東北大学SF研究会 読書部会(2018/12/20)
文字渦 円城塔

著者紹介

円城塔(えんじょうとう EnJoeToh)
1972年北海道札幌市生まれ。博士(学術)。代表作に『Self-Reference ENGINE』、『これはペンです』、『道化師の蝶』、『エピローグ』など。
われらが円城塔である。(誰も読んでくれないけど!)91年東北大学理学部物理系に入学し、物理第二学科(現在の地球物理学科)に進学。在学中は当会に所属し、SFではなく南米文学や前衛文学を中心に読んでいた。95年に学部を卒業し東京大学大学院総合文化研究科に進学、2000年博士課程修了。以後ポスドクとして北大や京大、東大で勤務するも、次年度の研究費と給料が確保出来なくなったためウェブエンジニアとして07年に知り合いの経営する民間企業に就職した。
一方、研究の合間に書き溜めた原稿を指導教官の東大教授金子邦彦に見せたところ、小松左京賞か日本ファンタジーノベル大賞に応募することを勧められた。そののち阪大教授菊池誠にも読んでもらい、日本ファンタジーノベル大賞を勧められるが締め切りが過ぎていた。そのため06年第7回小松左京賞に応募したものの最終候補作に留まる(受賞作無し)。同じく最終候補作だった伊藤計劃『虐殺器官』とともに早川書房に持ち込み、07年デビュー。これを機に伊藤計劃と親交を深めた。
同年『オブ・ザ・ベースボール』で第104回文學界新人賞受賞、第137回芥川龍之介賞候補。したがって、ほぼ同時期にSFと純文学の両方面で才能を認められてデビューしたことになる。(そもそも円城塔の前ではもはやジャンルなど存在しないのかもしれない)
「レムの論理性とヴォネガットの筆致(大森談)」「ボルヘスとユアグローとテッド・チャンを足して5で割る(本人談)」などと言われる作風で、「分からないけど面白い」「ちゃんと文章を読み進めているのになにも頭に入ってこない」のが特徴。一応本人曰く「見たままを書いている」らしい。言葉そのものの欠陥や小説という構造に対して非常に挑戦的で、その点では高度に文学的で前衛的。しかし、難解なのはひとつの側面であり、本質としてはギャグである。円城塔の作品を完全に理解するのは不可能なので、気軽に訳の分からない世界を楽しんでほしい。
なお、本作「文字渦」は今年の日本SF大賞最終候補作にノミネートされている。日本SF大賞候補作にノミネートしたのは私なので、現在大変興奮している。(日本SF大賞は誰でも推薦文さえ書けばノミネートすることが出来る)

以下、主な受賞歴
『オブ・ザ・ベースボール』 第104回文學界新人賞
『烏有此譚』 第32回野間文芸新人賞
『これはペンです』 第3回早稲田大学坪内逍遥大賞 奨励賞
『道化師の蝶』 第146回芥川龍之介賞
『屍者の帝国』 第31回日本SF大賞特別賞、第44回星雲賞 国内長編部門
『Self-Reference ENGINE』 フィリップ・K・ディック賞 特別賞(次席にあたる)

各短篇解説

再度強調するが、円城塔の本質はギャグであり、分からない部分に関してはあまり深く考えてはいけない。小説というものは根源的に読者がテクストを完全に理解することを拒否したメディアであり、その全貌は作者にしか分からないのだ。

『文字渦』

兵馬俑をモチーフに、円城塔の異常な「もののみかた」が垣間見える作品。
円城塔は、文章を読む際に、情景描写を画像として思い浮かべるのではなく、文字情報としてのみうけとるのである。この特徴が端的に表れた作品として、「シャッフル航法」(河出文庫)収録の『リスを実装する』、「後藤さんのこと」(ハヤカワ文庫JA)表題作の『後藤さんのこと』が挙げられる。本作『文字渦』でも、登場するたびに顔が(すなわち漢字自体が)少しずつ変化する人物が登場する。
この作品で分かる通り、円城塔の小説は読者に語り掛けるような作品ではなく、読者に真意を探らせるような(しかしながら真意は分からないような)作品になっている。従来のようになんとなく置かれた文章をなぞるような読み方をすると、必ずや目が文章を上滑りすることだろう。
また、この作品はオーディオブックに翻案されることを拒否した作品でもある。この作品における最大の見せ場「エイといい、エイといった。/エイといい、エイという。/エイといい、エイという。」(エイは変換不能)という部分は、(もはやこの解説でもそうなのだが)この小説として字で書かれた『文字渦』でしか読者に伝わらない面白さを含む。
これ以降、「文章を読む」ということに細心の注意を払って読み進めていただきたい。

