『招かれ猫』
一日目「招かれた猫」
「今日も暑かったなぁ」
陽の傾く夕暮れ時。一人の少年が日差しの強い夏の道路をだるそうに歩いている。
彼は夏目、ここ梨戸(リト)町の高校に通うごく普通の少年だ。勉強は苦手だが、その名前からワガハイだとかソウセキといったあだ名で呼ばれている。もちろん本などほとんど読んだことはない。
夏目は同じような日々に退屈していた。毎日同じ道を歩いて登校し、同じような授業をあくび半分に聞いて、また同じ道をぼんやりと歩いて帰る。今日もいつもと変わらない帰路だった。
「早く夏休みになんねぇかな。それか何か面白いことでもないもんかな」
何か面白そうな事件にでも巻き込まれることを期待しつつ歩くも、そんなものがそう都合よく目の前に現れてくれるわけがないなんてこともよく理解している。目の前に現れたのはただの空き缶ひとつだった。
「ちっ、つまんねぇの」
言って空き缶を勢いよく蹴り飛ばす。
空き缶は弧を描いて宙を舞うと、すとんと近くのくずかごに落ちた。
「よし、一発! ……あー、まじつまんねぇっての」
他に何か珍しそうなものが落ちていないかと、なんとなく道路脇の林の中を覗く。
すると何か黒いものが落ちているではないか。あんなもの昨日はなかったはずだ。
興味深そうにそれに近付く夏目だったが、その正体を知ってすぐに表情を歪める。
林の中には黒い猫が一匹横たわっていた。身体からは血を流していて身動き一つしない。一目で死んでいることがわかる有様だった。
「げっ、いやなもん見つけちまった。しかも黒猫じゃねぇか、縁起悪ぃ…」
そのまま見なかったことにしてその場を立ち去ろうとしたが、何か心に引っかかるものがあって夏目はその足を止めた。そして振り返ってその黒猫の亡骸を見つめる。すでに猫は息絶えているが、その猫と目が合ったような気がした。
「……ちっ、しょうがねぇな」
誰に言い訳するでもなくそう呟くと、夏目は肩からかけている鞄を放り出すと林の中に穴を掘り始めた。静かな林の中に穴を掘る音だけが響く。
しばらくしてその音が聞こえなくなったかと思うと、林の中から夏目が姿を現した。
さっきまで猫の亡骸があった場所には土が盛られていて、手ごろな大きさの石が立てられている。石の前には夏目が持っていたものだろう、いくつかの飴玉が供えられている。これはあの黒猫の墓だった。
「よっしゃ、これでいいな。……って何やってんだろ俺」
いつの間にか空は薄闇に包まれている。時間を確認するとなんと22時を廻っている。
「うそだろ、もうこんな時間かよ! 3時間近く穴掘ってたことになるのか!? どうりで腹も減るわけだ。やべぇ、帰ったら絶対に大目玉食らうぞこりゃ…」
これは大変だと慌てて帰路を駆けていった。
夏目は知らなかった。道端などで見かけた猫の死体に対して同情の気持ちを持ってはいけないという迷信があることを。
もし同情してしまうと、こいつなら大丈夫だと思われて猫の霊に取り憑かれてしまう。そんな迷信がこの梨戸町にはあった。
彼が去ったあと、例の林の中で何者かの目が怪しく光ったように見えた。
『ついに見つけた…。彼こそわたしの”特別な存在”にふさわしい。絶対にわたしのものにしてみせるわ…』
陽の傾く夕暮れ時。一人の少年が日差しの強い夏の道路をだるそうに歩いている。
彼は夏目、ここ梨戸(リト)町の高校に通うごく普通の少年だ。勉強は苦手だが、その名前からワガハイだとかソウセキといったあだ名で呼ばれている。もちろん本などほとんど読んだことはない。
夏目は同じような日々に退屈していた。毎日同じ道を歩いて登校し、同じような授業をあくび半分に聞いて、また同じ道をぼんやりと歩いて帰る。今日もいつもと変わらない帰路だった。
「早く夏休みになんねぇかな。それか何か面白いことでもないもんかな」
何か面白そうな事件にでも巻き込まれることを期待しつつ歩くも、そんなものがそう都合よく目の前に現れてくれるわけがないなんてこともよく理解している。目の前に現れたのはただの空き缶ひとつだった。
「ちっ、つまんねぇの」
言って空き缶を勢いよく蹴り飛ばす。
空き缶は弧を描いて宙を舞うと、すとんと近くのくずかごに落ちた。
「よし、一発! ……あー、まじつまんねぇっての」
他に何か珍しそうなものが落ちていないかと、なんとなく道路脇の林の中を覗く。
すると何か黒いものが落ちているではないか。あんなもの昨日はなかったはずだ。
興味深そうにそれに近付く夏目だったが、その正体を知ってすぐに表情を歪める。
林の中には黒い猫が一匹横たわっていた。身体からは血を流していて身動き一つしない。一目で死んでいることがわかる有様だった。
「げっ、いやなもん見つけちまった。しかも黒猫じゃねぇか、縁起悪ぃ…」
そのまま見なかったことにしてその場を立ち去ろうとしたが、何か心に引っかかるものがあって夏目はその足を止めた。そして振り返ってその黒猫の亡骸を見つめる。すでに猫は息絶えているが、その猫と目が合ったような気がした。
「……ちっ、しょうがねぇな」
誰に言い訳するでもなくそう呟くと、夏目は肩からかけている鞄を放り出すと林の中に穴を掘り始めた。静かな林の中に穴を掘る音だけが響く。
しばらくしてその音が聞こえなくなったかと思うと、林の中から夏目が姿を現した。
さっきまで猫の亡骸があった場所には土が盛られていて、手ごろな大きさの石が立てられている。石の前には夏目が持っていたものだろう、いくつかの飴玉が供えられている。これはあの黒猫の墓だった。
「よっしゃ、これでいいな。……って何やってんだろ俺」
いつの間にか空は薄闇に包まれている。時間を確認するとなんと22時を廻っている。
「うそだろ、もうこんな時間かよ! 3時間近く穴掘ってたことになるのか!? どうりで腹も減るわけだ。やべぇ、帰ったら絶対に大目玉食らうぞこりゃ…」
これは大変だと慌てて帰路を駆けていった。
夏目は知らなかった。道端などで見かけた猫の死体に対して同情の気持ちを持ってはいけないという迷信があることを。
もし同情してしまうと、こいつなら大丈夫だと思われて猫の霊に取り憑かれてしまう。そんな迷信がこの梨戸町にはあった。
彼が去ったあと、例の林の中で何者かの目が怪しく光ったように見えた。
『ついに見つけた…。彼こそわたしの”特別な存在”にふさわしい。絶対にわたしのものにしてみせるわ…』
人気のない道を急ぐ。このままでは晩飯抜きにもなりかねない。
立ち並ぶ外灯がぼんやりと行く先を照らし、まるで自分を誘導しているような錯覚に陥る。
遅い時間だからなのか人の姿は全くなく、自分の足音だけが周囲に響く。
不気味なほどに静かだ。背後からは月に照らされて影が正面に長く伸びる。
どこかいつもと違う雰囲気に夏目は違和感を感じていた。
「なんだ? いくら走っても家につかねぇぞ。なんでだよ、俺の家がこんなに遠いわけがない」
ずっと同じ場所を走っているような気さえしてくる。同じような道、同じような外灯、同じような道沿いの林。……林?
