Chapter12「九尾」
「お連れしました」
大狐の前に忍び三人衆が戻った。その任務の通りにイザヨイを伴って。
イザヨイは拘束されて身動きが取れない。唯一自由にできるその眼で目の前の大狐、父を睨みつけた。
「よくぞ戻った。こいつめ、てこずらせおって」
「お父様…」
「イザヨイ。あまり私を困らせるでない。誰がおまえに妖術を教えてやったと思っているのだ」
「私はお父様の為を想って…! お父様は妖怪に取り憑かれているんです!」
「な、何? 妖怪だと……何を寝惚けたことを。平牙のやつらと同じようなことを言いおって。そんなことはどうでもいい。さぁ、イザヨイ。おまえも娘なら父の言うことを聞け! 私を失望させるな!」
この大狐はまだイザヨイを使って平牙を攻めさせることを考えていた。もはやイザヨイを娘ではなく道具としてしか見ていなかったのだ。
まるで変わっていない。
もしかしたら一時の気の迷いだったのかもしれない。旅から戻ったらかつてのような優しい父が、心配して自分を迎えてくれたら……そう願っていた。だが、それが叶わない望みだとはわかり切っていた。
まるで変わってしまった。
あれはもうイザヨイの好きだったかつての父ではない。父の姿をした別者なのだ。
今イザヨイの懐には、長い旅の末に手に入れてきた聖水がある。これさえあれば、父の心を蝕む邪悪を追い払えるはず。
それなのに。父は目の前にいて、聖水もここにあるのに。
だがそれも叶わぬ願い。身を縛られていては手も足も出せない。
目標はあと一歩のところにあって、しかしそれがとても遠いのだ。
「おまえはそんなにも父を拒むというのか。嗚呼、私は悲しいぞ。この親不孝ものめ」
「今のお父様は私の知っているお父様じゃありません! どうか……昔のような優しいお父様に戻ってください」
「……私がおまえの父ではない、と?」
「お父様の頼みであれば私はなんでも聞きましょう。ですが、今のあなたの頼みは聞けません」
イザヨイは、今の父は自分の知るかつての父とは違う、という意味でそう言ったつもりだった。だが目の前の大狐は違った意味でそれを理解した。そして不幸か、それが大狐の眉間に深く皺を寄せさせることになってしまった。
「く……くははははは! なんということだ。小娘と侮っていたが、どうやら見かけにはよらんということか!」
「!?」
大狐は突然笑い出すと次の瞬間には静かになり、その顔には笑みではなく深い怒りの表情があった。
ふっと部屋を仄かに照らしていたかがり火が消えて、紫色の煙が尾を引いて伸びる。
「いいだろう。おまえがそういうつもりなら、力づくでも言うことを聞かせてやるまでよ…!」
尾を引く煙が二つ、三つと枝分かれして伸びる。そしてそれが九本に分かれた頃、大狐はその表情を……否、姿を変えた。
それを見て忍びの三人衆は動揺を隠せずにいた。
「お、お屋形……様!?」
「くっ。只者ではないとは思っていたが、これ程とは!」
「警戒セヨ! 殺気尋常ニ非ズ」
だがそれに一番驚いていたのは他でもないイザヨイだった。
今までその心は変わってしまっても父親だと信じて来た相手がその正体を現した。それは「お父様」ではなかったのだ。
「あ、あなたは一体!?」
「父親のふりをするのももう終わりだ。さぁ、小娘。妾に従うがよい!」
正体を現したその邪悪の手がイザヨイに迫る。その身からは禍々しき黒いオーラを放っており、近づくだけで心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚に陥るほどだ。「お屋形様」だったそれは、それまででも既に三人衆よりもずっと大きな図体ではあったが、正体を現したそれはさらに大きく、その身の丈はこの和室の天井にまで届こうとしている。
だが特筆すべきはそれだけではない。正体を現したそれはそれでも狐ではあり、何よりその尾は九本あったのだ。
「九尾…!」
忍びの誰かがその名を口にした。
「ほう。知っておったか、忍びの。いかにも! 妾は九尾狐。太古よりこの地は妾のものだったのだ。それをいつの間にか現れた大蛇めに半分ほど奪われてのう。だが憎き大蛇は先日ついに死んだと聞く。ゆえにこの地は妾のもの。あとは大蛇に奪われた平牙以東の地を取り戻すだけよ。このイザヨイを使ってな!」
「そ、そんな…! じゃあ、私のお父様は一体…!?」
「ふん。あの恰幅のいい狐なら、とうの昔に喰ろうてやったわ」
「なんということなの…」
「さて」
九尾の目が三人衆に向けられた。
「今まで妾のためによく働いてくれたのう。もう用済みじゃ。消えるがよい」
「このまま静かに帰らせてくれるというのか? 報酬もなしに」
「無論そんなわけはあるまい。妾の正体を知ったからには、言葉通り消してやろうぞ!」
「そんなことだろうとは思っていた。ミザル、イワザル!」
「「応!」」
散開、忍びたちが三方から九尾を囲み対峙する。
イザヨイが次に見たのは黒い霧が三人を吹き飛ばす光景だった。
大狐の前に忍び三人衆が戻った。その任務の通りにイザヨイを伴って。
イザヨイは拘束されて身動きが取れない。唯一自由にできるその眼で目の前の大狐、父を睨みつけた。
「よくぞ戻った。こいつめ、てこずらせおって」
「お父様…」
「イザヨイ。あまり私を困らせるでない。誰がおまえに妖術を教えてやったと思っているのだ」
「私はお父様の為を想って…! お父様は妖怪に取り憑かれているんです!」
「な、何? 妖怪だと……何を寝惚けたことを。平牙のやつらと同じようなことを言いおって。そんなことはどうでもいい。さぁ、イザヨイ。おまえも娘なら父の言うことを聞け! 私を失望させるな!」
この大狐はまだイザヨイを使って平牙を攻めさせることを考えていた。もはやイザヨイを娘ではなく道具としてしか見ていなかったのだ。
まるで変わっていない。
もしかしたら一時の気の迷いだったのかもしれない。旅から戻ったらかつてのような優しい父が、心配して自分を迎えてくれたら……そう願っていた。だが、それが叶わない望みだとはわかり切っていた。
まるで変わってしまった。
あれはもうイザヨイの好きだったかつての父ではない。父の姿をした別者なのだ。
今イザヨイの懐には、長い旅の末に手に入れてきた聖水がある。これさえあれば、父の心を蝕む邪悪を追い払えるはず。
それなのに。父は目の前にいて、聖水もここにあるのに。
だがそれも叶わぬ願い。身を縛られていては手も足も出せない。
目標はあと一歩のところにあって、しかしそれがとても遠いのだ。
「おまえはそんなにも父を拒むというのか。嗚呼、私は悲しいぞ。この親不孝ものめ」
「今のお父様は私の知っているお父様じゃありません! どうか……昔のような優しいお父様に戻ってください」
「……私がおまえの父ではない、と?」
「お父様の頼みであれば私はなんでも聞きましょう。ですが、今のあなたの頼みは聞けません」
イザヨイは、今の父は自分の知るかつての父とは違う、という意味でそう言ったつもりだった。だが目の前の大狐は違った意味でそれを理解した。そして不幸か、それが大狐の眉間に深く皺を寄せさせることになってしまった。
「く……くははははは! なんということだ。小娘と侮っていたが、どうやら見かけにはよらんということか!」
「!?」
大狐は突然笑い出すと次の瞬間には静かになり、その顔には笑みではなく深い怒りの表情があった。
ふっと部屋を仄かに照らしていたかがり火が消えて、紫色の煙が尾を引いて伸びる。
「いいだろう。おまえがそういうつもりなら、力づくでも言うことを聞かせてやるまでよ…!」
尾を引く煙が二つ、三つと枝分かれして伸びる。そしてそれが九本に分かれた頃、大狐はその表情を……否、姿を変えた。
それを見て忍びの三人衆は動揺を隠せずにいた。
「お、お屋形……様!?」
「くっ。只者ではないとは思っていたが、これ程とは!」
「警戒セヨ! 殺気尋常ニ非ズ」
だがそれに一番驚いていたのは他でもないイザヨイだった。
今までその心は変わってしまっても父親だと信じて来た相手がその正体を現した。それは「お父様」ではなかったのだ。