『緑字』

恐らくこの「文字渦」を読み進めていくうえで最大の障壁となるであろう作品。実際、私は読みながら何回眠りに落ちたことか覚えていない。
「文章」とは、「文字」の並びによって「情報」をコードするものである。一方「DNA」とは、「塩基」の並びによって「遺伝情報」をコードするものである。これらの対比と、さらにこの『緑字』における参考文献から考えると、「光る文字」とは緑色蛍光タンパク質(GFP)のことだと分かる。この緑色蛍光タンパク質ネタは、「バナナ剥 \footnote{正確には「剥」の左上のヨの部分は「互」の中央部のような形をしている。} きには最適の日々」収録の『捧ぐ緑』でも披露されたネタで、円城塔はかなりこのアイデアを気に入っているのではないかと思う。
次に、増殖する謎の文字列という現象に注目する。なぜか増殖する文字列というのはなかなか身近でないような気もするが、意外と身近な実例がある。それは「Word」などのワープロソフトだ。ワープロソフトなどで適当に文字列を入力しては消し入力しては消しを繰り返すと、中身の文字データが全く存在しないにも関わらず、データだけが膨れ上がるという現象が生じる。これはワープロソフトのデータにはフォーマットに関するデータが含まれているからであり、本文データがなくてもフォーマットのデータが保存されてデータ量が大きくなるために生じるのだ。(元プログラマの円城塔なら、こういう現象は非常に身近だったに違いない)
この無限に連続する文字列というアイデアも円城塔作品に頻出するモチーフである。デビュー作『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫JA)の巻頭に「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」とあることをはじめ、「バナナ剥きには最適の日々」(ハヤカワ文庫JA)収録の『エデン逆行』にて披露される「シェルピンスキー=マズルキーウィチ辞典」というアイデアも同様のものである。
これの元ネタを辿っていくと、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」(岩波文庫)収録の『バベルの図書館』に行きつく。円城塔はマジック・リアリズムを大学時代好んで読んでいた(本人のメールインタビュウより)ということなので、発想のもとはほぼボルヘスで間違いないと言える。
また、途中途中に挿入される、通常よりも一字余計下げた段落があるのだが、これの存在意義がつかめない。おそらくプログラムを組むときによく使う、スペースを入れて一段下げることでセクションの主従関係を見やすくする配慮が原型だと思うのだが、それを導入する意図が見えてこなかった。大いに反省したい。

『闘字』

コオロギを闘わせる中国の競技、「闘蟋」をもとに、字を闘わせる架空の競技「闘字」を扱った作品。単純に小説として万人が面白く読めるのは正直この作品だけだと思う。
五行の属性(火、水、木、金、土)によるじゃんけんのような相性というか、ポケモンのタイプ相性のようなものがあったり、則天文字に関するいかにも信じてしまいそうな架空の由来を語ったりと、円城塔の嘘か本当か分からない不思議な法螺話を楽しむことが出来る。
勝手な勘繰りだが、円城塔の子供がポケモンかなんかに興味をもったかして、円城塔もポケモンに触れたのではないか。そんな気がする。「Boy's Surface」(ハヤカワ文庫JA)収録の『Goldberg Invariant』に「雷撃を発する鼠」という記述があったので、ポケモンを知らないということはないと思う。
また、この作品には『康煕字典』の架空の版が登場するが、この架空の本というアイデアはボルヘス「伝奇集」の『アル・ムターシムを求めて』という架空の本に関する小説からはじまり、スタニスワフ・レムの『完全な真空』(国書刊行会)という架空の本に関する書評を集めた本を通って、円城塔に至るものだ。なお、円城塔は「オブ・ザ・ベースボール」(文春文庫)収録の『つぎの著者につづく』という、ある謎の作家について架空の本だけを通して語る小説も書いている。

