Session5 "OBJECTIVITY"
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Introduction
物事は数値化されるとそれら自身の実体を持つように思える。例えば偏差値や視聴率、教育的な評価や調査による評価までも考えてみよう。いったん物事が数値に置き換わると、客観的で普遍的に適用できる、つまり脈絡がなく、どこでもあてはまるような物事になるように思われはじめる。
この節のための文章はある特定の数が定義された瞬間に戻ることの重要性とその数が生み出された過程を注意深く考えることの重要性を主張している。立ち止まってその数の定義の中で何が無視されていて何が重要とみなされているかを考えることは良い考えだ。あるいは別の言い方をすると、どのように「雑音」と「信号」が区別されてきたのか。このような種の判断によると、近似化の方法は異なり、算出の仮定も異なり、今度はそのことが異なる数値を導きだすだろう。近似化の過程や仮定の構築を省いたり、算出された数値を普遍的に適用できる客観的な結果として扱ったりすることは重大な誤りだ。
「国際化」は今日の世界のどこにでもあるキャッチフレーズである。例えば「世界標準」といった一般概念で話すことは、どのような文脈やどのような文化でも受け入れられる世界標準や変数といったものが実際にあるという考えを促進させる。しかしながら、普遍的に受け入れられる標準的な変数があるということは本当に真実なのか。実際には重要な変数はいつも故意に選ばれたもので、問題になっているある特定の調査計画のテーマや目的に依存するものである。重要な変数はこの理由から文化的、歴史的な文脈に従って変わる可能性が高いものである。国際化が文化的に特定の変数の強制的な輸出につながるということは心配なほど起こる可能性があることだ、つまり強力な文化の変数が、その変数がおそらく全くもって不適当であるだろう他の文化にたやすく押し付けられてしまいかねないということだ。このことは今日の科学技術社会論の中
心にある主要な問題のひとつだ。
この節のための文章はある特定の数が定義された瞬間に戻ることの重要性とその数が生み出された過程を注意深く考えることの重要性を主張している。立ち止まってその数の定義の中で何が無視されていて何が重要とみなされているかを考えることは良い考えだ。あるいは別の言い方をすると、どのように「雑音」と「信号」が区別されてきたのか。このような種の判断によると、近似化の方法は異なり、算出の仮定も異なり、今度はそのことが異なる数値を導きだすだろう。近似化の過程や仮定の構築を省いたり、算出された数値を普遍的に適用できる客観的な結果として扱ったりすることは重大な誤りだ。
「国際化」は今日の世界のどこにでもあるキャッチフレーズである。例えば「世界標準」といった一般概念で話すことは、どのような文脈やどのような文化でも受け入れられる世界標準や変数といったものが実際にあるという考えを促進させる。しかしながら、普遍的に受け入れられる標準的な変数があるということは本当に真実なのか。実際には重要な変数はいつも故意に選ばれたもので、問題になっているある特定の調査計画のテーマや目的に依存するものである。重要な変数はこの理由から文化的、歴史的な文脈に従って変わる可能性が高いものである。国際化が文化的に特定の変数の強制的な輸出につながるということは心配なほど起こる可能性があることだ、つまり強力な文化の変数が、その変数がおそらく全くもって不適当であるだろう他の文化にたやすく押し付けられてしまいかねないということだ。このことは今日の科学技術社会論の中
心にある主要な問題のひとつだ。
本文(客観性と査定の過程)
たとえば物理学や化学といった近代の実験に基づいた科学の理論的な枠組みは仮説的で理想化された体系に基づいている。物理学者として私の友人がかつて物理学は近似化の科学だと言った。言い換えれば、物理学はいつも本質的なことと無視できることを区別しようと努力している。物理学が本質的だと解釈した要素だけがさまざまな公式の形で表現される。その一方で無視しても差し支えないものはすべて無視される。それゆえそれの問題はいつも近似化を通して解決される。
たとえば高校物理では摩擦や空気抵抗は簡潔な運動方程式を引き出すために無視される。しかし私たちが覚えておかなければならないことは、実験室や理想化された体系だけでなく高校での近似化でも無視されている摩擦や空気抵抗は実際には職務中になされる実用的で応用的な科学の本当の本質の大部分を構成している。「信号」(S)を考慮しなければならないものとして、「騒音」(N)を無視できるものとして理解するときは、私たちはSN比が実験室的な(つまり理論的な)科学と現場での(つまり実際の)科学の間でかなり異なっているかもしれないという事実を見失わないようにしなければならない。