気がつくと夏目はあの猫の墓を作った林の前に戻っていた。
「ど、どういうことだ。あの墓を作ったからか? やっぱあの黒猫の呪いなのか!?」
気味が悪くなってその場に立ち竦む。背筋を厭な汗が流れる。
だが墓に悪戯をしたのではなく、自分は亡骸を晒す可哀想な猫に墓を立ててやったのだ。感謝されるならともかく、それが原因で呪われるだなんて考えられない。猫の恩返しならぬ、猫が恩を仇で返すなんてまさかそんな。
林の中に立てた墓の様子が気になったが、薄気味悪くて確認するのが躊躇われる。
どうしていいのかわからず茫然としていると、例の林の中から猫の鳴き声が聞こえてくる。
体中から血の気が引いて行くのがわかる。やはりこれはあの黒猫の呪いなんだ。
どういうことだ。まさか死んでいると思ったのが実は生きていたとでもいうのか。そして俺はそれを生き埋めにしてしまったのだろうか。だからそれを恨んだ黒猫が仕返しをするために俺を誘き寄せようとしているのか。
『おいで……こっちへおいで……』
次第に猫の声がそう言っているように聞こえ始めた。
間違いない、これは俺を呼んでいるのだ。何か俺はあの黒猫の恨みを買ってしまったに違いない。そう確信する。
声はなおも呼び続ける。おいでおいでと消え入りそうな声で呼び続ける。
すぐにでもこの場を逃げ出してしまいたかった。
それなのに、自分の意思とは裏腹に身体が勝手に前進する。勝手に前脚が前へと歩み出る。
「えっ……?」
驚いて自分の手……前脚に視線を留める。
白い毛に覆われた獣の前脚。猫の手がそこにはあった。
続いてもう一歩、さらに一歩と意思に反して前へと進む。そのたびに目に入ってくるのは猫の前脚だった。
気がつくと夏目は夜の林の中を見えない力によって四足で歩かされていた。視線の高さがずいぶんと低くなっている。
そういえば夜であるにも関わらず周囲の様子がよく視える。あれほど静かだと思っていたのに、周囲からは虫の音、木々を掻き分ける音、そしてあの不気味な声と様々な音が聴こえてくる。
足はひとりでにあの声が聞こえてくるもとへと向かっている。
心臓がはち切れんほどに脈打つ。緊張に口の中がからからになる。頭はくらくらしている。
恐怖のあまりに叫び出してしまいたかった。しかし、自身の口から出るのがもとの自分の声なのか猫の鳴き声なのか、その結果を想像してしまい声を出すことができなかった。もし後者であればこの悪夢を現実だと認めてしまうことになる。頼む、夢なら覚めてくれ。
そのまま恐怖に身を震わせつつ林を行くと開けた空間に出た。周囲を木々に囲まれた丘のようだ。その中央には一本の大きな木が立っているのが見える。どうやらおいでおいでと呼ぶ声はそこから聞こえてくるらしい。
夏目は一体どんな恐ろしい怪物が自分を待ちうけているのかと身を強張らせた。
血走った目を見開かせる化け物か、耳まで口の裂けた足のない猫の幽霊か、それとも人の姿を借りた鬼のような形相の化け猫か。
そんな期待を裏切って、大木のふもとで待っていたのは一人の少女だった。
こんな草木に覆われた場所には全く似つかわしくない、豪奢で立派な身なりでどこかの令嬢のような立ち振る舞いだ。
『おいで、おいで』
少女の口からは鈴を転がすような澄んだ声が発せられている。その容姿はいままで見たどんな女性よりも美しく見えた。
さっきまでの恐怖感はどこへやら。夏目は導かれるように自らの意思で少女へと近づいて行った。
目の前に歩み寄る一匹の猫を少女が優しく抱きかかえる。
少女の顔が、目が、唇がすぐ目の前へと迫る。
夏目はその謎の少女にすっかり心を奪われていた。
(な、なんて……かわいいんだ。いや、かわいいは違うな。これこそまさに美しいってやつだ。ああ、俺は夢でも見ているのか)
そうだ、これは夢に違いない。いくら歩いても進まないなんて、気が付いたら自分が猫になっているなんて、こんな田舎町にこんな美しい少女がいるなんてあり得ない。これは夢なんだ。そう考えるとこれまでの奇怪な現象にも納得がいく。
たとえ夢だったとしても、こんな美しい少女に出逢えるなんてまさに夢のような気分だ。きっとこれはあの黒猫に墓を作ってやった恩返しに違いない。頼む、夢なら覚めないでくれ。
そう都合のよい解釈をして浮かれていると、目の前の少女が静かに語りかけてきた。
「ああ、わたしのかわいい子猫ちゃん…。あなたをずっと探していた。あなたこそわたしの特別な存在…」
(お、俺が特別な存在だって? 嬉しいことを言ってくれるじゃないか)
「わたしはあなたこそ一族の王にふさわしいと考えているわ。そう、あなたでなければならないの」
(一族の王? なんのことだ?)
「わたしはお母様の言いなりにはならない。自分の運命の相手……婚約者を決めるのはお母様じゃない。わたし自身よ!」
(こ、ここ婚約者!? お、お嬢さん、それはさすがに話が飛びすぎじゃないですかっ! お、俺はまだその、心の準備が!)
