第陸話「心の月」
翌日の仕事は黄泉の国の入口である黄泉比良坂(よもつひらさか)での門番と、黄泉へ送られた死者たちの誘導だった。
獣頭は昨夜から元気がなかった。彼女(そういえばメスって言ってたっけ)とまともに会話することもないままに、おれたちは黄泉比良坂に到着した。今回はおれたち二人に加えて、もう一人の死神が仕事に参加した。その死神は鳥頭と名乗った。呼び名の通り、鳥の頭蓋骨を被っている。またトリアタマというだけあって、彼女はいわゆる天然だった。獣頭が落ち込んでいるすぐ隣でピーチクパーチクとうるさい。空気を読め、このトリアタマめ。
鳥頭と獣頭をいっしょにさせておいてはいけない、そして獣頭は少し一人にしてやったほうがいいかもしれないと考えて、死者たちの誘導は獣頭に任せて、おれと鳥頭で門番を担当することに決めた。
門番なんてただ立っているだけでいいから簡単だ……なんて思っていたら甘かった。黄泉に送られてきた死者たちは我先にと、黄泉と現世をつなぐ入口に殺到する。入口は大岩で塞がれていたが、こうも大量に来られては、岩もどかされかねない。門番のおれたち二人はなんとか死者たちを押しのけていった。
しばらく死者たちとの死闘が繰り広げられ、やっとピークが去ったのか少し落ち着けるようになってきた。一息つこうと思っていると、さっそく鳥頭が話しかけてきた。ここを塞いでいる大岩が道反大神(ちがえしのおおかみ)と呼ばれる神様であるとか、そのあたりまではまだよかった。
なんでそうなるのかはわからないが、この大岩をかわいいなどと抜かしてみたり、自分はもう何度も生まれ変わって地獄はもう六回目だとか、来世は鳥よりもたんぽぽがいいだとか、もうわけがわからない。少なくとも、こいつを獣頭といっしょにさせなかったのが正解だということだけはわかった。正常な状態であってもこいつの相手は疲れる。
昼の休憩をはさんで、門番と誘導の役割を交代してその日の仕事を終えた。午後は現世で亡くなる人が少なかったのか、さほど忙しくはなかった。良いことだ。
竜頭の号令で各自解散する。竜頭は号令をかけるとすぐに帰ってしまった。そんなことより、おれは獣頭の様子が心配だったが、どうやら今朝よりは良くなっていたようで安心した。
「おつおつ~♪」
鳥頭が声をかけてくる。
おれと獣頭は軽く「おつかれさま」と返してその場を去ろうとするが、鳥頭のわけのわからない長話に捕まってしまった。やめてくれ、せっかく獣頭が元気になったというのに。
なんとか話から抜け出す機会をうかがっていると、鳥頭の身体が突然、輝き始めた。
「あら?」
「わぁー! おめでとう!」
獣頭は手を叩いて自分のことのように喜んでいる。おれには何が起こったのかさっぱりわからない。
「何だ? どうしたんだこの光は?」
「ああ、ご主人は知らなかったんだっけ」
獣頭が光について説明する。
魚頭が、死神はそれぞれ罪を背負っていてそれを償わなければ永遠に働かされると言っていたが、逆を言えば罪を償い切ることができれば、おれたちは晴れて天国へ迎えられるのだそうだ。そして天国でしばらく過ごすことで、新しく来世に生まれ変わることができるらしい。
「それじゃあ、お先に天国で待ってるね♪ 来世は蝶々がいいな~」
鳥頭は光に包まれて消えていった。おい、来世の希望さっき違うぞ。
鳥頭が昇天すると、急にしんと静かになってしまったような気がした。あんなのでも、いなくなってみると寂しいものなのだろうか。
おれたちは帰路につこうとすると、一人の老婆の死者がふらふらと歩いているのに目が留まった。
「あっ! おい、あんた。勝手に黄泉から出てってもらっちゃ困るよ!」
「いえいえ、そんなつもりはありませんよ。ただ、月が見たくなってね」
老婆はおれたちの近くに腰をおろした。