信号と騒音、つまり重要なことと重要でないことの定義におけるこのような種の相違、不一致とさえいってもよいが、は名古屋で1990年代に起きた干潟の埋め立てについての議論のなかにとてもはっきりとみられる。1994年から1998年の間に名古屋市と名古屋港の機関は藤前干潟の一部を埋め立てることを目的とするプロジェクトの査定を行った。公聴会がそのプロジェクトが潜在的に環境に与える影響についての公式の査定について議論するために開かれた。その地域の住民はその計画に強く反対し、公式報告の環境査定にもきっぱりと反対した。最終的に名古屋市長は1999年にその計画をあきらめざるを得なくなった。
重要な問題はどのように「使用割合」を算出するかであった。それは例えばシギやチドリといった鳥たちがどれだけ提案されたプロジェクトの対象となる地域を使っているかを示すことを目的としたデータであった。論争の中心にあったのは提案された埋立地がシギやチドリが冬をすごすために飛んでくる干潟を根本的に変えてしまうだろうという事実だった。その地域はこれらの鳥のための国際的に認められた日本の冬の港だった。
「使用割合」のようなものは客観的な測定の種類に思えるかもしれないが、実際には一方、そのプロジェクトの推進派と他方、独自の調査を行った独立した非政府組織とが計算した使用割合の間にはとても大きな差があった。市の査定はその割合を0.0%から10.7%の間のどこかであると算出した。他方で、NGOはその割合を31%から96%の間であると算出した。この不一致はどのように使用割合を決めるかの定義の違いから結果として生じた。プロジェクトの推進派では使用割合は「昼間に提案された地域を、そのとき水没しているかどうかに関係なく、使っている鳥の割合」確かめた結果として定義された。対照的に、NGOが使った定義は「提案された計画の地域が水没していない間にどれくらいの割合の鳥がえさを食べているか」であった。市はNGOの使用割合の定義を「鳥がその土地をもっとも使いやすい状況で行われた調査はただ単に鳥の日常生活の1つの側面を観察しただけにすぎない」という理由で批判した。
たとえば物理学や化学といった近代の実験に基づいた科学の理論的な枠組みは仮説的で理想化された体系に基づいている。物理学者として私の友人がかつて物理学は近似化の科学だと言った。言い換えれば、物理学はいつも本質的なことと無視できることを区別しようと努力している。物理学が本質的だと解釈した要素だけがさまざまな公式の形で表現される。その一方で無視しても差し支えないものはすべて無視される。それゆえそれの問題はいつも近似化を通して解決される。
たとえば高校物理では摩擦や空気抵抗は簡潔な運動方程式を引き出すために無視される。しかし私たちが覚えておかなければならないことは、実験室や理想化された体系だけでなく高校での近似化でも無視されている摩擦や空気抵抗は実際には職務中になされる実用的で応用的な科学の本当の本質の大部分を構成している。「信号」(S)を考慮しなければならないものとして、「騒音」(N)を無視できるものとして理解するときは、私たちはSN比が実験室的な(つまり理論的な)科学と現場での(つまり実際の)科学の間でかなり異なっているかもしれないという事実を見失わないようにしなければならない。
信号と騒音、つまり重要なことと重要でないことの定義におけるこのような種の相違、不一致とさえいってもよいが、は名古屋で1990年代に起きた干潟の埋め立てについての議論のなかにとてもはっきりとみられる。1994年から1998年の間に名古屋市と名古屋港の機関は藤前干潟の一部を埋め立てることを目的とするプロジェクトの査定を行った。公聴会がそのプロジェクトが潜在的に環境に与える影響についての公式の査定について議論するために開かれた。その地域の住民はその計画に強く反対し、公式報告の環境査定にもきっぱりと反対した。最終的に名古屋市長は1999年にその計画をあきらめざるを得なくなった。
重要な問題はどのように「使用割合」を算出するかであった。それは例えばシギやチドリといった鳥たちがどれだけ提案されたプロジェクトの対象となる地域を使っているかを示すことを目的としたデータであった。論争の中心にあったのは提案された埋立地がシギやチドリが冬をすごすために飛んでくる干潟を根本的に変えてしまうだろうという事実だった。その地域はこれらの鳥のための国際的に認められた日本の冬の港だった。