「わたしはあなたを選ぶわ。でも今すぐにはそれはできない。だから、少しわたしに時間をちょうだい。いつか必ず絶対にあなたをわたしのものにしてみせると約束するわ!」
思わず「喜んで!」と叫びそうになっていた。しかしその瞬間に目の前から少女の姿が消えて猫の夏目は宙に放り出された。それと同時に周囲の空間が闇に溶けていく。そして夏目は底の見えない闇の底へと落ちていった。
「――はっ!?」
驚いて飛び起きると、茜色に染まる木々が目に飛び込んできた。
漂う土の香り。すぐ隣には軽く盛られた土の山に立てかけられた石。
どうやらここは例の林の中らしい。黒猫の墓を作り終えてそのまま疲れて眠ってしまったのだろうか。
(なんだよ、夢オチか。つまんねぇ……けど、あの夢に出てきた子はなかなかよかったな)
陽はまだ沈んでいなかったようだ。おかげで晩飯抜きの運命は回避できたらしい。
「まぁ、変な夢だったけど悪くはねぇか。そりゃ墓の横で寝たら変な夢見るよな」
耳をすませると猫の鳴き声がいくつも聴こえる。林の奥から数匹の野良猫が姿を見せた。夢の中で猫になっていたのはこの鳴き声せいか。視線が低いと錯覚したのは土の香りのせいだろう。こんなところで寝たので身体が泥だらけになっている。
あの少女はどこから出てきたんだろう。もしかしてあの黒猫がお礼を言うために夢に出てきたのだろうか。
(きっと雌猫だったんだな…)
念のため、自分が作った墓を拝んでからその場を立ち去る。
すると背後から猫の鳴き声と同時に『ありがとよ』と聴こえたような気がした。
振り返るがそこには野良猫たち以外には誰もいない。気のせいか、それとも――
「っていうかなんだ、今の声の調子からするとやっぱ雄猫だったのか? じゃああの少女はただの俺の妄想か。まぁたしかに俺好みだったしな…」
林を出ると、通りすがりのおじさんに「タケノコ泥棒!」と叫ばれてしまった。
「げっ! ち、違うんだ! 違うんだぁぁぁ!!」
そして逃げるように家へ飛んで帰るのだった。
去りゆく夏目の姿を野良猫たちはじっと見つめていた。
立ち並ぶ外灯がぼんやりと行く先を照らし、まるで自分を誘導しているような錯覚に陥る。
遅い時間だからなのか人の姿は全くなく、自分の足音だけが周囲に響く。
不気味なほどに静かだ。背後からは月に照らされて影が正面に長く伸びる。
どこかいつもと違う雰囲気に夏目は違和感を感じていた。
「なんだ? いくら走っても家につかねぇぞ。なんでだよ、俺の家がこんなに遠いわけがない」
ずっと同じ場所を走っているような気さえしてくる。同じような道、同じような外灯、同じような道沿いの林。……林?
気がつくと夏目はあの猫の墓を作った林の前に戻っていた。
「ど、どういうことだ。あの墓を作ったからか? やっぱあの黒猫の呪いなのか!?」
気味が悪くなってその場に立ち竦む。背筋を厭な汗が流れる。
だが墓に悪戯をしたのではなく、自分は亡骸を晒す可哀想な猫に墓を立ててやったのだ。感謝されるならともかく、それが原因で呪われるだなんて考えられない。猫の恩返しならぬ、猫が恩を仇で返すなんてまさかそんな。
林の中に立てた墓の様子が気になったが、薄気味悪くて確認するのが躊躇われる。
どうしていいのかわからず茫然としていると、例の林の中から猫の鳴き声が聞こえてくる。
体中から血の気が引いて行くのがわかる。やはりこれはあの黒猫の呪いなんだ。
どういうことだ。まさか死んでいると思ったのが実は生きていたとでもいうのか。そして俺はそれを生き埋めにしてしまったのだろうか。だからそれを恨んだ黒猫が仕返しをするために俺を誘き寄せようとしているのか。
『おいで……こっちへおいで……』
次第に猫の声がそう言っているように聞こえ始めた。
間違いない、これは俺を呼んでいるのだ。何か俺はあの黒猫の恨みを買ってしまったに違いない。そう確信する。
声はなおも呼び続ける。おいでおいでと消え入りそうな声で呼び続ける。
すぐにでもこの場を逃げ出してしまいたかった。
それなのに、自分の意思とは裏腹に身体が勝手に前進する。勝手に前脚が前へと歩み出る。
「えっ……?」
驚いて自分の手……前脚に視線を留める。
白い毛に覆われた獣の前脚。猫の手がそこにはあった。
続いてもう一歩、さらに一歩と意思に反して前へと進む。そのたびに目に入ってくるのは猫の前脚だった。
気がつくと夏目は夜の林の中を見えない力によって四足で歩かされていた。視線の高さがずいぶんと低くなっている。
そういえば夜であるにも関わらず周囲の様子がよく視える。あれほど静かだと思っていたのに、周囲からは虫の音、木々を掻き分ける音、そしてあの不気味な声と様々な音が聴こえてくる。
足はひとりでにあの声が聞こえてくるもとへと向かっている。
心臓がはち切れんほどに脈打つ。緊張に口の中がからからになる。頭はくらくらしている。
恐怖のあまりに叫び出してしまいたかった。しかし、自身の口から出るのがもとの自分の声なのか猫の鳴き声なのか、その結果を想像してしまい声を出すことができなかった。もし後者であればこの悪夢を現実だと認めてしまうことになる。頼む、夢なら覚めてくれ。
そのまま恐怖に身を震わせつつ林を行くと開けた空間に出た。周囲を木々に囲まれた丘のようだ。その中央には一本の大きな木が立っているのが見える。どうやらおいでおいでと呼ぶ声はそこから聞こえてくるらしい。
夏目は一体どんな恐ろしい怪物が自分を待ちうけているのかと身を強張らせた。
血走った目を見開かせる化け物か、耳まで口の裂けた足のない猫の幽霊か、それとも人の姿を借りた鬼のような形相の化け猫か。
そんな期待を裏切って、大木のふもとで待っていたのは一人の少女だった。
こんな草木に覆われた場所には全く似つかわしくない、豪奢で立派な身なりでどこかの令嬢のような立ち振る舞いだ。
『おいで、おいで』
少女の口からは鈴を転がすような澄んだ声が発せられている。その容姿はいままで見たどんな女性よりも美しく見えた。
さっきまでの恐怖感はどこへやら。夏目は導かれるように自らの意思で少女へと近づいて行った。
目の前に歩み寄る一匹の猫を少女が優しく抱きかかえる。
少女の顔が、目が、唇がすぐ目の前へと迫る。
夏目はその謎の少女にすっかり心を奪われていた。
(な、なんて……かわいいんだ。いや、かわいいは違うな。これこそまさに美しいってやつだ。ああ、俺は夢でも見ているのか)
そうだ、これは夢に違いない。いくら歩いても進まないなんて、気が付いたら自分が猫になっているなんて、こんな田舎町にこんな美しい少女がいるなんてあり得ない。これは夢なんだ。そう考えるとこれまでの奇怪な現象にも納得がいく。
たとえ夢だったとしても、こんな美しい少女に出逢えるなんてまさに夢のような気分だ。きっとこれはあの黒猫に墓を作ってやった恩返しに違いない。頼む、夢なら覚めないでくれ。
そう都合のよい解釈をして浮かれていると、目の前の少女が静かに語りかけてきた。
「ああ、わたしのかわいい子猫ちゃん…。あなたをずっと探していた。あなたこそわたしの特別な存在…」
(お、俺が特別な存在だって? 嬉しいことを言ってくれるじゃないか)
「わたしはあなたこそ一族の王にふさわしいと考えているわ。そう、あなたでなければならないの」
(一族の王? なんのことだ?)
