまま上がりこんできている!
そのことに気づいた私は思わず魔学スマートフォンを構えた。
泥棒だろうか?
それなら撃退できるかもしれない。私は呼吸を整え、自室のドアからなるべく離れ、見据える。
足音はまっすぐに私の部屋に向かって、そしてスムーズにドアを開いた。
そこからの私の記憶は、脳内麻薬でも出ていたのかとても鮮明で、未経験の異常事態にもかかわらず
頭は冴えていた。
私は呼吸をとめ、バリアアプリを待機させつつスマートフォンを未だ全貌が見えない相手に突き出す。
私の部屋のドアからぬっと姿を現したのは見たことのない人物だった。
とても大柄な体格の男性で、外国人だった。長めの金髪を後ろに流し、
同じく色の薄い無精髭を生やしている。筋骨隆々な体を無理やりスーツに包んでいて、
前のボタンは胸筋に弾き飛ばされそうだ。
彼はブルーの瞳で私を認め、近づくと、無言のまま片手に持っていたものを振り上げる――大ぶりの、
サバイバルナイフ!
だが私はそれを見ても恐怖したりはしなかった。おそらくあまりのことに脳が麻痺していたのだろう。
至極冷静に現状を認識し、アプリを起動させた。
凄まじい静電気を発して、男と私の間に見えない壁が出現し、男のナイフの切っ先を弾き飛ばす。
バリアが無かったら胸に直撃していたに違いない――そういった想像が頭をよぎってはじめて、
私は恐怖に悲鳴をあげそうになった。
だが男の素早く伸びた手が私の首元をぐっと握り締める。私の悲鳴はカエルの断末魔のように潰された。
男はそのまま私の体を壁に叩きつけ、身動きできないように押さえつけてくる。
私は暴れたが男の丸太のような腕は振り払えない。
呼吸もできず、私はただ男を睨みつけるしかできなかったが、私の耳はそのときたしかに男が言った言葉を
聞いた。
「許せ、正義のためだ」
直後――
凄まじい音とともに私の部屋の窓ガラスが割れる!
部屋中にぶちまけられるガラスの吹雪の中、外から室内に突っ込み、
そのまま男の後頭部に回し蹴りをかましたのは仮面の忍者だった。
男はカオスマンの全体重が乗った蹴りに思わず私の首を締める手を緩める。
私はその隙を逃さず男の手から逃れたが、咳き込むあまりそこにうずくまってしまった。
男はよろけながら背後のカオスマンを見る。そうして私から視線が外れたその隙を逃さずに私の腕を
引くものがあった。
いつの間にか窓から侵入してきていた高天原頼人だった。彼は天照研究所の制服を風にたなびかせ、
男をキッと睨んでいる。
「これがあなた方のやり方ですかッ……!」
高天原の声には無理やり抑えつけられた怒気が滲んでいる。表情は今までに私が見た中でもっとも険しく、
少し恐ろしげにさえ見えた。
「……これが正義だ」
男が視線だけを高天原に飛ばして言った。
「これが正義……!?
人を殺して為される正義があるものか!」
いきなりそう怒鳴った高天原に私は心底驚いた。彼が、あの高天原頼人がいつもの柔らかく丁寧な物腰ではなく、
恐ろしいほどの怒りに打ち震えている。
「所長代理、私は監査官としてこの街の問題を放ってはおけない。
私は君や天照所長がこのことを報告しなかったことに驚いているよ。
君も魔学に関わるものであるならばこれがどういうことか解るはずだ」
外国人の男は流ちょうな日本語でそう言った。
「だからって……他にやり方はあるはずだ!」
「冷静になりたまえ。街の修繕費やあのオモチャの修理費等に何千何億という資金を投入するよりも、
『×』に満足してもらったほうが早く、また安上がりだろう」
「そういう問題じゃない! あなたの言う解決は……それはつまり、殺人だ!」
彼らの主張のぶつけ合いをそばで聞いていた私は、高天原の言い放ったショッキングな単語にはっとした。
しびれていた脳幹が徐々に現状を受け入れはじめ、状況を正確に理解し始めるとともに、
足下から頭まで総毛立つような恐怖が広がって、私は心からの悲鳴を上げた。
その悲鳴が一瞬高天原の注意を私に向けてしまう。その隙を逃さず、
外国人の襲撃者は私に向けてナイフを突き出した。しかしその腕はカオスマンに横から蹴り上げられ、
ナイフは宙に舞う。
「逃げますよ!」
高天原はいつも右腕にはめている例の魔学機械を操りつつ、私を力強く抱きしめた。
同時に私を中心に凄まじい静電気とスパークの嵐が巻き起こる。
カオスマンは男を廊下に向けて蹴り飛ばし、私たちから引き離そうとしているようだった。
私は彼に手を伸ばすが、高天原に押さえ込まれる。
「息を止めて力を抜いて!
