空の彼方に(前編) ◆Ok1sMSayUQ
闇夜に映し出された紅の色は、かつて、ほんの少しではあったが行動を共にした、実直に過ぎる鬼の灯火だった。
崩落していた家屋の木材という木材に燃え移り、未だ生きているのではないかとさえ思える猛々しさをもって自分達を照らしてくれている。
この戦いに勝てと、生きて生きられなかった無念を晴らしてくれと叫んでいる。
己を見失うな、敵を見失うなと、伊吹萃香という名の篝火が、藤原妹紅に語りかけていた。
もう自分は見失わない。萃香の声に応じ、妹紅は真正面に映る虚無に塗りつぶされた瞳を見据えた。
八意永琳という名の、月の賢者の皮を被った、人間としての理性すら捨ててしまった女を。
この凄惨な事件の首謀者だと名乗る女が、なぜここをうろついているのかは知らない。
何の目的があって、何を狙いにしているのかすらも知る由はない。
けれども、分かる。この女が良心を捨ててしまったことが分かる。
氷の妖精を傷つけ、古明地さとりの眷属を傷つけ、そして萃香を手にかけた。
今と同じ、何も映していない目で良心の呵責すら覚えずに。
妹紅は無言で、右手に新たな炎を灯す。
一体我が身のどこにこんな力が宿っていたのか、爛々と輝く握り拳大の炎は今まで見てきたものよりも濃密な熱気があった。
倒すべき敵がいるから? それとも、仲間を殺されたことで怒りが内奥の力を呼び覚ましたから?
違う、と妹紅は思った。今まで自分が目を背け続けてきたことに、初めて向き合うことができたからだと思った。
自分を信じること。自らが、連綿と続く命のひとしずくであると本当に信じられたことが自分を強くしている。
妖怪であるとか、不死の存在であるとか、そんなものは関係ない。
誰だって体感している時間など違う。見えているものだって違う。誰ひとりとして、同じ時間の中で生きてなどいない。
全員が孤独。完全に共有し合えるものなどあるはずがない。
――だから、繋がろうとする。違い合う中で精一杯に手を伸ばし、何がしかの繋がりを持とうとする。
少しでも同じ視点に立って、同じ感覚を持つために。
たとえ寂しさを紛らわせるものでしかなくとも、知を持ち、血を持つ存在はひとりでは生きてはいけないのだから。
そのために、良心がある。ほんの少しの情愛を分けるために良心は存在する。
「分かっているの、藤原妹紅」
冷笑を含んだ永琳の声。愚かで、下賤だと見下すのを隠しもしない声だった。
達観しているようにも聞こえる。繋がることに、何の意味があると問いかけているようにも思えた。
そんなものは一時の慰めで、己をすり減らすだけだ。ならば最初から割り切ってしまえばいい、とも。
「貴女は死ぬ。他の下賤な連中と同じようにね。特別ではないのよ。死なないことが取り得でしかない貴女が、私に勝てるとでも?」
利口に考えてみろ。逃げてしまえ。暗にそう語る永琳に、妹紅はやはりという感慨を抱いただけだった。
良心など必要ないと永琳は言っている。彼女の持つ昏い目は、そうして必要なもの以外を捨ててしまったがゆえのものだった。
確かにね、と妹紅は認めた。認めた上で、それでもと言い切り、言い返す。
心は余計なものの固まりだ。雑多で、頑なで、変化するのに多大な時間をかける割には見返りは少ない。
時に自己を欺瞞し、時に悪さえ為させ、時に間違いも犯させる厄介な代物。
妹紅自身もそうだった。それゆえ自己嫌悪を起こし、自暴自棄になりもした。
「勝てる勝てないじゃない。私は、やるのよ」
けれども、良心があるからこそ立ち直ることもできる。
間違いを認めてやり直すこともできる。
いつの間にか隣に並んでいたさとりが「確かに、自分を守ることは出来ます」と発する。
「他を犠牲にすれば、自分はいくらでも守ることが出来ましょう。……ですが、それは餓鬼の道というものです」