「わたしはお母様の言いなりにはならない。自分の運命の相手……婚約者を決めるのはお母様じゃない。わたし自身よ!」
(こ、ここ婚約者!? お、お嬢さん、それはさすがに話が飛びすぎじゃないですかっ! お、俺はまだその、心の準備が!)
「わたしはあなたを選ぶわ。でも今すぐにはそれはできない。だから、少しわたしに時間をちょうだい。いつか必ず絶対にあなたをわたしのものにしてみせると約束するわ!」
思わず「喜んで!」と叫びそうになっていた。しかしその瞬間に目の前から少女の姿が消えて猫の夏目は宙に放り出された。それと同時に周囲の空間が闇に溶けていく。そして夏目は底の見えない闇の底へと落ちていった。
「――はっ!?」
驚いて飛び起きると、茜色に染まる木々が目に飛び込んできた。
漂う土の香り。すぐ隣には軽く盛られた土の山に立てかけられた石。
どうやらここは例の林の中らしい。黒猫の墓を作り終えてそのまま疲れて眠ってしまったのだろうか。
(なんだよ、夢オチか。つまんねぇ……けど、あの夢に出てきた子はなかなかよかったな)
陽はまだ沈んでいなかったようだ。おかげで晩飯抜きの運命は回避できたらしい。
「まぁ、変な夢だったけど悪くはねぇか。そりゃ墓の横で寝たら変な夢見るよな」
耳をすませると猫の鳴き声がいくつも聴こえる。林の奥から数匹の野良猫が姿を見せた。夢の中で猫になっていたのはこの鳴き声せいか。視線が低いと錯覚したのは土の香りのせいだろう。こんなところで寝たので身体が泥だらけになっている。
あの少女はどこから出てきたんだろう。もしかしてあの黒猫がお礼を言うために夢に出てきたのだろうか。
(きっと雌猫だったんだな…)
念のため、自分が作った墓を拝んでからその場を立ち去る。
すると背後から猫の鳴き声と同時に『ありがとよ』と聴こえたような気がした。
振り返るがそこには野良猫たち以外には誰もいない。気のせいか、それとも――
「っていうかなんだ、今の声の調子からするとやっぱ雄猫だったのか? じゃああの少女はただの俺の妄想か。まぁたしかに俺好みだったしな…」
林を出ると、通りすがりのおじさんに「タケノコ泥棒!」と叫ばれてしまった。
「げっ! ち、違うんだ! 違うんだぁぁぁ!!」
そして逃げるように家へ飛んで帰るのだった。
去りゆく夏目の姿を野良猫たちはじっと見つめていた。
夏目の家はごく平凡な木造の一軒家だ。
居間を除いてほとんどの部屋は畳張りで、部屋は障子で区切られている。さすがにテレビや冷蔵庫などの必需品はあるが、エアコンやパソコンなどの贅沢品は何もない。家の外にはそこそこの庭があり、申し訳程度の小さな畑がある。ついでに便所は和式だ。
梨戸町は都心から離れた田舎町で土地が安いのでほとんどの住人は一軒家に暮らしており、この町ではマンションやアパートというようなものはほとんど見かけない。車もほとんど通らず緑が多く残された、言わば昔ながらの風景を残した町だ。
この町では今でも幽霊やら迷信といったものが高齢者を中心に深く信じられていた。
夢の出来事を話すと夏目の祖父は「それはきっと猫神様がお礼を言いに来たんじゃろうな」と説明した。
「何を言ってるんですかお父さん。幽霊だか神様だか知りませんけど、そんな目に見えないものなんか信じたってどうにもならないでしょう。それにあんたもねぇ、道端で猫の墓作ったり居眠りしてるぐらいならうちの家事も少しでも手伝ってもらいたいものね。ちゃんと宿題はやったの? そろそろ試験なんじゃないの?」
都会から嫁いできた母親はそんな迷信など全く信じたりはしない。
「う、うるせーな。いいだろ、別に悪いことをしたわけじゃないんだから」
「それは人として当然のことです! それよりももっと良いことをしてちょうだいよ。試験で良い点とるとか、うちのこと手伝うとか…」
「手伝いは母ちゃんにとって”都合の”良いことじゃねぇかよ」
「とにかく、片付かないから早くご飯食べちゃいなさい。ほらほら、お父さんもお夕飯の途中で居眠りしないで」
これも夏目家のいつも通りのつまらない光景だ。
夏目はこれからもこんなつまらない日々が続いて行くんだろうなと考えていた。この日を境に彼の運命が一変するとも知らずに。
居間を除いてほとんどの部屋は畳張りで、部屋は障子で区切られている。さすがにテレビや冷蔵庫などの必需品はあるが、エアコンやパソコンなどの贅沢品は何もない。家の外にはそこそこの庭があり、申し訳程度の小さな畑がある。ついでに便所は和式だ。
梨戸町は都心から離れた田舎町で土地が安いのでほとんどの住人は一軒家に暮らしており、この町ではマンションやアパートというようなものはほとんど見かけない。車もほとんど通らず緑が多く残された、言わば昔ながらの風景を残した町だ。
この町では今でも幽霊やら迷信といったものが高齢者を中心に深く信じられていた。
夢の出来事を話すと夏目の祖父は「それはきっと猫神様がお礼を言いに来たんじゃろうな」と説明した。
「何を言ってるんですかお父さん。幽霊だか神様だか知りませんけど、そんな目に見えないものなんか信じたってどうにもならないでしょう。それにあんたもねぇ、道端で猫の墓作ったり居眠りしてるぐらいならうちの家事も少しでも手伝ってもらいたいものね。ちゃんと宿題はやったの? そろそろ試験なんじゃないの?」
都会から嫁いできた母親はそんな迷信など全く信じたりはしない。
「う、うるせーな。いいだろ、別に悪いことをしたわけじゃないんだから」
「それは人として当然のことです! それよりももっと良いことをしてちょうだいよ。試験で良い点とるとか、うちのこと手伝うとか…」
「手伝いは母ちゃんにとって”都合の”良いことじゃねぇかよ」
「とにかく、片付かないから早くご飯食べちゃいなさい。ほらほら、お父さんもお夕飯の途中で居眠りしないで」
これも夏目家のいつも通りのつまらない光景だ。
夏目はこれからもこんなつまらない日々が続いて行くんだろうなと考えていた。この日を境に彼の運命が一変するとも知らずに。
夕食を終えて団扇を片手に横になって縁側から網戸ごしに庭を眺める。後ろからは勉強しろという母ちゃんの声が聞こえてくるが敢えて聞こえないふりをしておく。