「あ、あなたは一体!?」
「父親のふりをするのももう終わりだ。さぁ、小娘。妾に従うがよい!」
正体を現したその邪悪の手がイザヨイに迫る。その身からは禍々しき黒いオーラを放っており、近づくだけで心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚に陥るほどだ。「お屋形様」だったそれは、それまででも既に三人衆よりもずっと大きな図体ではあったが、正体を現したそれはさらに大きく、その身の丈はこの和室の天井にまで届こうとしている。
だが特筆すべきはそれだけではない。正体を現したそれはそれでも狐ではあり、何よりその尾は九本あったのだ。
「九尾…!」
忍びの誰かがその名を口にした。
「ほう。知っておったか、忍びの。いかにも! 妾は九尾狐。太古よりこの地は妾のものだったのだ。それをいつの間にか現れた大蛇めに半分ほど奪われてのう。だが憎き大蛇は先日ついに死んだと聞く。ゆえにこの地は妾のもの。あとは大蛇に奪われた平牙以東の地を取り戻すだけよ。このイザヨイを使ってな!」
「そ、そんな…! じゃあ、私のお父様は一体…!?」
「ふん。あの恰幅のいい狐なら、とうの昔に喰ろうてやったわ」
「なんということなの…」
「さて」
九尾の目が三人衆に向けられた。
「今まで妾のためによく働いてくれたのう。もう用済みじゃ。消えるがよい」
「このまま静かに帰らせてくれるというのか? 報酬もなしに」
「無論そんなわけはあるまい。妾の正体を知ったからには、言葉通り消してやろうぞ!」
「そんなことだろうとは思っていた。ミザル、イワザル!」
「「応!」」
散開、忍びたちが三方から九尾を囲み対峙する。
イザヨイが次に見たのは黒い霧が三人を吹き飛ばす光景だった。
屋敷の最上階でそんな事態が起こっているとは知らず、忍びたちの罠にかかって蔵に閉じ込められたコテツ一行は、なんとかしてそこから脱出する方法がないかと頭を悩ませていた。
入口には鍵。蔵は二階建てで窓はなし。中央は吹き抜けになっていて天井が真上に見えるが天窓のようなものもない。通気口やその類のものも見当たらない。薄暗い蔵の中で目に入るのは、所狭しと並び立てられた品々と途方に暮れた仲間の顔だけだ。いや、ステイだけは気楽そうであったが。
「じゃあさ。穴掘って下から潜るっていうのは?」
「無茶言うなよ。まずこの木板の床をなンとかしなきゃならないし、道具もなしにどうやって掘れってンだ」
「わんこでしょ。穴ぐらい掘れるよ」
「モグラじゃねぇンだ。トンネルまでは掘れねぇよ」
「それじゃあ……忍者とかいたし、どっかに巻物ないかな。忍術の。壁抜けの術でこんなところあっという間に」
「おめぇなぁ。幽霊でもねぇのに本当に壁を抜けられるわけないだろ。あれは隠し扉とかそういうのがあってこそだな…」
ステイは次から次へと無茶なアイデアばかり話している。よくもまぁネタが尽きないものだが、そのおかげでどうしようもないこの状況に暗い気分にはならなくてすむ。馬鹿げたアイデアばかりだが、それが心を落ち着かせてくれるのだ。いや、落ち着いていていいのか。イザヨイが敵に捕まったというのに。だがこれ以上に何をどうしろというのか。
最初は鍵を破壊することを考えた。鍵は外からかけられているのでこじ開けることは不可能。だが扉はこちらから見て外開きだ。鍵の種類にもよるが、こちらから勢いよく扉を押し破れば鍵が壊れて外に出られるかもしれない。
しかしそれはうまくいかなかった。刀を扱うとはいえ所詮は犬、魔法を扱うとはいえそれがなければただの猫。どうしても純粋な力という面では少し劣るものだ。期待されるのは竜人族であるステイだが、たとえ竜人族であってもそれも種類によって様々だ。そして残念ながらステイは腕力に優れるタイプの竜人族ではなかった。
いかにも屈強そうなエルナトの原住民が一人でもここにいてくれれば役に立っただろう。しかし残念ながらステイは違う。たしかにエルナトで育てられたが、ステイはエルナト出身ではないからだ。
「だって見てよ、おいらのこの腕を。ひょろっひょろだよ!」
「自慢することじゃねぇだろ」
そこで扉は諦めて別の出口を探すことにした。だが結果は前述の通り、他に出口になりそうなものはなかった。
頼みの綱、困ったときのシエラの水魔法も、水気のないこの密閉された空間ではその力を発揮することができない。魔法がなければシエラもただの迷子の子猫にすぎないのだ。
かつて魔法の全盛期だった時代のものなら、水気がなくとも大気中の水分を利用して水の魔法を発現させることもできただろう。だが第3世界の崩壊とともに魔法は一度失われている。今の魔法はその後の研究によって蘇ったものであり、かつてのものとは根本的に違うのだ。
「いやぁ、だめねぇ。あたいもさ、ホラ。こう見えてもかよわいレディーだからね。ここは頼りになるのはコテツだけだよね」
「そうそう。おいらたちの中では一番旅が長いんだから、頼れるのはコテツだよね。よっ、コテツ先輩。よろしくお願いします」
「……こいつら、こンなときに限って後輩面しやがって」
コテツとしても刀を折ったり、大蛇にトドメを刺したのはステイだったりで、ここらでひとつ見せ場が欲しいところではあったが、哀しいかな、さすがのコテツにもこの状況はどうにもしがたかった。哀れ、サムライといえども所詮は犬である。哀れなコテツは恨めしそうに蔵の天井を睨みつけるのみだ。
「くそぅ、あの天井さえなければ…」
天井さえなければ? どうなったのだろうか。
ステイに乗って飛んで脱出できる。ステイが飛べなかったとしても、天井がなくなり密室でなくなればシエラが魔法を使える。それでは自分は一体何ができたのだろうか。
(オイラには何ができるンだ。天井がなかったとしても、もしオイラ一人だけだったとしたらオイラは……くそッ)
気付きそうになったその現実から目を逸らしたくてか、思わず睨めつけていた天井を視界から消した。
と、その瞬間だった。
轟音と共に蔵全体が大きく揺れて、天井が崩れ落ちてしまった。瓦礫が音を立てて蔵の中央吹き抜け部分に転がる。コテツたちは蔵の二階部分の下にいたので無事だった。
「天井が!」
ステイが驚いて見上げる。
(ま、まさかオイラが天井さえなければと思ったから!?)
危機に陥り、己の未知なる力が発現したのかとちょっぴり期待するサムライわんこであったが、そんなことはなかった。現実は非情である。
崩れ落ちた天井からは夜空が見える。そして、その闇の中にはこの蔵の中を覗き込む飛竜の姿があった。
コテツたちはこれまでの旅で一頭の飛竜に遭遇している。それは彼らが旅立ってすぐのこと。船がなくて途方に暮れていたときのことだ。覚えているだろうか、空から奇妙なインゲン星人が降って来たことを。
「ってことは、まさかあのインゲン星人が!? 困ったときのインゲン星人の法則!?」
予想通り、飛竜の背には何者かの姿があった。だがあの自称天才タネはかせ如きにこれほどのことができるだろうか。魚の形をしたトンデモメカならまだしも、飛竜ではそこまで暴走することもあるまい。
上空からは飛竜とその背の者の話し声が聴こえてきた。それによると、どうやらそれはタネはかせではなさそうだ。
飛竜は蔵の中を確認して、ここには彼らの目的のものはないと背の者に伝えた。
「ふーん、ハズレかぁ。それじゃ、やっぱりあっちの大きいほうの建物のようだね」
「だからおれはあっちが怪しいと言ったんだ。なのになぜ、こんな小さな蔵を?」
「いやね、大きい箱と小さい箱だったら、小さいほうがいいものがあるかと思って」
「昔話じゃあるまいし」
「えー、昔話じゃん。大蛇も九尾も」
言って飛竜たちは飛び去って行った。三人はただ呆気にとられて穴のあいた天井を眺めていた。もっとも、眺める以外に他に何ができたというわけでもないのだが。
「な、何だったンだ、あいつらは…?」
「知らないけど、これでここから出られるね」
「なァ、さっきの声どこかで聞いたことなかったか」
「そんなことよりもイザヨイが先でしょ! あの子、捕まってるんだから」