ほんの僅かに永琳が目を細めた。冷笑が消え、色を失う。
彼女の背後で燃え盛る炎とは対極の寒々とした無表情だった。
「私は、私と繋がるものを失くさせようとした者を、間違いを為して平気でいられる心ない者を許すわけにはいきません」
「他人を見下して、自分さえ良ければという我欲に走るような奴もね。何があっても、それで誰かを犠牲にしていいって理屈はないんだよ」
「愚かなことを言うわね」
く、と再び永琳の口元に冷笑が浮かび、それは次第に哄笑の形となって裂けた唇となった。
「私の何が分かるって言うの? 自分の都合に沿わないものを悪だと規定して、正義を為したいという気になっているだけにしか見えないわ」
誰も誰を理解しようとはしない。自らを満足させるがため、自らを救うだけがための行動しか取ろうとしないのが我々だと断ずる哄笑だった。
他のために、などというのはお為ごかしでしかない。所詮皆同類だと語る永琳の威圧感は凄まじく、気圧されそうになる。
「我欲に走る? そうね、そうよね。あの四季映姫でさえもそうだった。恩を与えた優曇華院も裏切った。誰も私を見ない。救おうともしない。
だったら、最初から全部否定してしまえば良かったのよ。誰もが自分のことしか考えないのだと思ってしまえば、躊躇なんていらなくなる。
苦しむこともない。私はただ救われていられる。こんなにも、気持ちが楽なのよ?」
裏切られたから、裏切ってもいい――永琳が体験した絶望の一片を感じ取り、それゆえ狂気に身を浸すことで救済を選び取ったことに共感めいたものを覚えながらも、
その奥に潜んでいる、押し殺した怯えの影をも妹紅は見逃さなかった。
「……だから、餓鬼なのよ、クソ医者」
それゆえ生じた怒りから出た、乱暴にも過ぎる言葉にさとりがぎょっとした気配を見せたが、構うことはなかった。
この女には貴族面する必要性もなかった。賢者だろうが、何だろうが、妹紅にとっては『その程度』の女でしかなかったからだ。
「救われたがってるだけじゃないの……! 駄々をこねるだけこねて、上手くいかなかったからヘソを曲げているだけ……
私なんかよりも長く生きているくせに、こんなところで犯した失敗くらい何なのよ! 自分が賢いからって自分の感じたことが全て正しいと思うなっ!」
救われたいと思うのは、妹紅とて同じだった。苦しいままでなどいたいはずがない。
だから一度は、苦しみから逃れるために罰を求め、裁かれることで逃げようとした。
それで本当にやってきたことの責任が取れるのかなどは考えず、己の魂を慰めるためだけに裁きに逃げ込もうとした。
――それでも、さとりは自分に良心があると言ってくれた。苦しむのは心があるという証拠で、捨ててしまうのは許さない、と。
妹紅は頬を張られ、じんとした痛みが走ることでようやく気付かされた。さとりもまた、心があるから苦悩していることに。
震える指先と、悄然と俯いた顔が、言葉にせずともさとりの苦悶を伝えていた。
誰だって同じだ。感じる心があるからこそ、理不尽に喘ぎ、償却されない後悔にのたうつ。
そうであるからこそ、痛みを和らげるためにほんの少しだけでもやさしさを分かち合い、ひとすくいの水を差し出すのではないのか。
本当に救われようと思うなら、まず自分がやさしさをもって、一緒に歩こうとするべきではないのか。
自ら歩み寄ろうとせず、なのに救われたがっているだけの永琳は、妹紅からしてみれば努力を放棄しただけの分からず屋としか思えなかった。
ならば、分からず屋の頑固者には強烈なお仕置きが必要だった。
話す言葉はないとばかりに、妹紅は生成した火炎弾を放り投げる。
火の粉を吹きながら真っ直ぐに加速する弾丸は、並大抵の妖怪ならば避ける暇さえない速度だったが、永琳は少し身を反らしただけで回避する。