「使用割合」のようなものは客観的な測定の種類に思えるかもしれないが、実際には一方、そのプロジェクトの推進派と他方、独自の調査を行った独立した非政府組織とが計算した使用割合の間にはとても大きな差があった。市の査定はその割合を0.0%から10.7%の間のどこかであると算出した。他方で、NGOはその割合を31%から96%の間であると算出した。この不一致はどのように使用割合を決めるかの定義の違いから結果として生じた。プロジェクトの推進派では使用割合は「昼間に提案された地域を、そのとき水没しているかどうかに関係なく、使っている鳥の割合」確かめた結果として定義された。対照的に、NGOが使った定義は「提案された計画の地域が水没していない間にどれくらいの割合の鳥がえさを食べているか」であった。市はNGOの使用割合の定義を「鳥がその土地をもっとも使いやすい状況で行われた調査はただ単に鳥の日常生活の1つの側面を観察しただけにすぎない」という理由で批判した。
プロジェクト推進派は自分達の調査を行い、4日分のデータを集めた。1994年の2/15、5/12、5/19、そして9/6。5/19は小潮、乃ち潮の満ち引きの差が最も小さくなる日であり、残る3日はその逆で最も大きくなる上げ潮の日であった。これらの日は年間の平均値を算出する目的で選ばれた。その調査というのは、ある指定された場所での鳥の数を日の出から日の入りまでの間の1時間毎に数えるというものだ。言い換えれば、1日の平均値を算出する為に、この調査は土地が水没していようがしていまいが日の出から日没までの1時間毎のデータを使ったということだ。これは、最後の算出は「日の出から日没までに指定された全てのエリアで観測された鳥の総計数の内の埋立予定地に来た鳥の数の率」に基づいているということを意味していた。
一方でNGOも調査を行い、プロジェクト推進派とは異なる4つの日のデータを集めた。1994年2/17、3/27、4/24そして5/8である。これらの日はNGOが、干潟を鳥が一番使いそうな時に鳥の観測をできる様に選ばれた日であった。NGO調査員は指定区で干潮3時間前から満潮3時間後迄の1時間毎に鳥の数を数えた。このやり方はその土地が最も頻繁に鳥に利用される時間帯に焦点を当てており、これらの日やこれらのやり方によってNGOは使用率(使用割合)を「全ての指定区の鳥の数の総計中の、殆ど干潟が水没していない時間における藤前干潟に餌をとりにきた鳥の数の割合」と定義した。プロジェクト推進派とNGOの調査結果においてあの様に差を生じさせたのは、日の選び方と使用率の定義の相違なのだ。
ならば、干潟を埋め立てるという名古屋市の計画を推進するかどうかを決定する上で、どちらの使用率を採用すべきであったのか。プロジェクト推進派は無作為抽出を使っており。これこそ「客観的数値」として捉えるべきだと主張していた。一方でNGO側は、指定区が最も頻繁に使用された時間帯から抽出した代表的な数字こそ正しい使用率であると主張した。
プロジェクト推進派とNGOとの間の議論の核心は、使用率の定義の仕方、その近似方法、そしてどの種のサンプルがデータに使われるべきかという問題である。2つの調査は測定のタイミング(いつデータを収集したか)の点で異なるだけでなく、実際の測定方法の点でも異なっていた。これらの差異はどう近似すれば(見積もれば)ベストか、近似の中で何が強調されるべきかということでの異なる意見により生じた。言い換えれば、何を無視できて何を不可欠なものとして捉えなければならないか、要は、S/N率の食い違いがあったわけだ。プロジェクト推進派は、使用率は無作為抽出によって見積もられるべきだ、つまり、1年を通しての平均を確定することによって、そして1日の平均を確定することで近似化すべきだと確信していた。これはデータを特定の期間にあの特定のやり方で集めるという彼らの決定の基盤である。一方でNGOは使用率を、鳥が最も指定区に集中する間に焦点を当てることで見積もりをした。これら2つの近似方法のどちらが埋立予定地の影響の査定に用いられるべきなのか。
NGOの使用率の数値は、現場で得たその地域の知識を反映するよう作られている。一方プロジェクト推進派の数値はエンジニアプログラミングにさえ使われうる手段としてや、理想的な工学システムに適している数値として見なされている。しかしこの科学的ランダムシステムに基づく理想化された計算では、干潮と満潮の違いが無視されてしまっていた。NGOのやり方はそれにも関わらず潮の差を無視してはいけない不可欠なものとして捉えようとした。これは理想と現実の間で生じたS/N率の相違の良い例である。