網戸には屋内の灯りに誘き寄せられて小さな羽虫が張り付いている。団扇で内側からそれを叩き飛ばしたりしながらぼんやりとした時間を過ごす。
「それにしても……あの子可愛かったなぁ。夢なのが惜しい。実際にいたらほっとかないってのに」
夢で見た謎の少女を思い出す。空に昇っている月にその少女の姿を投影する。
端正な顔立ち、上品な声、月のように丸く美しい瞳。……少し記憶の中で美化されているかもしれない。
「あの夢の中では俺は猫になってたんだ。だから何も気にすることなんかなかったんだ。現実じゃまずないチャンスだったんだ。くそっ、せめて抱き上げられて顔が近付いたあの瞬間に口づけでもしておくんだった。ああ、まったく惜しいッ!」
思わず口に出して呟いてしまった。
すると隣から声が聞こえた。
『ほう。その少女はそんなにべっぴんさんだったのかい?』
「そりゃあもう。この世のものとは思えないほどだったな。クラスにゃあんな可愛い子はいねぇし、同じ人間とは思えないほどの……ってうわっ!?」
妄想の内容を聞かれてしまったと思い、顔を赤らめながら驚いて振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。飼い猫の正宗が首を傾げてこちらを見つめているだけだ。
「じいちゃん、何か言ったか?」
家の中に向かって問う。そのじいちゃんは畳の上に座布団を並べて、その上で寝息を立てていた。
「気のせいか」
『どこを見ておる。こっちだ。おまえのすぐとなりだ』
またすぐ隣から声が聞こえた。
声のしたほうを振り向く。すると正宗が前脚を揃えて座りながら相変わらずこちらをじっと見つめている。
「え? もしかしておまえ?」
『わし以外に誰がおる。それに一応わしのほうが年長者だぞ。おまえとはなんだ、おまえとは』
「うわっ、正宗がしゃべりやがった!」
正宗は齢20歳近い老猫だ。一応、俺が生まれるよりも前からこの家にいることになる。そういえば長年生きた猫は尾がふたつに分かれて猫又という妖怪になるという話を聞いたことがある。
「ついに化け猫になったか…」
『化け猫とは失礼なやつだ。わしは今までも何度もおまえさんに話しかけてきたぞ。いつも気付いてもらえなかったがな』
「ま、まじかよ」
『ようやく気付いてもらえてわしは嬉しい』
俺はまだ夢を見ているのだろうか。慌てて正宗を担ぎ上げて「正宗がしゃべった」と母ちゃんに報告する。しかし、どうやら正宗の声は俺だけにしか聞こえないらしく、寝惚けてないで勉強しろと釘を刺されてしまった。
「どういう……ことなんだ?」
『ふむ。何かのきっかけでわしの言葉がわかるようになったのかもしれんな。何か心当たりはないのか?』
言われて例の黒猫の墓のことを思い出した。夢のことも含めてそれを正宗に説明する。
正宗は目を閉じて黙ってそれを聞いていたが、聞き終えると顔を洗いながら納得したように答えた。
『なるほどな。おまえさんから何か猫の臭いがすると思ったらそういうことだったか』
「どういうことだ?」
聞き返しながらも心当たりはあった。
きっとあの黒猫だ。呪いか恩返しかはわからないが、墓を作ってやったお礼に猫の言葉を理解できるようにしてくれたのだろう。正宗からもそういうような答えが返ってくるんだろうと期待しながら返答を待った。
ところが返って来た答えは全く期待外れのものだった。
『おまえさん、猫の仲間入りをしたようだな』
「……は?」
『いやいや納得した。どうも今日は不思議とおまえに親近感が湧くと思っとったんだ』
「一人……じゃなくて一匹で納得してないで俺にもわかるように説明してくれ」
『夢の中で猫になっていたと言ったな。それが原因だ。だからおまえさんから猫の気を感じるんだな』
猫の気? まるでなんのことだかわからない。
正宗は俺にその猫の気とやらが宿ったから親近感も感じるし、猫の言葉もわかるようになったのだと説明した。
「つまり黒猫の呪いかなんかなんだろ?」
『呪いとは少し違う。おまえに不思議な力がかけられているのではなく、おまえ自身から不思議な力が感じられる』
「するとどうなるんだ?」
『おまえさんの何かが変わったということだな。原因はわからんが、呪いや何かが取り憑いてるようなものとは違うということだけは言える。わかりやすく言えばそうだな。おまえさんが猫になったと考えればわかりやすい』
こいつは何を言っているんだと呆れながらも、それは夢の話だろと訊く。
猫に話しかけておきながら、傍から見ればおまえが何を言ってるんだと言われそうだが。
すると正宗はしばらく考えてからこう言った。
『ではここから外を見ろ。そこにみすぼらしい畑があるだろう』
「じいちゃんが作ったんだ。みすぼらしくて悪かったな」
『そこに何やら野菜の茎が立っておる。おまえには何本に見える?』
目を凝らして網戸越しに庭を見つめる。外は暗くてわかりにくかったが、しっかりとトマトの苗10本が目に入った。
「トマトが10本だ。それがどうしたんだ」
『そういうことだ。いやーめでたいめでたい。マタタビで乾杯だな。わしには息子も孫もおらんから、この付近の縄張りの後継ぎをどうしようかと思っとったが、無事見つかってよかったわい。にゃっはっはははは』
また一匹で納得して笑いながら、正宗は機嫌よさそうに尾を立ててどこかへ行ってしまった。
「はぁ? 何がそういうことだよ。意味わかんねぇよ」
頭を捻っていると「おまえのほうが意味わからないぞ」と声が返って来た。
振り返るとこんどは背後にいつの間にか帰宅していた父ちゃんが座り込んでいた。どうやら正宗に話しかけているのをずっと見ていたらしい。父ちゃんにも正宗の言葉は聞こえなかったらしく、正宗に向かって必死に話しかける俺が不思議に見えたことだろう。
「な、なんでもねぇよ。それより父ちゃん、ここからそこの畑にトマトが何本見える?」
別の答えを聞けば何か理解できるかもしれない。そう思って正宗にされた質問と同じことを訊いてみた。
すると父ちゃんは呆れたように「こんな真っ暗な夜中にそんなもの一本も見えるわけないだろ」と答えた。
(え、見えない……?)