3、2、1、ワープ!!」
電灯が切れるように、私の視界は暗転した。
自室の天井はカーテンの隙間から射し込んだ陽光に切りとられ、それで私は朝の到来を知った。
私はベッドから身を起こし、額をおさえる。
どうやら熱は落ちついたようだ。
4日前――天照邸で記憶を取り戻してから、ずっと私は高熱と激しい頭痛に苦しめられていた。
記憶を取り戻した反動か、または別の原因かはわからないがそのおかげで4日間も寝たきりになってしまい、
いよいよ明日に第5の『×』が襲来するというのに体調が回復しなければどうしようかと思っていたのだ。
しかしほぼ回復した。頭痛はまだかすかにあるが、バファリンでも飲めば平気だろう。
私はベッドから下りて着替えた。壁の時計はすでに午前11時を指しており、下の階が静かなことからも、
父と母はすでに仕事に出ていて、家には自分ひとりであるのだとわかった。
私は洗面所に下りて軽く頭と顔を洗う。シャワーを浴びる気分では無かった。
ドライヤーで髪を乾かしつつ1日の予定をチェックし、メイクをする。
それから腹をぽりぽり掻きながら大あくびして、大学へ行く準備をするために2階の自室に戻る。
それからだらだらと準備をしていると、ふいに玄関の重いドアが開いた音がした。
ああ、母でも帰ってきたのかな。そう思っていると、いつも聞き慣れている足音とは違うことに気がつく。
力強く重いこの足音は……母じゃない。
足音は階段を上ってくる。
母でないなら父だろうかとも思ったが、父が日中に帰ってくるなんてほとんど無いし、
そもそもこの足音は素足のものじゃない。
足音の主は革靴のまま上がりこんできている!
そのことに気づいた私は思わず魔学スマートフォンを構えた。
泥棒だろうか?
それなら撃退できるかもしれない。私は呼吸を整え、自室のドアからなるべく離れ、見据える。
足音はまっすぐに私の部屋に向かって、そしてスムーズにドアを開いた。
そこからの私の記憶は、脳内麻薬でも出ていたのかとても鮮明で、未経験の異常事態にもかかわらず
頭は冴えていた。
私は呼吸をとめ、バリアアプリを待機させつつスマートフォンを未だ全貌が見えない相手に突き出す。
私の部屋のドアからぬっと姿を現したのは見たことのない人物だった。
とても大柄な体格の男性で、外国人だった。長めの金髪を後ろに流し、
同じく色の薄い無精髭を生やしている。筋骨隆々な体を無理やりスーツに包んでいて、
前のボタンは胸筋に弾き飛ばされそうだ。
彼はブルーの瞳で私を認め、近づくと、無言のまま片手に持っていたものを振り上げる――大ぶりの、
サバイバルナイフ!
だが私はそれを見ても恐怖したりはしなかった。おそらくあまりのことに脳が麻痺していたのだろう。
至極冷静に現状を認識し、アプリを起動させた。
凄まじい静電気を発して、男と私の間に見えない壁が出現し、男のナイフの切っ先を弾き飛ばす。
バリアが無かったら胸に直撃していたに違いない――そういった想像が頭をよぎってはじめて、
私は恐怖に悲鳴をあげそうになった。
だが男の素早く伸びた手が私の首元をぐっと握り締める。私の悲鳴はカエルの断末魔のように潰された。
男はそのまま私の体を壁に叩きつけ、身動きできないように押さえつけてくる。
私は暴れたが男の丸太のような腕は振り払えない。
呼吸もできず、私はただ男を睨みつけるしかできなかったが、私の耳はそのときたしかに男が言った言葉を
聞いた。
「許せ、正義のためだ」
直後――
凄まじい音とともに私の部屋の窓ガラスが割れる!
