Session4 "MATHEMATICS"
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導入
フェルマーの最終定理の歴史は、17世紀のフランス人数学者Pierre de Fermatが自分が読んでいた数学書の余白にラテン語で次に述べるこちらをからかうような文を書いたことから始まる。「3乗の数は3乗の数2つの和にはならず、4乗の数は4乗の数2つの和にはならない。そして一般的に2乗より大きな任意の累乗の数は同じ指数の累乗の数2つの和にはならない。私はこの定理について実に驚くべき証明を発見したが、その証明を記すにはこの余白は狭すぎる。」
フェルマーは、方程式xn+yn=znはn≧3の場合、自明でない整数解、すなわちxyz≠0を満たす整数解をもたないと主張した。しかしフェルマーが言うには、その余白には彼が発見した素晴らしい証明を書き記すのに十分なスペースがない、ということだった。この定理に対して、その後何世紀にも渡り多くの優れた数学者が挑んだ。これは、フェルマーが証明することなく作成した数学に関する幾つかの記述のうち最後まで証明されずに残ったものだったのでフェルマーの最終定理として知られている。
フェルマーがこの証明抜きの定理を考案してから300年以上も後になって、東京大学の谷山豊と志村五郎という二人の若い日本人数学者が、当時全く知られていなかった論理的つながりによってフェルマーの最終定理と結びついた、この問題解決に重要な手がかりを発見した。その手がかりとは、楕円曲線とモジュラー形式という数学における二つの主たる題目の、全くもって予期せぬ驚くべき関係であったのだ。楕円曲線が古代ギリシャまでその歴史をさかのぼれ、フェルマー自身がその復活に一役買うほど長い歴史を持っているのに対し、モジュラー形式の研究は、ほんの19世紀までしかその歴史をさかのぼれないような比較的新しい分野である。これらの起源によって、両者は全然別の題目であると思われてきたため、その間のつながりを立証することは数学的に偉大な業績であると考えられた。
1993年、Andrew Wilesは谷山と志村によって発見されたつながりの大部分の証明を発表し、それによりついにフェルマーの最終定理を解き終えた。彼の発表は7年間一人で努力した成果であった。しかし彼の発表はまだ完全にフェルマーの最終定理の物語のハッピーエンドになったわけではなかった。発表後少ししてから、その証明に重大な欠陥があることがわかったのだ。1994年にフェルマーの最終定理が最終的にそして決定的に解決される前に、Wilesは世界中からの集中的な興味の視線にさらされながらもう一年努力の日々を耐えなければならなかった。
このセッションでは、どのように谷山と志村が東京大学キャンパス内で出会い、その共同作業によりどのようにして、最終的に数学史上最も重要な発見のうちの一つを導くことになった理論を綿密に作り上げたかについて紹介しよう。
フェルマーは、方程式xn+yn=znはn≧3の場合、自明でない整数解、すなわちxyz≠0を満たす整数解をもたないと主張した。しかしフェルマーが言うには、その余白には彼が発見した素晴らしい証明を書き記すのに十分なスペースがない、ということだった。この定理に対して、その後何世紀にも渡り多くの優れた数学者が挑んだ。これは、フェルマーが証明することなく作成した数学に関する幾つかの記述のうち最後まで証明されずに残ったものだったのでフェルマーの最終定理として知られている。
フェルマーがこの証明抜きの定理を考案してから300年以上も後になって、東京大学の谷山豊と志村五郎という二人の若い日本人数学者が、当時全く知られていなかった論理的つながりによってフェルマーの最終定理と結びついた、この問題解決に重要な手がかりを発見した。その手がかりとは、楕円曲線とモジュラー形式という数学における二つの主たる題目の、全くもって予期せぬ驚くべき関係であったのだ。楕円曲線が古代ギリシャまでその歴史をさかのぼれ、フェルマー自身がその復活に一役買うほど長い歴史を持っているのに対し、モジュラー形式の研究は、ほんの19世紀までしかその歴史をさかのぼれないような比較的新しい分野である。これらの起源によって、両者は全然別の題目であると思われてきたため、その間のつながりを立証することは数学的に偉大な業績であると考えられた。