シエラに急かされてステイの背に。たしかにコテツにはあの声に聞き覚えがあったが、ステイの背に乗せられたことで再び己の無力さを思い出して声のことは頭から消えてしまった。だが彼らはすぐにその声の正体を知ることになる。
壊れた天井からステイに乗って上空へ。すると再び大きな音が聴こえてきた。今度は頭の上からではない、屋敷のほうからだ。
見ると今度は屋敷の屋根が吹き飛んでいるではないか。そして、そのすぐ傍にはさっきの飛竜が浮かんでいる。一体何があったというのか。
蔵にその姿がなかったということはイザヨイもあちら側の建物にいるはずだ。彼女は無事なのか。屋根の吹き飛んだ屋敷の最上階へとステイが飛ぶ。剥き出しになった部屋からは巨大な狐の姿が見えている。まさか、あのでかいのがイザヨイのいう父親なのか。ともすれば、イザヨイもいずれはあんなに大きくなるのだろうか。なんてことをコテツは考えていたが、そのとき例の飛竜から何者かが飛び降りたのが目に入った。
「あれは…!」
剥き出しになった部屋にその影が降り立つ。そして、それがいるのを予め知っていたとでもいうように、ごく自然なようすで九尾に向かい立つと言い放った。
「見つけたよ、九尾。君は少しはボクを楽しませてくれるのかな」
「なんだお主は。妾はおまえのような者など知らぬぞ」
その背後にコテツたちが降り立った。
その姿は忘れようもない。コテツとステイの目の前でその見た目からは信じられないような戦い方を見せた、そしてトドメを刺されて逃げようとする大蛇を一瞬のうちに消し去ってしまった、その最も危険なメタディアと言われる存在を。
「メーディ!!」
コテツが叫んだ。
「おや? 見たことがある顔だね、どこかであったっけ」
メーディはちらとこちらを一目だけ見たが、まるで関心はないと言った様子ですぐに九尾に向かい直って言った。
「まぁいいや。それよりも九尾、ずいぶん捜したよ。原液は回収させてもらうからね」
「原液? 何のことだ」
「君は何も知らなくていい。ただ黙って死んでくれればそれでいいんだよ!!」
メーディの表情が豹変した。いつの間にか大鎌を片手に鬼のような表情で距離を詰め、九尾に斬りかかった。
「なッ! こ、この無礼者め!」
九尾とメーディが争い始めたその隙にシエラは拘束されているイザヨイを見つけてこれを解放した。見ると周囲にはあの忍び三人衆が散り散りになって倒れている。イザヨイは意識を失っていたが、シエラが水をかけると気を取り戻した。どうやら怪我はなさそうだ。
「一体何があったの?」
「あいつは……私のお父様じゃなかった……」
イザヨイは怯えた様子で話し始めた。
九尾はその正体を明らかにした後、忍び三人衆を文字通り消そうとした。その力の前に三人ともまるで歯が立たず、すぐに膝をついてしまった。次に九尾はイザヨイに力づくで命令を聞かせようと試みた。だが三人衆は残る力を振り絞ってイザヨイを庇ってくれたのだ。
「どうして私を?」
「我々忍びは特定の主を持たない。報酬を得る代わりにその雇い主の任務を果たすのみ。だがその報酬が支払われないなら、やつを主を見なす義理はなし」
「故にやつからの依頼は無効だ。任務の対象でなくなったおまえは言わば部外者。その部外者を巻き込んで怪我をさせてしまったとあっては、忍びの名折れ」
「我等ガ掟ナリ」
怯むことなく立ち向かっていく三人衆だったが、九尾の強大な力の前に何度も弾き飛ばされついに気を失ってしまった。そして今度こそ九尾の魔手がイザヨイに向けられたそんな時だった。天井が吹き飛ばされメーディが現れたのは。
続けてイザヨイはあの「お父様」は偽物で九尾が化けていたことを話した。
父は心が変わってしまったのではない。九尾が父になり変わっていたのだ。イザヨイや梅華の民に妖術を教えたのも、民たちをけしかけて平牙への敵対心を植え付けたのも、すべて九尾の企みだった。大蛇がいなくなったことを知った九尾は邪魔ものが消えたと勢いづいて、このまま癒國全土を掌握する腹積りというわけだ。そしてイザヨイの本当の父、モチヅキは九尾に既に殺されていたのだ。
泣き崩れるイザヨイ。大好きだった父はもういない。
「そうと聞いたら許すわけにはいかないね。九尾だかなんだか知らないけど、あたいがイザヨイのお父さんの仇を取ってやる」
「そうはいくか。これ以上オイラの見せ場を取られてたまるかってンだ。オイラもやるぜ」
「あっ、おいらもいるからね」
なぁに、単純なことだ。敵は九尾。それがイザヨイの不幸の元凶。それだけだ。
九尾は今もメーディとの戦いを繰り広げていた。
メーディが大鎌を振り回し、斬撃が次々とばら撒かれる。しかし九尾がひとたび尾を振るえばそれはすぐに霧散してしまう。
シエラが言うにはどうやらあの斬撃は魔力から作られたものらしく、そうして魔力によって形成されたものは魔力を散らしてしまうことによって簡単に掻き消されてしまうという。
九尾の尾はその一本一本が強力な魔力を帯びており、振るうだけで風の刃ぐらいは掻き消してしまえるのだ。
ならばとメーディは大鎌を振り下ろし、床に突き立てた。すると鎌の切っ先から九尾に向かって一直線に柱のような衝撃波が床板を斬り裂きながら走って行く。これを掻き消すことはできないと判断したのか、九尾は突然姿を消してこれをかわした。
その姿を捜して周囲を見回すメーディの背後で、月明かりによってできたその影が不自然に蠢く。と、次の瞬間メーディの影が赤い眼を光らせて不気味に嗤う。影からは巨大な火柱が上がりメーディを包み込んだ。メーディは焼け焦げて黒い灰になってしまった。
「ふん、愚かな。どういうつもりか知らぬが、妾に歯向かおうとは実に愚かよ」
上空からはメーディの乗って来た飛竜メリゥは黙ってその様子を見つめている。敵意がないと判断した九尾はその狙いの先をまたしてもイザヨイに向けた。
「さぁ、小娘。おまえの潜在能力が妾の計画には必要なのだ! 観念して妾に従うがよい」
だがその前に立ちはだかるはコテツたちだ。その姿を見て九尾は馬鹿にしたような笑みを見せた。
「なんだ、今度はおまえたちが妾の相手か? 先の者に比べればあまりにも弱小よのう。それでも妾に立ち向かうと言うか」
九尾の九つの尾が蒼白い炎に包まれて燃え上がる。その光景にステイが驚いてコテツにしがみつくが、シエラは怯まなかった。
「あんたはイザヨイを泣かせた。戦う理由はそれで十分よ」
「ふん、生意気な猫娘め。よかろう、おまえから消してやる!」
蒼の業火が九尾の尾から発せられてシエラを襲う。が、動じることなくシエラが尾を振るえば水の壁が現れて炎を遮る。火には水、相性ではこの上なく有利。水が火に負けるはずがない。
水の壁は業火を呑み込むと、そのまま津波のように押し寄せて九尾を襲う。すると九尾はメーディのときと同様、闇の中に姿を暗ましてしまった。
「もうその手は食わないよ。あたいはちゃんと見てたからね」
姿を消した九尾は次に影から飛び出して背後を襲う。ならば影を消してしまえば背後を取られることはない。
咄嗟にシエラは部屋の隅へと駆け寄った。天井が吹き飛ばされてしまっているが、壁を挟んで月に向かっているのでここに月光は差さない。壁の影の中に自分の影を隠したのだ。影を隠すなら影の中。それに倣ってコテツたちも影に隠れる。
すると今度は頼りにしていた壁が炎に包まれて燃え始めた。見る見るうちに壁は灰に変わり、風に流されて失われていく。
「しまった。壁がやられちまったぞ」
「それくらいで慌てない! だったら逆に影を増やしてやればいいの」
シエラは空中に水を円形に張った。その水のレンズが月光を屈折させる。レンズはいくつも作られ、その角度を調整しながら月からの光を分散、屈折、反射させる。そして前後左右、四方から光がシエラたちを照らす形が出来上がった。するとどうだろうか、足下には同様に前後左右、色の薄い四つの影ができた。
イザヨイや気絶した忍びたちを含めて頭数は七つ。それぞれの影が四つ生まれて総数二十八。多い影は九尾を撹乱させる。さらに薄い影は九尾がそこに潜むことを困難にさせるかもしれない。