部屋中にぶちまけられるガラスの吹雪の中、外から室内に突っ込み、
そのまま男の後頭部に回し蹴りをかましたのは仮面の忍者だった。
男はカオスマンの全体重が乗った蹴りに思わず私の首を締める手を緩める。
私はその隙を逃さず男の手から逃れたが、咳き込むあまりそこにうずくまってしまった。
男はよろけながら背後のカオスマンを見る。そうして私から視線が外れたその隙を逃さずに私の腕を
引くものがあった。
いつの間にか窓から侵入してきていた高天原頼人だった。彼は天照研究所の制服を風にたなびかせ、
男をキッと睨んでいる。
「これがあなた方のやり方ですかッ……!」
高天原の声には無理やり抑えつけられた怒気が滲んでいる。表情は今までに私が見た中でもっとも険しく、
少し恐ろしげにさえ見えた。
「……これが正義だ」
男が視線だけを高天原に飛ばして言った。
「これが正義……!?
人を殺して為される正義があるものか!」
いきなりそう怒鳴った高天原に私は心底驚いた。彼が、あの高天原頼人がいつもの柔らかく丁寧な物腰ではなく、
恐ろしいほどの怒りに打ち震えている。
「所長代理、私は監査官としてこの街の問題を放ってはおけない。
私は君や天照所長がこのことを報告しなかったことに驚いているよ。
君も魔学に関わるものであるならばこれがどういうことか解るはずだ」
外国人の男は流ちょうな日本語でそう言った。
「だからって……他にやり方はあるはずだ!」
「冷静になりたまえ。街の修繕費やあのオモチャの修理費等に何千何億という資金を投入するよりも、
『×』に満足してもらったほうが早く、また安上がりだろう」
「そういう問題じゃない! あなたの言う解決は……それはつまり、殺人だ!」
彼らの主張のぶつけ合いをそばで聞いていた私は、高天原の言い放ったショッキングな単語にはっとした。
しびれていた脳幹が徐々に現状を受け入れはじめ、状況を正確に理解し始めるとともに、
足下から頭まで総毛立つような恐怖が広がって、私は心からの悲鳴を上げた。
その悲鳴が一瞬高天原の注意を私に向けてしまう。その隙を逃さず、
外国人の襲撃者は私に向けてナイフを突き出した。しかしその腕はカオスマンに横から蹴り上げられ、
ナイフは宙に舞う。
「逃げますよ!」
高天原はいつも右腕にはめている例の魔学機械を操りつつ、私を力強く抱きしめた。
同時に私を中心に凄まじい静電気とスパークの嵐が巻き起こる。
カオスマンは男を廊下に向けて蹴り飛ばし、私たちから引き離そうとしているようだった。
私は彼に手を伸ばすが、高天原に押さえ込まれる。
「息を止めて力を抜いて!