1993年、Andrew Wilesは谷山と志村によって発見されたつながりの大部分の証明を発表し、それによりついにフェルマーの最終定理を解き終えた。彼の発表は7年間一人で努力した成果であった。しかし彼の発表はまだ完全にフェルマーの最終定理の物語のハッピーエンドになったわけではなかった。発表後少ししてから、その証明に重大な欠陥があることがわかったのだ。1994年にフェルマーの最終定理が最終的にそして決定的に解決される前に、Wilesは世界中からの集中的な興味の視線にさらされながらもう一年努力の日々を耐えなければならなかった。
このセッションでは、どのように谷山と志村が東京大学キャンパス内で出会い、その共同作業によりどのようにして、最終的に数学史上最も重要な発見のうちの一つを導くことになった理論を綿密に作り上げたかについて紹介しよう。
フェルマーの謎
1954年1月、東京大学のある若く才能のある数学者がいつものように、彼の部門の図書館を訪れた。志村五郎はMathematische Annalen誌の第24巻を一冊探していた。特に、ドイリングが書いた虚数乗法の代数理論の論文を探していた。特に厄介で難解な計算の助けとして必要だったのだ。
だが、その巻はすでに貸し出されていたので、志村は驚くと同時に困ったなと思った。借りたのは谷山豊であり、彼はキャンパス内の、志村とは反対側の場所に住んでいて、志村にとってはそういえばそういう人もいたなぁ、という程度の知り合いであった。志村は谷山に、厄介な計算を終わらせるためにその雑誌が至急必要であることを説明し、いつ返却予定かを丁寧に尋ねる内容の手紙を送った。数日後、志村の机の上に一枚のはがきが置かれていた。谷山は、彼もまた丁度同じ計算に取り組んでいて論法上の同じ点で行き詰まっている、と返事を書いたのだった。谷山は、お互いに考えを出し合って、よければ一緒に問題を解決してはどうかと提案した。一冊の図書館の本をめぐるこの偶然の出会いによって、数学史の流れを変えることになる共同研究が始まった。
1954年に彼らが出会った頃、谷山と志村は丁度数学者としての仕事を始めたばかりであった。伝統的に若い研究者は、彼らのまだ羽根が生えたての頭脳を導く教授の指導を受けるものであったが、谷山と志村はこの形の見習い期間を拒否した。第二次世界大戦中、実質的な研究は停止してしまっていて、1950年代になるまで数学の教授陣は復活しなかったのだ。志村曰く、教授陣は「疲れ果て、やる気もなく、幻滅している状態だった」。それに比べ、戦後の学生たちは情熱的で学ぶ気に満ちあふれていたので、彼らはすぐに、前進する唯一の方法は自分たちで自分たち自身に教えることであると悟った。学生たちは定期的にゼミを開き、最新の技術や発見を順番に教え合った。普段は投げやりな谷山であったが、ゼミでは猛烈な推進力となった。彼は、年上の学生には未知の領域を探求するよう勇気づけ、年下の学生に対しては父親的な役割を果たした。
谷山はうっかり者の天才の典型であり、それは彼の外見にも表れていた。彼はきちんと靴紐を結ぶことができなかったので、一日に何回も靴紐を結ぶくらいならいっそのこと靴紐を全く結ばないことにした。志村が几帳面である一方、谷山は怠惰と言ってもよいほどだらしなかった。驚いたことに、これが志村が素晴らしいと思った谷山の特性なのであった。志村曰く「谷山は多くの間違いを犯す才能に恵まれている。それもほとんどが正しい方向に。私は彼のこの才能をうらやましく思い、彼の真似をしようとしたが、結局良い間違いを犯すことが非常に難しいことが分かっただけで徒労に終わったよ。」
学生たちは西洋から遠ざかっていたので、ゼミでは時折ヨーロッパやアメリカでは一般的に流行遅れだと考えられている題目を取り扱った。谷山と志村は、とりわけ時代遅れな題目であったモジュラー形式の研究に興味をひかれた。モジュラー形式は数学の中でも最も奇妙で不思議な研究対象のひとつであった。モジュラー形式は数学の中でも最も難解な存在のひとつであるが、20世紀の数論者マルティン・アイスラーはモジュラー形式を五つある基本的操作のうちのひとつだと考えた。すなわち加法、減法、乗法、除法、モジュラー形式の五つということである。モジュラー形式には無限の対称性を表すという面白い特性がある。谷山と志村が研究したモジュラー形式は無限通りの方法で移動、切り替え、交換、反射、回転が可能で、しかしなお元の状態を保つため、数学の研究対象の中でも最も対称性を有している。