「……愚かな人間だわ」
一言吐き捨て、永琳が自らの左右に光弾を展開する。
手に抱えている鉄砲は使う気がないらしい。弾幕だけで倒せるとは見くびられたものだと思い、
懐に飛び込もうと腰を低くした瞬間、ぐいとさとりの手が妹紅を引っ張った。
「おい……!?」
開きかけた反論の口は猛烈に射出され始めた弾幕によって中断を余儀なくされた。
光弾が光弾をばら撒き、鼠算のように増えながら大量に押し寄せてくる。
「『使い魔』です。避けるのは無謀ですよ」
「『使い魔』……?」
竹林に引き篭もっていた生活のせいで、幻想郷の決闘
ルールにはとんと詳しくなかった。
使い魔、という単語が意味することも分からなかったが、突っ込むのはまずいことだけは分かった。
さとりは妹紅の手を引きながら飛翔し、建物の影に隠れて壁にしながら移動を続ける。
瓦葺きの屋根が弾幕によって次々と破壊され、千々になった破片がぱらぱらと降り注いでくるのを器用に避けるさとりに合わせ、妹紅も必死についてゆく。
その横顔は冷静そのものだったが、硬く一点を見据える目の光は彼女の内に宿る熱を感じさせ、
冷めた表情になっているのは度を越してしまった怒りが無表情にさせているのかと鈍い感慨を抱かせた。
怒って、なお自らを客観視できる彼女ならこの場を任せてもいいか、と信頼の気持ちを覚え始めた妹紅の目の前に、先回りしていた『使い魔』が現れる。
「追跡型ですか……叩きますよ!」
言ったと同時、既に用意していたのか左右に出現していた手のひら大の薔薇がその花弁からレーザーを撃ち放つ。
赤と青、それぞれの薔薇から撃ち出された同色のレーザーが永琳の『使い魔』に直撃し、燐光を散らしながら消滅する。
撫で付ける風を受け止めながら「それも『使い魔』?」と妹紅は尋ねる。
「そうです。……とはいっても、八意永琳ほど自在なコントロールは出来ないのですが――」
そう言いつつ振り返ろうとしたさとりの背後に新たな『使い魔』が飛来するのを視認した妹紅は、すかさず火炎弾を作り、撃ち込む。
弧を描くようにして『使い魔』の右から命中した火炎弾はそのまま『使い魔』を燃焼させつつ民家に突っ込み、粉塵を吹き上げながら消滅させる。
薔薇を向け直そうとして呆気に取られていたさとりに「なるほど、ああやって倒す」と言ってみると、
ややげんなりした表情になったさとりが「ご覧の通り、私のは自動で照準も不可能で、感知能力もない」と嘆息を交えながら言っていた。
「数もこれが限度です。囲まれれば正直対応しかねます」
「だけど永琳は一度に多数の『使い魔』を操れる上、その精度も高いと来ている」
「各個撃破するのが一番なのですが」
「相手からすれば、そうなる前に囲んでケリをつけたい」
「包囲網は既に敷かれていると考えたほうがいいでしょう。どこかから抜けて、本体を狙わないと……」
「で、冷静沈着な指揮官殿はどう考えるの?」
嫌味を言ったつもりではなく、状況を見極める能力はさとりの方が高いと考えた上での発言だった。
物事を真摯に受け止められるサトリほど心強いものはない。
妹紅の心を読んだのか、それとも察したのか、苦笑交じりに「方法はあります」と頼もしい言葉を発してくれる。
「貴女、広範囲への攻撃は得意ですか」
「不得手だね。私の妖術は一対一を想定したものが多いから」
「結構。なら貴女には八意永琳に突っ込んでもらいます。露払いは私が引き受ける」
できるの? 尋ねようと開きかけた口はすぐに閉じることになった。
やってみせる。ここで成し遂げなければ折角助けた同胞の命も助けられなくなる。
決然とした意志をこれでもかと放つ引き締まった顔は、サトリではなくサトラレではないかとも思え、妹紅は微笑を浮かべていた。