「月ですか。あの、こっちの世界では月は見えないんですよ……」
獣頭が申し訳なさそうに説明するが、老婆はまったく気にしていない様子で、
「たしかに、空には月は見えません。ですが、私にはちゃぁんと見えているんですよ、お月さま」
「どういうことだ?」
「心で月を見るんですよ」
「心で?」
獣頭もどういうことなのかと、聞き耳を立てる。
「あなたはお月さまと聞いて、何をイメージします?」
「うーん、まあるくて大きくて空に浮かんでる感じかな」
「おれは三日月だな」
それを聞くと老婆はうんうんと頷いて続けた。
「ふふふ。それが心で見るということですよ」
「はぁ」
「つまり、どんなものでも心はそれをしっかりと覚えているものです。たまには忘れてしまうこともあるけれど、それは今は思い出せないだけで、決して心の中から消えてしまったわけじゃないんですよ。きっと、いつか思い出せる日がやってくるはず。私は今日はお月さまを思い出せる日だったようなのでね。だから、こうして月を見に来たんです。夜空に月はなくても、きっと月が出ていればこうだろうなって心に写し出すことができますから」
老婆は『心で見る』ということを詳しく説明してくれた。おれには少し難しかったが、獣頭はその話に感動したようだった。
「おばあさん、それは記憶も同じですか。しばらく会っていなくて、ボクのことを忘れてしまっているヒトがいたとしても……そのヒトはきっとボクのこと、思いだしてくれますよね? 信じていいんですね?」
老婆は優しく微笑んだ。
「信じてあげなさい。その人を信じてあげられるのはあなただけなんですから」
「そう……ですよね! ありがとうございます」
獣頭は老婆に何度も何度も頭を下げていた。
そうか、本当のご主人のことか。こいつの飼い主はこんなにも愛されてなんて幸せ者なんだろうか。
おれには『心で見る』話の意味はあまりわからなかったが、信じていればきっと思い出せるという話はわかった。おれも信じていれば、記憶を……本当の自分を取り戻せるのだろうか。でもおれは一体誰を信じればいいのだろう。今の自分を信じるのか。それとも失った自分を信じるのか。
死者のおばあさんと別れておれたちはこんどこそ帰路につく。
その道中で獣頭はこんなことを聞いてきた。
「ご主人は……天国に行きたいと思ってる?」
逆におれは、獣頭はどうなのかと聞き返した。
「ボクは……。やっぱりそのほうがいいと思ってる。けど、でもどうだろうね。天国に行けば、ボクの本当のご主人と逢えるのかな。生まれ変わってまたご主人に逢えるのなら嬉しいけど、でもまた行き違っちゃうのはいやだな」
獣頭はまた悲しそうな顔になった。
「そうか。おれは……おれはわからないな。記憶もまだ戻ってこないし、それだから家族も知り合いも誰一人思い出せない。おれは誰に会いたいのかもわからない。もし天国へ行ったとしても、このまま記憶が戻らなければ、今とあまり変わらない気がする。それでも、やっぱりおれも天国を目指すべきかな?」
「もちろんだよ!」
獣頭は強く肯定した。
「大切なヒトの喜びが、ボクにとっての喜び! 大切なヒトの幸せが、ボクの幸せ! だから、ご主人も絶対に天国を目指すべきだよ! だから、だから……っ」
獣頭の目からは涙が溢れていた。頭蓋骨から、光のしずくが一滴、また一滴と落ちる。それは、目には見えない心の月に照らされて、より一層に輝きを増す。
「え? なんで獣頭が泣くんだよ!? 落ちつけよ! わかったわかった、おれもがんばるからさ。だから、何も泣くことはないだろ。な?」
「うん……。ありがと」
光のしずくは、おれの心の月に静かな波紋を広がらせた。
(大切な人ってもしかして、おれのことなのか? それとも、ただおれに本当のご主人を投影しているだけなんだろうか……)
おれは獣頭をそっと抱きしめながら帰ることにした。