「ほう、これは面白い。水芸か。もっと見ていたいところではあるが、妾はちと忙しくてのう。管狐、やってしまえ!」
姿はないが九尾の声だけが響く。そして空中に複数の火の玉が浮かび上がったかと思うと、それは狐の頭に蛇のような身体の管狐に姿を変えた。
「な、なンだこいつらは!」
管狐たちは宙を舞い、空に浮かぶレンズの水を一息に飲み干してしまった。その程度の抵抗、とシエラが再び水のレンズを作り出そうとするが、管狐はそれを許さない。管狐の一匹がシエラに蛇のように巻き付いて締め上げてしまった。シエラの魔法は、尾を杖代わりに振るって発動させるもの。身動きが取れなければそれは簡単に封じられてしまう。
「言葉を返そうぞ、小娘。妾もちゃぁんと見ていたぞ。おまえは尾を振らないとその水芸ができないのであろう?」
同様にステイとコテツも管狐に拘束されてしまった。
「なんであんたたちまで捕まってんの!」
「うーん、なんか捕まっちゃった」
「オイラも見てたぜ。女の戦いって報復の仕合で怖ぇモンだなぁと」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!」
「それくらいで慌てンな。これでもオイラは平牙の逆牙羅に籍を置いてたンだぜ。妖怪の類の対処法ぐらい心得てらァ」
コテツは懐からそれを取り出すと一面に撒き散らした。すると管狐たちは一目散に撒かれたそれに群がっていったではないか。
管狐とは管のような細い筒などに棲み付く使い魔のようなものだが、元来とても大食らいであり、食べ物を与えなければ主人の命令を聞かない個体さえいるという。そんな管狐が好むものは味噌。とくに上質な味噌には目がないほどだ。
イザヨイから豹変した父を止めて欲しいと聞かされていたので狐が相手になることはわかり切っていた。だからこそ、管狐が使われることも予想済みだった。こんなこともあろうかとコテツは、閉じ込められていた蔵の中から味噌を見つけ出して懐に忍ばせていたのだ。
「さァ食え、管どもめ。飛びっきり上等なヤツだぜィ! これで管狐は使えねぇぜ」
「何をやっておるのだ、愚か者ども! 食事は与えたばかりだろうに!」
「狐対策は万端さァ。ほーら、次は何が欲しいンだよ。油揚げをやろうか、それとも酒をやろうか?」
「犬畜生めが馬鹿にしおって! 管狐と一緒にしてもらっては困る。妾は天狐九尾ぞ、一族の最上位ぞ!」
「天狐、千年生きた大妖怪サマってか。そのわりにゃァ、大蛇と縄張り争いだってな。しかもイザヨイの力に頼らねぇとそれもできないときやがる。聞いて呆れるじゃねぇか、大妖怪サマにしちゃあ随分と器の小さいこって。てめぇなンかただの野狐で十分だぜ」
「おのれ、愚弄する気か! 許さぬ、許さぬぞ!!」
怒り狂った九尾はついに隠していたその姿を現した。
これもコテツの作戦のうちだった。そもそも妖狐というものは総じて強欲なものだ。そして自己顕示欲の塊なのだ。自分が認められなければ我を忘れて怒り狂う。それが狐の特徴であり、ゆえに弱点でもある。
予想通り、怒り狂った九尾はその尾を叩き付けて押し潰さんとコテツに襲いかかったが、頭に血が昇っているせいなのか例の炎術を使ってこない様子だ。
「狐憑きは敢えて肯定して満足させてやったり、松葉を燻したりして落とす方法もあるが、犬神にこれを喰わせて祓うという方法もあるという。どうだ、まンまと一杯喰わせてやったぜ」
「え、でもそれって犬が喰うんじゃないの? それじゃ狐が喰わされるじゃない」
「いいンだよ、細けぇことは。ムサシにゃ悪いがやっぱ木刀じゃ決定打になりゃしねぇンだよ。ほら、ステイ行ってこい」
巨大な狐相手に槍も木刀もそんなに変わらないんじゃないかと思いつつも、ステイは槍を構えて九尾に向かう。敵はコテツに気を取られている。隙を突くなら今しかない。
両手に握る槍に目を落とす。反りのある稲妻のような特殊な形の穂先が月明かりに緑色に輝いている。そうだ、これはエルナトの族長に託された大切な槍。自分は一人で戦っているんじゃない。族長も見守ってくれている。それにあの大蛇との戦いを乗り越えてきたのだ。もう自分は狩りに出たことのないただのステイじゃない、エルナトの戦士の一人だ。
「よし、おいらならやれる!」
意を決して槍を振り上げた。
そういえば何か肩が重いような気がしていたのだ。何と言ってもあの九尾はあのメーディを倒してしまったのだから、そんな九尾相手に自信がなかったせいだと思っていた。だがそれは気のせいだった。なぜなら――
そしてステイはくるりと身体の向きを変えて、力一杯コテツに向かって槍を投げた。
「ごめーん、なんかおいら取り憑かれちゃったみたい」
「な、何をやってンだァー!」
コテツは木刀で飛んでくる槍を受け止めた。反動か、少し身体が痺れたような気がする。
よく見るとステイの背には管狐が居座っていた。あの大食の管どもはコテツの撒いた味噌をもう喰い尽してしまったらしい。再び動き出した管狐は続いてコテツを拘束した。視界の端にはどうやらコテツたちとは別で奮闘していたシエラも捕まってしまったらしいことが確認できる。
ようやく落ち着きを取り戻した九尾がまだ怒りの収まり切らないといった面持ちでこちらを睨みつけている。
「ふ、ふん。思い上がるのも大概にすることじゃ。何が犬神か、妖力の欠片もない犬風情が。おまえは……おまえだけは許さぬぞ」
「げっ、こいつァやばいンじゃねぇの…。おい、ステイ。しっかりしやがれ! おめぇが頼りだぞ!」
「うーん、だめ。全然力入んなーい」
「ちょっとは努力してくれェ!」
そんなことをしている間にも九尾は距離を詰めてくる。管狐はしっかりと身体を締め付けて脱出を拒んでいる。
ついに目の前に九尾が立った。怒りの業火に焼き消されるか、大きな尾で叩き潰されるのか。コテツは息を呑んで九尾の一挙動にも目を離さなかった。すると九尾はコテツを攻撃するでもなく、表情は一転、にやりと不気味な笑みを浮かべて鼻がぶつかり合うほどにまで顔を寄せて来た。
「な、なンだよッ」
「そうだ、面白いことを思い付いたぞ。おまえは犬だったなぁ。管狐にも飽きてきたところよ。どれ、ひとつ犬神でも作ってみるかのう…。妖に詳しいおぬしのことだ、もちろん犬神の作り方は心得ておろうな?」
「し、知らねぇよそンなモン! は、離しやがれ!」
「ほう? ならばなぜそんなに焦っておるのだ。なんなら妾が特別に教えてやってもよいのだぞ、犬神の作り方をのう。けはははは」
犬神もまた管狐に似た使い魔のような存在だ。また狐は狐憑き、犬は犬神憑きと対に扱われることもある。だがこれらにはひとつだけ違うところがある。狐は気まぐれで、いつ誰に憑くのかはわからないが、犬神は術者が作り出して自分に使役させることができるという点だ。
そんな犬神の作り方は至って簡単。餓えた犬を拘束して、その目の前に食べ物を置く。そしてその犬が餓死する寸前に頭を切り落とす。すると切断された頭だけが餌に飛び付き、それが犬神となって術者に永久に仕えることになるのだ。
「犬神ってわんこの神様? しかも作れるの? おいらも欲しいなー、教えて教えて」
「馬鹿やろう、そンなモン聞くな! 聞きたくもないッ!」
「ほう、そうかそうか。そんなに教えて欲しいかの。よろしい、妾が特別に教えてやろうぞ」
九尾が命令すると憑依した管狐がステイの身体を操り始めた。
「そうじゃな。言葉で説明するより、実際にやってみるほうが早い。まずお手本を見せてやらねばのう」
管狐はステイを歩かせてコテツの前に立たせる。そして槍を高く掲げさせると、頭上で構えて止めた。
「さて、次は餌じゃな。ほーれ、どうした犬っころ。何を望む。骨か、それとも残飯か?」
「こ、こいつ…! わざと同じことを…!」
「ふむ。よく考えたら妾は犬がこの世で一番嫌いだったのよ。犬神はやめじゃ、仲間の手で始末されるがよい。さて、管狐……やれ」
「あっ、違っ、犬神やめるならおいらもやめ…」
頭上に構えられていた槍が勢いよく降りおろされる。
その槍の刃が、切っ先が、コテツの首筋めがけて一直線に落ちる!