不幸なことに、モジュラー形式は描くことはもちろん想像することさえできない。なぜなら、モジュラー形式は双曲空間と呼ばれる四次元空間に存在するからである。人間はありきたりの三次元世界で暮らすことを余儀なくされているので、双曲空間を理解し取り扱うのは難しいが、四次元空間は数学的には妥当な概念であり、モジュラー形式にこのような非常に高度な対称性を与えているのがこの特別な次元なのである。画家のマウリッツ・コルネリス・エッシャーは数学的な発想に惹かれ、自分のエッチング作品や絵画の一部に双曲空間の概念を持ち込もうと試みた。図1はエッシャーのCircle Limit Ⅳだが、これは双曲世界を二次元のページにはめ込んだものである。
モジュラー形式は数学の中では非常に自立した存在だ。とりわけ、楕円方程式とは全く関係ないように見える。モジュラー形式はとてつもなく複雑なもので、研究される大体の理由がその対称性であり、19世紀になって初めて発見されたのだ。楕円方程式は古代ギリシャまでその歴史をさかのぼることができ、対称性とは何の関係も持っていない。モジュラー形式と楕円方程式は数学の世界の中でも全く異なる領域に存在し、誰もこの二つの間にわずかでもつながりがあろうなどとは誰も信じたりしなかったであろう。しかし谷山と志村は、楕円方程式とモジュラー形式は実質的には同一のものであると言って数学界に衝撃を与えた。この二人の無所属の数学者によると、モジュラー形式と楕円方程式の世界は統合することが可能であるということだった。
1995年9月、東京で国際シンポジウムが開かれた。これは多くの若い日本人研究者にとって、世界の他の国々の研究者に自分たちが学んだことを誇示するまたとない機会だった。彼らは自分たちの研究と関係のある36の問題を一つにまとめて配った。それにはつつましやかな導入が付いていた――これらはまだ解決されていない数学の問題です。じっくり準備したわけではありませんので、これらの中には自明なものやすでに解決済みのものもあるかもしれません。参加者の皆さんにはこれらの問題のうちどれか1つにでも論評を加えていただけたらと思います。
これらの問題のうち4つが谷山によるものであり、それらはモジュラー形式と楕円方程式の不思議な関係をほのめかしていた。これらの無邪気な問題が、最終的には数論の革命を引き起こすことになるのだった。そのシンポジウムで谷山が出した問題はすべて、各々のモジュラー形式は実は姿を変えた楕円方程式であるという彼の仮説に関係していた。全ての楕円方程式はモジュラー形式と関係があるという考えはとても奇妙だったので、谷山の問題を見た者はそれらを変な意見としてしか見なさなかった。谷山の唯一の理解者である志村は、谷山の考えには力と深さがあると信じていた。志村はシンポジウムの仕事をしながら、その仮説を世界の他の国々の研究者が無視できないレベルにまで発展させようと谷山とともに努力した。志村はモジュラー形式と楕円方程式の世界の間にある関係を裏付ける証拠をもっと見つけたかった。1957年、志村がプリンストン高等研究所に招待されて、二人の共同作業は一時的に停止してしまった。アメリカで客員教授として過ごして二年の時が経ち、志村は谷山との共同作業を再開しようとした。しかし、この共同作業は決して再開されることはなかった。1958年11月17日、谷山豊は自殺したのだった。
だが、その巻はすでに貸し出されていたので、志村は驚くと同時に困ったなと思った。借りたのは谷山豊であり、彼はキャンパス内の、志村とは反対側の場所に住んでいて、志村にとってはそういえばそういう人もいたなぁ、という程度の知り合いであった。志村は谷山に、厄介な計算を終わらせるためにその雑誌が至急必要であることを説明し、いつ返却予定かを丁寧に尋ねる内容の手紙を送った。数日後、志村の机の上に一枚のはがきが置かれていた。谷山は、彼もまた丁度同じ計算に取り組んでいて論法上の同じ点で行き詰まっている、と返事を書いたのだった。谷山は、お互いに考えを出し合って、よければ一緒に問題を解決してはどうかと提案した。一冊の図書館の本をめぐるこの偶然の出会いによって、数学史の流れを変えることになる共同研究が始まった。