辺獄に着いたのは、ずいぶん夜も更けてからだった。
獣頭は昨夜から元気がなかった。彼女(そういえばメスって言ってたっけ)とまともに会話することもないままに、おれたちは黄泉比良坂に到着した。今回はおれたち二人に加えて、もう一人の死神が仕事に参加した。その死神は鳥頭と名乗った。呼び名の通り、鳥の頭蓋骨を被っている。またトリアタマというだけあって、彼女はいわゆる天然だった。獣頭が落ち込んでいるすぐ隣でピーチクパーチクとうるさい。空気を読め、このトリアタマめ。
鳥頭と獣頭をいっしょにさせておいてはいけない、そして獣頭は少し一人にしてやったほうがいいかもしれないと考えて、死者たちの誘導は獣頭に任せて、おれと鳥頭で門番を担当することに決めた。
門番なんてただ立っているだけでいいから簡単だ……なんて思っていたら甘かった。黄泉に送られてきた死者たちは我先にと、黄泉と現世をつなぐ入口に殺到する。入口は大岩で塞がれていたが、こうも大量に来られては、岩もどかされかねない。門番のおれたち二人はなんとか死者たちを押しのけていった。
しばらく死者たちとの死闘が繰り広げられ、やっとピークが去ったのか少し落ち着けるようになってきた。一息つこうと思っていると、さっそく鳥頭が話しかけてきた。ここを塞いでいる大岩が道反大神(ちがえしのおおかみ)と呼ばれる神様であるとか、そのあたりまではまだよかった。
なんでそうなるのかはわからないが、この大岩をかわいいなどと抜かしてみたり、自分はもう何度も生まれ変わって地獄はもう六回目だとか、来世は鳥よりもたんぽぽがいいだとか、もうわけがわからない。少なくとも、こいつを獣頭といっしょにさせなかったのが正解だということだけはわかった。正常な状態であってもこいつの相手は疲れる。
昼の休憩をはさんで、門番と誘導の役割を交代してその日の仕事を終えた。午後は現世で亡くなる人が少なかったのか、さほど忙しくはなかった。良いことだ。
竜頭の号令で各自解散する。竜頭は号令をかけるとすぐに帰ってしまった。そんなことより、おれは獣頭の様子が心配だったが、どうやら今朝よりは良くなっていたようで安心した。
「おつおつ~♪」
鳥頭が声をかけてくる。
おれと獣頭は軽く「おつかれさま」と返してその場を去ろうとするが、鳥頭のわけのわからない長話に捕まってしまった。やめてくれ、せっかく獣頭が元気になったというのに。
なんとか話から抜け出す機会をうかがっていると、鳥頭の身体が突然、輝き始めた。
「あら?」
「わぁー! おめでとう!」
獣頭は手を叩いて自分のことのように喜んでいる。おれには何が起こったのかさっぱりわからない。
「何だ? どうしたんだこの光は?」
「ああ、ご主人は知らなかったんだっけ」
獣頭が光について説明する。
魚頭が、死神はそれぞれ罪を背負っていてそれを償わなければ永遠に働かされると言っていたが、逆を言えば罪を償い切ることができれば、おれたちは晴れて天国へ迎えられるのだそうだ。そして天国でしばらく過ごすことで、新しく来世に生まれ変わることができるらしい。
「それじゃあ、お先に天国で待ってるね♪ 来世は蝶々がいいな~」
鳥頭は光に包まれて消えていった。おい、来世の希望さっき違うぞ。
鳥頭が昇天すると、急にしんと静かになってしまったような気がした。あんなのでも、いなくなってみると寂しいものなのだろうか。
おれたちは帰路につこうとすると、一人の老婆の死者がふらふらと歩いているのに目が留まった。
「あっ! おい、あんた。勝手に黄泉から出てってもらっちゃ困るよ!」
「いえいえ、そんなつもりはありませんよ。ただ、月が見たくなってね」
老婆はおれたちの近くに腰をおろした。
「月ですか。あの、こっちの世界では月は見えないんですよ……」