3、2、1、ワープ!!」
電灯が切れるように、私の視界は暗転した。
私はうたた寝から戻るときのように急速に意識を取り戻した。
何が起こったのか、ということに思考を巡らせる前に自分が高天原にきつく抱きしめられていることに
気づいて、慌てて彼の手を引き剥がす。
高天原はひどく疲れているようで、力無く床にへたり込んだ。
私は周囲を見渡し、自分が知らない場所にいることを知る。
ここはいったいどこなのだろう。見たところプレハブの中のようだ。
天井にはむき出しの蛍光灯が数本並んで点灯しているが、全体的に薄暗い印象だ。
プレハブ内には見覚えのある意匠の機械群がずらりと並んでいて、どうやらここも天照研究所の
施設らしいということが分かった。
私と高天原は部屋の真ん中にどんと据えられた大きな機械でできた円形の台の上にいた。
これも魔学機械だろう。
私はしばらくその場で呆けて、どうしてここにいるのかを考えていたが、
ハッとさっきまで自室で起こった出来事を思い出して真っ青になった。
それから私の足下にへたり込んで呼吸を整えている高天原がどうやって私を逃してくれたのかを察する。
私は彼に駆け寄った。
「高天原さん、大丈夫ですか!?」
私の呼びかけに対して彼はひどく疲れた表情での微笑で応えた。
「ワープの影響で水分と塩分がかなり失われています……志野さん、すいませんがそこの冷蔵庫から……」
「何を?」
「ビールとピーナッツを」
意外な言葉に一瞬きょとんとしたが、魔学に関してはいつものことなので、
聞き返さずに私はすぐそれらを持ってきた。
高天原は缶ビールを開け、ピーナッツの袋に手を突っ込む。
どう見ても疲労困憊な男が必死にビールとつまみを口に押し込んでいく様は少し滑稽だった。
「志野さんもどうぞ。あなたも水分と塩分が不足しているはずです」
そういって高天原は袋をこちらに寄越す。
私はピーナッツをぽりぽりとしながら訊く。
「さっきの人は誰だったんですか?」
「あの人は……私たちの上司です」
高天原がなぜかわき腹を押さえながら言った。
「彼はフリーメイソンの英国本部から派遣された、いわば監査役のような人です。
名前はマイケルと言います」
「監査役?」
「研究の成果を査定したり、本部から提供された資金の使い道をチェックしたり、
そういったことをする人です」
「なるほど……」
「とうとう来てしまいました……なるべく引き伸ばしていたんですが」
「それはどうして?」
「臨時の資金提供をお願いしすぎましたね」
彼は苦笑する。資金不足の原因は容易に察せられたので、私は申しわけない気分になった。
「彼は全ての原因を志野さん、あなたにあると考えています」
高天原がそう言った。
「……多分、そうなんでしょうね」
私は頷く。
『×』の目的は私なんだから、あたりまえだ。
「ですが志野さん、あなたは悪くありません」
そう言いきった高天原の瞳にはまっすぐな光があった。
「もし仮にあなたに全面的な非があり、またあなたを排除することで全てが解決するのであれば、
我々も彼と同じことをします。ですが、そうではないのです」
彼はそう言って私の手をそっと握り締める。
「どうか屈しないでください。『×』はあとたったの3体なんです」
「『あと3体』?」
さりげなく彼が重要な情報をこぼしたのを私は逃さなかった。
彼は意外そうな顔をする。
「知らなかったのですか……?」
「はい」
「そうですか……」
高天原は少し考え、また口を開く。
「そうです、『×』は全部で7体です」
「……それらを全て倒せば、この戦いも終わるんですか?」
「はい、きっと」
そう彼は頷いた。
私はその言葉を聞いて少し明るい気分になると同時に、心にずんと重いものがのしかかる気がした。
なぜなら少なくともあと3回は、天照さんやカオスマンのような犠牲が出る可能性があるんだ……。
……いや違う。何を他人を犠牲にする前提でものを考えているんだ。
全て私が一瞬で『×』を倒せば済むことじゃないか。
「ところで、志野さん……」
うめくような声がして、私は高天原を見た。彼の顔は真っ青で呼吸も荒い。何かの病気かと私は訊いた。