改めて庭を見つめる。俺の目にはしっかりとトマトの苗が10本見えた。見えてしまった。
急に嫌な想像が頭をよぎった俺は慌てて正宗を追って捜し始めた。
「おい、畑がどうかしたのか?」
「な、なんでもねぇよ!」
網戸には屋内の灯りに誘き寄せられて小さな羽虫が張り付いている。団扇で内側からそれを叩き飛ばしたりしながらぼんやりとした時間を過ごす。
「それにしても……あの子可愛かったなぁ。夢なのが惜しい。実際にいたらほっとかないってのに」
夢で見た謎の少女を思い出す。空に昇っている月にその少女の姿を投影する。
端正な顔立ち、上品な声、月のように丸く美しい瞳。……少し記憶の中で美化されているかもしれない。
「あの夢の中では俺は猫になってたんだ。だから何も気にすることなんかなかったんだ。現実じゃまずないチャンスだったんだ。くそっ、せめて抱き上げられて顔が近付いたあの瞬間に口づけでもしておくんだった。ああ、まったく惜しいッ!」
思わず口に出して呟いてしまった。
すると隣から声が聞こえた。
『ほう。その少女はそんなにべっぴんさんだったのかい?』
「そりゃあもう。この世のものとは思えないほどだったな。クラスにゃあんな可愛い子はいねぇし、同じ人間とは思えないほどの……ってうわっ!?」
妄想の内容を聞かれてしまったと思い、顔を赤らめながら驚いて振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。飼い猫の正宗が首を傾げてこちらを見つめているだけだ。
「じいちゃん、何か言ったか?」
家の中に向かって問う。そのじいちゃんは畳の上に座布団を並べて、その上で寝息を立てていた。
「気のせいか」
『どこを見ておる。こっちだ。おまえのすぐとなりだ』
またすぐ隣から声が聞こえた。
声のしたほうを振り向く。すると正宗が前脚を揃えて座りながら相変わらずこちらをじっと見つめている。
「え? もしかしておまえ?」
『わし以外に誰がおる。それに一応わしのほうが年長者だぞ。おまえとはなんだ、おまえとは』
「うわっ、正宗がしゃべりやがった!」
正宗は齢20歳近い老猫だ。一応、俺が生まれるよりも前からこの家にいることになる。そういえば長年生きた猫は尾がふたつに分かれて猫又という妖怪になるという話を聞いたことがある。
「ついに化け猫になったか…」
『化け猫とは失礼なやつだ。わしは今までも何度もおまえさんに話しかけてきたぞ。いつも気付いてもらえなかったがな』
「ま、まじかよ」
『ようやく気付いてもらえてわしは嬉しい』
俺はまだ夢を見ているのだろうか。慌てて正宗を担ぎ上げて「正宗がしゃべった」と母ちゃんに報告する。しかし、どうやら正宗の声は俺だけにしか聞こえないらしく、寝惚けてないで勉強しろと釘を刺されてしまった。
「どういう……ことなんだ?」
『ふむ。何かのきっかけでわしの言葉がわかるようになったのかもしれんな。何か心当たりはないのか?』
言われて例の黒猫の墓のことを思い出した。夢のことも含めてそれを正宗に説明する。
正宗は目を閉じて黙ってそれを聞いていたが、聞き終えると顔を洗いながら納得したように答えた。
『なるほどな。おまえさんから何か猫の臭いがすると思ったらそういうことだったか』
「どういうことだ?」
聞き返しながらも心当たりはあった。
きっとあの黒猫だ。呪いか恩返しかはわからないが、墓を作ってやったお礼に猫の言葉を理解できるようにしてくれたのだろう。正宗からもそういうような答えが返ってくるんだろうと期待しながら返答を待った。
ところが返って来た答えは全く期待外れのものだった。
『おまえさん、猫の仲間入りをしたようだな』
「……は?」
『いやいや納得した。どうも今日は不思議とおまえに親近感が湧くと思っとったんだ』
「一人……じゃなくて一匹で納得してないで俺にもわかるように説明してくれ」
『夢の中で猫になっていたと言ったな。それが原因だ。だからおまえさんから猫の気を感じるんだな』
猫の気? まるでなんのことだかわからない。
正宗は俺にその猫の気とやらが宿ったから親近感も感じるし、猫の言葉もわかるようになったのだと説明した。
「つまり黒猫の呪いかなんかなんだろ?」
『呪いとは少し違う。おまえに不思議な力がかけられているのではなく、おまえ自身から不思議な力が感じられる』
「するとどうなるんだ?」
『おまえさんの何かが変わったということだな。原因はわからんが、呪いや何かが取り憑いてるようなものとは違うということだけは言える。わかりやすく言えばそうだな。おまえさんが猫になったと考えればわかりやすい』
こいつは何を言っているんだと呆れながらも、それは夢の話だろと訊く。
猫に話しかけておきながら、傍から見ればおまえが何を言ってるんだと言われそうだが。
すると正宗はしばらく考えてからこう言った。
『ではここから外を見ろ。そこにみすぼらしい畑があるだろう』
「じいちゃんが作ったんだ。みすぼらしくて悪かったな」
『そこに何やら野菜の茎が立っておる。おまえには何本に見える?』
目を凝らして網戸越しに庭を見つめる。外は暗くてわかりにくかったが、しっかりとトマトの苗10本が目に入った。
「トマトが10本だ。それがどうしたんだ」
『そういうことだ。いやーめでたいめでたい。マタタビで乾杯だな。わしには息子も孫もおらんから、この付近の縄張りの後継ぎをどうしようかと思っとったが、無事見つかってよかったわい。にゃっはっはははは』
また一匹で納得して笑いながら、正宗は機嫌よさそうに尾を立ててどこかへ行ってしまった。
「はぁ? 何がそういうことだよ。意味わかんねぇよ」
頭を捻っていると「おまえのほうが意味わからないぞ」と声が返って来た。
振り返るとこんどは背後にいつの間にか帰宅していた父ちゃんが座り込んでいた。どうやら正宗に話しかけているのをずっと見ていたらしい。父ちゃんにも正宗の言葉は聞こえなかったらしく、正宗に向かって必死に話しかける俺が不思議に見えたことだろう。
「な、なんでもねぇよ。それより父ちゃん、ここからそこの畑にトマトが何本見える?」
別の答えを聞けば何か理解できるかもしれない。そう思って正宗にされた質問と同じことを訊いてみた。
すると父ちゃんは呆れたように「こんな真っ暗な夜中にそんなもの一本も見えるわけないだろ」と答えた。
(え、見えない……?)