心を読める妖怪にしてはあまりに実直ではないかと思ったからだった。
どうやら、彼女に良心の存在を教えたさとりの友人とやらは余程変り種のようだ。
そう、まるで、上白沢慧音のような――
心のうちで慧音の姿を呼び起こしたとき、「……慧音さん?」とさとりが呟いた。
「ん、ああ。私の友達で……」
「……私の、友人でした」
そこで妹紅は気付く。心を読んだから慧音の名前を知ったのではなく、以前から知っていたから慧音の名前に反応したのだと。
慧音は顔が広い。さとりが友達でも不思議ではない。だが、それはさとりが『地上の』妖怪であったらという話で……
「私は慧音さんと一緒だったことがあるんです」
先回りをするようにさとりは喋っていた。この場で、ここに来て初めて、さとりと慧音が出会ったことを。
隠していたことを、告白するように。
違う、偶然の一致だと妹紅は思い直す。こちらから慧音の存在を告げたことはないし、考えもしなかった。
さとりも自分と慧音が親しい関係であるとは思いもしなかったはずだ。
たまたま、互いが互いの友人に気付かなかっただけ。それだけであるはずなのに、なぜ、そんなに苦しそうに話す?
「それで……私の軽率な行動で……慧音さんが私を庇って、死にました」
そのときの様子を言葉として形にできないのがたまらなく辛いというように、さとりは唇を引き締めていた。
誰かを庇って死ぬ。いかにも慧音らしい最期だと納得する一方、
だからこそ彼女を死なせてしまったことがさとりの罪悪となってしまったのかもしれない。
「これでは、貴女のことを許せないなんて思う資格はありませんね」
見ていて悲しくなるくらいの穏やかな声だった。
裁きを待ち受けていたときの自分も、こんな面持ちだったのだろうか。
ふと考え、しかし理屈で考えるほどにはさとりに対する恨みが募っていないことに妹紅は不可思議な気持ちを覚える。
結果だけ見れば、さとりが慧音を死なせてしまったと考えることもできる。のうのうとさとりは生き長らえ、
あまつさえ妹を殺害したことを許せないとさえ言い張っている。自分のことを棚に上げた勝手な妖怪と思うことは簡単だった。
「でも、違うよ、それは」
頭の中に入ってこようとする理屈を押し退けて、妹紅はさとりに言い放った。
私は知っている。そうして事実を言えるのは誰の中にも良心があるからなのだということを。
私は知っている。自分達が持っている心を大切にできるのなら、誰だって生きていてもいいということを。
さとり自身は、まだどこかで自分のことを最低な妖怪だと思っているのかもしれない。
サトリという妖怪が歩んできた歴史。その内に潜む暗黒。まだ何も知らない。
それでも、彼女は善くなろうとしている。それが分かる。
自らの歴史の闇と向き合い、苦しくとも、己の意志で決めて少しはマシな明日を歩もうとしている。
拒絶されるかもしれないという恐怖と向き合いながら、精一杯に手を繋ごうとする。
ほんの少しの情愛と、ひとすくいの水を差し出すやさしさで。
「やったことはそりゃ、間違ってるのかもしれないけど……でも、あなたは私に話してくれた」
だから、分かり合えたと思う。理屈だけで受け止めず、憎む以外の感情で受け止めることができた。
口に出してしまうと端から溶けて消えてしまうような気がして、妹紅は心の奥底に仕舞い、代わりに記憶に残る慧音の姿を引っ張り出す。
いつでも自分に良くしてくれた風変わりな半人半獣は、次第に目の前のサトリと重なり、内奥で生きていることを妹紅に感じさせた。
こうして、知と血を、想いを持つ者の存在は伝わってゆくのかもしれない。
一瞬の交差を、言葉や文字、絵画や、歌にして語り継いでゆくのかもしれない。
だったら、私は。私は、誰と交わっているのだろう?