万事休す。オイラの旅もここまでか、と固く目を閉じた。コテツの顔には生温かい液体がかかった。
入口には鍵。蔵は二階建てで窓はなし。中央は吹き抜けになっていて天井が真上に見えるが天窓のようなものもない。通気口やその類のものも見当たらない。薄暗い蔵の中で目に入るのは、所狭しと並び立てられた品々と途方に暮れた仲間の顔だけだ。いや、ステイだけは気楽そうであったが。
「じゃあさ。穴掘って下から潜るっていうのは?」
「無茶言うなよ。まずこの木板の床をなンとかしなきゃならないし、道具もなしにどうやって掘れってンだ」
「わんこでしょ。穴ぐらい掘れるよ」
「モグラじゃねぇンだ。トンネルまでは掘れねぇよ」
「それじゃあ……忍者とかいたし、どっかに巻物ないかな。忍術の。壁抜けの術でこんなところあっという間に」
「おめぇなぁ。幽霊でもねぇのに本当に壁を抜けられるわけないだろ。あれは隠し扉とかそういうのがあってこそだな…」
ステイは次から次へと無茶なアイデアばかり話している。よくもまぁネタが尽きないものだが、そのおかげでどうしようもないこの状況に暗い気分にはならなくてすむ。馬鹿げたアイデアばかりだが、それが心を落ち着かせてくれるのだ。いや、落ち着いていていいのか。イザヨイが敵に捕まったというのに。だがこれ以上に何をどうしろというのか。
最初は鍵を破壊することを考えた。鍵は外からかけられているのでこじ開けることは不可能。だが扉はこちらから見て外開きだ。鍵の種類にもよるが、こちらから勢いよく扉を押し破れば鍵が壊れて外に出られるかもしれない。
しかしそれはうまくいかなかった。刀を扱うとはいえ所詮は犬、魔法を扱うとはいえそれがなければただの猫。どうしても純粋な力という面では少し劣るものだ。期待されるのは竜人族であるステイだが、たとえ竜人族であってもそれも種類によって様々だ。そして残念ながらステイは腕力に優れるタイプの竜人族ではなかった。
いかにも屈強そうなエルナトの原住民が一人でもここにいてくれれば役に立っただろう。しかし残念ながらステイは違う。たしかにエルナトで育てられたが、ステイはエルナト出身ではないからだ。
「だって見てよ、おいらのこの腕を。ひょろっひょろだよ!」
「自慢することじゃねぇだろ」
そこで扉は諦めて別の出口を探すことにした。だが結果は前述の通り、他に出口になりそうなものはなかった。
頼みの綱、困ったときのシエラの水魔法も、水気のないこの密閉された空間ではその力を発揮することができない。魔法がなければシエラもただの迷子の子猫にすぎないのだ。
かつて魔法の全盛期だった時代のものなら、水気がなくとも大気中の水分を利用して水の魔法を発現させることもできただろう。だが第3世界の崩壊とともに魔法は一度失われている。今の魔法はその後の研究によって蘇ったものであり、かつてのものとは根本的に違うのだ。
「いやぁ、だめねぇ。あたいもさ、ホラ。こう見えてもかよわいレディーだからね。ここは頼りになるのはコテツだけだよね」
「そうそう。おいらたちの中では一番旅が長いんだから、頼れるのはコテツだよね。よっ、コテツ先輩。よろしくお願いします」
「……こいつら、こンなときに限って後輩面しやがって」
コテツとしても刀を折ったり、大蛇にトドメを刺したのはステイだったりで、ここらでひとつ見せ場が欲しいところではあったが、哀しいかな、さすがのコテツにもこの状況はどうにもしがたかった。哀れ、サムライといえども所詮は犬である。哀れなコテツは恨めしそうに蔵の天井を睨みつけるのみだ。
「くそぅ、あの天井さえなければ…」
天井さえなければ? どうなったのだろうか。
ステイに乗って飛んで脱出できる。ステイが飛べなかったとしても、天井がなくなり密室でなくなればシエラが魔法を使える。それでは自分は一体何ができたのだろうか。
(オイラには何ができるンだ。天井がなかったとしても、もしオイラ一人だけだったとしたらオイラは……くそッ)
気付きそうになったその現実から目を逸らしたくてか、思わず睨めつけていた天井を視界から消した。
と、その瞬間だった。
轟音と共に蔵全体が大きく揺れて、天井が崩れ落ちてしまった。瓦礫が音を立てて蔵の中央吹き抜け部分に転がる。コテツたちは蔵の二階部分の下にいたので無事だった。
「天井が!」
ステイが驚いて見上げる。
(ま、まさかオイラが天井さえなければと思ったから!?)
危機に陥り、己の未知なる力が発現したのかとちょっぴり期待するサムライわんこであったが、そんなことはなかった。現実は非情である。
崩れ落ちた天井からは夜空が見える。そして、その闇の中にはこの蔵の中を覗き込む飛竜の姿があった。
コテツたちはこれまでの旅で一頭の飛竜に遭遇している。それは彼らが旅立ってすぐのこと。船がなくて途方に暮れていたときのことだ。覚えているだろうか、空から奇妙なインゲン星人が降って来たことを。
「ってことは、まさかあのインゲン星人が!? 困ったときのインゲン星人の法則!?」
予想通り、飛竜の背には何者かの姿があった。だがあの自称天才タネはかせ如きにこれほどのことができるだろうか。魚の形をしたトンデモメカならまだしも、飛竜ではそこまで暴走することもあるまい。
上空からは飛竜とその背の者の話し声が聴こえてきた。それによると、どうやらそれはタネはかせではなさそうだ。
飛竜は蔵の中を確認して、ここには彼らの目的のものはないと背の者に伝えた。
「ふーん、ハズレかぁ。それじゃ、やっぱりあっちの大きいほうの建物のようだね」
「だからおれはあっちが怪しいと言ったんだ。なのになぜ、こんな小さな蔵を?」
「いやね、大きい箱と小さい箱だったら、小さいほうがいいものがあるかと思って」
「昔話じゃあるまいし」
「えー、昔話じゃん。大蛇も九尾も」
言って飛竜たちは飛び去って行った。三人はただ呆気にとられて穴のあいた天井を眺めていた。もっとも、眺める以外に他に何ができたというわけでもないのだが。
「な、何だったンだ、あいつらは…?」
「知らないけど、これでここから出られるね」
「なァ、さっきの声どこかで聞いたことなかったか」
「そんなことよりもイザヨイが先でしょ! あの子、捕まってるんだから」
シエラに急かされてステイの背に。たしかにコテツにはあの声に聞き覚えがあったが、ステイの背に乗せられたことで再び己の無力さを思い出して声のことは頭から消えてしまった。だが彼らはすぐにその声の正体を知ることになる。
壊れた天井からステイに乗って上空へ。すると再び大きな音が聴こえてきた。今度は頭の上からではない、屋敷のほうからだ。
見ると今度は屋敷の屋根が吹き飛んでいるではないか。そして、そのすぐ傍にはさっきの飛竜が浮かんでいる。一体何があったというのか。
蔵にその姿がなかったということはイザヨイもあちら側の建物にいるはずだ。彼女は無事なのか。屋根の吹き飛んだ屋敷の最上階へとステイが飛ぶ。剥き出しになった部屋からは巨大な狐の姿が見えている。まさか、あのでかいのがイザヨイのいう父親なのか。ともすれば、イザヨイもいずれはあんなに大きくなるのだろうか。なんてことをコテツは考えていたが、そのとき例の飛竜から何者かが飛び降りたのが目に入った。
「あれは…!」
剥き出しになった部屋にその影が降り立つ。そして、それがいるのを予め知っていたとでもいうように、ごく自然なようすで九尾に向かい立つと言い放った。
「見つけたよ、九尾。君は少しはボクを楽しませてくれるのかな」
「なんだお主は。妾はおまえのような者など知らぬぞ」
その背後にコテツたちが降り立った。
その姿は忘れようもない。コテツとステイの目の前でその見た目からは信じられないような戦い方を見せた、そしてトドメを刺されて逃げようとする大蛇を一瞬のうちに消し去ってしまった、その最も危険なメタディアと言われる存在を。
「メーディ!!」
コテツが叫んだ。
「おや? 見たことがある顔だね、どこかであったっけ」
メーディはちらとこちらを一目だけ見たが、まるで関心はないと言った様子ですぐに九尾に向かい直って言った。
「まぁいいや。それよりも九尾、ずいぶん捜したよ。原液は回収させてもらうからね」
「原液? 何のことだ」
「君は何も知らなくていい。ただ黙って死んでくれればそれでいいんだよ!!」
メーディの表情が豹変した。いつの間にか大鎌を片手に鬼のような表情で距離を詰め、九尾に斬りかかった。
「なッ! こ、この無礼者め!」
九尾とメーディが争い始めたその隙にシエラは拘束されているイザヨイを見つけてこれを解放した。見ると周囲にはあの忍び三人衆が散り散りになって倒れている。イザヨイは意識を失っていたが、シエラが水をかけると気を取り戻した。どうやら怪我はなさそうだ。