改めて庭を見つめる。俺の目にはしっかりとトマトの苗が10本見えた。見えてしまった。
急に嫌な想像が頭をよぎった俺は慌てて正宗を追って捜し始めた。
「おい、畑がどうかしたのか?」
「な、なんでもねぇよ!」
外へでも出かけてしまったのだろうか。その日はもう正宗の姿を見ることはなかった。
不安を抱きながら寝床に着く。灯りを消すが、それでも部屋の中の様子が鮮明に見えた。
(おいおい、どういうことだ? あれはただの夢だったはずだろ? まさか……そんなことあるわけがない)
嫌な予感がして全く眠りに就くことができない。
正宗は言っていた。俺から猫の気を感じると。猫の臭いがすると。猫の仲間入りをしたと。
その意味するところはつまり……
裏付けるかのように急に夜目が利くようになってしまった。何より猫の言葉がわかるようになってしまった。
――いや、まさか。そんな、あり得ない。
心の中で何度も自問自答を繰り返し否定を続けた。その夜はほとんど眠れずに翌朝を迎えることになった。
朝日が窓から差し込む。鳥のさえずる声が聴こえ始める。
続いて目覚まし時計がうるさく鳴り叫び始めた。
反射的に時計を止めようと手を伸ばすと、手は時計まで届かずに虚しく空を切る。
おかしいと思って自分の手を見るとそれは真っ白な毛に覆われていて、手のひらには……
「う、うわっ!!」
慌てて飛び起きた。
両手を眺める。見慣れたいつも通りの手だ。
(ゆ、夢……)
ほっとしたような、まだ不安が残るような心境で身支度を整えると朝食をとるために居間へ向かった。
「ひどい顔ね。また夜更かししてたんじゃないの?」
「あ、ああ…。ちょっと眠れなくて…」
「おまえでも眠れないことがあるんだな。もしかして恋の悩みか? 父さんに言ってみろ、相談に乗ってやるぞ。わはは」
「そんなんじゃねぇよ…」
ふらふらとしながら椅子に腰かける。机には朝食の焼きたてのトーストと淹れたてのコーヒーが並べられている。
そのまま真横を見ると正面にテレビが目に入るが、そのすぐ下ではすでに朝食を終えた正宗が大あくびをしてみせていた。
『よう、おはようさん。よく眠れたかい?』
なんて正宗が声をかけてきて昨日の出来事は夢ではなかったと思い知らされてしまうのではないかと心配したが、正宗は毛づくろいを終えるとこちらには目もくれず、のしのしと歩き去っていった。
(そ、そうだよな。猫がしゃべるなんてそんな、おとぎ話じゃあるまいし。昨日はきっと疲れてたんだ)
気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを口へと運ぶ。
「うお、熱っ!!」
思わず吹き出してしまった。
「そうか? いつもこのぐらいの温度だったじゃないか」
目の前の席では新聞を広げながら父ちゃんが呆れた顔をしている。
「あんたまた喧嘩でもして口の中切ったんじゃないの? どうせ傷がしみるんでしょ」
「そ、そうかな…」
猫舌。その言葉が”猫”を強調しながら脳内に響き渡る。
気持ちを落ち着かせるはずが逆に不安が高まってしまった。
「お、そろそろ出ないと遅れるな」
新聞を閉じて父ちゃんが席を立ち上がる。いつも通りそれを合図に俺も家を出た。
そうだ、いつも通りだ。今日はたまたま舌が敏感だっただけだ。いつも通り行動していればいつも通りの日々がやってくる。そう自分に言い聞かせながら登校の道を踏む。道中、今日はやけにいつもより猫を見かけるような気がしたが、敢えて気にせずに先を急ぐ。
猫が多い以外はとくにいつもと違った様子もなく、いつも通りの道を通って、いつも通りの顔ぶれに朝の挨拶をかわし、いつも通りの時間で到着した。
途中で通り過ぎる例の林が少し気になったが、怖くてとても確認なんてできない。
そうだ、いつも通りだ。つまんねぇ毎日だが、だからこそ安心できるんだ。いつもが一番、平和が一番。
教室につくといつもとは違った騒がしさがその空間を満たしていた。
”いつもと違う”ということにいつもより敏感になりながらも、クラスメイトに今日は何かあるのかと尋ねる。
「なんだ、おまえ知らないのか。今日転校生が来るんだぜ!」
「へぇ、転校生?」
興味なさそうに答える。今は俺はそれどころではない。
「隣のクラスのやつの話だと女子らしいぜ。それもかなり可愛いらしい! これは期待だな!」
「ふーん…」
「なんだよ、釣れねーな。まぁいいや、だったらおれが先に声をかけてやるもんね。うちのクラスに入ってくれると最高なんだけどなぁ」
転校生なんかはどうでもいい。それよりも俺は今日がいつも通りの毎日であることを祈るばかりだ。
さっそく転校生というイレギュラーが発生しているが、きっとそれは誤差の範囲だ。そうだ、そうに違いない。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。
教壇に立ちノートを広げると、出席を確認する前に言った。
「今日このクラスの一員が一人増える。こんなことを言う年齢じゃないのはわかっているが、おまえたちちゃんと仲良くするんだぞ」
教室のあちこちからは「よっしゃ」「来た」などという声が漏れる。
一方、最後列窓際の俺は空を眺めながら太陽に祈る。どうか今日も平和でありますように。
「では入りなさい」
転校生が教室内に入る。
「やべぇ! 超やべぇ!」
「外国人だぞ。いや、ハーフ?」
あちこちから歓声が上がる。よほど可愛いんだろうが、今はそんな気分ではない。
しかし、少し気になってちらと正面に目を向ける。どうやら転校生は黒板に向かって名前を書いているようで、その顔は見えない。
しばらくしてチョークを置く音が静かに教室内に響き渡った。
そしてその転校生は振り返って名乗った。
「フェリス=ミアキスと申します。みなさん、どうぞよろしくお願いしますね」
再び教室内に歓声が沸き起こる。担任教師がそれを鎮めようとする。
周囲が歓迎の声を上げる一方で、俺は開いた口が塞がらず絶句していた。
面識がないはずのその転校生の顔には見覚えがあった。
忘れるはずもない。夢の中に現れたまるで自分の理想像を絵に描いたような美しい少女。
その少女が目の前に立っていた。彼女の名はフェリス――
「う、嘘だろ…」
いつもならここは喜ぶところだ。誰よりも張り切って自分をアピールするところだ。しかし今はそんな気分にはなれない。