ふとそんなことを思い、しかしすぐに答えを見つけ出した妹紅はふっと微笑を浮かべた。
「だから、私は赦すよ。だから……さとりも、自分を赦しなよ、ね?」
既に自分は赦している。生きることの刻苦から絶対に逃げないと、今は本気で思えているから。
今度は自分が、手を差し出してみようと初めて思えたから……妹紅は、さとりの名前を呼んだ。
目を見開き、戸惑いの色を見せたのも一瞬、さとりも「妹紅……」とおずおずと口を開いた。
ただ、名前を呼び、呼ばれただけ。ひどく遠かったようにも思え、しかしようやく当たり前の道を踏み出せたという実感もあって、
妹紅はそれだけで十分だという気持ちになっていた。
「その、私は――」
一方のさとりはまだ伝えきれないことがあるらしく、さらに口を開きかけたが、殺意を伴った思惟が対話の時間を終わりにした。
民家の影に隠れていたらしい『使い魔』達が一斉に飛び出し、薬莢に似た形状の連弾で妹紅達を狙い撃つ。
無粋な闖入者に邪魔されたのを疎ましく思いながら、妹紅とさとりは弾かれるように別々の方向へと走り出す。
直後、一点集中で直撃した場所から凄まじい量の土煙が上がり、火の余韻を残す夜空へとたなびく。
これが反撃の狼煙となるか、絶望へと導く暗雲となるか。今一度の賭けとしては悪くないと感想を結びながら、妹紅は無人の街中を駆けた。
* * *
飛び出していった妹紅はわき目も振らず、そのまま街路をひた走ってゆく。
話すだけ話して、一人で先に行ってしまった。まだこっちの話は終わっていなかったのにと微かな不満を抱きながらも、
さとりは一方で話すこともないかという思いも抱いていた。
言葉にしなくとも互いに少しは思いやれる関係が、今の自分と妹紅にはある。
自分の名前を、さとり、と呼んでくれたのはその証拠だろうし、こちらも自然と妹紅という名前が口を突いて出た。
先ほどまで敵意にも近しい感情を抱いていて、二人称で呼び合うことしかできなかったのに。
永琳が放った『使い魔』の射撃を避けながら、さとりは反撃のレーザーを撃ち返し、まず一体を消滅させる。
それでも周囲から、虚空から、新たな『使い魔』がわらわらと湧き出てくる。
恐らくは妹紅を追尾しているものもいるはず。このまま分断させ、じわじわと物量で押し込むつもりか。
本気になった月の賢者とやらは嘘偽りなく、参加者間でもトップクラスの実力を誇るのであろう。
正面に集まった『使い魔』をレーザーで消し飛ばし、さらに背後に回り込もうとしていた一体を手製の中型弾で撃破する。
気配を読むのは昔から得意だ。常に他者の目を窺い、嫌われ者であろうとも地底の主たらんと監視を行い続けてきたことがここで生かされるとは。
何が役に立ち、不得手をカバーするのか分からないものだ。苦笑を浮かべ、だから現在に絶望するのはまだ早いと考えることができた。
生きて、諦めずに歩いてさえいればいつかは報われるときが来るのかもしれない。
それがいつになるかは皆目分からず、どのような形でというのも不明瞭だが、少なくとも信じられるだけの可能性はある。
東風谷早苗を初めとする人間も、いつかは報われることを信じて歩き続けているのかもしれない。
分かり合えないという刻苦。進歩の歴史が途絶してしまう逼塞。互いを憎み、支配することでしか救いを得られないとする悲しい信仰……
そんな理不尽全てから解放される世界を目指して、人は歩き続けてきたのかもしれない。
だから臆面なく踏み込める。早苗の強さはそこにあったかと鈍い納得を得て、妹紅もそうなのだろうと思うことができた。
早苗の『それでも』という言葉、妹紅の『赦す』という言葉。