『梅枝』

凶悪。たったひとつの短篇でありながら、この「文字渦」全体を通して問う問題をすべて提示しているため、円城塔の問題意識に沿って考えないと相当苦労することだろう。この作品で提示されるのは、「漢字についての議論の仮名への拡張」「小説を創作するという行為への問題提起」「小説を鑑賞するということの不確定性」だ。
本文にて最初に示される文章は、『源氏物語』の第32帖「梅枝」(うめがえ)の一節。『源氏物語』の一部をカタカナにしただけなのに、ナンデ、ニンジャめいたアトマスフィアになるのだろう。「二条院」を「ニジョーイン」と書き換えるのは文法としては全く正しいのに、なぜ日本語離れした感覚を覚えるのだろう。カタカナとひらがなは、日本語でありながら、互いになにか違うのかもしれない。これまで『文字渦』『闘字』と漢字についての考察のみにとどまっていた物語が、ここにきてカタカナとひらがなをも対象としはじめる。すなわち、「漢字についての議論の仮名への拡張」だ。このようにして、円城塔は、漢字への疑念からはじまって日本語という体系にも疑問を投げかけたのだ。
かつて、ひとびとは『源氏物語』を巻物に書かれた、ひらがなだけで構成された続け字を通して読んでいた。それを今では、冊子に書かれた、漢字とひらがなの入り混じった活字を通して読んでいる。これは果たして同じ作品を読んでいると言えるのだろうか。この議論は「小説を鑑賞するということの不確定性」の議論へと繋がっていくことになる。
また、この作品では『誤字』『かな』に向けた理論的な土台作りを行っている部分が散見される。代表的なものが、86頁の「そう、紙の本は『コンテンツを入れかえる』ことができないし、『文字の大きさやフォント、レイアウトを変更する』こともできない。」という一文だ。円城塔が主張するのは、「小説」とは、単なる文字データではなく、読者の読むべきフォーマット(出版形態、文面、紙質、etc)も含めたものだ、ということだ。これが「小説を創作するという行為への問題提起」だ。文面に対する理系的アプローチとして、作中では二次元五近傍セル・オートマトンが導入される。セル・オートマトンとは、ジョン・フォン・ノイマンが提示した概念で、有名な例として生命をシミュレートするために考案された「ライフゲーム」がある。(「ライフゲーム」も二次元五近傍セル・オートマトンの一種)二次元五近傍セル・オートマトンでは、中心のセルとその周囲を囲む4セルに注目し、周囲4セルを参照して中央のセルが変化するという機構になっている。ここで、円城塔の理系的アプローチが文系的アプローチとの奇妙な一致を見る。それは京極夏彦が実践している、「小説中の文字同士の字面のバランスを整える」というものだ。京極夏彦は、文中に複雑な漢字がある場合、その上下左右に配置される文字は空白の多い文字でなければならないという美意識をもっており、実際に作品でもそれを徹底している[2]。(なので、文庫化作品はすべて作業を経て若干変更されており、「文庫版」と改題されている)つまり円城塔は、「小説家」は小説のテクストそのものだけでなく、「小説」として読者が観賞する全ての要素を意識し、自分の「小説」として制作しなければならない、と主張しているのだ。これが「小説を創作するという行為への問題提起」だ。
ちなみに、このセル・オートマトンも以前「Boy's Surface」(ハヤカワ文庫JA)収録の『Your Heads Only』に登場したモチーフである。しかしながら、円城塔有数の“難解”な作品集に収められた同作ではそこそこ丁寧な説明とともに導入されていたものの、『梅枝』ではいきなり二次元五近傍セル・オートマトンを導入しており、凶悪さが増している。
一方で、円城塔がよく用いるモチーフがもうひとつ登場する。それが「翻訳」だ。「道化師の蝶」(講談社文庫)収録の『松ノ枝の記』で展開された議論、「翻訳作品は原典と同一だと言えるか」というものが頭をのぞかせる。ここで円城塔は「小説を鑑賞するということの不確定性」を示す。漢字と仮名、データとフォーマット、原典と翻訳という対比から、円城塔はこれまで誰もが無批判にそうだと考えていた「同じ“文章”を読めば、同じものを読んだということになる」ということを否定する。(厳密には「同じじゃないんだ」と言って読者を煙に巻く)
ここまでかなりの文量を使って紹介してきたが、この作品の精髄は、最後に示される一文だろう。「昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい?」

『新字』

私の個人的なお気に入りその1。
日本語という言語体系の中には、三つの異なる文字コードが存在する。すなわち、ひらがな、カタカナ、漢字である。このうち、漢字は日本語由来のものではなく、中国で成立したものをそのまま輸入して使用している(そもそも、ひらがなとカタカナも漢字から作りだした文字である)。なぜ中国語という異質な言語に最適化された文字を、日本語に直接取り入れたのだろう。そして日本人は、漢字を自分の文化に吸収し、漢字から仮名を作っておきながらなぜ漢字を保存したのだろう。その答えを明かすのが『新字』なのである。
円城塔の作風のひとつとして、「最初にある意味不明な命題を示し、その命題が確からしいことの証明を積み重ねていき、最後にその命題から引き出される最も信じがたい事実をぶち上げる」というものがある。『新字』ではこの作風をよく認めることが出来る。
前半こそ先の命題を展開したり舞台を整えたりとでかなり退屈な印象を受けるが、そこさえ乗り切ることが出来れば、日本SF屈指の展開が待っている。
近代以来、国家とは国民国家であるとだれもがどこか当然のように思っている。しかし、社会学の分野で指摘されている通り、同じ言語を使用する集団が国家を成すとした方が、より自然に感じられる。文字を書くということは、一片の疑いなく、国を建てるということなのである。