「いえ、ただ……ワープの際に、内臓の一部の再構成に失敗したようです……」
「そんな、大丈夫なんですか!?」
「肉体は魂と精神の容れものにすぎませんので、傷ついてもかまわないのですが……
しかし苦しいことには変わりありません、因幡さんを呼んでください……」
「わかりました!」
私はスマートフォンで因幡に電話をする。彼女も今の状況は聞いているらしく、スムーズに話は通じた。
「で、今どこ?」
電話ごしに彼女にそう言われてやっと私は自分と高天原がどこにいるのか知らないことを思い出す。
「すいません、ここってどこです?」
高天原に訊く。彼は答えた。
「女瑠山です」
何が起こったのか、ということに思考を巡らせる前に自分が高天原にきつく抱きしめられていることに
気づいて、慌てて彼の手を引き剥がす。
高天原はひどく疲れているようで、力無く床にへたり込んだ。
私は周囲を見渡し、自分が知らない場所にいることを知る。
ここはいったいどこなのだろう。見たところプレハブの中のようだ。
天井にはむき出しの蛍光灯が数本並んで点灯しているが、全体的に薄暗い印象だ。
プレハブ内には見覚えのある意匠の機械群がずらりと並んでいて、どうやらここも天照研究所の
施設らしいということが分かった。
私と高天原は部屋の真ん中にどんと据えられた大きな機械でできた円形の台の上にいた。
これも魔学機械だろう。
私はしばらくその場で呆けて、どうしてここにいるのかを考えていたが、
ハッとさっきまで自室で起こった出来事を思い出して真っ青になった。
それから私の足下にへたり込んで呼吸を整えている高天原がどうやって私を逃してくれたのかを察する。
私は彼に駆け寄った。
「高天原さん、大丈夫ですか!?」
私の呼びかけに対して彼はひどく疲れた表情での微笑で応えた。
「ワープの影響で水分と塩分がかなり失われています……志野さん、すいませんがそこの冷蔵庫から……」
「何を?」
「ビールとピーナッツを」
意外な言葉に一瞬きょとんとしたが、魔学に関してはいつものことなので、
聞き返さずに私はすぐそれらを持ってきた。
高天原は缶ビールを開け、ピーナッツの袋に手を突っ込む。
どう見ても疲労困憊な男が必死にビールとつまみを口に押し込んでいく様は少し滑稽だった。
「志野さんもどうぞ。あなたも水分と塩分が不足しているはずです」
そういって高天原は袋をこちらに寄越す。
私はピーナッツをぽりぽりとしながら訊く。
「さっきの人は誰だったんですか?」
「あの人は……私たちの上司です」
高天原がなぜかわき腹を押さえながら言った。
「彼はフリーメイソンの英国本部から派遣された、いわば監査役のような人です。
名前はマイケルと言います」
「監査役?」
「研究の成果を査定したり、本部から提供された資金の使い道をチェックしたり、
そういったことをする人です」
「なるほど……」
「とうとう来てしまいました……なるべく引き伸ばしていたんですが」
「それはどうして?」
「臨時の資金提供をお願いしすぎましたね」
彼は苦笑する。資金不足の原因は容易に察せられたので、私は申しわけない気分になった。
「彼は全ての原因を志野さん、あなたにあると考えています」
高天原がそう言った。
「……多分、そうなんでしょうね」
私は頷く。
『×』の目的は私なんだから、あたりまえだ。
「ですが志野さん、あなたは悪くありません」
そう言いきった高天原の瞳にはまっすぐな光があった。
「もし仮にあなたに全面的な非があり、またあなたを排除することで全てが解決するのであれば、
我々も彼と同じことをします。ですが、そうではないのです」
彼はそう言って私の手をそっと握り締める。
「どうか屈しないでください。『×』はあとたったの3体なんです」
「『あと3体』?」
さりげなく彼が重要な情報をこぼしたのを私は逃さなかった。
彼は意外そうな顔をする。
「知らなかったのですか……?」
「はい」
「そうですか……」
高天原は少し考え、また口を開く。
「そうです、『×』は全部で7体です」
「……それらを全て倒せば、この戦いも終わるんですか?」