たったひとつの勇気を振り絞るだけで、自分にも他人にも手を差し伸べることができるのに。
本当の救いは、手を伸ばしたすぐ先にあるはずなのに。
妖怪は――いや、私達は、それを直視しようとしない。なまじ賢いがために諦めることを覚えてしまったから。
永琳の諦念も分からないではなかった。むしろ、理解してさえいた。
悪意は存在する。自分もまた悪意の一部を抱えている。感情が、裏切られたという失望が、悪を為しさえする。
でも、それだけじゃないでしょう? 物陰から現れ、小指の先ほどしかない小型弾をバラバラと吐き出す『使い魔』の弾幕をグレイズしていなしつつ、
さとりは赤薔薇の『使い魔』のレーザーで撃ち返し、最小限の攻撃で破壊する。
私達は雑多だ。白一色でも黒一色でもなく、様々に交じり合った色で構成されている。
刻々と色を変える自分達は、意志しようが無意識であろうが悪を為そうとすることもあれば、意志した善で、あるいは無意識の善で優しくなることもある。
ルーミアを、妹紅を許せないと感じた自分の姿と、それでもと良心を信じようとした二つの自分を思い浮かべて、
さらに押し寄せる『使い魔』の群れ――他者に対する不信と敵意、そして自己愛で満ちた永琳の思惟そのものに相対する。
絶望はしない。いや、まだ絶望するには早すぎる。狭い狭い幻想郷で、何もかもを知った気でいるのは性急に過ぎる結論だとさとりは思う。
何百年、何千年という時間は問題ではない。知るに必要なのは、知ろうとする意志、広がろうとする意志なのだと叫んで、さとりはとっておきの弾幕で殲滅を図る。
「想起……『テリブルスーヴニール』」
大きく伸ばした腕を一振りすると同時、一斉に弾け飛んだ大小の光弾が四方八方に乱れ飛び、包囲しつつあった『使い魔』達に襲い掛かる。
範囲が広いものの、さしたる弾速を持たない『テリブルスーヴニール』は普通ならば格好の回避の餌でしかなかったが、
こと動きの遅い『使い魔』には非常に有効な攻撃手段だった。
当たったそばから破裂を繰り返し、一様に広がる爆発染みた光景を眺めながら、さとりは残る『使い魔』の追い討ちに向かおうとして、
唐突に爆発の向こう、まだ靄の残る白の先から一直線に伸びた思惟を感じ取っていた。
反応することができたのは、自分がサトリであるからに他ならなかった。必死に身体を捩ったが、たたた、というやけに軽い音の方が先だった。
「ぐ……!」
肩に掠り、痺れるような苦悶に頬を引き攣らせながらも致命傷だけは避けることのできた幸運を噛み締めつつ、
さとりはようやく現れた思惟の主へと眼光を走らせる。
赤と青。昼と夜。炎と氷。それらを想像させる二色の服と、縫い糸のようなきめを持つ銀色のお下げ髪。
一撃必中を期したのであろう、未だに硝煙をたなびかせる銃を片手保持しながら姿を現した八意永琳は、想像外の自分の勘のよさに少し苛立った様子だった。
弾幕の残滓か、それとも残るくらいには冷えた温度なのか、滞留し続ける靄の中を永琳が歩いてくる。
応じるようにしてするすると集まってくる『使い魔』が数体。恐らくは自らの護衛用として残したものなのだろう。
肩を押さえながら、さとりはじりと後退して距離を取ろうとする。しかしその行為もすぐに、民家の壁に当たることで不可能になってしまう。
逃げられはしない。狙いを外さない永琳の銃口がそう語り、それとわかるほどに薄い唇が歪められた。
「一撃で仕留められなかったのは計算外だったけど、結果は変わりはしないわ。まずは貴女からよ」
「最初から私を?」
「その能力は少々厄介でね。封じておくに越したことはない」
「……それは、心を読まれると貴女には不都合だということですか」