「一体何があったの?」
「あいつは……私のお父様じゃなかった……」
イザヨイは怯えた様子で話し始めた。
九尾はその正体を明らかにした後、忍び三人衆を文字通り消そうとした。その力の前に三人ともまるで歯が立たず、すぐに膝をついてしまった。次に九尾はイザヨイに力づくで命令を聞かせようと試みた。だが三人衆は残る力を振り絞ってイザヨイを庇ってくれたのだ。
「どうして私を?」
「我々忍びは特定の主を持たない。報酬を得る代わりにその雇い主の任務を果たすのみ。だがその報酬が支払われないなら、やつを主を見なす義理はなし」
「故にやつからの依頼は無効だ。任務の対象でなくなったおまえは言わば部外者。その部外者を巻き込んで怪我をさせてしまったとあっては、忍びの名折れ」
「我等ガ掟ナリ」
怯むことなく立ち向かっていく三人衆だったが、九尾の強大な力の前に何度も弾き飛ばされついに気を失ってしまった。そして今度こそ九尾の魔手がイザヨイに向けられたそんな時だった。天井が吹き飛ばされメーディが現れたのは。
続けてイザヨイはあの「お父様」は偽物で九尾が化けていたことを話した。
父は心が変わってしまったのではない。九尾が父になり変わっていたのだ。イザヨイや梅華の民に妖術を教えたのも、民たちをけしかけて平牙への敵対心を植え付けたのも、すべて九尾の企みだった。大蛇がいなくなったことを知った九尾は邪魔ものが消えたと勢いづいて、このまま癒國全土を掌握する腹積りというわけだ。そしてイザヨイの本当の父、モチヅキは九尾に既に殺されていたのだ。
泣き崩れるイザヨイ。大好きだった父はもういない。
「そうと聞いたら許すわけにはいかないね。九尾だかなんだか知らないけど、あたいがイザヨイのお父さんの仇を取ってやる」
「そうはいくか。これ以上オイラの見せ場を取られてたまるかってンだ。オイラもやるぜ」
「あっ、おいらもいるからね」
なぁに、単純なことだ。敵は九尾。それがイザヨイの不幸の元凶。それだけだ。
九尾は今もメーディとの戦いを繰り広げていた。
メーディが大鎌を振り回し、斬撃が次々とばら撒かれる。しかし九尾がひとたび尾を振るえばそれはすぐに霧散してしまう。
シエラが言うにはどうやらあの斬撃は魔力から作られたものらしく、そうして魔力によって形成されたものは魔力を散らしてしまうことによって簡単に掻き消されてしまうという。
九尾の尾はその一本一本が強力な魔力を帯びており、振るうだけで風の刃ぐらいは掻き消してしまえるのだ。
ならばとメーディは大鎌を振り下ろし、床に突き立てた。すると鎌の切っ先から九尾に向かって一直線に柱のような衝撃波が床板を斬り裂きながら走って行く。これを掻き消すことはできないと判断したのか、九尾は突然姿を消してこれをかわした。
その姿を捜して周囲を見回すメーディの背後で、月明かりによってできたその影が不自然に蠢く。と、次の瞬間メーディの影が赤い眼を光らせて不気味に嗤う。影からは巨大な火柱が上がりメーディを包み込んだ。メーディは焼け焦げて黒い灰になってしまった。
「ふん、愚かな。どういうつもりか知らぬが、妾に歯向かおうとは実に愚かよ」
上空からはメーディの乗って来た飛竜メリゥは黙ってその様子を見つめている。敵意がないと判断した九尾はその狙いの先をまたしてもイザヨイに向けた。
「さぁ、小娘。おまえの潜在能力が妾の計画には必要なのだ! 観念して妾に従うがよい」
だがその前に立ちはだかるはコテツたちだ。その姿を見て九尾は馬鹿にしたような笑みを見せた。
「なんだ、今度はおまえたちが妾の相手か? 先の者に比べればあまりにも弱小よのう。それでも妾に立ち向かうと言うか」
九尾の九つの尾が蒼白い炎に包まれて燃え上がる。その光景にステイが驚いてコテツにしがみつくが、シエラは怯まなかった。
「あんたはイザヨイを泣かせた。戦う理由はそれで十分よ」
「ふん、生意気な猫娘め。よかろう、おまえから消してやる!」
蒼の業火が九尾の尾から発せられてシエラを襲う。が、動じることなくシエラが尾を振るえば水の壁が現れて炎を遮る。火には水、相性ではこの上なく有利。水が火に負けるはずがない。
水の壁は業火を呑み込むと、そのまま津波のように押し寄せて九尾を襲う。すると九尾はメーディのときと同様、闇の中に姿を暗ましてしまった。
「もうその手は食わないよ。あたいはちゃんと見てたからね」
姿を消した九尾は次に影から飛び出して背後を襲う。ならば影を消してしまえば背後を取られることはない。
咄嗟にシエラは部屋の隅へと駆け寄った。天井が吹き飛ばされてしまっているが、壁を挟んで月に向かっているのでここに月光は差さない。壁の影の中に自分の影を隠したのだ。影を隠すなら影の中。それに倣ってコテツたちも影に隠れる。
すると今度は頼りにしていた壁が炎に包まれて燃え始めた。見る見るうちに壁は灰に変わり、風に流されて失われていく。
「しまった。壁がやられちまったぞ」
「それくらいで慌てない! だったら逆に影を増やしてやればいいの」
シエラは空中に水を円形に張った。その水のレンズが月光を屈折させる。レンズはいくつも作られ、その角度を調整しながら月からの光を分散、屈折、反射させる。そして前後左右、四方から光がシエラたちを照らす形が出来上がった。するとどうだろうか、足下には同様に前後左右、色の薄い四つの影ができた。
イザヨイや気絶した忍びたちを含めて頭数は七つ。それぞれの影が四つ生まれて総数二十八。多い影は九尾を撹乱させる。さらに薄い影は九尾がそこに潜むことを困難にさせるかもしれない。
「ほう、これは面白い。水芸か。もっと見ていたいところではあるが、妾はちと忙しくてのう。管狐、やってしまえ!」
姿はないが九尾の声だけが響く。そして空中に複数の火の玉が浮かび上がったかと思うと、それは狐の頭に蛇のような身体の管狐に姿を変えた。
「な、なンだこいつらは!」
管狐たちは宙を舞い、空に浮かぶレンズの水を一息に飲み干してしまった。その程度の抵抗、とシエラが再び水のレンズを作り出そうとするが、管狐はそれを許さない。管狐の一匹がシエラに蛇のように巻き付いて締め上げてしまった。シエラの魔法は、尾を杖代わりに振るって発動させるもの。身動きが取れなければそれは簡単に封じられてしまう。
「言葉を返そうぞ、小娘。妾もちゃぁんと見ていたぞ。おまえは尾を振らないとその水芸ができないのであろう?」
同様にステイとコテツも管狐に拘束されてしまった。
「なんであんたたちまで捕まってんの!」
「うーん、なんか捕まっちゃった」
「オイラも見てたぜ。女の戦いって報復の仕合で怖ぇモンだなぁと」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!」
「それくらいで慌てンな。これでもオイラは平牙の逆牙羅に籍を置いてたンだぜ。妖怪の類の対処法ぐらい心得てらァ」
コテツは懐からそれを取り出すと一面に撒き散らした。すると管狐たちは一目散に撒かれたそれに群がっていったではないか。
管狐とは管のような細い筒などに棲み付く使い魔のようなものだが、元来とても大食らいであり、食べ物を与えなければ主人の命令を聞かない個体さえいるという。そんな管狐が好むものは味噌。とくに上質な味噌には目がないほどだ。
イザヨイから豹変した父を止めて欲しいと聞かされていたので狐が相手になることはわかり切っていた。だからこそ、管狐が使われることも予想済みだった。こんなこともあろうかとコテツは、閉じ込められていた蔵の中から味噌を見つけ出して懐に忍ばせていたのだ。
「さァ食え、管どもめ。飛びっきり上等なヤツだぜィ! これで管狐は使えねぇぜ」
「何をやっておるのだ、愚か者ども! 食事は与えたばかりだろうに!」
「狐対策は万端さァ。ほーら、次は何が欲しいンだよ。油揚げをやろうか、それとも酒をやろうか?」
「犬畜生めが馬鹿にしおって! 管狐と一緒にしてもらっては困る。妾は天狐九尾ぞ、一族の最上位ぞ!」
「天狐、千年生きた大妖怪サマってか。そのわりにゃァ、大蛇と縄張り争いだってな。しかもイザヨイの力に頼らねぇとそれもできないときやがる。聞いて呆れるじゃねぇか、大妖怪サマにしちゃあ随分と器の小さいこって。てめぇなンかただの野狐で十分だぜ」
「おのれ、愚弄する気か! 許さぬ、許さぬぞ!!」
怒り狂った九尾はついに隠していたその姿を現した。
これもコテツの作戦のうちだった。そもそも妖狐というものは総じて強欲なものだ。そして自己顕示欲の塊なのだ。自分が認められなければ我を忘れて怒り狂う。それが狐の特徴であり、ゆえに弱点でもある。
予想通り、怒り狂った九尾はその尾を叩き付けて押し潰さんとコテツに襲いかかったが、頭に血が昇っているせいなのか例の炎術を使ってこない様子だ。