名古屋での議論の核心にある基本的な問題は、「どちらがより科学的なのか」という見地のもとで見積もり(近似)や計算方法の定義における違いを議論してきたことである。プロジェクト推進派は、どんな工学計画にも使われる無作為抽出が「客観的数値」であると主張した。推進派は近似された査定で科学をつくり、査定の過程にはいつもある価値判断が含有されることを認識しなかった。彼らは自分達の科学的方法の限界を認識できなかったので、NGOが提案した異なる形での客観性には対応できなかったわけだ。それは実際の地域状況という現実に一致した数値を持ち出す必要性を含んでいたのだが。プロジェクト推進派には見積もられた査定には必ず近似が含まれており、近似には必ずなにが重要でなにが無視できるかといった相対的な重要性に関する価値判断が含まれるということが理解できなかった。彼らは、全ての所謂客観的データの用意に含まれるものの一部であるこの様な価値判断は不可避にデータの集め方やデータの性質そのものに影響を与えるということを理解し損ねたわけだ
一方でNGOも調査を行い、プロジェクト推進派とは異なる4つの日のデータを集めた。1994年2/17、3/27、4/24そして5/8である。これらの日はNGOが、干潟を鳥が一番使いそうな時に鳥の観測をできる様に選ばれた日であった。NGO調査員は指定区で干潮3時間前から満潮3時間後迄の1時間毎に鳥の数を数えた。このやり方はその土地が最も頻繁に鳥に利用される時間帯に焦点を当てており、これらの日やこれらのやり方によってNGOは使用率(使用割合)を「全ての指定区の鳥の数の総計中の、殆ど干潟が水没していない時間における藤前干潟に餌をとりにきた鳥の数の割合」と定義した。プロジェクト推進派とNGOの調査結果においてあの様に差を生じさせたのは、日の選び方と使用率の定義の相違なのだ。
ならば、干潟を埋め立てるという名古屋市の計画を推進するかどうかを決定する上で、どちらの使用率を採用すべきであったのか。プロジェクト推進派は無作為抽出を使っており。これこそ「客観的数値」として捉えるべきだと主張していた。一方でNGO側は、指定区が最も頻繁に使用された時間帯から抽出した代表的な数字こそ正しい使用率であると主張した。
プロジェクト推進派とNGOとの間の議論の核心は、使用率の定義の仕方、その近似方法、そしてどの種のサンプルがデータに使われるべきかという問題である。2つの調査は測定のタイミング(いつデータを収集したか)の点で異なるだけでなく、実際の測定方法の点でも異なっていた。これらの差異はどう近似すれば(見積もれば)ベストか、近似の中で何が強調されるべきかということでの異なる意見により生じた。言い換えれば、何を無視できて何を不可欠なものとして捉えなければならないか、要は、S/N率の食い違いがあったわけだ。プロジェクト推進派は、使用率は無作為抽出によって見積もられるべきだ、つまり、1年を通しての平均を確定することによって、そして1日の平均を確定することで近似化すべきだと確信していた。これはデータを特定の期間にあの特定のやり方で集めるという彼らの決定の基盤である。一方でNGOは使用率を、鳥が最も指定区に集中する間に焦点を当てることで見積もりをした。これら2つの近似方法のどちらが埋立予定地の影響の査定に用いられるべきなのか。
NGOの使用率の数値は、現場で得たその地域の知識を反映するよう作られている。一方プロジェクト推進派の数値はエンジニアプログラミングにさえ使われうる手段としてや、理想的な工学システムに適している数値として見なされている。しかしこの科学的ランダムシステムに基づく理想化された計算では、干潮と満潮の違いが無視されてしまっていた。NGOのやり方はそれにも関わらず潮の差を無視してはいけない不可欠なものとして捉えようとした。これは理想と現実の間で生じたS/N率の相違の良い例である。
名古屋での議論の核心にある基本的な問題は、「どちらがより科学的なのか」という見地のもとで見積もり(近似)や計算方法の定義における違いを議論してきたことである。プロジェクト推進派は、どんな工学計画にも使われる無作為抽出が「客観的数値」であると主張した。推進派は近似された査定で科学をつくり、査定の過程にはいつもある価値判断が含有されることを認識しなかった。彼らは自分達の科学的方法の限界を認識できなかったので、NGOが提案した異なる形での客観性には対応できなかったわけだ。それは実際の地域状況という現実に一致した数値を持ち出す必要性を含んでいたのだが。プロジェクト推進派には見積もられた査定には必ず近似が含まれており、近似には必ずなにが重要でなにが無視できるかといった相対的な重要性に関する価値判断が含まれるということが理解できなかった。彼らは、全ての所謂客観的データの用意に含まれるものの一部であるこの様な価値判断は不可避にデータの集め方やデータの性質そのものに影響を与えるということを理解し損ねたわけだ