「いらっしゃい、織枝ちゃん。いつも鈴の面倒見てくれてありがと」
部屋の前を通りがかった女性が顔を覗かせる。
鈴のお姉さんで、高校3年生の優希さんだ。
「あ、いえ、そんな」
「ちょっとどういう意味よ、お姉ちゃん」
優希さんに笑顔を向けられるだけで、わたしは体に力が入らなくなってしまう。
なんて幸せなんだろう。
嬉しいとか楽しいとかじゃなく、これは本当に幸せとしか言いようのない感情だった。
この気持ちはなんなんだろう。
わたしが優希さんのことを好きだと感じるこの気持ちは。
「ちゃんと宿題やってるなんて感心じゃない。織枝ちゃん、鈴がサボらないようによろしく」
「もう、信用ないなぁ」
「あはは。あとでクッキー持ってきてあげるからね、織枝ちゃん」
「あ、ありがとうございます」
じゃーね、と手を振って優希さんは出て行く。
もっとお話していたかったけど、どうやって引き止めたらいいのかわたしにはわからなかった。
後でクッキーを持って来てくれるということだったので、その時にゆっくり話せたらいいな。
自分もおやつを食べたくて長居するのがいつもの優希さんのパターンだから。
楽しみがあると、勉強もはかどる。
30分くらいたっただろうか。予定より少し多めに問題を解いた頃、インターホンが聞こえた。
それに対応する優希さんの声と、それから……聞き覚えのある二人の声も。
優希さんに抱っこされるような形で座っているさくらちゃんは、とてもかわいい。
甘え上手と言うのだろうか。
人懐こくて、けっこう誰にでもべたべたしている。
でもなにしろお人形さんみたいに小さくてかわいいものだから、あまりうっとうしがられることはないみたいだ。
髪なんか濡れたようにしっとりさらさらしていて、それが背中まで真っすぐに伸びている。
うっとりするくらい綺麗だ。
わたしの、癖っ毛を無理やり束ねたお下げとは大違い。
優希さんも、さくらちゃんの髪をいじるのは好きみたいだ。
さっきからブラシで丁寧に梳かしてあげている。楽しそうに。
「ずっと触ってたくなるね、この髪は。ねえさくらちゃん、私の妹にならない?」
「うん、いーよぉ」
「あのね、それじゃ妹の立場はどうなるのよ」
鈴ちゃんがつっこむと、三人は一斉に声をあげて笑い始める。
こうして見ると、鈴ちゃんは姉妹だけあって優希さんと似ている。
明るくて、裏表がなくて、みんなに優しい。
暗くて、心の中で嫌なことばっかり考えて、人見知りするわたしとは大違い。
「おいしい?」
さっきから黙々とクッキーに手を伸ばしていた仁美ちゃんに、優希さんはチョコをつまんで口へ運ぶ。
パクリ。
ポテトチップス。パクリ。もう1個クッキー。パクリ。
おもしろがって、次々食べさせる。
これだけ食べても、仁美は太らない。
背が高くて、スポーツはなんでもできて。男子よりも、女子からすごく人気がある。
チビでぽっちゃり体型、走ったらいつもビリのわたしとは大違い。
「いつ見ても仁美ちゃんはかっこいいね。きみ、女子高行ったらもてもてになるぞ」
「女子高で、もてもて?」
「ああ、いいのいいの。今はわかんなくても」
首を傾げる仁美ちゃんの頬を撫でて、優希さんは微笑む。
さくらちゃんはほとんど胸にしがみつくような格好で寄りかかっていた。
その隣で鈴ちゃんが、しょうがないなぁなんて言いたそうにして眺めてる。
本当に、わたしのお友だちはどうしてこんなに魅力的なんだろう。
わたしだけが場違いみたいだ……。
「あ、あの、ごめん。用事思い出しちゃった。帰るね」
たまらなくなって、わたしは立ち上がった。
もうここにはいたくなかった。
さくらちゃんや仁美ちゃんと並んでいたくなかった。
比べられたら、わたしはなんてみすぼらしいんだろう。
可愛くもなく、取り得もなく。なんにもない。わたしにはなんにもない!
「じゃあね」
慌しく部屋を飛び出すわたしの背中に、みんなの「またね」とか「気をつけてね」という言葉が届く。
どうしてわたしが帰るのか、ちっとも勘ぐったりしてない。
ますますわたしは惨めだった。
鈴ちゃんの家を出て一人で歩いてると、気が緩んだせいか泣きたくなった。
でも家に着くまでは我慢しなくちゃ。
泣きながら歩くわけにはいかない。
「織枝ちゃーん」
後ろから呼びかけられて、わたしは振り向く前にこぼれそうになってた涙をこすった。
「待って」
優希さんだった。
でも、どうして?
「途中のコンビニまで一緒に行こう。ジュースなくなっちゃって」
「ああ……」
それはそうだ。わたしを心配して追いかけてきてくれたとか、そんな都合のいい話あるわけない。
「大丈夫?」
「え、な、なにがですか?」
「なんか顔色がさ。具合でも悪いのかなって」
優希さんはそうして、わたしと手をつなぎ、さりげなく車道側に立ってくれる。
優しい。
思わず、見とれてしまう。
それでわたしは、この人に恋をしてるんだなと思った。
気づいてみれば、なんて今さらなんだろう。
お父さんお母さん、鈴ちゃん、ごめんなさい。
わたしの初恋は、年上の人で、とっても優しくて、明るい……美人な女の人です。
優希さん、ごめんなさい。
わたしなんかが好きになってごめんなさい。
もしもわたしが男だったら……もしも、さくらちゃんや仁美ちゃんだったなら、少しは望みもありましたか?
「ど、どうしたの、織枝ちゃん!」
急にポロポロと涙を流し始めたわたしに、優希さんは驚きながらも肩を抱いてくれた。
「どっか痛いの? それとも、私なにか――」
「いえ、いいえ。なんでも、ないんです」
「でも……」
もしこのまま泣きやまずにいたら、優希さんはずっと傍にいてくれるのだろうか。
他の子たちなんて放っておいて。
そんなこと思いながら、わたしはただ立ち尽くして泣くしかなかった。
せめて抱きついて、その胸で泣けるようなキャラだったらよかったのに。
それでも優希さんは、わたしの頭を撫でながらあやす真似をしてくれる。
「よしよし。困ったね。もし誰かが織枝ちゃんを泣かしたんだったら、すぐぶっとばしてやるのに」
「……ありがとう、ございます」
優希さんがもっと冷たい人ならよかった。
そしたらきっと……こんなに好きになることもなかったのに。
優しいあなたが好き。
誰にでも優しいあなたが嫌い。
あなたの優しさが、きっと誰が泣いていてもそうする優しさだけが、わたしをこんなに苦しくするから。
最終更新:2009年09月08日 01:19