獣頭が申し訳なさそうに説明するが、老婆はまったく気にしていない様子で、
「たしかに、空には月は見えません。ですが、私にはちゃぁんと見えているんですよ、お月さま」
「どういうことだ?」
「心で月を見るんですよ」
「心で?」
獣頭もどういうことなのかと、聞き耳を立てる。
「あなたはお月さまと聞いて、何をイメージします?」
「うーん、まあるくて大きくて空に浮かんでる感じかな」
「おれは三日月だな」
それを聞くと老婆はうんうんと頷いて続けた。
「ふふふ。それが心で見るということですよ」
「はぁ」
「つまり、どんなものでも心はそれをしっかりと覚えているものです。たまには忘れてしまうこともあるけれど、それは今は思い出せないだけで、決して心の中から消えてしまったわけじゃないんですよ。きっと、いつか思い出せる日がやってくるはず。私は今日はお月さまを思い出せる日だったようなのでね。だから、こうして月を見に来たんです。夜空に月はなくても、きっと月が出ていればこうだろうなって心に写し出すことができますから」
老婆は『心で見る』ということを詳しく説明してくれた。おれには少し難しかったが、獣頭はその話に感動したようだった。
「おばあさん、それは記憶も同じですか。しばらく会っていなくて、ボクのことを忘れてしまっているヒトがいたとしても……そのヒトはきっとボクのこと、思いだしてくれますよね? 信じていいんですね?」
老婆は優しく微笑んだ。
「信じてあげなさい。その人を信じてあげられるのはあなただけなんですから」
「そう……ですよね! ありがとうございます」
獣頭は老婆に何度も何度も頭を下げていた。
そうか、本当のご主人のことか。こいつの飼い主はこんなにも愛されてなんて幸せ者なんだろうか。
おれには『心で見る』話の意味はあまりわからなかったが、信じていればきっと思い出せるという話はわかった。おれも信じていれば、記憶を……本当の自分を取り戻せるのだろうか。でもおれは一体誰を信じればいいのだろう。今の自分を信じるのか。それとも失った自分を信じるのか。
死者のおばあさんと別れておれたちはこんどこそ帰路につく。
その道中で獣頭はこんなことを聞いてきた。
「ご主人は……天国に行きたいと思ってる?」
逆におれは、獣頭はどうなのかと聞き返した。
「ボクは……。やっぱりそのほうがいいと思ってる。けど、でもどうだろうね。天国に行けば、ボクの本当のご主人と逢えるのかな。生まれ変わってまたご主人に逢えるのなら嬉しいけど、でもまた行き違っちゃうのはいやだな」
獣頭はまた悲しそうな顔になった。
「そうか。おれは……おれはわからないな。記憶もまだ戻ってこないし、それだから家族も知り合いも誰一人思い出せない。おれは誰に会いたいのかもわからない。もし天国へ行ったとしても、このまま記憶が戻らなければ、今とあまり変わらない気がする。それでも、やっぱりおれも天国を目指すべきかな?」
「もちろんだよ!」
獣頭は強く肯定した。
「大切なヒトの喜びが、ボクにとっての喜び! 大切なヒトの幸せが、ボクの幸せ! だから、ご主人も絶対に天国を目指すべきだよ! だから、だから……っ」
獣頭の目からは涙が溢れていた。頭蓋骨から、光のしずくが一滴、また一滴と落ちる。それは、目には見えない心の月に照らされて、より一層に輝きを増す。
「え? なんで獣頭が泣くんだよ!? 落ちつけよ! わかったわかった、おれもがんばるからさ。だから、何も泣くことはないだろ。な?」
「うん……。ありがと」
光のしずくは、おれの心の月に静かな波紋を広がらせた。
(大切な人ってもしかして、おれのことなのか? それとも、ただおれに本当のご主人を投影しているだけなんだろうか……)
おれは獣頭をそっと抱きしめながら帰ることにした。
辺獄に着いたのは、ずいぶん夜も更けてからだった。