1954年に彼らが出会った頃、谷山と志村は丁度数学者としての仕事を始めたばかりであった。伝統的に若い研究者は、彼らのまだ羽根が生えたての頭脳を導く教授の指導を受けるものであったが、谷山と志村はこの形の見習い期間を拒否した。第二次世界大戦中、実質的な研究は停止してしまっていて、1950年代になるまで数学の教授陣は復活しなかったのだ。志村曰く、教授陣は「疲れ果て、やる気もなく、幻滅している状態だった」。それに比べ、戦後の学生たちは情熱的で学ぶ気に満ちあふれていたので、彼らはすぐに、前進する唯一の方法は自分たちで自分たち自身に教えることであると悟った。学生たちは定期的にゼミを開き、最新の技術や発見を順番に教え合った。普段は投げやりな谷山であったが、ゼミでは猛烈な推進力となった。彼は、年上の学生には未知の領域を探求するよう勇気づけ、年下の学生に対しては父親的な役割を果たした。
谷山はうっかり者の天才の典型であり、それは彼の外見にも表れていた。彼はきちんと靴紐を結ぶことができなかったので、一日に何回も靴紐を結ぶくらいならいっそのこと靴紐を全く結ばないことにした。志村が几帳面である一方、谷山は怠惰と言ってもよいほどだらしなかった。驚いたことに、これが志村が素晴らしいと思った谷山の特性なのであった。志村曰く「谷山は多くの間違いを犯す才能に恵まれている。それもほとんどが正しい方向に。私は彼のこの才能をうらやましく思い、彼の真似をしようとしたが、結局良い間違いを犯すことが非常に難しいことが分かっただけで徒労に終わったよ。」
学生たちは西洋から遠ざかっていたので、ゼミでは時折ヨーロッパやアメリカでは一般的に流行遅れだと考えられている題目を取り扱った。谷山と志村は、とりわけ時代遅れな題目であったモジュラー形式の研究に興味をひかれた。モジュラー形式は数学の中でも最も奇妙で不思議な研究対象のひとつであった。モジュラー形式は数学の中でも最も難解な存在のひとつであるが、20世紀の数論者マルティン・アイスラーはモジュラー形式を五つある基本的操作のうちのひとつだと考えた。すなわち加法、減法、乗法、除法、モジュラー形式の五つということである。モジュラー形式には無限の対称性を表すという面白い特性がある。谷山と志村が研究したモジュラー形式は無限通りの方法で移動、切り替え、交換、反射、回転が可能で、しかしなお元の状態を保つため、数学の研究対象の中でも最も対称性を有している。
不幸なことに、モジュラー形式は描くことはもちろん想像することさえできない。なぜなら、モジュラー形式は双曲空間と呼ばれる四次元空間に存在するからである。人間はありきたりの三次元世界で暮らすことを余儀なくされているので、双曲空間を理解し取り扱うのは難しいが、四次元空間は数学的には妥当な概念であり、モジュラー形式にこのような非常に高度な対称性を与えているのがこの特別な次元なのである。画家のマウリッツ・コルネリス・エッシャーは数学的な発想に惹かれ、自分のエッチング作品や絵画の一部に双曲空間の概念を持ち込もうと試みた。図1はエッシャーのCircle Limit Ⅳだが、これは双曲世界を二次元のページにはめ込んだものである。
モジュラー形式は数学の中では非常に自立した存在だ。とりわけ、楕円方程式とは全く関係ないように見える。モジュラー形式はとてつもなく複雑なもので、研究される大体の理由がその対称性であり、19世紀になって初めて発見されたのだ。楕円方程式は古代ギリシャまでその歴史をさかのぼることができ、対称性とは何の関係も持っていない。モジュラー形式と楕円方程式は数学の世界の中でも全く異なる領域に存在し、誰もこの二つの間にわずかでもつながりがあろうなどとは誰も信じたりしなかったであろう。しかし谷山と志村は、楕円方程式とモジュラー形式は実質的には同一のものであると言って数学界に衝撃を与えた。この二人の無所属の数学者によると、モジュラー形式と楕円方程式の世界は統合することが可能であるということだった。