「狐憑きは敢えて肯定して満足させてやったり、松葉を燻したりして落とす方法もあるが、犬神にこれを喰わせて祓うという方法もあるという。どうだ、まンまと一杯喰わせてやったぜ」
「え、でもそれって犬が喰うんじゃないの? それじゃ狐が喰わされるじゃない」
「いいンだよ、細けぇことは。ムサシにゃ悪いがやっぱ木刀じゃ決定打になりゃしねぇンだよ。ほら、ステイ行ってこい」
巨大な狐相手に槍も木刀もそんなに変わらないんじゃないかと思いつつも、ステイは槍を構えて九尾に向かう。敵はコテツに気を取られている。隙を突くなら今しかない。
両手に握る槍に目を落とす。反りのある稲妻のような特殊な形の穂先が月明かりに緑色に輝いている。そうだ、これはエルナトの族長に託された大切な槍。自分は一人で戦っているんじゃない。族長も見守ってくれている。それにあの大蛇との戦いを乗り越えてきたのだ。もう自分は狩りに出たことのないただのステイじゃない、エルナトの戦士の一人だ。
「よし、おいらならやれる!」
意を決して槍を振り上げた。
そういえば何か肩が重いような気がしていたのだ。何と言ってもあの九尾はあのメーディを倒してしまったのだから、そんな九尾相手に自信がなかったせいだと思っていた。だがそれは気のせいだった。なぜなら――
そしてステイはくるりと身体の向きを変えて、力一杯コテツに向かって槍を投げた。
「ごめーん、なんかおいら取り憑かれちゃったみたい」
「な、何をやってンだァー!」
コテツは木刀で飛んでくる槍を受け止めた。反動か、少し身体が痺れたような気がする。
よく見るとステイの背には管狐が居座っていた。あの大食の管どもはコテツの撒いた味噌をもう喰い尽してしまったらしい。再び動き出した管狐は続いてコテツを拘束した。視界の端にはどうやらコテツたちとは別で奮闘していたシエラも捕まってしまったらしいことが確認できる。
ようやく落ち着きを取り戻した九尾がまだ怒りの収まり切らないといった面持ちでこちらを睨みつけている。
「ふ、ふん。思い上がるのも大概にすることじゃ。何が犬神か、妖力の欠片もない犬風情が。おまえは……おまえだけは許さぬぞ」
「げっ、こいつァやばいンじゃねぇの…。おい、ステイ。しっかりしやがれ! おめぇが頼りだぞ!」
「うーん、だめ。全然力入んなーい」
「ちょっとは努力してくれェ!」
そんなことをしている間にも九尾は距離を詰めてくる。管狐はしっかりと身体を締め付けて脱出を拒んでいる。
ついに目の前に九尾が立った。怒りの業火に焼き消されるか、大きな尾で叩き潰されるのか。コテツは息を呑んで九尾の一挙動にも目を離さなかった。すると九尾はコテツを攻撃するでもなく、表情は一転、にやりと不気味な笑みを浮かべて鼻がぶつかり合うほどにまで顔を寄せて来た。
「な、なンだよッ」
「そうだ、面白いことを思い付いたぞ。おまえは犬だったなぁ。管狐にも飽きてきたところよ。どれ、ひとつ犬神でも作ってみるかのう…。妖に詳しいおぬしのことだ、もちろん犬神の作り方は心得ておろうな?」
「し、知らねぇよそンなモン! は、離しやがれ!」
「ほう? ならばなぜそんなに焦っておるのだ。なんなら妾が特別に教えてやってもよいのだぞ、犬神の作り方をのう。けはははは」
犬神もまた管狐に似た使い魔のような存在だ。また狐は狐憑き、犬は犬神憑きと対に扱われることもある。だがこれらにはひとつだけ違うところがある。狐は気まぐれで、いつ誰に憑くのかはわからないが、犬神は術者が作り出して自分に使役させることができるという点だ。
そんな犬神の作り方は至って簡単。餓えた犬を拘束して、その目の前に食べ物を置く。そしてその犬が餓死する寸前に頭を切り落とす。すると切断された頭だけが餌に飛び付き、それが犬神となって術者に永久に仕えることになるのだ。
「犬神ってわんこの神様? しかも作れるの? おいらも欲しいなー、教えて教えて」
「馬鹿やろう、そンなモン聞くな! 聞きたくもないッ!」
「ほう、そうかそうか。そんなに教えて欲しいかの。よろしい、妾が特別に教えてやろうぞ」
九尾が命令すると憑依した管狐がステイの身体を操り始めた。
「そうじゃな。言葉で説明するより、実際にやってみるほうが早い。まずお手本を見せてやらねばのう」
管狐はステイを歩かせてコテツの前に立たせる。そして槍を高く掲げさせると、頭上で構えて止めた。
「さて、次は餌じゃな。ほーれ、どうした犬っころ。何を望む。骨か、それとも残飯か?」
「こ、こいつ…! わざと同じことを…!」
「ふむ。よく考えたら妾は犬がこの世で一番嫌いだったのよ。犬神はやめじゃ、仲間の手で始末されるがよい。さて、管狐……やれ」
「あっ、違っ、犬神やめるならおいらもやめ…」
頭上に構えられていた槍が勢いよく降りおろされる。
その槍の刃が、切っ先が、コテツの首筋めがけて一直線に落ちる!
万事休す。オイラの旅もここまでか、と固く目を閉じた。コテツの顔には生温かい液体がかかった。
「…………オイラぁ……死ンだ。の、か?」
恐る恐る目を開ける。と、槍はコテツの鼻先寸前に突き立っていた。
まさに間一髪の距離。だが一体何が起こったのか。
ステイは糸が切れた人形のようにすとんと尻餅をついて、そのまま横向けに転がった。その背後には息を切らしたイザヨイの姿が見えた。
「よ、良かった。間に合って…」
視界の端には小さな瓶が転がっている。小瓶の口からは瓶の底に残っていた透明の液体が零れている。どうやらコテツが浴びた液体の正体はこれらしい。そう、それはイザヨイが妖怪に取り憑かれた父を助けるためと思って手に入れていた聖水だった。コテツに危機が迫ったのを知って、イザヨイはこの聖水の小瓶を投げた。そして聖水はステイに憑いた狐を退け、ギリギリのところでコテツは事無きを得たのだった。
「本当はお父様に使うはずだったのだけど。こうして役に立って良かった…!」
安心したイザヨイは力が抜けてそのまま座り込んでしまった。
「へ。へへ……まさか、おめぇに助けられるとは。思ってもみなかった…ぜ」
「これで助けてもらった借りは返しましたからね」
今にも殺されかけたというのに、いつの間にかコテツは笑っていた。自然に腹の底から笑いが湧き起こる。本当に危ない目にあったときは涙より何よりも先に笑いが出てくるものだ。ああ、助かってよかったと。コテツに釣られてか、イザヨイも。ついでにステイも笑った。
「いや、おめぇは笑うなよ! おめぇに殺されかけたンだぞ」
「うーん、ごめんねぇ」
ああ、無事でよかった。オイラは生きてるぞ。
「――なンて笑って場合じゃねぇ! あいつは!?」
慌てて九尾の姿を捜す。
すぐに見つかった。こちらはもう片付いたと思い、どうやらこんどはシエラにトドメを刺そうとしているらしい。シエラは気を失っているようだ。
「うん? なんだ、生きておったのか。この死に損ないめ。まぁよい、もう遊びは終わりじゃ。妾は飽きた。この小娘を喰ろうた後にすぐにおまえたちも後を追わせてやるから心配はいらぬ」
「そ、そうはさせるかってンだ! こちとら遊びじゃねぇやィ」
もう管狐に捕まるようなへまはしない。言い訳もなしだ。抜刀、木刀を構える。
並んでステイは槍を。イザヨイも、いつでも妖術で援護できる構えだ。
「それは何のつもりじゃ? ふん、無駄じゃ。一歩でも動いてみよ。その瞬間にこの猫を灰に変えてやろう」
威勢よく武器を構えてみたつもりだった。しかし人質、いや猫質を取られてしまっては迂闊に手を出すこともできない。できるのは、ただそのまま敵を睨みつけることだけだ。
「ふふっ、滑稽だのう! そのまま朝まで止まっててもらうのも一興じゃが、言ったはずだ。妾はおぬしらの顔はもう見飽きたとな。礼を言うぞ、一時でも妾の退屈を紛らわせてくれて。さぁ、宴はこれでおしまいとしようかのう」
勝ち誇ったように九尾が嗤う。
「そうか、もうおしまいか。残念だな。弱いコテツたちがどうやって君に抵抗するのか、もうちょっと見ていたかったのに」
「な…」
刹那、九尾の尾のひとつが切断されて空に舞った。尾は山の向こうから昇り始めた朝陽に照らされながら、屋敷の下へと落ちていく。
九尾の背後には黒い塊が。それは形を変えるとすぐにメーディの姿になった。
「お、おまえは! たしかに灰になったはず!?」
「あれくらいでボクに勝ったつもりだなんて甘く見られたものだね。敵を倒したらちゃんと死亡確認しなくちゃ。さぁ、まずは一本。残りもいただくよ!」
目の前から一瞬にしてメーディが消える。それとほぼ同時に九尾の尾がさらにふたつ、空を舞った。
「ぐ、ぁぁああぁあぁッ! おのれ、おのれおのれェ! 覚えておれ、メーディとやら!!」