『微字』

本の地層から発見された「微化石」ならぬ「微字」を中心に物語が進む。
物語冒頭の「本は、表紙を下にして、順に重ねていくものだ。」という文章がすべてを表していると言ってもいい。円城塔がこの作品で提示したいことは「本とは紙を積み重ねた形状のもの」ということであり、最終的に提示したいことは「小説を無限生成する小説を生成したい」というものである。今回はこれを丁寧に解説していきたい。
この作品で重要なことは、「自己増殖する文字が存在した」ということと「文字を生成する門構えが存在した」とうことだ。これらが合わさると、「文字を生成し、かつ自己増殖を行う文字列が存在する」ということになる。文字を生成し、増殖する文字列。これはプログラム言語にほかならない。
プログラム言語から成る小説を書き、その小説がさらに小説を書きはじめたら、小説というものにはどのような変化が起こるのか。大変「Self-Referencial」な疑問であり、興味深い。そのようにして有限時間において無限の文字列から成る小説を産み出すことが出来るとすると、その小説には可能な文字列がすべて、すなわちありとあらゆるすべての小説が含まれることになる。この“小説を生成する小説”が完成すれば、もはや小説家というものも小説というものも必要なくなってしまう。しかしながら、それを実際にやって小説の上げ足をとって笑おうというのが円城塔の考えていることだ。
話を脇道に逸らすと、この作品は続け字が死に絶えて活字が生き残ったことの理由を明らかにする作品にもなっていることが分かる。続け字は門構えによる爆発的な増殖の恩恵にあずかることが出来ず、増殖する活字に追いやられて消えて行ってしまったのだ。併せて印刷技術の開発により利便性に劣る続け字はついに消え去ってしまったのだった。

『種字』

サイバーパンクっぽいなにか。「新潮」で読んだときからよく分からないなあと思っていたが、読み直してみたところやはりよく分からなかった。解説と言っておきながらこの作品を全く理解出来ず無念極まりない。

『誤字』

私の個人的なお気に入りその2。
この作品は、円城塔が、「日本語」の「紙媒体」の「小説」を書くとはどのようなことかということを突き詰めた末に出来上がった作品だ。日本語で表現するならば、日本語特有の何かを使わなければ意味がない。また、文章で表現するにしても、必ずしも小説でなければならないということはない。そして、これだけ技術が進歩しているのに、本だけは未だに紙媒体に留まっている。これらを解決するために、円城塔は、日本語の小説に特異な「ルビ」を多用することで、電子化・文庫化不可能な『誤字』を創りあげたのだ。(とはいえ、円城塔本人は適切なコードを書けば電子化も出来るだろうと言っている[3]。たとえ円城塔がプログラム支援下で電子化出来たとしても、どうせ出版社なんかプログラムを理解していないのだから無理だと思うが)言うなれば、『梅枝』で提唱した問題すべての解決篇に位置する作品だ。
ルビで特徴的な日本のSF作品というと、筒井康隆の『トーチカ』(新潮文庫「笑うな」収録)、そして『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫SF)をはじめとする黒丸尚の翻訳作品が挙がる。特に『トーチカ』は円城塔とは全く異なるアプローチ(筒井は最も効果的ないたずらを求めた結果として、円城塔は先述の文学的問題の解決のため)でありながらも同じ表現形態に収束したという現象が発生しており、注目に値する。
ルビの語る内容面に関しても、日中韓台の四か国による漢字を介した侵略戦が行われているという内容であり、『新字』で語られた文字による建国というものが現実味を帯びて(?)語られており、面白い。
このルビは「南朝」であり、おもにひらがなをつかっている。一方本文は「北朝」であり、漢字を使用する。後醍醐天皇が足利尊氏に攻められて吉野に逃れたことで南朝が生じることになり、尊氏は新たに光明天皇を擁立し朝廷が南北に分かれる事態に陥った。(三種の神器は後醍醐天皇が所有していたことから、正当なのは南朝だが現在の天皇家に続くのは北朝という面倒なことになっているらしい)
この北朝は足利氏、すなわち武士の庇護のもとに成った朝廷であり、直後の室町幕府の成立から見られるように、政治の実権はふたたび武士に移行する。一方で南朝の後醍醐天皇は建武の新政を実施したように、天皇親政、すなわち貴族や皇族が政治の中枢を担う体制に帰ろうとしていた。武士の言葉は漢字であり、貴族の言葉はひらがなである。南北朝の争いとは、実は日本語の主権を巡る漢字とかなの争いだったのである。
この死にゆく貴族の「かな」言葉が最後の最後でなんとかひとりだけ生き残り、ある方角に走って逃げたようだ。ある方角。文章は、必ず一定の方角に向かって流れている。この「文字渦」の最後には、『かな』という作品があり、見てわかる通り、この作品はこれまで漢字だけで構成されていた題とは異なりかなのみによる題の作品である。まず間違いなく「かな」は逃げおおせて『かな』を成したのであろう。
「ルビはひらがなである」ということからこんな突飛な発想へと円城塔は(おそらく)論理的に至ってしまう。無限の想像力とは、このことを言うのだろう。
ルビに関してさらに言えば、二回目にルビが登場して北朝による討伐などと言っているシーン、最後は「ハレルヤ」で終わるのだが、なんかそんな終わりかたをする有名な作品があったような。ネタバレするのは惜しいのでここまでで留めておく。
さて、先に示した、円城塔が「文字渦」を通して問う問題はこれですべて解決されてしまった。それでも「文字渦」はまだまだ続くわけで、ここからは未知の文学的領域へと足を踏み入れることになる。