夢に現れた少女が目の前にいる。
あの夢は夢ではなかった? あれは現実だった? ということは、つまり……
どこかから猫の鳴き声が聴こえたような気がした。
不安を抱きながら寝床に着く。灯りを消すが、それでも部屋の中の様子が鮮明に見えた。
(おいおい、どういうことだ? あれはただの夢だったはずだろ? まさか……そんなことあるわけがない)
嫌な予感がして全く眠りに就くことができない。
正宗は言っていた。俺から猫の気を感じると。猫の臭いがすると。猫の仲間入りをしたと。
その意味するところはつまり……
裏付けるかのように急に夜目が利くようになってしまった。何より猫の言葉がわかるようになってしまった。
――いや、まさか。そんな、あり得ない。
心の中で何度も自問自答を繰り返し否定を続けた。その夜はほとんど眠れずに翌朝を迎えることになった。
朝日が窓から差し込む。鳥のさえずる声が聴こえ始める。
続いて目覚まし時計がうるさく鳴り叫び始めた。
反射的に時計を止めようと手を伸ばすと、手は時計まで届かずに虚しく空を切る。
おかしいと思って自分の手を見るとそれは真っ白な毛に覆われていて、手のひらには……
「う、うわっ!!」
慌てて飛び起きた。
両手を眺める。見慣れたいつも通りの手だ。
(ゆ、夢……)
ほっとしたような、まだ不安が残るような心境で身支度を整えると朝食をとるために居間へ向かった。
「ひどい顔ね。また夜更かししてたんじゃないの?」
「あ、ああ…。ちょっと眠れなくて…」
「おまえでも眠れないことがあるんだな。もしかして恋の悩みか? 父さんに言ってみろ、相談に乗ってやるぞ。わはは」
「そんなんじゃねぇよ…」
ふらふらとしながら椅子に腰かける。机には朝食の焼きたてのトーストと淹れたてのコーヒーが並べられている。
そのまま真横を見ると正面にテレビが目に入るが、そのすぐ下ではすでに朝食を終えた正宗が大あくびをしてみせていた。
『よう、おはようさん。よく眠れたかい?』
なんて正宗が声をかけてきて昨日の出来事は夢ではなかったと思い知らされてしまうのではないかと心配したが、正宗は毛づくろいを終えるとこちらには目もくれず、のしのしと歩き去っていった。
(そ、そうだよな。猫がしゃべるなんてそんな、おとぎ話じゃあるまいし。昨日はきっと疲れてたんだ)
気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを口へと運ぶ。
「うお、熱っ!!」
思わず吹き出してしまった。
「そうか? いつもこのぐらいの温度だったじゃないか」
目の前の席では新聞を広げながら父ちゃんが呆れた顔をしている。
「あんたまた喧嘩でもして口の中切ったんじゃないの? どうせ傷がしみるんでしょ」
「そ、そうかな…」
猫舌。その言葉が”猫”を強調しながら脳内に響き渡る。
気持ちを落ち着かせるはずが逆に不安が高まってしまった。
「お、そろそろ出ないと遅れるな」
新聞を閉じて父ちゃんが席を立ち上がる。いつも通りそれを合図に俺も家を出た。
そうだ、いつも通りだ。今日はたまたま舌が敏感だっただけだ。いつも通り行動していればいつも通りの日々がやってくる。そう自分に言い聞かせながら登校の道を踏む。道中、今日はやけにいつもより猫を見かけるような気がしたが、敢えて気にせずに先を急ぐ。
猫が多い以外はとくにいつもと違った様子もなく、いつも通りの道を通って、いつも通りの顔ぶれに朝の挨拶をかわし、いつも通りの時間で到着した。
途中で通り過ぎる例の林が少し気になったが、怖くてとても確認なんてできない。
そうだ、いつも通りだ。つまんねぇ毎日だが、だからこそ安心できるんだ。いつもが一番、平和が一番。
教室につくといつもとは違った騒がしさがその空間を満たしていた。
”いつもと違う”ということにいつもより敏感になりながらも、クラスメイトに今日は何かあるのかと尋ねる。
「なんだ、おまえ知らないのか。今日転校生が来るんだぜ!」
「へぇ、転校生?」
興味なさそうに答える。今は俺はそれどころではない。
「隣のクラスのやつの話だと女子らしいぜ。それもかなり可愛いらしい! これは期待だな!」
「ふーん…」
「なんだよ、釣れねーな。まぁいいや、だったらおれが先に声をかけてやるもんね。うちのクラスに入ってくれると最高なんだけどなぁ」
転校生なんかはどうでもいい。それよりも俺は今日がいつも通りの毎日であることを祈るばかりだ。
さっそく転校生というイレギュラーが発生しているが、きっとそれは誤差の範囲だ。そうだ、そうに違いない。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。
教壇に立ちノートを広げると、出席を確認する前に言った。
「今日このクラスの一員が一人増える。こんなことを言う年齢じゃないのはわかっているが、おまえたちちゃんと仲良くするんだぞ」
教室のあちこちからは「よっしゃ」「来た」などという声が漏れる。
一方、最後列窓際の俺は空を眺めながら太陽に祈る。どうか今日も平和でありますように。
「では入りなさい」
転校生が教室内に入る。
「やべぇ! 超やべぇ!」
「外国人だぞ。いや、ハーフ?」
あちこちから歓声が上がる。よほど可愛いんだろうが、今はそんな気分ではない。
しかし、少し気になってちらと正面に目を向ける。どうやら転校生は黒板に向かって名前を書いているようで、その顔は見えない。
しばらくしてチョークを置く音が静かに教室内に響き渡った。
そしてその転校生は振り返って名乗った。
「フェリス=ミアキスと申します。みなさん、どうぞよろしくお願いしますね」
再び教室内に歓声が沸き起こる。担任教師がそれを鎮めようとする。
周囲が歓迎の声を上げる一方で、俺は開いた口が塞がらず絶句していた。
面識がないはずのその転校生の顔には見覚えがあった。
忘れるはずもない。夢の中に現れたまるで自分の理想像を絵に描いたような美しい少女。
その少女が目の前に立っていた。彼女の名はフェリス――
「う、嘘だろ…」
いつもならここは喜ぶところだ。誰よりも張り切って自分をアピールするところだ。しかし今はそんな気分にはなれない。
夢に現れた少女が目の前にいる。
あの夢は夢ではなかった? あれは現実だった? ということは、つまり……
どこかから猫の鳴き声が聴こえたような気がした。