小さな幸福

間桐 辰妃SS
「小さな幸福」




晩春の朝。


まだ薄暗い室内の中、彼は目覚める。
体を起こし、身震いを一つ。その後、体を前後に伸ばし、固まった体をほぐしていく。


時計の針は4時を少し過ぎたところ。
だが、目のよく見えぬ彼にとって時計はさほど重要なものではない。


体で感じる温度と周囲を包む静けさ。
そして、わずかに聞こえる住民達の寝息が、彼に時間を教えてくれる。


自分の寝床を這い出し、目的地に足を向ける。
向かうは2階の寝室。そこに彼の下僕が寝ているはずであった。


足音を殺し、静かに階段を上っていく。
2階には下僕の他に、この家を支配する二人の女王が寝ている。


間違っても、こんな時間に起こしてはならない。
女王たちが起きるのは、下僕が朝食を用意した後と決まっているのだ。
そのルールは不変。たまにそのルールを破る下僕は、その度に酷い折檻を受けている。


そして、そのルールは自分とて例外ではない。
前に少々、声を上げすぎてしまい、女王たちを時間前に起こした時は酷い目にあった。


受けた折檻が頭をよぎり、僅かに身を震わす。
記憶力に自信の無い彼でも、体に刻まれた痛みは忘れない。


細心の注意を払い、女王たちの部屋の前を通過する。
目指す下僕の部屋は、一番奥まった所にある。


ドアノブに両手を乗せ、体を使って引く。
ノブが下がったのを見計らい、体でドアを押し開ける。


開いた隙間。身を滑り込ませるようにして室内へ。
カーテンが引かれ、まだ暗い部屋の中。

当てにならぬ視覚の代わり、自慢の嗅覚で目的の場所を探し出す。

目指すゴールはもうすぐそこ。
後脚にグット力を籠め、彼は宙を舞った・・・。





「ウェイバー・・・。最近、散歩をサボっていたとはいえ、4時半はないのではないでしょうか・・・。」

飼い犬に、半ば引きずられるようにして歩く長身の女性。
寝ているところを叩き起され、朝の散歩を強要された不幸なその人。
それは、間桐家ヒエラルキー第4位。間桐辰妃の哀れな姿だった。


油断すると落ちてきそうな瞼を必死にこじ開けながら、グイグイと綱を引く愛犬に声をかける辰妃。


「私は眠いんです・・・。昨日も仕事が立込み・・・。」

本格的に始動したフェニックス計画。
重度の生体移植を必要とする衛士達の戦線復帰を目指したこの計画で、辰妃は教育小隊(通称:フェニックス小隊)
に所属し、主に回復段階にある衛士達の戦術機訓練、仮想敵を務めていた。


桜花作戦の成功により、最悪の状況を脱したとはいえ、依然高いBETAの脅威。
そのBETAに対抗する為の最重要戦力である戦術機は、どこの戦線でも引く手数多である。
そして、戦術機を操る衛士が必要であることは語るまでもない。


その為、当初は実験的要素の高かったフェニックス計画も、その重要性を日に日に高め、
ついには本格的な衛士の再生計画として動き出したのであった。
それとともに忙しさを増していく教育小隊(通称:フェニックス小隊)


「最近は新型OSの訓練も始まってですね・・・」

衛士の再生計画と併せて始まったXM3と呼ばれる新型OSの導入。


横浜基地に所属し始めた頃から使用していたものの、性能の全てを引き出せてはいないらしい。
そこで始まった教育小隊の完熟訓練。


高速機動戦を得意とする辰妃にとって、機体のレスポンスを大きく向上させる新型OSは実に楽しいものであったが、
残念ながら教官配置という役割上、実機をぶん回すだけですまない。
新型OSの特性を今後分かりやすく説明する為の、訓練実施要領作成など書類仕事が付きまとう。


戦術機操縦は好きだが、書類仕事はツマラナイ・・・。
他人に押し付けることによって逃げていたが、最近それも通用しなくなってきている。


「有栖川少尉も、前みたいにやってくれないし。」

脳裏に浮ぶ、オカッパ頭が特徴な有栖川の姿。


その真面目さゆえ、押し付ければ(投げ出せば)、小言を言いつつもやってくれた有栖川。
だが最近では、書類仕事を放り出し、逃げ出す小隊員に対して目を光らせ、やってくれなくなった。


「昨日の夜も、書式が違うと「ワンッ!」

愚痴を言うばかりで、タラタラと歩く辰妃に不満の声を上げるウェイバー。
夏の朝は早い。いつの間にか周囲は随分と明るくなっていた。


「・・・愚痴ぐらい聞いてくれてもいいじゃないですか。私は貴方の飼い主なので・・・」

辰妃の言い終える前に走り出すウェイバー。


「しょうがないですね。今日だけですよ。」

苦笑しながらも、一緒に走り出す辰妃。
今朝は、いつも痛む腰の調子もいい。久しぶりに全力で走るのもいいだろう。


「いきますよ!ウェイバー!」 「ワンッ!」

喜びの声を上げるウェイバー。


朝日が差し始めた街頭。

やっと目覚め始めた街の中、柔らかな風となる主従、二人。





30分後

走り終え、満足げな顔で家路につく一匹と一人。
久しぶりに全力で走った辰妃、久しぶりに満足いくまで散歩のできたウェイバー。
初夏の朝に訪れた小さな幸福。二人の顔には笑顔が浮んでいた。


だが・・・まもなく二人は、幸福から、不幸のどん底へと滑り落ちることとなる。
そう、彼女達は大事なことを忘れていたのだ。


間桐家の朝には、不変のルールがあることを・・・。





同時刻 間桐家食卓

「あら・・・姉さん。辰妃の姿が見えないわ。」

「ウェイバーの姿も見えないわね。散歩にでも行ったのかしら・・・。あら?」

目覚めた二人の女王。間桐家ヒエラルキーの頂点に位置する二人の姉の前には、何も載っていない食卓が広がっていた・・・。
最終更新:2009年08月06日 21:54
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