『天書』

私の個人的なお気に入りその3。
『誤字』とともに、文面がものすごく面白いことになっている作品。以前「【悲報】最近のラノベが酷すぎる」とかいうスレで、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』(ハヤカワ文庫SF)のタイポグラフィのページの画像が貼られて大いに荒れているのを見かけた。「【悲報】最近の芥川賞作家の小説が酷すぎる」とか言って『天書』のスペースインベーダ―の部分の画像を張れば大いにスレを荒らすことが出来るのではないだろうか(錯乱)。
門構えから生成射出される文字、という馬鹿げた話も含めて、大変面白い。アイデアとしては『微字』の発展形であり、
また、スペースインベーダーを表す漢字群をひとまとまりで一字だとするのは不可解に思われるかもしれないが、だれもが触れたことのあるものに、そういう見方をするものがある。それが書道だ。書道では紙に書かれた文字全体を通して均整を保ち、全体に対して美を見出す。もはやひとつの作品はひとつの文字にほかならず、その作品からたった一文字差し引かれたらまったくの別物なのである。そう考えるといかにも馴染み深く、いかにも理解出来そうな気がしてくる。(してくるだけである)
この『天書』における字のまとまりを一字とみなすという考えの下、『微字』『誤字』での主張もまとめると、この「文字渦」というテクスト、ルビ、紙、造本、フォント、行数などをすべて含めた「小説」がひとつの文字であるということになる。
こんなに意味不明なことをいっても、SFならその内容が面白ければすべて許される。面白いだけでほかのなにもかもを無視出来るというSFの自由さが生み出した作品だ。

『金字』

冒頭のメカ親鸞は反則でしょ。
アミダ・ドライブなどの『ブッシャリオン』や『天駆せよ法勝寺』のようなブッダめいた文言が多数登場する、ギャグ的作品。字面だけ読み取っていくならば、この作品が一番面白い。
しかしながら、理論面で一番難解なのはおそらくこの作品であり、仏教の知識などが不足しているために理解が追い付かなかった。各作品解説とは銘打ったものの、この作品に関しては解説と言えるだけの内容を提供出来なかった。『文字渦』『種字』に続く大きな反省点のひとつだ。

『幻字』

円城塔による横溝パロディ。『犬神家の一族』を土台に、ありとあらゆるパロディをぶちこみまくった酷い作品。ちょっと私も把握しきれていないので、横溝作品に詳しい人がいればぜひ教えていただきたい。
「ワクワクの木」もひどいが、女金田一のくだりも大概。ここまでくれば、円城塔の本質がギャグだということを納得していただけたのではないかと思う。理系・文系双方の知識を総動員し、現代日本文学最高の才能を用いて描き出す作品の本質は、ギャグなのである。
こんなことをいうのもあれだが、この作品は円城塔の露骨な人間アピールともいえるかもしれない。