「はい、きっと」
そう彼は頷いた。
私はその言葉を聞いて少し明るい気分になると同時に、心にずんと重いものがのしかかる気がした。
なぜなら少なくともあと3回は、天照さんやカオスマンのような犠牲が出る可能性があるんだ……。
……いや違う。何を他人を犠牲にする前提でものを考えているんだ。
全て私が一瞬で『×』を倒せば済むことじゃないか。
「ところで、志野さん……」
うめくような声がして、私は高天原を見た。彼の顔は真っ青で呼吸も荒い。何かの病気かと私は訊いた。
「いえ、ただ……ワープの際に、内臓の一部の再構成に失敗したようです……」
「そんな、大丈夫なんですか!?」
「肉体は魂と精神の容れものにすぎませんので、傷ついてもかまわないのですが……
しかし苦しいことには変わりありません、因幡さんを呼んでください……」
「わかりました!」
私はスマートフォンで因幡に電話をする。彼女も今の状況は聞いているらしく、スムーズに話は通じた。
「で、今どこ?」
電話ごしに彼女にそう言われてやっと私は自分と高天原がどこにいるのか知らないことを思い出す。
「すいません、ここってどこです?」
高天原に訊く。彼は答えた。
「女瑠山です」
女木戸市が近年いきなり栄え始めたのには訳がある。
それまで観光資源といえばせいぜいが織星山というマイナーな山ぐらいしか無かったこの市の東にある岩山、
女瑠山の地下に半導体に使用するレアメタルの大きな鉱脈が見つかったのだ。
それから女瑠山に近い場所に様々な企業の工場がぽこぽこと乱立するようになった。
そのことが女木戸市に大きな経済効果をもたらしたのは志野真実も知っていたが、
そうして建てられた建物の中に天照研究所の施設も混じっているとは知らなかった。
目的は他の工場と同様、希少な金属の確保と、女瑠山の風水的な効果を乱さないようにさりげなく
採掘計画に手をくわえたりするためらしいが、私にはよくわからない。
因幡命はすぐに来てくれた。
「つけられていませんね?」
高天原は彼女の姿を認めるとまずそう訊いた。因幡はリュックを地面に下ろしつついつもの
気だるそうな態度で返答する。
「意識マスキングと認識迷彩を使ってきたから平気だと思うけど、
物理認識だけでサーチされたらアウトだね」
因幡は荷物からいつものわけの分からない器具を引っ張り出し、パソコンとケーブルでつなげ、
高天原の服の裾をまくり上げた。そうしてあらわになった彼の腹をアイロンのような器具でなでると、
どうやらそれだけで欠損部分を把握したらしい。毒々しい鮮やかな真紫の液体を注射し、
呪術の札をその上から貼り付けると、それから小さな別の器具で何かの儀式をエミュレートした。
それから「これでよし」と言い、器具をしまった。
「これから半日は二日酔いを10倍にしたくらいのものすごい吐き気がするけど、
それに負けないでとにかくタンパク質を摂って。しんどいだろうけどそれで明日には全快するから。
そうだね……鶏肉のソテーを卵でとじて、粉末状のプロテインのサプリをふりかけたものがいいよ。
飲み物はきな粉を溶かした豆乳のみね。これをとにかく食べまくること、いい? 研究所に転送するよ」
高天原はうなずく。顔色はますます悪くなっているように見えた。
因幡は高天原の右腕をまくりあげ、彼がいつも腕にはめている例の魔学機械を操作する。
するとすぐに連続したスパーク音と空気が焦げる音がして、強烈な光の直後、高天原の姿を消した。
因幡はひと仕事終えた、と言わんばかりに息を吐く。それからこちらを振り向いた。
「おつかれ、大変だったね」
私はあいまい返事をした。
「君は大丈夫? 体のどこか痛いとか?」
「いえ、私は平気です」
「そっか」
因幡は片付けを始める。
私は訊くなら今だ、と思った。
「因幡さん!」
私の声に彼女は手をとめ、こちらを見上げた。
「私、もう我慢できません……教えてください」
「嫌だよ」
スッパリと彼女は言い放ち、片付けを再開した。私はさらに食い下がる。
「どうしてですか! 私のせいで高天原さんや、天照さんがひどい目に合うのはもう嫌なんです!