動揺を誘うつもりで口を開いたが、永琳は無言のまま冷ややかな視線を寄越した後、向けていた銃口をスッと変え、一発発砲した。
永琳の視界外にいたはずのさとりの『使い魔』が破壊され、赤い花弁を散らす。
奇襲も最初から読まれていたかと断じて、睨みつけてみたはいいものの、返ってきたのはしんと空気を冷え込ませるような、汚物でも見る目だった。
どうやら戦略上の理由だけではなく、個人的にも気に入られていないらしい。そうだろうとさとりは思った。
常に物事を観察し、コントロールしている立場である永琳は観察されることを極端に嫌う手合いだ。
心を覗けるさとりは彼女にとっては不快の一語でしかないのだろう。慣れ親しんだ感触だと思い出す一方、
そうして己の恐怖を押し付けてくることに対する怒りがむらと湧き上がり、我知らず眉根を歪めていた。
「誰が、何を感じているかなんて私は知りたくないし、知られたくもない。それは弱みを見せることでしかない。
自分は自分しか救いたくない。他者は自らを幸福にするための道具でしかない。愛することも、愛されることも在り得ない」
全ての表情を吹き消し、感情を拭い去った声で永琳は言った。
ゾッとするほどの穏やかな、無色透明の声色はそれもひとつの真実なのだろうと無条件に思わせた。
突き詰めてしまえば、全てがその結論に至る。優しさも、助け合うことも、全て己を救うためのガジェットにしかなり得ることはない。
一人ではできることが限られてしまっているから群れを成しているだけで、味方を作ろうとするのも自分のため。
でも、そんなのは当然ではないかとさとりは思った。我が身が可愛くて、一番に考えるのは当たり前で、誰しもが持つ考えだ。
だがそんな自己愛だけでは寂しく、疑い合い、利用し合うだけの世界も寂しいと感じるから私達は良心を持ち始めたのではないのか。
早苗も、妹紅も、踏みとどまって理屈に逃げ出さなかった。
それでもと良心を信じ、否と唱え、逼塞しようとする今を切り拓こうとしている。
自分も彼女達を知った。何度も間違えそうになりながらも他人に触れて、心を読まずとも、同じように苦しみながら生きていることも知った。
この女は妹紅の言う通り、絶望する自分が正しいと信じているだけの臆病者だ。
胸の底がしんと冷たくなり、慧音の命を宿して生きているこの身に触れさせるわけにはいかないと決意を固めたと同時、腕が自然に振り上げられていた。
「――想起『アマテラス』!」
道の半ばほどに差し掛かっていた永琳の頭上で、突如として夜空が太陽の如き閃光を放つ。
さとりの『使い魔』はもう一体残っていた。青い薔薇を模した『使い魔』は事前に夜空に打ち上げておき、このスペルのための依代としたのだ。
『アマテラス』はその名の通り夜を照らし出すほどの高密度レーザーの群れで地上に向かって砲撃を行う広範囲弾幕であり、
さとりが民家の軒下に移動したのも逃げるためではなく『アマテラス』の直撃を避けるためだった。
保護した霊烏路空と氷精はそれなりに頑丈な家――確か里で一番大きな寺子屋だったか――に避難させているから平気だし、
妹紅にしても『使い魔』を移動させた意図には気付いているだろう。
放たれた『アマテラス』のレーザー群が真っ直ぐに地上へと向かい、次々とありとあらゆるものを破壊し尽くしてゆく。
ぽつんと永琳の周囲に浮いていた『使い魔』は瞬時に消し飛び、永琳自身も光の中に塗りつぶされてゆく。
妖怪の天敵でさえある太陽の光。しかし恵みももたらし、守ってさえくれる、暖かな慧音の光。
鮮烈な『アマテラス』の眩さが、周囲を押し包んだ。
* * *
最終更新:2011年07月21日 22:19