断末魔の叫びを残して今度は九尾も姿を消した。そして、そのまま二度と現れることはなく本当に消えてしまった。どうやら分が悪いと判断して尾を巻いて逃げてしまったらしい。
逃がすものか、とメーディは上空に待機させていたメリゥに飛び乗ると九尾の行き先でも分かっているのか、海の向こうへと真っ直ぐに飛び去って行った。それもしっかりと、切断した尾を回収するのを忘れることなく。
「一体……何だったン、だ……」
そのままコテツは倒れ込むように眠りに落ちた。夜通し続いたイザヨイを巡る攻防は、またしてもメーディが最後のおいしいところを持っていく形で終わった。
九尾はどこへ消えたのか、メーディの目的は何なのか。まだまだ謎は残るが、今はそれよりも目蓋がとても重かった。
恐る恐る目を開ける。と、槍はコテツの鼻先寸前に突き立っていた。
まさに間一髪の距離。だが一体何が起こったのか。
ステイは糸が切れた人形のようにすとんと尻餅をついて、そのまま横向けに転がった。その背後には息を切らしたイザヨイの姿が見えた。
「よ、良かった。間に合って…」
視界の端には小さな瓶が転がっている。小瓶の口からは瓶の底に残っていた透明の液体が零れている。どうやらコテツが浴びた液体の正体はこれらしい。そう、それはイザヨイが妖怪に取り憑かれた父を助けるためと思って手に入れていた聖水だった。コテツに危機が迫ったのを知って、イザヨイはこの聖水の小瓶を投げた。そして聖水はステイに憑いた狐を退け、ギリギリのところでコテツは事無きを得たのだった。
「本当はお父様に使うはずだったのだけど。こうして役に立って良かった…!」
安心したイザヨイは力が抜けてそのまま座り込んでしまった。
「へ。へへ……まさか、おめぇに助けられるとは。思ってもみなかった…ぜ」
「これで助けてもらった借りは返しましたからね」
今にも殺されかけたというのに、いつの間にかコテツは笑っていた。自然に腹の底から笑いが湧き起こる。本当に危ない目にあったときは涙より何よりも先に笑いが出てくるものだ。ああ、助かってよかったと。コテツに釣られてか、イザヨイも。ついでにステイも笑った。
「いや、おめぇは笑うなよ! おめぇに殺されかけたンだぞ」
「うーん、ごめんねぇ」
ああ、無事でよかった。オイラは生きてるぞ。
「――なンて笑って場合じゃねぇ! あいつは!?」
慌てて九尾の姿を捜す。
すぐに見つかった。こちらはもう片付いたと思い、どうやらこんどはシエラにトドメを刺そうとしているらしい。シエラは気を失っているようだ。
「うん? なんだ、生きておったのか。この死に損ないめ。まぁよい、もう遊びは終わりじゃ。妾は飽きた。この小娘を喰ろうた後にすぐにおまえたちも後を追わせてやるから心配はいらぬ」
「そ、そうはさせるかってンだ! こちとら遊びじゃねぇやィ」
もう管狐に捕まるようなへまはしない。言い訳もなしだ。抜刀、木刀を構える。
並んでステイは槍を。イザヨイも、いつでも妖術で援護できる構えだ。
「それは何のつもりじゃ? ふん、無駄じゃ。一歩でも動いてみよ。その瞬間にこの猫を灰に変えてやろう」
威勢よく武器を構えてみたつもりだった。しかし人質、いや猫質を取られてしまっては迂闊に手を出すこともできない。できるのは、ただそのまま敵を睨みつけることだけだ。
「ふふっ、滑稽だのう! そのまま朝まで止まっててもらうのも一興じゃが、言ったはずだ。妾はおぬしらの顔はもう見飽きたとな。礼を言うぞ、一時でも妾の退屈を紛らわせてくれて。さぁ、宴はこれでおしまいとしようかのう」
勝ち誇ったように九尾が嗤う。
「そうか、もうおしまいか。残念だな。弱いコテツたちがどうやって君に抵抗するのか、もうちょっと見ていたかったのに」
「な…」
刹那、九尾の尾のひとつが切断されて空に舞った。尾は山の向こうから昇り始めた朝陽に照らされながら、屋敷の下へと落ちていく。
九尾の背後には黒い塊が。それは形を変えるとすぐにメーディの姿になった。
「お、おまえは! たしかに灰になったはず!?」
「あれくらいでボクに勝ったつもりだなんて甘く見られたものだね。敵を倒したらちゃんと死亡確認しなくちゃ。さぁ、まずは一本。残りもいただくよ!」
目の前から一瞬にしてメーディが消える。それとほぼ同時に九尾の尾がさらにふたつ、空を舞った。
「ぐ、ぁぁああぁあぁッ! おのれ、おのれおのれェ! 覚えておれ、メーディとやら!!」
断末魔の叫びを残して今度は九尾も姿を消した。そして、そのまま二度と現れることはなく本当に消えてしまった。どうやら分が悪いと判断して尾を巻いて逃げてしまったらしい。
逃がすものか、とメーディは上空に待機させていたメリゥに飛び乗ると九尾の行き先でも分かっているのか、海の向こうへと真っ直ぐに飛び去って行った。それもしっかりと、切断した尾を回収するのを忘れることなく。
「一体……何だったン、だ……」
そのままコテツは倒れ込むように眠りに落ちた。夜通し続いたイザヨイを巡る攻防は、またしてもメーディが最後のおいしいところを持っていく形で終わった。
九尾はどこへ消えたのか、メーディの目的は何なのか。まだまだ謎は残るが、今はそれよりも目蓋がとても重かった。
昼まで眠っていたコテツは走り回るステイに踏み付けられて目を覚ました。
どうやら忍びの三人衆、キカザル、ミザル、イワザルと早速仲良くなったようで、跳び回る忍びたちをステイは追いかけ回している様子だ。シエラはまだ隣で寝息を立てている。
三人衆は九尾に騙されていただけでイザヨイやコテツたちに害意があったわけではない。互いに事情を説明し合うと、それをもって和解は完了した。
九尾を倒せたわけではなかったが、何はともあれとりあえずの一見落着。イザヨイを狙う脅威は去ったということで、コテツ一行は改めて旅を続けることにしたのであった。
「イザヨイはどうするの?」
「私は……もし迷惑でなければ、私も旅の一員に加えてくれませんか」
たしかに九尾は去った。しかし、九尾はイザヨイの父の命を奪ったのだ。言わば父の仇。
九尾がどこに消えたのかはわからない。だがコテツたちと共に旅をしていれば、いずれまた九尾に再会することもあるかもしれない。そのときこそ父の仇を討つときなのだ。それに唯一の家族だった父を失い、さらに屋敷は戦いの影響で壊れて焼け落ちてしまった。このままここにいるよりは、旅に同行したほうがずっと安心だろう。
さすがのコテツもこれを断る道理はなかった。手放しで喜ぶステイを横目に、まぁあれに比べたら全然マトモだし……と快くイザヨイの同行を認めたのだった。
三人衆に見送られて一行は梅華京を発った。目指すは西の鳴都、海の都だ。
鳴都からは咲華羅(サッカラ)の大陸に渡る船が出る。強くなるため、生まれ故郷を探すため、家を探すため、そして親の仇を討つため。それぞれの目的を胸に、しかし目指すべき場所はどれも不明確。それでも立ち止まっちゃいられない。
犬も歩けば棒に当たる、いずれ答えは見えてくるさ。海を目指して、続くよ旅は。
どうやら忍びの三人衆、キカザル、ミザル、イワザルと早速仲良くなったようで、跳び回る忍びたちをステイは追いかけ回している様子だ。シエラはまだ隣で寝息を立てている。
三人衆は九尾に騙されていただけでイザヨイやコテツたちに害意があったわけではない。互いに事情を説明し合うと、それをもって和解は完了した。
九尾を倒せたわけではなかったが、何はともあれとりあえずの一見落着。イザヨイを狙う脅威は去ったということで、コテツ一行は改めて旅を続けることにしたのであった。
「イザヨイはどうするの?」
「私は……もし迷惑でなければ、私も旅の一員に加えてくれませんか」
たしかに九尾は去った。しかし、九尾はイザヨイの父の命を奪ったのだ。言わば父の仇。
九尾がどこに消えたのかはわからない。だがコテツたちと共に旅をしていれば、いずれまた九尾に再会することもあるかもしれない。そのときこそ父の仇を討つときなのだ。それに唯一の家族だった父を失い、さらに屋敷は戦いの影響で壊れて焼け落ちてしまった。このままここにいるよりは、旅に同行したほうがずっと安心だろう。
さすがのコテツもこれを断る道理はなかった。手放しで喜ぶステイを横目に、まぁあれに比べたら全然マトモだし……と快くイザヨイの同行を認めたのだった。
三人衆に見送られて一行は梅華京を発った。目指すは西の鳴都、海の都だ。
鳴都からは咲華羅(サッカラ)の大陸に渡る船が出る。強くなるため、生まれ故郷を探すため、家を探すため、そして親の仇を討つため。それぞれの目的を胸に、しかし目指すべき場所はどれも不明確。それでも立ち止まっちゃいられない。
犬も歩けば棒に当たる、いずれ答えは見えてくるさ。海を目指して、続くよ旅は。