なぜ『×』が私を狙うのか、教えてください!」
「拒否する理由はもう説明したし、真実への到達は君のためだ」
リュックを背負う因幡。
「それよりも今の君には先に考えるべきものがあるでしょ?」
私は声を荒らげたくなったが堪える。
「……第五の『×』……ですか」
「それもそうだけど、もうひとつ。君は命を狙われているんだ。今日は家に帰らないほうがいい」
「どうして私がコソコソしなきゃいけないんですか」
「別にしなくてもいいけど、殺されるのは君だよ?」
あっさりと彼女は言い放った。
「じゃあ、警察とか……お母さんも心配するし……」
「魔学を使えば一晩母親に君がいないことを気づかせないくらいはできるよ。
警察はちょっと勘弁して。いろいろと研究所がマズくなる」
因幡はそれだけ言って肩をすくめる。
「それと、私たちにも少し時間をくれないかな。彼――マイケルをなんとか説得してみせるから」
彼女は私を見た。
私はじっと彼女を見つめ返す。
「……フリーメイソンは暴力集団ですか」
「違うよ。彼がたまたま血の気が多い人なだけ」
「私が死ねば『×』は来なくなるんですか」
「死にたいの?」
「死ぬなんて、死ぬほど嫌です」
「じゃあ、私たちを信じて」
そうして因幡は深く頭を下げた。
私は彼女のその真摯な態度にもかかわらず、納得しかねていた。
あまりにも説明不足だ。命を狙われているというのに理由を教えてくれないなんて。
そんなことで納得してくれというほうが無理がある。
しかしそのことも彼女は充分に理解しているはずだ。
理解したうえで私に頭を下げざるを得ない事情があるんだ。
因幡や高天原、八意やカオスマン、天照には何度も助けられている。
その理由が不透明であっても、助けてくれたという事実は変わらない。
……また信じるべきだろうか。
いや、信じるべきだ。
天照研究所の親であるフリーメイソンの人間が私を狙っているのに、
彼らが私を庇ってくれるということは、彼らの立場を危うくすることに違いない。
彼らは自分たちの身を顧みていないのだ。
それほどまでに尽くしてくれる人たちの想いを私はむげにするべきじゃないはずだ……。
私は頷いた。
「……信じます」
すると因幡は顔をあげ、ぱぁと笑顔になる。
「ありがとう」
「でも、不安です」
私は正直に心情を口にした。すると因幡は「安心して」と言う。
「ここにいる限りは君は安全だよ。だってこの部屋はこういうときのことを想定した部屋なんだから」
「どういう意味ですか?」
「明日の『×』の時間まで、ここに隠れていなさいってこと。じゃ、また明日!」
そうして因幡は姿を消した。
それまで観光資源といえばせいぜいが織星山というマイナーな山ぐらいしか無かったこの市の東にある岩山、
女瑠山の地下に半導体に使用するレアメタルの大きな鉱脈が見つかったのだ。
それから女瑠山に近い場所に様々な企業の工場がぽこぽこと乱立するようになった。
そのことが女木戸市に大きな経済効果をもたらしたのは志野真実も知っていたが、
そうして建てられた建物の中に天照研究所の施設も混じっているとは知らなかった。
目的は他の工場と同様、希少な金属の確保と、女瑠山の風水的な効果を乱さないようにさりげなく
採掘計画に手をくわえたりするためらしいが、私にはよくわからない。
因幡命はすぐに来てくれた。
「つけられていませんね?」
高天原は彼女の姿を認めるとまずそう訊いた。因幡はリュックを地面に下ろしつついつもの
気だるそうな態度で返答する。
「意識マスキングと認識迷彩を使ってきたから平気だと思うけど、
物理認識だけでサーチされたらアウトだね」
因幡は荷物からいつものわけの分からない器具を引っ張り出し、パソコンとケーブルでつなげ、
高天原の服の裾をまくり上げた。そうしてあらわになった彼の腹をアイロンのような器具でなでると、
どうやらそれだけで欠損部分を把握したらしい。毒々しい鮮やかな真紫の液体を注射し、
呪術の札をその上から貼り付けると、それから小さな別の器具で何かの儀式をエミュレートした。
それから「これでよし」と言い、器具をしまった。
「これから半日は二日酔いを10倍にしたくらいのものすごい吐き気がするけど、
それに負けないでとにかくタンパク質を摂って。しんどいだろうけどそれで明日には全快するから。
そうだね……鶏肉のソテーを卵でとじて、粉末状のプロテインのサプリをふりかけたものがいいよ。
飲み物はきな粉を溶かした豆乳のみね。これをとにかく食べまくること、いい? 研究所に転送するよ」
高天原はうなずく。顔色はますます悪くなっているように見えた。
因幡は高天原の右腕をまくりあげ、彼がいつも腕にはめている例の魔学機械を操作する。
するとすぐに連続したスパーク音と空気が焦げる音がして、強烈な光の直後、高天原の姿を消した。
因幡はひと仕事終えた、と言わんばかりに息を吐く。それからこちらを振り向いた。
「おつかれ、大変だったね」
私はあいまい返事をした。
「君は大丈夫? 体のどこか痛いとか?」
「いえ、私は平気です」
「そっか」
因幡は片付けを始める。
私は訊くなら今だ、と思った。
「因幡さん!」
私の声に彼女は手をとめ、こちらを見上げた。
「私、もう我慢できません……教えてください」
「嫌だよ」
スッパリと彼女は言い放ち、片付けを再開した。私はさらに食い下がる。
「どうしてですか! 私のせいで高天原さんや、天照さんがひどい目に合うのはもう嫌なんです!