1995年9月、東京で国際シンポジウムが開かれた。これは多くの若い日本人研究者にとって、世界の他の国々の研究者に自分たちが学んだことを誇示するまたとない機会だった。彼らは自分たちの研究と関係のある36の問題を一つにまとめて配った。それにはつつましやかな導入が付いていた――これらはまだ解決されていない数学の問題です。じっくり準備したわけではありませんので、これらの中には自明なものやすでに解決済みのものもあるかもしれません。参加者の皆さんにはこれらの問題のうちどれか1つにでも論評を加えていただけたらと思います。
これらの問題のうち4つが谷山によるものであり、それらはモジュラー形式と楕円方程式の不思議な関係をほのめかしていた。これらの無邪気な問題が、最終的には数論の革命を引き起こすことになるのだった。そのシンポジウムで谷山が出した問題はすべて、各々のモジュラー形式は実は姿を変えた楕円方程式であるという彼の仮説に関係していた。全ての楕円方程式はモジュラー形式と関係があるという考えはとても奇妙だったので、谷山の問題を見た者はそれらを変な意見としてしか見なさなかった。谷山の唯一の理解者である志村は、谷山の考えには力と深さがあると信じていた。志村はシンポジウムの仕事をしながら、その仮説を世界の他の国々の研究者が無視できないレベルにまで発展させようと谷山とともに努力した。志村はモジュラー形式と楕円方程式の世界の間にある関係を裏付ける証拠をもっと見つけたかった。1957年、志村がプリンストン高等研究所に招待されて、二人の共同作業は一時的に停止してしまった。アメリカで客員教授として過ごして二年の時が経ち、志村は谷山との共同作業を再開しようとした。しかし、この共同作業は決して再開されることはなかった。1958年11月17日、谷山豊は自殺したのだった。
短い経歴の間に谷山は数学に対して多くの急進的な考えを提案した。シンポジウムで彼が出した問題には彼の素晴らしい洞察が含まれていたが、彼の洞察はあまりにも時代に先んじていたために、それが数論に計り知れない影響を与えるのを彼自身が生前に見届けることはなかった。ハーバード大学教授Barry Mazurは谷山‒志村予想の出現を目撃した人だ。曰く「それは素晴らしい予想でした。しかし、あまりにも時代に先んじていたので、最初は無視されてしまったのです。初めてこれが提案されたときは、あまりにも衝撃的であったため、取り上げられることがありませんでした。一方には楕円曲線の世界が、もう一方にはモジュラー形式の世界があります。どちらの数学分野も集中的に研究されてきましたが、別々に研究されてきました。そこに谷山‒志村予想が現れたのです。これは全く異なる二つの世界の間に橋がかかっていることを告げる重要な予想でした。数学者は橋を架けるのが大好きなのです。」
数学における橋の価値は莫大なものである。その橋によって、遠く離れた島々に住んできた数学者の集まりが意見を交換し合ったり互いの世界を探検したりできるようになる。数学は無知の海に浮かぶ知識の島々から成り立つ。たとえば、外形と形状を研究する幾何学者たちでいっぱいの島もあれば、数学者たちが危険性と可能性について議論する確率の島もある。そのような島々が何十何百もあり、それぞれの島で独自の言語が使われ、その言語は他の島の住人には理解不能なのだ。谷山‒志村予想は、二つの島をつないで、初めてお互いの住人が話すことを可能にするであろうという素晴らしい潜在力を秘めていた。谷山‒志村予想はモジュラー形式の世界を通して楕円問題に近づくことで、数学者たちがそれまで何世紀もの間未解決のままであった楕円問題に取り組むことを可能にしたのだった。
数学における橋の価値は莫大なものである。その橋によって、遠く離れた島々に住んできた数学者の集まりが意見を交換し合ったり互いの世界を探検したりできるようになる。数学は無知の海に浮かぶ知識の島々から成り立つ。たとえば、外形と形状を研究する幾何学者たちでいっぱいの島もあれば、数学者たちが危険性と可能性について議論する確率の島もある。そのような島々が何十何百もあり、それぞれの島で独自の言語が使われ、その言語は他の島の住人には理解不能なのだ。谷山‒志村予想は、二つの島をつないで、初めてお互いの住人が話すことを可能にするであろうという素晴らしい潜在力を秘めていた。谷山‒志村予想はモジュラー形式の世界を通して楕円問題に近づくことで、数学者たちがそれまで何世紀もの間未解決のままであった楕円問題に取り組むことを可能にしたのだった。