『かな』

私の個人的なお気に入りその4。
私の国内SF長篇のオールタイムベストは「文字渦」なのだが、それはこの『かな』が最後に存在するというのが大きい。
これまでの短篇の題名はすべて漢字表記だったにも関わらず、この『かな』だけがその基準から外れている。まあここまでくれば、あの円城塔がなにも仕込まないことはないよな、と思うはず。
ちなみに、円城塔の「かなSF」には、『Self-reference ENGINE』(ハヤカワ文庫JA)収録の『Japanese 13』という作品もある。漢字、漢漢字、漢漢漢字、平仮名、片仮名、平片仮名、片平仮名、片片仮名……というように、無限に増殖する文字コードから成る「日本文字」という謎の文書が登場する作品で、お察しの通りひどい作品。またこの『Japanese 13』はおそらく同作収録の『06 Tome』と対になっていると思われる。『06 Tome』は「鯰文書」と呼ばれる一連の文字群を記述した文書から文字群が消失した事件を扱った作品であり、“Near Side”『06 Tome』で消失した文字群が“Far Side”『Japanese 13』に出現しているのではないかとも考えられるのだ。
解説に戻ろう。最後の最後、「ようやくこどものこえとすがたをてにいれることのできたわたしはつぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。」これを読んで、私はあまりの感動に泣いてしまったのだ。
この『かな』は、明らかに紀貫之が語り手である。紀貫之と言えば、特に直前の段落「男文字なる〜」で思い出すと思うが、『土佐日記』の作者である。この『土佐日記』の語り手は女であり、この女は京で生まれた幼い娘とともに土佐に下ったものの、ふたたび京に上るときには既にその娘を喪っていた。(「この家にて生まれし女児のもろともに帰らねば、いかがは悲しき。」『土佐日記』岩波文庫)おそらく今日の部会に参加しているひとのほとんどが『土佐日記』の冒頭部を知るだけで全体を通じて読んだ人はいないと思うのだが、日記のところどころで、幼い娘を思い出して悲しみに暮れる女の言葉が生々しく残されているのが確認出来る。そんな幼い娘が、ふたたび肉体を得て、語るべき言葉を見つけてそれをめざそうというのである。みなさんには訳の分からない空中戦を観ているような感覚だろうが、私は分からされてしまったので、私はそれを丁寧に解説しなければならない。
円城塔の言う通り、日本語はかなだけを使っていた平安ごろの言葉から、意味がうつろってしまった。そうして汲みとれなくなった意味こそ、『土佐日記』の書かれた「今日」から今に至るまでに喪われてしまった「をむなもじ」なのではないだろうか。そしてその円城塔に見出された「をむなもじ」は、千年の時を経て、その忘れられていた間に書き溜めてきたことを私たちに提示してくれるという。
ここで、ひとつ考えて欲しいことがある。高校古典の授業で習ったと思うが、千年前、ある時期までは仮名文学(国文学)は漢詩などの漢文学に比べて一段劣るものとされていた。それが日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』において真名序と仮名序が併記されたことによって、ついに国文学は漢文学に並んだのである。その仮名序を手がけ、かつ日本初の仮名文学『土佐日記』を完成させたもの、それが紀貫之である。紀貫之が仮名文学を成し、国文学の土台を完成させてから千年あまり、それらすべての集大成として円城塔の『かな』が誕生した。この作品は、SFであることを前提としつつ、それ以前に国文学という千年以上にもわたる大いなる文学の系譜がなければ絶対に生まれ得ない作品なのだ。
また、ひっそりとだが、円城塔は『かな』でこんなことを書いている。「わたしはようやくこれまでじぶんがなにをかこうとしてきたのかがわかりつつある。」(298頁末)ついに、ついに円城塔は自分の書くべきことを知った。これから円城塔がなにを書いていくのか、それは過去千年にもわたる日本文学で過去に行ったもののないようなことであり、それこそが「文字渦」の示す日本文学の新たな極地なのだ。
一方で、これは「をむなもじ」から現代の日本語に対する宣戦布告にほかならない。今ある日本語は、漢字・ひらがな・カタカナの三種があるからこそ表現出来るものによっても成り立っている。日本語に立脚する日本という国、文化に対しての侵略なのである。これは『新字』や『誤字』でも示されたことであり、言語という知覚出来ないものから現実世界への、紛れもない侵略行為なのである。(同様の侵略は「Boy's Surface」収録の『Goldberg Invariant』や長篇『エピローグ』(ハヤカワ文庫JA)、円城塔が大好きなボルヘスの短篇『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』(岩波文庫「伝奇集」収録)にも登場する)
果たしてこれが、今の「文学」という枠を決めて、その枠の中で新しいとされるくだらないことを表現してるようなつもりになっている純文学の場で表現出来るだろうか。小説というもの、言葉というものに関心を持ち続け、それらを小説によって、言葉によって書こうとした小説家がいるだろうか。これは真に純文学的な作品だが、SFの想像力、SFの表現力がなければ生まれ得ない作品である。どちらがより自由で、どちらがより面白くて、どちらがより「文学」的か。それは既に、明確に示されている。

総解説

これまでの各作品解説で既にあらかた解説してしまっているようにも思うが、この節では「文字渦」全体についての解説を行う。
まず、「文字渦」全体の中心となる作品は『梅枝』だろう。物語の根幹である『かな』に登場する『土佐日記』は『梅枝』の境部さんの校訂本である[4]こと、「文字渦」を通して強調される問題提起がほとんどすべて『梅枝』でなされることが主な論拠である。
したがって、『梅枝』で提示される問題意識にしっかりと沿い、円城塔の思索を作品を通して垣間見ることが「文字渦」を読む上で非常に重要である。作品全体を通してつかみにくい部分があったら、まず「梅枝」を再読してみて、境部さん(=円城塔)の語っていることを理解しているかどうかを確認するべきだ。
ちなみに言うと、この「文字渦」は円城塔作品の中ではかなり手加減された(もしくは、いつもの人を突き放すような突飛極まる発想が、文字を題材とするという制約によってある程度緩和されて物語に導入されている)作品である。
この一冊を読み通せば大分円城塔についての理解が深まると思うが、いかがだろうか。円城塔は、本質的にはギャグの人であり、一見訳の分からないことを定義しておき、それを丁寧に考察し、文学的アプローチと理学的アプローチを交互に使い分けて論理を押しすすめ、最後に定義から導かれる最も信じがたいことを読者に納得させる。ほら、簡単でしょう?
ただ、円城塔が一口に言いきれないのには、その文学的アプローチと理学的アプローチの間の振れ幅が非常に大きいのと、文学・理学を融合させたようなプログラミング的アプローチがさらに隠れていることにあると考えている。
また、円城塔作品が難解である最も大きな理由として、円城塔が無類のパロディ好きであるということが挙げられる。ざっとこの本を概観してみても、兵馬俑、緑色蛍光タンパク質、無限の文字列(ボルヘス)、プログラミング、架空の本(ボルヘス、レム)、ゲーム(闘蟋、スペースインベーダ―)、源氏物語、セル・オートマトン、書道、密教、ルビ(筒井、黒丸)、横溝、土佐日記......と、パロディ元は古今東西文理を問わず多種多様である。ここまで色々なところから要素をもってこられると、もはや読者に理解させる気がないと言ってもいいだろう。これが円城塔作品が「難解」な理由なのである。