なぜ『×』が私を狙うのか、教えてください!」
「拒否する理由はもう説明したし、真実への到達は君のためだ」
リュックを背負う因幡。
「それよりも今の君には先に考えるべきものがあるでしょ?」
私は声を荒らげたくなったが堪える。
「……第五の『×』……ですか」
「それもそうだけど、もうひとつ。君は命を狙われているんだ。今日は家に帰らないほうがいい」
「どうして私がコソコソしなきゃいけないんですか」
「別にしなくてもいいけど、殺されるのは君だよ?」
あっさりと彼女は言い放った。
「じゃあ、警察とか……お母さんも心配するし……」
「魔学を使えば一晩母親に君がいないことを気づかせないくらいはできるよ。
警察はちょっと勘弁して。いろいろと研究所がマズくなる」
因幡はそれだけ言って肩をすくめる。
「それと、私たちにも少し時間をくれないかな。彼――マイケルをなんとか説得してみせるから」
彼女は私を見た。
私はじっと彼女を見つめ返す。
「……フリーメイソンは暴力集団ですか」
「違うよ。彼がたまたま血の気が多い人なだけ」
「私が死ねば『×』は来なくなるんですか」
「死にたいの?」
「死ぬなんて、死ぬほど嫌です」
「じゃあ、私たちを信じて」
そうして因幡は深く頭を下げた。
私は彼女のその真摯な態度にもかかわらず、納得しかねていた。
あまりにも説明不足だ。命を狙われているというのに理由を教えてくれないなんて。
そんなことで納得してくれというほうが無理がある。
しかしそのことも彼女は充分に理解しているはずだ。
理解したうえで私に頭を下げざるを得ない事情があるんだ。
因幡や高天原、八意やカオスマン、天照には何度も助けられている。
その理由が不透明であっても、助けてくれたという事実は変わらない。
……また信じるべきだろうか。
いや、信じるべきだ。
天照研究所の親であるフリーメイソンの人間が私を狙っているのに、
彼らが私を庇ってくれるということは、彼らの立場を危うくすることに違いない。
彼らは自分たちの身を顧みていないのだ。
それほどまでに尽くしてくれる人たちの想いを私はむげにするべきじゃないはずだ……。
私は頷いた。
「……信じます」
すると因幡は顔をあげ、ぱぁと笑顔になる。
「ありがとう」
「でも、不安です」
私は正直に心情を口にした。すると因幡は「安心して」と言う。
「ここにいる限りは君は安全だよ。だってこの部屋はこういうときのことを想定した部屋なんだから」
「どういう意味ですか?」
「明日の『×』の時間まで、ここに隠れていなさいってこと。じゃ、また明日!」
そうして因幡は姿を消した。
残された私は拳を握る。
『×』は残り3体……。
負けてなるものか。
私は決意を新たに、部屋の真ん中に鎮座する魔学機械を睨みつけた。
『×』は残り3体……。
負けてなるものか。
私は決意を新たに、部屋の真ん中に鎮座する魔学機械を睨みつけた。