だが、ここで、文学作品を「理解する」とはなんだろうか、という問題が浮かび上がってくる。
文学作品を鑑賞し、読者は作品を「理解する」。作者は文学作品を読者に「理解させる」ことが出来るように書く。これはいかにも確からしい関係だが、本当にそのような関係は成り立つのだろうか。
まず、文学作品を“作者のなんらかの思索の結果を物語のうちにパッケージとしてまとめたもの”であると定義する。作者は“なんらかの思索の結果”を上手く読者に伝えるために、必要十分な洗練された表現を求めて日夜試行錯誤を重ねるわけである。この”なんらかの思索の結果”を別の方法で伝えられるならばさっさとそれで伝えた方が経済的であり、わざわざ文学作品という書き手と読み手の双方に時間と労力を必要とするメディアで伝えようとするのは「狂気の沙汰」だ。逆に言えば、作者が文学作品を通して伝えたいことはその文学作品というパッケージでなければ伝えられないような類のものなのだが、これにはある「失敗」がつきまとう。
それは「読者が誤解する」というものだ。文学作品は、作者の手を(ある程度)離れ、そこに置かれたパッケージとして鑑賞される。文学作品は発表された以上“あらゆる読者によるあらゆる読みを許す”ものであり、文学作品は“あらゆる読者にあらゆる読みを許しつつも、ある一定の方向に読者を誘導し、作者の狙ったなにかへと導くためのひとまとまりの言葉の集積”として再定義出来る。そして文学作品は「それを通した狙いがなにで、読者にそれをどの程度感じさせることに成功したか」によって評価を定めることが出来ると考えられる。
しかし、それは結果論的なものであり、作者の意図を正確に読み解くことは原理的に不可能だ。(例えば、作者はAと伝えたかったのに失敗してBということを伝える文章になっていたが、読者はそれを読んで確かにBと思い、高評価を下す、というのは作者側から見れば失敗である)与えられたテクストから作者の思索を完全に理解することは不可能である、というのが円城塔が円城塔本人にしか分からないような作品を通じて伝えていることであり、逆に言えば、それだから円城塔は安心して本人にしか分からないような物語を書き続けているのではないか。(これは神林長平の創作に対する姿勢に似ている。神林は小説以外の文章を発表しないのだが、それは小説が誤読を許す特異なメディアであるからだと小説『いま集合的無意識を、』にて語っている。文章というものは必ず誤読されるメディアであり、それならば最初から誤読を許すような小説というメディアで表現を行いたいと語っていた)
円城塔は、作品を読者が「理解する」ことを拒否した最初の作家として、日本文学史に残る作家となるだろう。これまですべての人が漠然とそうだと考えてきた“文学作品は読者に理解されなければ意味がない”ということを円城塔は論理的に否定し、さらにその言説の上げ足を取って遊ぶのだ。(他人に理解されない小説を書くものは過去にも多くいた。しかし、それらはたんに理解されないだけの自己満足なものであり、立脚する理論のない空虚なものだった。円城塔は読者に理解されない作品の背景に強固な理論を読み取ることが出来るからこそ評価されるのである。)
小説というメディアは本質的に理解不能であるということを、円城塔は小説を用いて表現しているのである。このようなことを主張する作家がほかにいるだろうか。少なくとも、国内にはいない。だからこそ、円城塔の作品は日本文学最高峰の作品とされているのである。

本題に戻ろう。
以上のように、日本文学界でも類まれなる才能をもつ円城塔は、「文字渦」を通じて日本語という言語を徹底的に考察し、ついに「つぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。」(『かな』)という目標を提示するに至った。正直に言って、これは円城塔以外には理解不能な域に達している。しかし、先の言葉通り、円城塔には目指すべき目標が分かっているらしい。
この「文字渦」は日本文学にとって、また円城塔にとってひとつの到達点であり、かつ今後切り開かれていく新たな文学の出発点に過ぎない。その円城塔の行く道を、なんとか理解しようと努力し、その歩みを見届けていくのが私たちに出来る、数少ないことのひとつである。

予言

円城塔がこれから行うであろう創作において、なにをするかを予言したいと思う。
まず考えられるのは、円城塔の創作に耐え得る新たな言語体系の確立である。先にも挙げた「つぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。」という『新字』の最後のひとことから、円城塔はついに自分の思索を語るべき言葉を見つけ、それを作り上げていこうと考えているのではないだろうか。そもそも、円城塔は今までも科学的な言語体系と小説的言語体系、そしてプログラミング的な言語体系を相互参照させて小説を書いてきた作家なので、自分だけの言語体系というものに既に近づいているとも言える。そこからさらに、どのように発展させていくかは分からないが、これらの相互参照、すなわち「Self-Reference」を行い続けて新たな言語体系を目指すことは確かだ。
次に考えられるのが、和歌の解析とそれによる和歌の創作である。この『かな』で「かむふりあ〜」なる和歌を披露していたが、この創作の背景には、和歌集を取りこんでその和歌に使われている文字を検索する円城塔自作のプログラムがあると私は考えている。(円城塔は、国際日本文化研究センターの和歌データベースから『紀貫之集』を引っ張り出して使ったらしい。[3])使用している文字数が一番少ないものを探して、より少ない文字数で和歌を詠んだり、名作と言われる和歌を解析して共通する文字だけで詠んだりと言ったことが考えられる。しかしながら、使える文字数を減らして和歌を詠んでみるという試みは、筒井康隆が『残像に口紅を』で通った道であり、『誤字』が『トーチカ』のように収斂進化したことと繋がる。
また、最終的な円城塔の目的は、先にも言及した通り、小説を生成する小説の創作ではないかと考えられる。「円城塔」は人間としての円城塔の東大時代の指導教官、金子邦彦の『小説 唯物史観』に登場する文章自動生成プログラム「円城塔李玖」に由来する名前である。したがって、「円城塔」とは小説自動生成プログラムという側面をもっており、さらに彼が「Self-Reference ENGINE」(自己言及機関)であるということを考えると、彼は小説を生成する小説であるとも言える。そして、円城塔はプログラマとして勤務していた経歴も持つ。このことから考えると、円城塔は小説を創作する小説(小説を文字の集積と考えればプログラムも一種の小説であると言える)としての「円城塔」をプログラムし、小説というもの自体に疑問を提示しようとしているのではないか。(円城塔としては、「小説」というものをまぜっかえして笑っているだけなのかもしれないが)

所感

これまで円城塔作品を読んできて、正直に言って、もう自分は円城塔の方法論と文体を理解し、吸収出来ていると考えていた。円城塔が「文字渦」の諸作品を「新潮」で連載しているときから『種字』『誤字』『幻字』は読んでいて、面白く読みつつも、本質的なところでは(いつもの円城塔だ、円城なら確かにこう考えるよね)と、円城塔を完全に把握しきっていたと考えていたのだ。しかし、その甘い考えは『新字』『かな』で完全に破壊された。円城塔は、私の理解していたような方法論は確かになぞってはいたのだが、それは初歩的なものに過ぎなかった。円城塔本人は、それからさらに飛躍して先へと向かっていたのだった。
『新字』には漢字が今でも日本語の体系に残っている理由についての嘘の発想と、その嘘によって転換するものの見方、そしてそこから織りなされる物語の濃さに圧倒された。「字を書くことは、国を建てることである。」納得するとともに、この先のSFはこのヴィジョンを越えていかなくてはならない、という絶望的な偉大さにただただ圧倒されるばかりだ。
『かな』は国文学千年余りの集大成と言える作品だ。この作品は日本語以外の言語では書けない、書いてはならない作品であり、翻訳不可能な作品になっている。この作品こそが、明治以来の近代文学の成した最高の成果であり、漱石から続く日本語の「小説」というものはついに円城塔で完成を見るに至った。そして円城塔は、この「文字渦」で次に書くべきものを知るに至った。この『かな』を同時代で読めたことに感謝したい。これから円城塔が成す新たな文学を、同時代で読むことが出来るのは、間違いなく幸福だ。
私は、円城塔の先に行く力はないとつくづく思い知らされてしまった。私には、円城塔の一部を理解する程度の力しかなく、その一部だけでも円城塔の想像力は私には到底辿り着くことの出来ないものだと確信するには十分だった。私は円城塔が今後示していくであろう文学を考え、作品を徹底的に読んで理解を深めていくことで、なんとかその果てなき思索の果を追っていこうと考えている。


下村
最終更新:2018年12月25日 21:43